「からみ」は、不要な金属成分と脈石を一体ものとして除く操作でできるものであり、有用な金属がまだ含まれていること、焼鉑を熔かしやすくすること、等有用なものである。そこで、銅や鉛と同じように1字の漢字で、表記したいと考えた人が「鍰」を仮借したのであろう。それは誰であったか。
これまでのまとめ
1. 赤穂満矩「鉱山聞書」(1785)の明治初年に筆写された写本には、「鍰」が使われていた。赤穂が「鍰」を使っていた可能性は高いが、不確定である。原書の発見が待たれる。また著作目的が秘伝を息子に伝えると記載されていて、いつ公開されたのかがわからない。「鍰」の発信源となり得たのか不明である。(由来(5)(8)(15))
2. 「銅山記」(1797以降)に「鍰」が使われているが、原書の書かれた年が確定できない。
筆書和書(原書又は写本)は、岩手県立図書館所蔵であるが、字を確認できていない。(由来(13))
3. 「南部藩雑書」(南部藩家老席日誌)(1812)
尾去沢山許において製錬残滓の捨鍰(すてからみ)を処理し、これより製出した荒銅を地売銅として販売することを幕府に願って許された件を記している。これが「鍰」が書かれた年月がはっきりした最も古いものである。(由来(11))
4. 「御銅山傳書」(1849)
尾去沢銅山は明和2年(1765)南部藩の御手山(直営)となり、それ以降の銅山に関連する稼行仕法の秘伝、定法、定目をとりまとめた筆写本が「御銅山傳書」である。これを筆写したのは、嘉永2年(1849.3.10)で、南部藩御銅山廻銅支配人で尾去沢銅山の稼行の責任者であった内田家の内田周治である。多くの「鍰」が使われている。(由来(12))
5. 「山要録」(1840)
「山要録」は、秋田藩の阿仁鉱山の鉱山旧記であり、成立は天保11年(1840)である。
「冶金の曙」著者の「かまさい」氏から、本ブログ「からみ・鍰の由来(10)」へ以下のコメントをいただいた。
「秋田藩で「からみ」が、南部藩では「鍰」が使われていた感じでしたが、『山要録』で「カラミ」18か所に対して一か所だけ「鍰」が使われていたのが何気に印象的でした。
鐇 薪鍰板ナトヲ割ルニ用ユル 」
鐇は、ちょうな たつぎ。この頃には南部藩の「鍰」を使うのが伝わっていて、試しに「鍰板」で使ってみたのか。
考察
1. 赤穂満矩の子孫が「鉱山聞書」をすぐに公開したのであれば、この書が南部藩の人に影響を与え、南部藩や尾去沢銅山で「鍰」を使うようになったと考えられる。遅ければ、南部藩には、赤穂満矩より前に、鍰を使いだした人がいるということになる。
2. 南部藩雑書には、文化9年(1812)より前に「鍰」がある可能性がある。
南部藩雑書は、日誌であり、複数の家老名が書かれているので、個人の日記に比べ、日時や記述内容の信頼性が高い。
南部藩は明和2年(1765)、坂牛新五左衛門を銅山御用懸元締に任じた。尾去沢、不老倉など御手山稼行となった。この頃から「鍰」が使われた可能性を、南部藩雑書で調べられるかもしれない。
3. 大坂銅吹屋の字が南部藩に及ぼした影響について
①大坂銅吹屋では、貞享期に、「しぼり」に対して、「鍰」「鉸」を仮借して使っていた。
「鍰」(からみ)の使い方は見られない。
②「鉱山聞書」の「しぼり」は、目次に2ヶ所、本文に12ヶ所、挿絵に4ヶ所が 全てが「絞」であり、「鉸」はなかった。
南部藩には大坂銅吹屋の「鉸」「鍰」の文字の情報が伝わらなかったのか、あえてそれを採用しなかったのか。
現時点での結論
1. 「鉱山聞書」の筆写は明治初年であること、および原書が公開され南部藩内で影響を与えた年がはっきりしないので、赤穂満矩が鍰を使いはじめた人であるとは確定できない。
2. しかし、「鍰」を使い始めたのは、南部藩であることは、確実である。
3. 南部藩雑書の「捨鍰」(1812)の記述が、確定出来た年月の最古のものである。
注 引用文献
1. 「日本鉱業史料集」第一期 近世篇1「山要録」(白亜書房 1981)
筆者はまだ見られていない。
これまでのまとめ
1. 赤穂満矩「鉱山聞書」(1785)の明治初年に筆写された写本には、「鍰」が使われていた。赤穂が「鍰」を使っていた可能性は高いが、不確定である。原書の発見が待たれる。また著作目的が秘伝を息子に伝えると記載されていて、いつ公開されたのかがわからない。「鍰」の発信源となり得たのか不明である。(由来(5)(8)(15))
2. 「銅山記」(1797以降)に「鍰」が使われているが、原書の書かれた年が確定できない。
筆書和書(原書又は写本)は、岩手県立図書館所蔵であるが、字を確認できていない。(由来(13))
3. 「南部藩雑書」(南部藩家老席日誌)(1812)
尾去沢山許において製錬残滓の捨鍰(すてからみ)を処理し、これより製出した荒銅を地売銅として販売することを幕府に願って許された件を記している。これが「鍰」が書かれた年月がはっきりした最も古いものである。(由来(11))
4. 「御銅山傳書」(1849)
尾去沢銅山は明和2年(1765)南部藩の御手山(直営)となり、それ以降の銅山に関連する稼行仕法の秘伝、定法、定目をとりまとめた筆写本が「御銅山傳書」である。これを筆写したのは、嘉永2年(1849.3.10)で、南部藩御銅山廻銅支配人で尾去沢銅山の稼行の責任者であった内田家の内田周治である。多くの「鍰」が使われている。(由来(12))
5. 「山要録」(1840)
「山要録」は、秋田藩の阿仁鉱山の鉱山旧記であり、成立は天保11年(1840)である。
「冶金の曙」著者の「かまさい」氏から、本ブログ「からみ・鍰の由来(10)」へ以下のコメントをいただいた。
「秋田藩で「からみ」が、南部藩では「鍰」が使われていた感じでしたが、『山要録』で「カラミ」18か所に対して一か所だけ「鍰」が使われていたのが何気に印象的でした。
鐇 薪鍰板ナトヲ割ルニ用ユル 」
鐇は、ちょうな たつぎ。この頃には南部藩の「鍰」を使うのが伝わっていて、試しに「鍰板」で使ってみたのか。
考察
1. 赤穂満矩の子孫が「鉱山聞書」をすぐに公開したのであれば、この書が南部藩の人に影響を与え、南部藩や尾去沢銅山で「鍰」を使うようになったと考えられる。遅ければ、南部藩には、赤穂満矩より前に、鍰を使いだした人がいるということになる。
2. 南部藩雑書には、文化9年(1812)より前に「鍰」がある可能性がある。
南部藩雑書は、日誌であり、複数の家老名が書かれているので、個人の日記に比べ、日時や記述内容の信頼性が高い。
南部藩は明和2年(1765)、坂牛新五左衛門を銅山御用懸元締に任じた。尾去沢、不老倉など御手山稼行となった。この頃から「鍰」が使われた可能性を、南部藩雑書で調べられるかもしれない。
3. 大坂銅吹屋の字が南部藩に及ぼした影響について
①大坂銅吹屋では、貞享期に、「しぼり」に対して、「鍰」「鉸」を仮借して使っていた。
「鍰」(からみ)の使い方は見られない。
②「鉱山聞書」の「しぼり」は、目次に2ヶ所、本文に12ヶ所、挿絵に4ヶ所が 全てが「絞」であり、「鉸」はなかった。
南部藩には大坂銅吹屋の「鉸」「鍰」の文字の情報が伝わらなかったのか、あえてそれを採用しなかったのか。
現時点での結論
1. 「鉱山聞書」の筆写は明治初年であること、および原書が公開され南部藩内で影響を与えた年がはっきりしないので、赤穂満矩が鍰を使いはじめた人であるとは確定できない。
2. しかし、「鍰」を使い始めたのは、南部藩であることは、確実である。
3. 南部藩雑書の「捨鍰」(1812)の記述が、確定出来た年月の最古のものである。
注 引用文献
1. 「日本鉱業史料集」第一期 近世篇1「山要録」(白亜書房 1981)
筆者はまだ見られていない。
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