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伊豫軍印(14) 「〇〇団・〇〇軍団」はあるが「〇〇軍」はなく 〇〇には郡名をあてた

2023-06-04 08:10:20 | 趣味歴史推論
 律令軍団制の観点から、「伊予軍印は奈良平安時代の伊予軍団の印である」という説を検証する。
先ず、律令軍団制について関係のありそうなところの知識を、栗田寛「栗里先生雑著」(1890)や橋本裕「律令軍団制の研究」(1982)などから抽出し、筆者の覚として記しておく。

大宝令(701) 第17篇 軍防令 第1条 軍団編成条
 「凡軍団、大毅、領一千人。少毅副領。校尉、二百人。旅帥、一百人。隊正、五十人。」
 本条は軍団編成の令なり。すべて国別に軍団を組織編制し、1軍団に団長として大毅1人を置き1千名の兵士を統率せしめよ。該1団を分割統率するに、団長の下に、少毅2人を置き各500人ずつ、校尉5人ありて各200人ずつ、旅帥10あり100人ずつ、隊正20人あり50人ずつを統領せり。1)

 軍団設置後間もない「続日本紀」慶雲元年(704)条では、兵士は10番に分かたれ、短いスパンで年に数回上番する勤務形態であった。
 養老律令(757)の軍防令は、正丁(せいてい、21 - 60歳の健康な男)三人につき一人を兵士として徴発するとした。この規定では国の正丁人口の三分の一が軍団に勤務することになるが、実際の徴兵はこれより少なかったようで、一戸から一人が実情ではないかとも考えられている。 兵士の食糧と武器は自弁で、平時には交替で軍団に上番し、訓練や警備にあたった。2)

軍団の役割
 吉永匡史「律令軍団制の成立と構造」(2007)によれば、以下のようである。3)
「軍団は平時においては国司による糺察活動の実行手段として機能し、戦時では出征将軍の指揮下で征討軍の主力として征討任務にあたった。軍毅は兵士の個別技能の「師」であり、軍団の軍事力を最上の状態で即時発揮できる体制に整えておく管理者であった。軍団兵士の任務で重要なのは、軍事訓練と国司の地方支配に必要な治安維持活動の属する職務である。特に、兵庫(武器庫)の守衛と罪人追補が重視されていた。他に関の守固、軍糧倉の守衛、倉庫・城隍・器仗・堤防の修理・修営などがある。
この平時の軍事訓練(特に陣法式)により全国画一的な軍隊になり、戦時、全国各地から動員した軍団兵士を一個の軍に編成し、将軍の号令通りに動かすことができるのである。」

 橋本裕「律令軍団制の研究」(1982)には、史書・正税帳・計会帳などの古文書の検討、団印の発見などによってその名称の知られる律令軍団の一覧がある。4)
 律令軍団一覧表
No.   国名   所在郡名   軍団名    出典
1    大和   添上郡    添上団   天長(833)養老軍防令義解
2    大和   高市郡*   高市団   同上 少なくとも天平10年(738)以前に存在
3    駿河   安倍郡*   安倍団   天平10年(738)駿河国正税帳
4    相模   余綾郡    余綾団   天平10年(738)駿河国正税帳
5    相模   大住郡*   大住団   天平10年(738)駿河国正税帳 国府高座郡の可能性有 
6    近江   滋賀郡*   滋賀団   天平宝字年(757)東大寺封租進上解案帳、続日本紀天平神護2年(766)
7    陸奥   丹取郡    丹取軍団  続日本紀神亀5年(728)
8    陸奥   白河郡    白河軍団  続日本紀神亀5年(728)
                白河団   太政官符弘仁6年(815)、左経記長元7年(1034)
9    陸奥   安積郡    安積団   太政官符弘仁6年(815)
10   陸奥   名取郡    名取団   太政官符弘仁6年(815)、三代実録貞観11年(869)
11   陸奥   磐城郡    磐城団   続日本後紀承和15年(845)
12   陸奥   行方郡    行方団   太政官符弘仁6年(815)
13   陸奥   玉造郡    玉造軍団  続日本紀神亀5年(728)
                玉造団   太政官符弘仁6年(815)
14   陸奥   小田郡    小田団   太政官符弘仁6年(815)
15   越前   丹生郡*   丹生団   天平宝字2年(758)越前国司牒
16   佐渡   雑太郡*   雑太団   三代実録元慶3年(879)、延喜民部省式(905)
17   但馬   気多郡*   気多団   続日本紀延暦3年(784)
18   出雲   意宇郡*   意宇団   天平6年(734)出雲国計会帳
                意宇軍団  天平6年(734)出雲国計会帳、出雲国風土記(733)
19   出雲   神門郡    神門軍団  天平6年(734)出雲国計会帳、出雲国風土記(733)
20   出雲   飯石郡    熊谷団**  天平6年(734)出雲国計会帳
                熊谷軍団** 天平6年(734)出雲国計会帳、出雲国風土記(733)
21   安芸   佐伯郡    佐伯団   天平10年(738)周防国正税帳
22   長門   豊浦郡*   豊浦団   天平10年(738)周防国正税帳、続日本紀神護景雲元年(767)
23   筑前   御笠郡*   御笠団   昭和2年(1927)出土銅印
24   筑前   遠賀郡    遠賀団   明治32年(1899)出土銅印
25   肥前   基肆郡    基肆団   日本紀略弘仁4年(813)
*国府のあった郡  **現在知られる軍団の中で郡名と異なった呼称を持つ唯一の例

・ほとんどの軍団の呼称は 「〇〇団」であるが、中には「〇〇軍団」もある。しかし「〇〇軍」はない。「〇〇」には、所在する郡名をあてた(例外1件あり)。

全国軍団数と兵士総数の推定
 幕末の歴史学者栗田寛「栗里先生雑著」(1890)は、以下のようにして推定している。5)
官符(類聚三代格などの記載)等によれば、筑前は15郡にして4団、筑後は10郡にして3団、豊前は8郡にして2団、豊後は8郡にして2団、肥前11郡に3団、肥後14郡に4団、日向5郡にして1団、陸奥36郡に10団、出雲10郡に3団、相模8郡にして2団ありと記されている。また国府にほぼ必ず1団が置かれており、国府所在の郡名をその団名としている。諸国の軍団の名を挙げたるものおよびその団数等を平均して粗密繁簡はあるが、おおよそ4郡に1団を置いていると見積もった。3郡また2郡しかない国は軍団がないとしたところもある。このように考えて、仮に5畿7道軍団配置表を作った。
全国の軍団数 131   兵士総計 12万9100人
(当時の日本の推計総人口約500万人に対して大きな割合である。)

全国の配置表のうち、南海道については以下のとおりである。
・紀伊(管郡7)軍団1 名草団 1千人
・淡路(管郡2)なし
・阿波(管郡9)軍団2 名方団 1千人、〇〇団 1千人
・讃岐(管郡11)軍団2 阿野団 1千人、〇〇団 1千人
伊豫(管郡14)軍団3 越智団 1千人、〇〇団 1千人、〇〇団 1千人
・土佐(管郡7)軍団1 長岡団 1千人
 上記9軍団兵士およそ9千人

 四国の軍団については、全く記録がないので、栗田寛は、伊予国には、3軍団が存在したと推定し、その内の一つは、国府のあった越智郡にあったはずであり、その軍団名は越智団であると推定したのである。あくまで推定ではあるが、越智団があった可能性は非常に高い。軍団数3は、不確実である。各団の兵士数は標準的な定員1000人としている。

健児制(こんでいせい)
 軍団兵士制は、延暦11年(792)に陸奥・出羽・佐渡・大宰府の他は廃止され、健児制に移行した。天長3年(826)には対蝦夷戦争が継続していた陸奥・出羽を除いて軍団は廃止された。健児制は武芸に秀でた者を選抜し、国府・兵庫・駅鈴庫を守衛するのが主な任務である。
延暦11年(792)官符(延喜兵部式)には、諸国健児として以下の数が挙げられている。5)
山城国20人、大和国70人、河内国20人、和泉国20人、摂津国30人、------出雲国100人、石見国30人、隠岐国30人、播磨国100人、-------長門国50人、紀伊国60人、淡路国30人、阿波国30人、讃岐国100人、伊豫国50人、土佐国30人
 総計3934人
これにより、健児数は、軍団兵士数に比べ、非常に少なくなったことがわかる。

まとめ
1. 130余りと推定される軍団のなかで、記録があるのは、25である。四国の軍団の記録は全くない。
2. ほとんどの軍団の呼称は「〇〇団」であるが、中には「〇〇軍団」もある。しかし「〇〇軍」はない。
3. 「〇〇」には、所在する郡名をあてた(例外1件あり)。
4. 伊予国の健児数はわずか50人と少ない


注 文献
1. 窪美昌保 著『大宝令新解』(南陽堂 大正13) web. 国会図書館デジタルコレクション
2. Wikipedia 「軍団(古代日本)」
3. 吉永匡史「律令軍団制の成立と構造」史学雑誌116(7)p37(2007)web. J-STAGE
4. 橋本裕「律令軍団制の研究」p153(橋本裕氏遺稿集刊行会 1982)web. 国会図書館デジタルコレクション
5. 栗田寛「栗里先生雑著巻12」p7~24(明治23年(1890))web. 国会図書館デジタルコレクション「栗里先生雑著:15巻下」軍団の制附健児の制
栗田寛(1835- 1899)幕末水戸藩に仕えた国学者・歴史学者。元東京帝国大学教授。『大日本史』において最後まで未完であった「表」「志」を執筆した。号は栗里。Wikipediaより


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