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山下吹(19) 鉱山至宝要録(元禄4年1691)は、真吹であった

2020-11-22 08:33:03 | 趣味歴史推論
 明治時代の鉱業冶金学の権威である渡邊渡は、本邦固有の錬銅法に甲乙の2種があるとした。その本質は、
①甲(還元熔解法)は、銅鈹を焙焼して酸化銅にし、これを木炭で還元して粗銅を得る方法である。---東北、北国で実施された奥州吹
 Cu2S+O2→Cu2O,CuO+SO2  C+O2 →CO Cu2O,CuO + C,CO → Cu+CO2
②乙(酸化熔解法)は、銅鈹を空気中の酸素と反応させ、硫黄分を酸化し、粗銅を得る方法である。---中国、四国、西国で実施された真吹(山下吹)。
 
Cu2S+O2→Cu+SO2
西尾銈次郎がこの説を日本鉱業会誌や著書「日本鉱業史要」で肉付けして紹介し、その内容は広く引用されてきた。1)2)
慶長年代以後発達せる東国および北国の銅山においては主として還元製錬法が行われてきたとしているが、本当であろうか。筆者は、当初から山下吹(真吹)がなされたのではないかと思い、それを史料で検証することにした。東国の秋田藩(久保田藩、佐竹藩)院内銀山、同じく秋田藩阿仁銅山、盛岡藩(南部藩)尾去沢銅山、下野国足尾銅山等について調べてみることにした。

「鉱山至宝要録」(元禄4年)は、秋田藩士であり、院内銀山の惣山奉行であった黒澤元重が著した鉱山技術書である。
経歴:「延宝2年(1674)に「かね山」の役を申しつけられ、同4年(1676)まで一人でつとめ(惣山奉行)同5年からは同役一人増し二人で勤め、延宝8年には役替りがあり、惣山奉行から離れている。天和、貞享年間も銀山のことに当たり、元禄2年には江戸の御勘定奉行衆より藩の金山のことを尋ねられた時、元重自ら記録を差し上げている。」3)

吹立方 →図 4)
・略
・右寸吹(素吹)したる鈹をまた床にて吹きて銅にするなり。これを真吹と云い、床を真吹床と云う。寸吹時の床尻は、真吹に及ばずして、銅に成る。寸吹床と真吹床は、その拵え違うなり。銀吹(床)とはもちろん違うなり。
真吹したる銅も、床尻の銅も、別床にて銀しぼり取り、この床をしぼり床とも南波床とも云う。常の床とは格別の拵いなり。銅より銀出る事多少とも、銅へ鉛を入れてとかし、その鉛を灰吹して取るなり。
・以下略
 
考察
 秋田藩では、素吹に続いて真吹が普通に行われていたことを示している。黒澤元重は、「かね山」の役に延宝2年(1674)からついており、少なくともこの時からこの吹き方であったと推定される。もし延宝2年(1674)から著作した元禄4年(1691)の間に、製法が代われば、そのことを記録していたであろう。またその前の時代に別の吹き方であったなら、そのことも書いていたのではないか。全く他の吹き方に言及していないということは、かなり昔から寸吹(素吹)のあと真吹していたことがうかがえる。実績例が記されていないので、外から聞いた情報で真吹のことを書いている可能性も全くないわけではないが、当時の鉱山技術書として書いた著者の意気込みからすれば、確かなことを書いているのではないか。

まとめ
 秋田藩院内銀山の惣山奉行であった黒澤元重の「鉱山至宝要録」によれば、少なくとも延宝2年(1674)から真吹をしていたと推定される。

注 引用文献
1. web.西尾銈次郎「日本古代鉱業史要」 日本鉱業会誌460号p453 (大正12年1923)468号 p180(大正13年 1924)
2. 西尾銈次郎「日本鉱業史要」(十一組出版部 昭和18年 1943)
3. 黒澤元重「鉱山至宝要録」三枝博音「日本科学古典全書第十巻」p1-41(朝日新聞社 昭和19年 1944)
4. web. 工学史料キュレーションデータベース>鑛山至寶要録>47コマ
図 鉱山至宝要録 の真吹の部分


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