筆写本のコピーのコピー綴じ本では、第1輯「新居郡立川山村里正年譜」の第1、3ぺージが欠落していた。そのため立川銅山の始まりと最初の山師名3人の書き込みは見ることができなかった。しかし4人目から10人目までの山師名の書き込みは見られた。それは、第4ぺージの里正神埜藤兵衛忠明の上部欄外に山師名が書かれた紙が貼り付けられたものであることがわかる。そのぺージの写真を示し、書き込み部分を以下に書き出した。→写真
四 大坂 渡海屋平左エ門
五 大坂屋 吉兵衛
六 金子村 真鍋与一右エ門
七 西京都 銭座仲間
八 大坂屋 永二郎
九 大阪 泉屋理兵衛
拾 大坂 住友氏
考察
1. この書き込みの字体は、筆写本と一致していることから、書き込んだのは明比貢である。よって、書き込みは昭和11年以降である。その根拠となる出典は、わからない。
書き込みでは、4人目は渡海屋平左衛門であり、5人目は大坂屋吉兵衛であった。また7人目が 西京都 銭座仲間 とあることより、芥川三平が見た「神野旧記」1)は、筆者の見たコピー綴じ本で同じであったといえる。
2. また貼り付けた紙から線でつないで、明比貢とは違った筆跡の書き込みがある。
大坂屋吉兵衛----------大坂屋久左衛門
真鍋与一右エ門--------元禄五年より十ヶ年
銭座仲間-----------------糸割賦宝永元年御領
永二郎--------------------享保十一年大阪屋久左衛門
泉屋理兵衛--------------寛延二年
住友氏--------------------宝暦十二年
これらは、誰かが参考のために年代を書き入れたと思われる。
まとめ
1. 里正年譜への立川銅山山師名の書き込みは、昭和11年以降に明比貢によってなされた。その根拠となる出典はわからなかった。
2. 4人目は渡海屋平左衛門 5人目は大坂屋吉兵衛であり、芥川三平の見たものと同じコピー本であった。
注 引用文献
1) 本ブログ「立川銅山(5)神野旧記(1)」
写真 「新居郡立川山村里正年譜」で、立川銅山山師名の書き込みのあるページ
四 大坂 渡海屋平左エ門
五 大坂屋 吉兵衛
六 金子村 真鍋与一右エ門
七 西京都 銭座仲間
八 大坂屋 永二郎
九 大阪 泉屋理兵衛
拾 大坂 住友氏
考察
1. この書き込みの字体は、筆写本と一致していることから、書き込んだのは明比貢である。よって、書き込みは昭和11年以降である。その根拠となる出典は、わからない。
書き込みでは、4人目は渡海屋平左衛門であり、5人目は大坂屋吉兵衛であった。また7人目が 西京都 銭座仲間 とあることより、芥川三平が見た「神野旧記」1)は、筆者の見たコピー綴じ本で同じであったといえる。
2. また貼り付けた紙から線でつないで、明比貢とは違った筆跡の書き込みがある。
大坂屋吉兵衛----------大坂屋久左衛門
真鍋与一右エ門--------元禄五年より十ヶ年
銭座仲間-----------------糸割賦宝永元年御領
永二郎--------------------享保十一年大阪屋久左衛門
泉屋理兵衛--------------寛延二年
住友氏--------------------宝暦十二年
これらは、誰かが参考のために年代を書き入れたと思われる。
まとめ
1. 里正年譜への立川銅山山師名の書き込みは、昭和11年以降に明比貢によってなされた。その根拠となる出典はわからなかった。
2. 4人目は渡海屋平左衛門 5人目は大坂屋吉兵衛であり、芥川三平の見たものと同じコピー本であった。
注 引用文献
1) 本ブログ「立川銅山(5)神野旧記(1)」
写真 「新居郡立川山村里正年譜」で、立川銅山山師名の書き込みのあるページ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます