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天満村寺尾九兵衛(10) 寛文7年に家50軒250石積廻船があった

2024-09-01 08:41:36 | 趣味歴史推論
 慶安から寛文までの天満村の様子を古文書から見てみる。
1. 慶安元年伊予国知行高郷村数帳(1648)1)
・高679石8斗3升3合   天満村
 内 田方 394石5斗9升1合  日損所
   畠方 285石2斗4升2合  松林有

2.「西海巡見志」(寛文7年(1667))2)
伊予国
 御預所 松平隠岐守、 御代官所 小島孫右衛門、
 一柳山城守、一柳権之丞領、松平美作守領、松平隠岐守領、加藤出羽守領、加藤綾部領、伊達遠江守領、同宮内小輔領
4月晦日
宇摩郡 
・余木村(略) 御預所 是より松平隠岐守
・長須村(略)
・河野江村 
・御高札有 ・舟番所有 ・片浜 ・高1600石 ・家数250軒 ・舟数29艘 内9艘は150石積より250石積まで、20艘は猟舟 ・加子数121人
・三島村(略)
・寒川村(略)
・八日市村(略) 是は一柳権之丞領
・天満村  御預所 是まで松平隠岐守
  ・御高札有 ・舟番所有 ・片浜 ・高680石 ・家数50軒 ・舟数14艘 40石積より250石積まで ・加子数22人役加子

4月晦日の晩
新居郡
・大島浦 御代官所 是より小島孫右衛門
  ・御高札有 ・舟番所有 ・湊有 ・高350石1斗5升 ・家数154軒 ・舟数65艘 内17艘は200石積より300石積まで、48艘は猟舟 ・加子数123人 内43人役加子
・黒島浦
  ・湊有 ・高88石6斗1升 ・家数70軒 ・舟数47艘 内6艘は200石積より300石積まで、41艘は猟舟 ・加子数54人 内14人役加子
・松神子浦(略)
・垣生村(略)
・宇高村(略)
・沢津村(略)
(以下省略)

3. 寛文10年(1670)分村 
 御勘定職が、天満村の高1/4を上天満村(西条領)と、高3/4を(下)天満村(幕領)とに分けた。下天満村(幕領)の大庄屋は九兵衛であり、上天満村(西条領)の庄屋は九郎兵衛であった。

解説と考察
1. 天満村の石高
 慶安元年(1648)郷村数帳には、高679石8斗3升3合とある。長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」には、
「天正15亥年(1587)福嶋左衛門太夫様御検地の由、当時の名寄帳を以て支配仕り候 高679石8斗3升3合 村惣辻高」とある。
よって、この石高は、天正15年(1587)の検地で定められたものであり、それが、慶安、享保でも使われたということである。福嶋正則は、天正15年九州征伐の功により、伊予国で宇摩・新居・周敷・桑村・越智の五郡11万3200石を受領した。正則は入国早々、秀吉の趣旨に添って領内の検地を実施したのである。
2. 川之江村、天満村について
 川之江藩主一柳直家は、寛永19年(1642)に病没し、後嗣がいなかったので、川之江藩の知行地は没収されて幕領となった。幕府は、松山藩松平定行隠岐守に預けて支配させた。御預所体制は、延宝5年(1677)に幕府直轄と変更になるまで34年間続いた。松山藩では、一柳直家の旧屋敷を御預所川之江陣屋として、頭取1人、代官1人、手付4人、手代6人の役人を駐在させて、幕領内の行政と貢租徴収を行わせた。3)
 今回の巡見にあたっては、天満村大庄屋の3代寺尾九兵衛成清が対応していたであろう。 
 大島浦、黒島浦について:
 寛文5年(1665)西条藩主一柳直興の改易後、一先ず阿波藩の預り後、西条陣屋代官所の代官小島孫右衛門が支配した。この体制は、寛文10年(1670)松平頼純が西条藩3万石初代藩主に封ぜられるまで続いた。
3. 寛文7年(1667)天満村は家数50軒で、舟数14艘は40石積より250石積までの廻船と記されている。しかし舟14艘の全てが廻船であるとは、役加子数22から判断すると考えにくい。役加子22人なので22/2.4=9 すなわち廻船が9艘で、残りの5艘が猟舟と考えられる。(役加子人数/廻船艘数=2.4の根拠は、以下のとおり 大島浦 43人/17艘=2.5 黒島浦14人/6艘=2.3 平均2.4)
 250石積の廻船の船主が寺尾九兵衛であった可能性は高いが、記録がないので分らない。寛文10年大島浦の廻船については、船主、船頭の名(〇〇船)と反帆数が指出帳に記録されている。4)
250石積船は、13反帆程度の弁才船(べざいせん)であったろう。
4. 廻船が多くあった村を比較すると以下のようになり、天満村は川之江村に続く立場にあった。
1番 大島浦   17艘    200~300石積
2番 川之江村  9艘    150~250石積
3番 天満村 (推定)9艘  40~250石積
4番 黒島浦   6艘    200~300石積
 大島浦は、村上海賊関連の歴史ある地であり、格段に廻船数は多かった。古くはもっと多くの船を所有していた。
5. 分村
(1)寛文10年(1670)松平頼純3万石を得て西条に入封した際、石高を調整するため、天満村で切り合わせ分村した。(明治8年(1875)上・下を合併して天満村の一村に復した)
(2)長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」には、
「・高679石8斗3升3合 村惣辻高
  内    172石5斗5升3合 寛文10戌年(1670)松平左京太夫様御分地
   残高  507石2斗8升   御蔵所」
とある。
(計算確認 西条領172.553/679.833=0.2538≒1/4  幕領507.280/679.833=0.7462≒3/4)
(3)上天満村の庄屋九郎兵衛の先祖は天満村の組頭で、寛文10年以降代々庄屋職を勤めた。その名は大庄屋加地文書に見える。
① No.239 (寛文11年4月19日(1671))浦山村炭釜山論文書5)
② No.243 (寛文11年6月2日(1671))浦山村炭焼山論文書5)
③ No.246 (延宝8年11月(1680))浦山村の炭釜之覚6)
④ No.249 (元禄4年12月(1691))浦山村に御林設定 入会村の誓約書5)
⑤ No.251 (享保20年正月(1735))浦山村銅山炭山に不被為仰付候様の願出6)

まとめ
寛文7年天満村に家50軒250石積廻船があった。


注 引用文献
1. 「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」p2:愛媛県立図書館編「伊予国旧石高調帳」(昭和49年 1974)
2. 「西海巡見志」(寛文7年) 伊予史談会編「西海巡見志・予陽塵芥集」p26-29(1985)
西海巡見志(さいかいじゅんけんし)は、 四代徳川家綱の寛文7年、山陽道・南海道・西海道の沿海各地域の政情、民情の調査を命ぜられた幕府巡見使の報告書である。
3. 川之江市誌 p150(1984)
4. 黒川裕直「予州新居浜浦」p4(1975)
5. 土居町郷土史料第8集 村上光信編述「旗本八日市一柳氏関係史料集成」 p63、p63、p75(1994)
6. 土居町郷土史料第3集 村上光信編述「西条藩土居組大庄屋加地家文書目録Ⅱ」 p60、p62(1989)


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