坂之内池については、寛延年間(1748~1751)に天満村大庄屋寺尾九兵衛の妻ツタが村人を指揮して、池を作り、隧道(ずいどう トンネル)を掘り、天満村への水路を完成させたと郷土史に書かれている。しかし、実情は少し違うのではないかというところを古文書で見つけたので、記しておきたい。
長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」1)→写
・用水溜池3ヶ所 壱ヶ所 板之内 54年以前御入用にて出来仕候
弐ヶ所 白井・小山田 131年以前出来申候
右同断*1
但三ヶ所の小池近辺の田地迄の用水にて御座候
・とり池数60 但池一つに付3坪より6坪迠 百姓田地の内に御座候
(中略)
・米5石7升2合8夕*2 大庄屋1分米
・同1石3升8夕 同 2厘米
・ (中略)
・同3斗7升5合 坂ノ内樋守給2)
・同5石6斗 西ノ尾(山?)松林山守給
・同3斗 御蔵番人給
*1右 は前項目に書かれた「但松平左京太夫様御領分入会」を意味する。
*2 大庄屋給 大庄屋給として、各村から2厘米の他に高100石に付き1分定納として徴収した。
検討
1. 土居町郷土史料第六集の長野家文書では、1カ所の池の名を「板(ママ)之内」とあるので、原典の状況を調べるべく、所蔵する四国中央市歴史考古博物館にお願いして、その部分の写しをいただいた。
それを見ると確かに「坂之内」ではなく「板之内」である。文書を書いた、あるいは書き写した人が書き違えたと推定した。郷土史家の村上光信は、(ママ)でそれを表した。
坂之内池であることは、後半に記された「坂ノ内樋守給」の存在でも確認できる。大庄屋給と同じように、樋守りへ給が支払らわれていたからである。これは享保6年(1721)のことである。
溜池3ヶ所の最初に挙げられているので、最も大きい池であろう。板之内という地名はない。これらの事から、1カ所は 坂之内池であると結論できる。ツタはこの古く作られた池を大きく増強する工事もした可能性はある。
2. ほぼ同じことが、加地家文書に書かれている。3)
「・坂之内用水池 54年以前御入用にて出来つかまつり申し候
・白井・小山田2ヶ所用水池、131年以前出来つかまつり申し候」
しかしこの文書が書かれた年は享保13年(1728)と推定され、長野家文書より新しいにも拘わらず、54年前に出来たと記しており、長野家文書を写したようなので、採用しなかった。ここでは、「坂之内」としている。ただ原典でそうなのか、読み下した編者が直しているのかは確認していない。
3. 享保6年の54年前は(1721-54=)1667寛文7年に相当する。別子銅山開坑より24年前、寺尾ツタの築造より81年も前のことである。この池は近辺の田地までの用水であった。山を越えた東の天満村には水は届かなかったので村民は水の恵みを受けられなかった。
4. 時代的にみて、大庄屋寺尾九兵衛(三代九兵衛成清)が池の築造を指揮したと推定する。田の水を確保することは重要なので、まずは近辺田用としてでもよいから、堰き止め工事を行って堤を作った。そして山を越えた天満村にいつか隧道を掘って水を流すことを計画していたに違いない。しかし、労力、資力が足りないので延び延びになっていたと思われる。また銅山開坑で村は忙しかったこともあろう。
5. 白井・小山田池ができたのは、享保6年の131年前で、(1721-131=)1590年天正18年である。天正の陣の後である。初代寺尾九兵衛より1代ほど前に相当するであろうか。
6. 御蔵番人給の記載があることから、享保6年(1721)に御蔵(おくら)があったことがわかる。
まとめ
坂之内池自体は寛文7年(1667)に築造された。
長野文書の写真では、四国中央市歴史考古博物館学芸員の伊藤吏沙様にお世話になりました。お礼申し上げます。
注 引用文献
1. 土居町郷土史料第六集「村々明細帳」p19(土居町教育委員会 平成元年 1989)村上光信編述
明細帳の原本は長野家文書である(四国中央市歴史考古博物館 -高原ミュージアム-蔵)→写
長野家は伊勢田丸の国人出身と伝わる。一柳氏の伊予入部に従って、川之江村に移住した。宇摩郡が松山藩の預所となると、郷士格となり、浦手役人・普請所役人に任じられた。
2. web. 改訂新版 世界大百科事典 「樋 (ひ)」:池水や河水を放出・流下させる水門のこと。池の樋には降雨期などで池水の満水したときに溢水・流出させる〈打樋〉があり,その所は最も大切で,池の破損は十中八九まで打樋の所からの堤切れによるから,地盤の固い所であることが要求される。
3. 千葉誉好編「新居郡宇摩郡天領二十九箇村明細帳 土居大庄屋加地家文書」p91(1992)
写 長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」
長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」1)→写
・用水溜池3ヶ所 壱ヶ所 板之内 54年以前御入用にて出来仕候
弐ヶ所 白井・小山田 131年以前出来申候
右同断*1
但三ヶ所の小池近辺の田地迄の用水にて御座候
・とり池数60 但池一つに付3坪より6坪迠 百姓田地の内に御座候
(中略)
・米5石7升2合8夕*2 大庄屋1分米
・同1石3升8夕 同 2厘米
・ (中略)
・同3斗7升5合 坂ノ内樋守給2)
・同5石6斗 西ノ尾(山?)松林山守給
・同3斗 御蔵番人給
*1右 は前項目に書かれた「但松平左京太夫様御領分入会」を意味する。
*2 大庄屋給 大庄屋給として、各村から2厘米の他に高100石に付き1分定納として徴収した。
検討
1. 土居町郷土史料第六集の長野家文書では、1カ所の池の名を「板(ママ)之内」とあるので、原典の状況を調べるべく、所蔵する四国中央市歴史考古博物館にお願いして、その部分の写しをいただいた。
それを見ると確かに「坂之内」ではなく「板之内」である。文書を書いた、あるいは書き写した人が書き違えたと推定した。郷土史家の村上光信は、(ママ)でそれを表した。
坂之内池であることは、後半に記された「坂ノ内樋守給」の存在でも確認できる。大庄屋給と同じように、樋守りへ給が支払らわれていたからである。これは享保6年(1721)のことである。
溜池3ヶ所の最初に挙げられているので、最も大きい池であろう。板之内という地名はない。これらの事から、1カ所は 坂之内池であると結論できる。ツタはこの古く作られた池を大きく増強する工事もした可能性はある。
2. ほぼ同じことが、加地家文書に書かれている。3)
「・坂之内用水池 54年以前御入用にて出来つかまつり申し候
・白井・小山田2ヶ所用水池、131年以前出来つかまつり申し候」
しかしこの文書が書かれた年は享保13年(1728)と推定され、長野家文書より新しいにも拘わらず、54年前に出来たと記しており、長野家文書を写したようなので、採用しなかった。ここでは、「坂之内」としている。ただ原典でそうなのか、読み下した編者が直しているのかは確認していない。
3. 享保6年の54年前は(1721-54=)1667寛文7年に相当する。別子銅山開坑より24年前、寺尾ツタの築造より81年も前のことである。この池は近辺の田地までの用水であった。山を越えた東の天満村には水は届かなかったので村民は水の恵みを受けられなかった。
4. 時代的にみて、大庄屋寺尾九兵衛(三代九兵衛成清)が池の築造を指揮したと推定する。田の水を確保することは重要なので、まずは近辺田用としてでもよいから、堰き止め工事を行って堤を作った。そして山を越えた天満村にいつか隧道を掘って水を流すことを計画していたに違いない。しかし、労力、資力が足りないので延び延びになっていたと思われる。また銅山開坑で村は忙しかったこともあろう。
5. 白井・小山田池ができたのは、享保6年の131年前で、(1721-131=)1590年天正18年である。天正の陣の後である。初代寺尾九兵衛より1代ほど前に相当するであろうか。
6. 御蔵番人給の記載があることから、享保6年(1721)に御蔵(おくら)があったことがわかる。
まとめ
坂之内池自体は寛文7年(1667)に築造された。
長野文書の写真では、四国中央市歴史考古博物館学芸員の伊藤吏沙様にお世話になりました。お礼申し上げます。
注 引用文献
1. 土居町郷土史料第六集「村々明細帳」p19(土居町教育委員会 平成元年 1989)村上光信編述
明細帳の原本は長野家文書である(四国中央市歴史考古博物館 -高原ミュージアム-蔵)→写
長野家は伊勢田丸の国人出身と伝わる。一柳氏の伊予入部に従って、川之江村に移住した。宇摩郡が松山藩の預所となると、郷士格となり、浦手役人・普請所役人に任じられた。
2. web. 改訂新版 世界大百科事典 「樋 (ひ)」:池水や河水を放出・流下させる水門のこと。池の樋には降雨期などで池水の満水したときに溢水・流出させる〈打樋〉があり,その所は最も大切で,池の破損は十中八九まで打樋の所からの堤切れによるから,地盤の固い所であることが要求される。
3. 千葉誉好編「新居郡宇摩郡天領二十九箇村明細帳 土居大庄屋加地家文書」p91(1992)
写 長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」
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