南部藩尾去沢銅山の素吹では、珪石の添加操作がなされていたかを調べた。
慶長3年(1598)に南部藩の北十左衛門が白根金山を発見。寛文から延宝の初期にかけて近くの尾去沢及びその周辺の銅山の開発がはじまった。元禄8年(1695)~宝永2年(1705)に付近の銅山が続々と開発され、尾去沢銅山は、別子銅山 阿仁銅山と並び、日本の主力銅山の一つとなった。明和2年(1765)から明治に至るまで南部藩の御手山(直営)であって、この間荒銅を200~600トン/年産出した。1)
鉱石 2)
尾去沢銅山の鉱石の組成分析値を探したが、見つからなかったので、近くの小眞木鉱山(こまきこうざん、白根金山)の内、尾去沢と同じ鉱脈型鉱床に属すると思われる白根鉱床の鉱物組成値を参考までに示した。
黄銅鉱(CuFeS2)8.3% 黄鉄鉱(FeS2)42% 石英(SiO2)33% 緑泥石((Mg,Fe,Al)6(Al,Si)4O10(OH)8)11% 他に閃亜鉛鉱((Zn,Fe)S) 輝蒼鉛鉱(Bi2S3) 輝銅鉱(Cu2S)等が少々含まれる。脈石が多く、鉄分も多い。化学分析値に変換すると、Cu 2.9%、Fe 22.1% S 25.3%に相当する。平均銅含有率は、2.4%と低かったので、鉱石は細かく砕いて水を使う選鉱をして、濃度を上げる工程があった。
製錬
「御銅山傳書」3)(嘉永2年(1849.3.10)写し)が 尾去沢銅山に関連する稼行仕法に関する秘伝、定法、定目の集大成としてあるが、筆者には正確に読み解けないので、今回は残念ながら参考にできない。以下の記述は、麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」1)によった。
なお製錬法は、元禄宝永期に阿部小平治が請けて稼行していた頃は、熊野吹と称する還元法が行われていたようであるが、藩の直山となった明和以降は、以下に記したように酸化法(別子銅山と同じ 真吹法)となっていたとみられる。4)
銅製錬は、焙焼→素吹→真吹で行われた。
選鉱→図1 5)
鉱石は、鉑ごしらえ(鎚で砕き脈石を取り去って(方言で「からめる」という)精製する工程)した後、重鉑(純良の鉱石)以外は全て水中で、ざる、鉢、扇舟(扇型をした木樋)等を使って比重差で精鉑する。細粒のものは粘土水でこねて団子状にして焙焼した。
焙焼(釜燃し(かまもやし))→図2
「一斗窯に木炭、薪材を積み、その上に種々の精鉑を適宜配合したものを盛り上げ、更に衣草(藁、枯草類)をかけて、燃やす(「本燃し」)。20~25日後に焼鉑を取り出し、更に、「焼直し」と称する第二次の焙焼をして15~20日で冷却し、焼鉑を得る。」
素吹(鉑吹 白吹)→図3
「素吹床の大きさは、直径60cm 幅約82cm 深さ75cm位の三味線胴形で、床の内部に風路2条を設けフイゴ2台によって送風する。素吹一と吹きの装入量は焼鉑600貫目であって、燃料は木炭である。まず焼鉑300貫目を熔解し、熔けるに従って順次に焼鉑と木炭を加えて全量を熔解するのに約10時間を要した。熔体の上に浮かんだ鍰を取除き、次に銅鈹を取る。銅鈹を取るには淡赤色を呈した熔体に水を撒布して冷やし、表面に凝固した銅鈹の薄片を鉄鈎で剥ぎ取るのである。この操作を数十回繰返すと底に緑赤色の熔銅が残る、表面に水を撒布して冷結せしめ鈎と針とで取上げる。これを床尻銅といい荒銅である。この操作によって得るところの銅鈹はおよそ80~100貫目、床尻銅25~35貫目であった。燃料として燃やす木炭は約200貫目。操業時間18,19時間、これに従事するもの素吹大工1人、床前働1人、吹子指1人、炭灰搗1人、計4人であった。」
真吹→図3
「真吹床は素吹床より小型で、直径60cm 幅42cm 深さ51cm、内側を炭灰粘土汁で塗り焼き固めること素吹床と同様である。これに銅鈹を装入して木炭を燃料とし強い風をあてて吹き熔かすので、フイゴは伝馬2丁のほかに沸足と称するものを用いた。真吹は口伝の多い作業であって、真吹一と吹きに装入する銅鈹は100貫目とし、まず80貫目を熔解し木炭を加えて強風をあてる。このとき男釜と称する炉蓋を施し、炉の周辺を炭灰と粘土で塗り固め、残りの銅鈹20貫目を装入し木炭を加えて強風を送る。熱と風とによって熔体が酸化する程度を、熔体の変色などによって、紅葉、大割、小湯、槙雲などと名づけ、槙雲が終ったところで銅歩と称する含銅鍰を除去する。また木炭と強風を加えて熔体の状況が「大熔(おおとけ)」となり「剥げ」となったとき「割切渋皮」とよぶ含銅の高い銅歩を除き漸く荒銅となる。この操業によって得るところの荒銅約40貫、銅歩約30貫、木炭消費量45~60貫。これに要する操業時間21~24時間で、従業員は真吹大工1人、手子1人、炭灰搗1人都合3人であった。---銅歩は10~50%程度の銅を含むもので、これを貯えて400貫目程となれば素吹にかけた。」
まとめ
1. 素吹では、珪石の添加操作はなかった(麓三郎著書による)。
但し、このことの信憑性を高めるには、麓が引用した「御銅山記」等の原典や、より技術について書かれた「御銅山傳書」に当たる必要があろう。最終的には江戸期現場の床仕込み記録の古文書を見ないと本当のところはわからないだろう。
2. 選鉱で細粒となった鉑を粘土水でこねて団子状にして焙焼しており、意図せずして大量の珪石分(SiO2分)を素吹床に仕込んでいたことになる。
3. 結論として、SiO2分は、脈石、細粒鉑を丸めた粘土、床の内壁の炭灰(粘土)から、もたらされたと推測した。
注 引用文献
1. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p230~234(勁草書房 1964.9.30)
素吹、真吹の記述は、阿部本「御銅山記」「尾去沢銅山床屋役所稼方手続書上」「尾去沢鉱山志料取調書」等によるとある。
・「御銅山記・全」と「御銅山記・金銀鉛山仕方」内田慎吾(天保9年(1838)生れ)写 日本鉱業史料集第4期近世編上/下(白亜書房1983)尾去沢阿部佐一郎氏所蔵
・「尾去沢鉱山志料取調書」(明治16年民行鉱山志料として工務省に提出の写)
2. 郷原範造「秋田県小眞木鉱山の鉱石について」地質調査所月報 Vol.5(9)7(昭和27.6)←web 第3表の白根鉱床の銅鉱4試料の平均値を使った。
3. 「御銅山傳書」 内田周治 嘉永2年(1849.3.10)写 日本鉱業史料集第10期近世編上/下」(白亜書房 1988))九州大学工学部資源工学科所蔵の内田家文書
4. 「明治工業史 鉱業編」第4節熔鉱(西尾銈次郎執筆)p508 国会図書館デジタルコレクション
「還元熔解法:素吹で得た銅鈹を5~7cm大に破砕し、焼窯に仕込み鉱石の焙焼と同じような作業にて、15~20日間焙焼して、焼鈹を得る。次いで素吹床と同形でやや小さい床に焼鈹を仕込み、木炭によって加熱熔解し、荒銅に還元する。」
寛文12年(1672)秋田の阿仁金山に銅鉱が発見されて大坂の北国屋吉左衛門が請けて稼行し、紀伊國熊野の諸銅山から金掘師及び吹師を呼び寄せて開発したと伝えられ、この以後東北及び東国の諸銅山に熊野式の還元法が広く行われるに至ったとされる。
5. 九州大学学術情報リポジトリ>工学部所蔵鉱山・製錬関係史料)>尾去沢銅山作業図 この図は、明治10年代の稼行情景を描いている。(岡田平蔵、槻本平八郎)→図1,2,3
図1. 「 尾去沢銅山作業図」の「第6 検礦並淘汰之図」(選鉱)
図2. 「尾去沢銅山作業図」の「第7 蒸礦場之図」(焙焼)
図3. 「尾去沢銅山作業図」の「第8 熔礦場之図」(素吹 真吹)
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