前報で述べたように、「豫州別子御銅山未来記」に記載のあった切上り長兵衛の頼み寺・本教寺は、岡山県高梁市成羽町吹屋にある浄土真宗本願寺派の寺である。天和元年(1681)に泉屋(住友)がこの地区の銅山経営を請け負っており、当時の吉岡銅山勘場から直線距離にして東500mの所に本教寺はある。
明治24年11月当時の前住職金藤玉傳及び現住職金藤證傳が記した「堂宇再建寄付勧進帳叙言」によれば、開基長傳が元禄年間に自ら資金を捜して堂宇を創建し地方の道場として栄えてきたが、明治24年9月に焼盡したとある。現存するのは、明治に再建した堂である。
切上り長兵衛、源四郎、久右衛門が頼み寺とした可能性がある天和(1681~)貞享(1684~)元禄(1688~)宝永(1704~1710)の期間の檀家帳、寄進帳は、見つからなかった。現存する過去帳に記載された一般人で一番古い人は享保12年(1727)歿であり、切上り長兵衛らの名前は見つからなかった。墓石、石柱、奉名板などについても、その当時のものは見つからなかった。
結局、切上り長兵衛の名前は、見つからなかった。
以上のことは、2018年11月初旬に、若院の金藤恵幸(かねふじしげゆき)氏のご厚意で教えて頂きました。お礼を申し上げます。
吹屋の本教寺
明治24年11月当時の前住職金藤玉傳及び現住職金藤證傳が記した「堂宇再建寄付勧進帳叙言」によれば、開基長傳が元禄年間に自ら資金を捜して堂宇を創建し地方の道場として栄えてきたが、明治24年9月に焼盡したとある。現存するのは、明治に再建した堂である。
切上り長兵衛、源四郎、久右衛門が頼み寺とした可能性がある天和(1681~)貞享(1684~)元禄(1688~)宝永(1704~1710)の期間の檀家帳、寄進帳は、見つからなかった。現存する過去帳に記載された一般人で一番古い人は享保12年(1727)歿であり、切上り長兵衛らの名前は見つからなかった。墓石、石柱、奉名板などについても、その当時のものは見つからなかった。
結局、切上り長兵衛の名前は、見つからなかった。
以上のことは、2018年11月初旬に、若院の金藤恵幸(かねふじしげゆき)氏のご厚意で教えて頂きました。お礼を申し上げます。
吹屋の本教寺
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