赤穂満矩著「鉱山聞書」(1785)の原本が「鍰」を用いていた可能性が高いことがわかったが、技術書なので国会図書館の和古書が何時筆写されたのかは決定できない。赤穂満矩は、尾去沢銅山の山師であったので、尾去沢銅山に、年が決定できる古文書があるのではないかと考えて探した。
その結果、尾去沢山許において製錬残滓の捨鍰(すてからみ)を処理し、これより製出した荒銅を地売銅として販売することを、文化8年(1811)に岩間市郎兵衛が幕府に願い出て許された記録が南部藩家老席日誌にあった。この日誌は、寛永21年(1644)から 天保11年(1840)の間、家老席の書記にあたる藩士が家老の政務日記として記したもので、南部藩の代表的な公的記録である。1)2)
「南部藩家老席日誌」
文化9年(1812)年正月17日晴 勘解由 大和
・---
・御銅山にて荒銅吹立候節、相出る捨鍰製方吹立したく、右製銅の分は地売銅御買上御直段(ねだん)を以て御買い上げ成り下されたく旨御願出差出し左の通り。
・盛岡領尾去沢銅山の儀、旧来御手当等成り下され稼方相続仕り有難く奉存候。然る処往古よりの稼ぎ所にて次第に遠丁深敷(えんちょうふかじき)に相成り、年々普請数ヶ所有之、
入用等嵩十分の稼方行き届き難く候えども、懸り役人ども誠精取扱引続き長崎御用銅売上候処、近年の模様何分御定数53万斤の高相揃わず其年限り相納めかね、年後の決算に罷り成り候。去る寅年(1805)より去午年(1810)まで5ヶ年平均棹銅37万斤余り廻銅相当たり申し候。何卒格別普請仕入方等仕りこの上出銅相進め候様したく奉存、種々勘弁仕り候処、是まで山元にて荒銅吹立候節、捨からみと申す品夥しく有之、右の内には正銅も相残り有之候えども、右製方仕り吹立候には入用多く相懸かり、御用銅売上直段引き合いかね候故、そのまま山元に捨てり有之候処、右を製方仕り吹立候はば、1ヶ年5~6万斤程は正銅も出来仕りべくと奉存候に付き、向後右吹立申す分御地売りの方へお買上に成り下されたく奉願上候。左候はば、諸山地売銅の御振合を以て、御直増並びに御手当等成り下され候えば、右御直段増の融通を以て、稼方の補いに仕り候はば、追々出銅相増し候様の取り計らい相成り、御用銅定数売上候様にも相至り申すべき哉と奉存候。近年出銅進まずの処より、働の者ども家業甚だ困窮難渋至極仕り、老若婦女子ども扶育致しかね候間、右の者ども仕業に製銅仕らせ候はば、前断の通り5万斤程も出銅有之べく候間、御用銅の外右製銅差し廻し申したく候間、相成るべき儀に御座候はば、右5万斤程の分前書き申上候通り地売の方へ御買い上げ成り下られたし。左候はば右代銀猶予を以て稼方手当に仕り候に付き、山方一統御救いにも相成り、且つ本山丈夫の稼出来仕り候付き、御用銅定数この後滞りなく相納め候様相成るべし哉と奉存候。尤もこれまで追々御手当等も有之候儀に付き、懸り役人共は素より山方一同出精仕り候えども、近年山元不模様に付き様々勘弁仕り候処、右の通りに相成り候はば、本山働方励みにも罷り成り、自ら稼方の者へ別段手当も出来仕り候えば、山方一統有難く奉存出精も仕り候。訳に御座候間、山元御救いの思し召しを以て、何分御憐察し下され、願いの通り御聞き届成り下され候様仕りたく奉り願い候。 以上
文化8年(1811)12月18日 御名内 岩間市郎兵衛
右の通り、取り調べ長崎御奉行曲淵甲斐守宅へ、去る18日御勘定頭岩間市郎兵衛持参差し出し候処、用人星野判左衛門受け取り承知の旨申し聞き候由、これ申し来る。
考察
1. 文化9年(1812)年正月17日、担当は、家老の勘解由と大和である。南部藩の11代藩主南部利敬(なんぶとしたか)の家老として、東勘解由(ひがしかげゆ)、楢山大和(ならやまやまと)の名が見える。3)
2. 「・御銅山にて荒銅吹立候節、相出る捨鍰製方吹立したく、右製銅の分は地売銅御買上御直段(ねだん)を以て御買い上げ成り下されたく旨御願出差出し左の通り」は、家老の文章である。
「・盛岡領尾去沢銅山の儀、--是まで山元にて荒銅吹立候節、捨からみと申す品夥しく有之---」は、御勘定頭の岩間市郎兵衛が書いた文書を家老が書き写したと思われる。
勘定頭は「からみ」を使っている。長崎御奉行に分かるように「からみ」を使ったのであろう。しかし、家老は、「鍰」を使った。家老にとっては、「鍰」が普通に書く字であり、内部用の日誌なので、分かればよかったのであろう。
3. この文書が「鍰」が書かれた年月を特定できる最も古いものである。「鍰」が普通に使われているので、この日以前に「鍰」を広めた源があるはずで、それが「鉱山聞書」である可能性がある。
まとめ
文化9年(1812)の南部藩家老日誌に、「捨鍰」と記されており、これが「鍰」が書かれた年月を特定できる最も古いものである。
注 引用文献
1. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p147,402 (勁草書房 1964)
2. 南部藩家老席日誌(原本所蔵 盛岡市中央公民館)マイクロフィルム第128巻(雄松堂フィルム出版 1981)→図1,2,3
3. Wikipedia 「南部利敬」より
「文化14年(1817)の江戸武鑑で見られる主要家臣は以下のとおり。【世襲家老】八戸弥六郎、中野筑後、北監物 【その他の家老他】東勘解由、新渡戸丹波、毛馬内蔵人、八戸淡路、藤枝宮内、楢山大和、南彦八郎、桜庭兵庫、下田将監、奥瀬内記、毛馬内近江、野田豊後
図1. 南部藩家老席日誌 文化9年正月17日の分-1
図2. 南部藩家老席日誌 文化9年正月17日の分-2
図3. 南部藩家老席日誌 文化9年正月17日の分-3
その結果、尾去沢山許において製錬残滓の捨鍰(すてからみ)を処理し、これより製出した荒銅を地売銅として販売することを、文化8年(1811)に岩間市郎兵衛が幕府に願い出て許された記録が南部藩家老席日誌にあった。この日誌は、寛永21年(1644)から 天保11年(1840)の間、家老席の書記にあたる藩士が家老の政務日記として記したもので、南部藩の代表的な公的記録である。1)2)
「南部藩家老席日誌」
文化9年(1812)年正月17日晴 勘解由 大和
・---
・御銅山にて荒銅吹立候節、相出る捨鍰製方吹立したく、右製銅の分は地売銅御買上御直段(ねだん)を以て御買い上げ成り下されたく旨御願出差出し左の通り。
・盛岡領尾去沢銅山の儀、旧来御手当等成り下され稼方相続仕り有難く奉存候。然る処往古よりの稼ぎ所にて次第に遠丁深敷(えんちょうふかじき)に相成り、年々普請数ヶ所有之、
入用等嵩十分の稼方行き届き難く候えども、懸り役人ども誠精取扱引続き長崎御用銅売上候処、近年の模様何分御定数53万斤の高相揃わず其年限り相納めかね、年後の決算に罷り成り候。去る寅年(1805)より去午年(1810)まで5ヶ年平均棹銅37万斤余り廻銅相当たり申し候。何卒格別普請仕入方等仕りこの上出銅相進め候様したく奉存、種々勘弁仕り候処、是まで山元にて荒銅吹立候節、捨からみと申す品夥しく有之、右の内には正銅も相残り有之候えども、右製方仕り吹立候には入用多く相懸かり、御用銅売上直段引き合いかね候故、そのまま山元に捨てり有之候処、右を製方仕り吹立候はば、1ヶ年5~6万斤程は正銅も出来仕りべくと奉存候に付き、向後右吹立申す分御地売りの方へお買上に成り下されたく奉願上候。左候はば、諸山地売銅の御振合を以て、御直増並びに御手当等成り下され候えば、右御直段増の融通を以て、稼方の補いに仕り候はば、追々出銅相増し候様の取り計らい相成り、御用銅定数売上候様にも相至り申すべき哉と奉存候。近年出銅進まずの処より、働の者ども家業甚だ困窮難渋至極仕り、老若婦女子ども扶育致しかね候間、右の者ども仕業に製銅仕らせ候はば、前断の通り5万斤程も出銅有之べく候間、御用銅の外右製銅差し廻し申したく候間、相成るべき儀に御座候はば、右5万斤程の分前書き申上候通り地売の方へ御買い上げ成り下られたし。左候はば右代銀猶予を以て稼方手当に仕り候に付き、山方一統御救いにも相成り、且つ本山丈夫の稼出来仕り候付き、御用銅定数この後滞りなく相納め候様相成るべし哉と奉存候。尤もこれまで追々御手当等も有之候儀に付き、懸り役人共は素より山方一同出精仕り候えども、近年山元不模様に付き様々勘弁仕り候処、右の通りに相成り候はば、本山働方励みにも罷り成り、自ら稼方の者へ別段手当も出来仕り候えば、山方一統有難く奉存出精も仕り候。訳に御座候間、山元御救いの思し召しを以て、何分御憐察し下され、願いの通り御聞き届成り下され候様仕りたく奉り願い候。 以上
文化8年(1811)12月18日 御名内 岩間市郎兵衛
右の通り、取り調べ長崎御奉行曲淵甲斐守宅へ、去る18日御勘定頭岩間市郎兵衛持参差し出し候処、用人星野判左衛門受け取り承知の旨申し聞き候由、これ申し来る。
考察
1. 文化9年(1812)年正月17日、担当は、家老の勘解由と大和である。南部藩の11代藩主南部利敬(なんぶとしたか)の家老として、東勘解由(ひがしかげゆ)、楢山大和(ならやまやまと)の名が見える。3)
2. 「・御銅山にて荒銅吹立候節、相出る捨鍰製方吹立したく、右製銅の分は地売銅御買上御直段(ねだん)を以て御買い上げ成り下されたく旨御願出差出し左の通り」は、家老の文章である。
「・盛岡領尾去沢銅山の儀、--是まで山元にて荒銅吹立候節、捨からみと申す品夥しく有之---」は、御勘定頭の岩間市郎兵衛が書いた文書を家老が書き写したと思われる。
勘定頭は「からみ」を使っている。長崎御奉行に分かるように「からみ」を使ったのであろう。しかし、家老は、「鍰」を使った。家老にとっては、「鍰」が普通に書く字であり、内部用の日誌なので、分かればよかったのであろう。
3. この文書が「鍰」が書かれた年月を特定できる最も古いものである。「鍰」が普通に使われているので、この日以前に「鍰」を広めた源があるはずで、それが「鉱山聞書」である可能性がある。
まとめ
文化9年(1812)の南部藩家老日誌に、「捨鍰」と記されており、これが「鍰」が書かれた年月を特定できる最も古いものである。
注 引用文献
1. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p147,402 (勁草書房 1964)
2. 南部藩家老席日誌(原本所蔵 盛岡市中央公民館)マイクロフィルム第128巻(雄松堂フィルム出版 1981)→図1,2,3
3. Wikipedia 「南部利敬」より
「文化14年(1817)の江戸武鑑で見られる主要家臣は以下のとおり。【世襲家老】八戸弥六郎、中野筑後、北監物 【その他の家老他】東勘解由、新渡戸丹波、毛馬内蔵人、八戸淡路、藤枝宮内、楢山大和、南彦八郎、桜庭兵庫、下田将監、奥瀬内記、毛馬内近江、野田豊後
図1. 南部藩家老席日誌 文化9年正月17日の分-1
図2. 南部藩家老席日誌 文化9年正月17日の分-2
図3. 南部藩家老席日誌 文化9年正月17日の分-3
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます