一握の砂
石川啄木
はたらけど
はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手を見る
たんたらたらたんたらたらと
雨滴(あまだれ)が
痛むあたまにひびくかなしさ
誰(た)そ我(われ)に
ピストルにても撃(う)てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ
ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしやば)の人ごみの中に
そを聴(き)きにゆく
宗次郎(そうじろ)に
おかねが泣きて口説(くど)き居(を)り
大根(だいこん)の花白きゆふぐれ
わが庭の白き躑躅(つつじ)を
薄月(うすづき)の夜(よ)に
折(を)りゆきしことな忘れそ
わが村に
初めてイエス・クリストの道を説(と)きたる
若き女かな
霧ふかき好摩(かうま)の原(はら)の
停車場の
朝の虫こそすずろなりけれ
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
はたはたと黍(きび)の葉鳴れる
ふるさとの軒端(のきば)なつかし
秋風吹けば
あめつちに
わが悲しみと月光(げつくわう)と
あまねき秋の夜(よ)となれりけり
函館(はこだて)の青柳町(あをやぎちやう)こそかなしけれ
友の恋歌(こひうた)
矢ぐるまの花
かなしきは小樽(をたる)の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
泣くがごと首ふるはせて
手の相(さう)を見せよといひし
易者(えきしや)もありき
いささかの銭(ぜに)借(か)りてゆきし
わが友の
後姿(うしろすがた)の肩(かた)の雪かな
世わたりの拙(つたな)きことを
ひそかにも
誇(ほこ)りとしたる我にやはあらぬ
子を負(お)ひて
雪の吹き入(い)る停車場に
われ見送りし妻の眉(まゆ)かな
みぞれ降る
石狩(いしかり)の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かな
遠くより
笛(ふえ)ながながとひびかせて
汽車今とある森林に入(い)る
小奴(こやつこ)といひし女の
やはらかき
耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり
よりそひて
深夜(しんや)の雪の中に立つ
女の右手(めて)のあたたかさかな
死にたくはないかと言へば
これ見よと
咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女かな
さらさらと氷の屑(くづ)が
波に鳴る
磯の月夜のゆきかへりかな
馬鈴薯(ばれいしよ)の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり
朝の湯の
湯槽(ゆぶね)のふちにうなじ載(の)せ
ゆるく息(いき)する物思ひかな
こころよく
春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき庭の草かな
赤煉瓦(あかれんぐわ)遠くつづける高塀(たかべい)の
むらさきに見えて
春の日ながし
用もなき文(ふみ)など長く書きさして
ふと人こひし
街に出(で)てゆく
ゆゑもなく海が見たくて
海に来ぬ
こころ傷(いた)みてたへがたき日に
葡萄色(えびいろ)の
長椅子(ながいす)の上に眠りたる猫ほの白(じろ)き
秋のゆふぐれ
ちょんちょんと
とある小藪(こやぶ)に頬白(ほほじろ)の遊ぶを眺む
雪の野(や)の路(みち)
むらさきの袖(そで)垂(た)れて
空を見上げゐる支那(しな)人ありき
公園の午後
孩児(をさなご)の手ざはりのごとき
思ひあり
公園に来てひとり歩(あゆ)めば
目をとぢて
口笛かすかに吹きてみぬ
寐(ね)られぬ夜の窓にもたれて
底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
1967(昭和42)年9月12日初版発行
1972(昭和47)年9月10日9版発行
底本の親本:「一握の砂」東雲堂書店
1910(明治43)年12月1日刊行
※冒頭の献辞と自序は、「啄木全集 第一巻」筑摩書房、1970(昭和45)年5月20日初版第4刷発行から、補いました。
※底本巻末の小田切進による注解は省略しました。
入力:j.utiyama
校正:浜野智
1998年8月11日公開
2017年10月30日修正
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