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地方としての揚州は三国時代から重要な地方で、北に徐州、西は荊州に接しており呉の孫策・孫権によって支配されていました。
揚州市の漢字表記はてへんの「揚」を用います。2010年より奈良市と友好都市を締結しています。
1.痩西湖の五亭橋
清朝の乾隆帝が訪れ船遊びや釣りをしたと伝えられています。
砂漠や草原に囲まれた北京にはない水郷風景は北方人には憧れだったかもしれません。
2.鎮揚フェリー
当時は揚子江を渡る橋がなく、鎮江市までフェリーボートで浙江省へ渡りました。
フェリーを降り路線バスで揚州まで向かいました。
地方のバスは決まったバス停もないかのように、途中道端で手を挙げる人を乗せたり荷物だけを屋根に乗せ運んだりしていました。
3.痩西湖
杭州の西湖に似て風光明媚とされ、痩せた(細長い)西湖と謡ったことが名前の由来とか。
4.舟遊び
当時は貴族が舟遊びをしたのでしょう、中国式の屋形船があります。
5.京劇船
船に乗り京劇の劇団が賑やかに巡ってきます。
6.楊と五亭橋
乾隆帝が行幸するために造られた橋の上に亭(屋根)が五つあり、こう呼ばれます。
揚州には北京から杭州までを結ぶ2500キロメートルの大運河が市の東郊外にあり、物流の大動脈として栄えました。
南北朝の宋時代、大明年間(457-464年)に創建された仏教寺院「揚州大明寺」が有名で、唐代の754年に日本に渡った高僧鑑真の寺として日本でも知られています。
撮影:Canon PowerShot G2
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