かつて、明代清代の中国では、
法的紛争が拗れると、
当て付け目的で、紛争の相手方の家にて絶命する者が出たという。
紛争で優位に立つための戦略として、或いは、一族内の明確な役割分担として。
当時の駆け引きは、
寺田浩明「中国伝統法における法解釈のあり方」
に詳しい(寺田先生は、当方にとって「東洋法史」の先生です)。
さて、想像力に欠ける只の当てつけが、起きたという。
という不可解なケース。
を見る限り、所謂「逆ギレ」
同情の余地は、ない。
(エンタメ目的とはいえ、相手の同意もなく、プロレス選手が素人に手を出しては……)
共同生活をする上で、みんなが使う洗濯機に個人の洗濯物を自分の怠慢で放置するというルール違反を最初に起こしたのは、木村花あなたです。そこを棚に上げてそのあとの快の行動だけを責めるのは違うと思うけど。
— francis00871985 (@francis00871985) May 17, 2020
それから、
TVカメラがある、
ということは、
TVで放映される事を想定した言動。
木村なる者の想像力の乏しさが招いた事態。
エンターテイナーとしてあるまじき事態。
エンターテイナーとしてあるまじき事態。
しかも、
という木村の財力で到底カバーできない経済的損失をも招いた。
無責任の極み。
さて、
寺田浩明「中国伝統法における法解釈のあり方」
には以下の記述がある。
……社会の全体が市場的・契約的に編成されていた以上、……市場的ルールは社会の中にあり、それに基づく主張は社会的にも尊重された。
しかし同時に、そうした市場的ルールは所詮は「市道の交わり」の世界でありその行き着く先は弱肉強食に他ならない、助け合って生きて行くべき親戚同士・隣人同士、更には広く人間同士の間で、自家の利益だけを強硬に追い求めて良いものなのか……という事実的・生存権的な主張もまた広く普通に行われていた。
しかも当時の弱者達は……様々な抵抗手段を持っており、力任せに押しつぶそうとすると最後には一寸の虫にも五分の魂とばかりに相手を巻き込んで自爆を図る。
その一環で皇帝の判断を仰ぐほどの重大な刑事事件へと発展することも、少なからずありました。
どちらの面から考えても、共存に向けての互助互譲は必須のことになる。かくして凡その社会関係はそうした強弱様々な言い分を持つ大小主体間の押し合いへし合いとして営まれる。
押し合いへし合い
この言葉は、講義にてしばしば出てきました。
その押し合いの中でどこで譲るか、どこまで押すかは、論理から言っても現実から言っても、当然、自分と相手の手札次第になる。
寺田先生の講義では、棚田の段差をちょっとずつ削ったり、ちょっとずつ土を盛ったり、という駆け引きが繰り広げられていた、という話もありました。
この些末な駆け引きも、自分と相手の手札次第。
木村花のケースでは、
木村花やテラスハウス制作陣はどういう手札を持つていたのでしょうか。
(「端末の電源を切る」「端末を取り上げる」くらいの手札はあったでしょう。)
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