あいちトリエンナーレ・表現の不自由展
の主(とされている)戦場は、
天皇の肖像を焼く行為の是非。
(あの行為の源流は、天皇コラージュと称されるコラージュに至る。)
政治指導者の肖像を焼く行為自体は、
政治活動(特に抗議活動)の一環として、
世界各地で見受けられる行為。
政治指導者の肖像を焼く行為の背景には、
権力・バワーの量に関する
政治指導者と焼く側との非対称性。
なので、
政治指導者の肖像を焼く行為には、
権力・バワーの量に関する非対称性を埋めようとする意図ないし願望が込められている(ただし、焼く側は明確には意識していないでしょう)。
そして、大抵の場合、その意図ないし願望を、焼く行為一つだけは実現させることができない。焼く行為は、同時期に繰り広げられる数多の政治活動の一つに過ぎないから。
一方、もし、権力・バワーを一切持たない一個人の肖像を焼く行為が行われたとすれば、どういう意図ないし願望がその行為に込められているか。
権力・バワーの量に関する非対称性を埋めようとする意図ないし願望ではないでしょう。焼く側にとって、権力・バワーを一切持たない一個人は、権力・バワーの量に於いて優位ないし同等の立場にあるから、そもそも焼く側にとって埋めるべき非対称性が存在しないから。
権力・バワーの量に於いて、焼く側が優位に立っている状況ならば、権力・バワーの量に関する非対称性を拡大させようとする意図ないし願望。
焼く側と焼かれる側とが均衡しているならば、その非対称性を形成しようとする意図ないし願望。
どちらの意図ないし願望であっても、
権力・バワーを一切持たない一個人相手に対する抑圧・疎外、という効果が、焼く行為によってもたらされるだろう。
では、「社会的・政治的権力は一切持たない一方で、莫大なソフトパワーを持つ」個人の肖像を焼く行為には、いかなる意図ないし願望が込められているのか。
社会的・政治的権力に着目すれば、焼かれる側との非対称性を形成・拡大させようとする意図ないし願望が込められ、焼かれる側に対する抑圧・疎外という効果が生じる。
一方、ソフトパワーに着目すると、焼かれる側との非対称性を埋める意図ないし願望が込められ、その意図ないし願望はまず成就しない。
つまり、一つの行為に、二つの方向性が混在している。
「社会的・政治的権力は一切持たない一方で、莫大なソフトパワーを持つ」個人の典型例が日本国憲法下の「天皇」の地位にある(あった)者。
あの焼く行為を肯定する側は、おそらく、「社会的・政治的権力」に着目して、天皇と主権者との「社会的・政治的権力」の非対称性を形成・拡大できるから、国民主権に照らして是認できる、と見ているのでしょう。
では、天皇の持つソフトパワーと有権者の持つソフトパワーとの非対称性を埋めようとすれば、一体何が起きるのか。
たしかに、ソフトパワーの平等が少し近付くかもしれない。
その一方で、天皇が「国民統合の象徴」(憲法一条)を担う上で必要なソフトパワーを確保できなくなる恐れが生じる。
天皇は「社会的・政治的権力」を一切持たない以上、ソフトパワーの多寡が生命線(ちなみに、保有する私有財産も額が限られている。なので、下賜・寄付によるソフトパワー形成には限りがある)。
日々の公務だけによる、ソフトパワーの形成・強化は容易ではない。
そもそも、当人がこなせる公務には限りがある上、個々の内容が伝わる範囲に限りがあるから。
となれば、
ソフトパワーをいかに削らずに温存できるかが、「国民統合の象徴」(憲法一条)を担う上で必要なソフトパワーを確保し続ける上での要。
いうまでもなく、天皇は憲法秩序の構成要素であり、法律の公布を含む数多の国事行為を務める。
もし、天皇のソフトパワーが大いに減殺され、「国民統合の象徴」(憲法一条)を担うことすら難しくなれば、個々の国事行為の正当性にも疑義が生じる。
個々の国事行為の正当性に疑義が生じれば、天皇を憲法秩序の構成要素とすることへの疑義が生じる。その結果、天皇制廃止論が生じ得る(勿論、憲法改正を要する)。
ちなみに、ネパール王国は、豊富なソフトパワーを持っていた国王らが暗殺された結果、ソフトパワーに欠ける者が国王となった。その結果、事あるごとに国民の不信を掻き立て、王制廃止に至った。
天皇の肖像を焼く行為には、
有権者が天皇との「社会的・政治的権力」の非対称性を形成・拡大させる意図・願望の下、天皇に対する抑圧・疎外を加えるという効果、
だけでなく、
「憲法秩序を支える」(天皇の)ソフトパワーを減殺する効果
もある。
天皇の肖像を焼く行為は、
日本国憲法の意図・願望(特に、法の下の平等・象徴天皇制)とは相反する行為とも評することができる。
言い方を変えれば、
天皇の肖像を焼く行為は、護憲ではない。憲法秩序への攻撃である。
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