ネコ好きの人とにこやかな猫談話を交わしていた御婦人、
ネコ好きがその場から消えた途端。
「ワタシ、猫、嫌い」
と、
当方を含む第三者に聞こえる大声で呟いていた。
……京都に住むことに恐怖を感じた。
の書き手は、京都に住んだことがないのだろう。
誹謗中傷と批判の区別は難しいです。批判は認められるべきですが、攻撃されている側からすると区別はつきません。300件も批判がついたら、人は傷つくものです。
ポイントは、人格攻撃かどうかだと思います。
両者の違いをボカす技術は、
京都の地でも、高度に発達している。
例えば……
ボンボン山口真一の「真っ当な大学が悉く見放された」職歴を見る限り、カネで買った出身大学(慶應義塾)には一生、戻れないだろう。
ていうか、指導教官に、見捨てられたのだろう(指導教官殿には同情申し上げる。まっすぐ学問を歩もうとしなかった学生の掴まされた失望の念に、同情申し上げる)。
こういう惨状を眺めると、、、慶大への補助金を削るべきだろう。
経済学への社会的評価を守るためにも、納税者から集めた公金の濫費を防ぐためにも……。
……という具合です(かなり緩く書きました)。
ちなみに、古代ローマ皇帝のハドリアヌスも、
フロルスからの誹謗中傷に対して、
強烈な誹謗中傷で以て返答している。
「フロルスなんぞにはなりたくない。安料理屋の間をうろついて、居酒屋に潜んで、丸々と太った蚊の餌食になるのを、辛抱しなければならぬから」
(フロルスの「皇帝なんぞにはなりたくない。ブリトン人の間をうろついて、……(欠損部分)の間に潜んで、スキュティア人の地の冬を、辛抱しなければならぬから」 に対する返答)
これを
誹謗中傷と切り捨てるか、
批判と受け入れるか、
それとも、
見事な詩と評するか。
無学な山口真一には、
到底判断できないだろう。
ていうか、誹謗中傷か批判かの判断するには、
法廷の如き「公平な」二項対立構造
が不可欠。
しかし、
法廷の如き「公平な」二項対立構造は、
容易には作り出せない。
力と力のぶつかり合いが、この世の道理だから。
そして、
力と力のぶつかり合いは、
誹謗中傷か批判かの境を曖昧にする表現技術を、
大いに発展させる(第一次大戦にて新兵器が続々と登場したように)。
で、もし
誹謗中傷か批判かの境を曖昧にする表現技術を、
身に着けたいならば、京都に住んでみましょう。
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