内田魯庵『芭蕉庵桃青傳』による山口素堂
山口素堂
山口素堂が、東叡山下より葛飾の阿武に居を移せしも亦天和年中なり。素堂は季吟門にして芭蕉が親友なり。名は信章、字は子晋、通稱官兵衞といふ。甲斐巨摩郡教來石村字山口の人なり。代々山口に住するに依て山口氏と稱す。山口市右衞門の長男にして寛永十九年五月五日に生る。幼名を重五郎と云ひ、長じて父が家を繼ぎ家名市右衞門と改む。其後甲府魚町に移り、酒折の宮に仕へ頗る富めるをもて郷人尊稱して山口殿と呼べり。幼時より四方に志ありて、屡々江戸に遊び林春齋の門に入て經學を受け、のち京都に遊歴して書を持明院家に、和歌をを清水谷家に學び、連歌は北村季吟を師として宗房即ち桃青、信徳及び宗因を友とし俳諧に遊び、來雪又信章齋と號し、茶道を今日庵宗丹の門に學んで終に嗣號して今日庵三世となる。斯る異材多能の士なれば、早くより家を弟に讓りて市右衞門と稱せしめ、自ら官兵衞に改めて仕を辭し、江戸に來りて東叡山下に住し、素堂と號して儒學を諸藩に講じ以て業となし、傍ら人見竹洞、松尾桃青等諸同人と往來して詩歌聯俳を應酬唱和し、點茶香道を樂み、琵琶を彈じ琴を調べ、又寶生流の謠曲を能くしければ、素仙堂の名は風流を擅にしたりき。(以上『葛飾正統系圖』に據る。)
桃青はもと同門の友たれば、東下以來『江戸三百韻』を初めとして、文字の交際尋常ならざりしが、殊に素堂が葛飾阿武に移居せし後は、偶々六間堀の假寓と近接したれば、小名木川を上下して互に往來し愈々親しく語らひける。素堂の號は此頃より名乘りしものにて、庭前に一泓(*淵)の池を穿ちて白蓮を植ゑ、自ら蓮池の翁と號し、晋の惠遠が蓮社(*慧遠・謝霊運等の白蓮社)に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、「浮葉卷葉この蓮風情過ぎたらん」の句を作りて隱然一方の俳宗たり。一説に芭蕉は儒學を素堂に學びたりと云へど、其眞否は精しく知るを得ず。されど當時の俳人を案ずるに、季吟の古典學者たるを除くの外は連歌に精しき者の隨一流の識者として、素堂程の學識ある者は殆ど其比を見ず。芭蕉は稀世の天才にして且つ季吟が國典に於ける衣鉢を繼ぎたれ共、素堂如き才藝博通の士に對しては勢ひ席を讓らざるを得ざるべし。且つ縱令師事せざるも文詩の友を結んで益を得たるは、恐らく失當の推測にあらざるべし。芭蕉の遺文を案ずるに、其角丈と云ひ杉風樣と呼ぶ中に、獨り素堂先生と尊稱するを見るも亦、尋常同輩視せざりしを知るに足る。されば枯枝の吟に於ける口傳茶話の如き、蓑蟲の贈答の如き、『三日月日記』に漢和の格を定めたる如き、若くは其日庵に傳ふる芭蕉・素堂二翁、志を同うし力を協して、所謂葛飾正風を創開せしといふ説の如き、或は『續猿蓑』の「川上とこの川しもや月の友」を以て素堂を寄懷せるものとなす如き、皆素堂と芭蕉との淺からぬ關係を證するものにして、芭蕉が俳想の發展は蓋し素堂の力に得たるもの多かりしなるべし。素堂傳に芭蕉と隣壁すとあれども、素堂は阿武に住し芭蕉は六間堀に寓したれば、隣家といふも恐らくは數町を距てしなるべし。當時深川は猶葛飾と稱し、人家疎らなる僻地なれば、茫々たる草原に數町を距てゝ二草舍の相列びしものならん乎。云々
俳諧誌上の人々 榎本其角 えのもときかく
『俳諧誌上の人々』 高木蒼悟 氏著
昭和7年11月発行 俳書堂
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
草庵に樋梗あり
門人に其角、嵐雪あり
と師の芭蕉から鍾愛された其角は、寛文元年(1667)丑七月十七日、江戸日本橋堀江町に生れた。
父、東順は竹下氏近江堅田の人、堅田の榎本氏の女を娶り、榎本氏を冒すに至つたと云へば、養子したものではあるまいか。医を業として本多下野守から扶持せられ、安穏な生活をしてゐたのであるが、何れり年か江戸に移り堀江町にト居した。この堀江町の寓居に其角が生れたのである。
其角の門人淡々が、其角十七回忌に上梓した「十七囘」には、其角の自伝が収録されて居る、
傅記的文献として最も精確なものであるから、それに準拠して此の小傅を立てる事とする。
其角の父も母も文雅の嗜みがあった、この父母の雅懐に養はれた渠は、九歳り時、
馬なればいかほど跳ねん丑の年
さてもはねたり寛ン文ン元ン年シ
と口吟した。この歌は略年譜の九歳の條に記入してあるが、『ト養狂歌集拾位』にある歌であるから、其角角が何気なく手録しておいたものを、『みゝな草』の著者などは其角の自詠であると云って居るのであらうとの説もある。
「十歳入学大圓寺、十四歳於堀江町本草綱目寫、修治、主治、発明」とある。
十歳から大圓寺に寺小屋生活をなし、十四歳のには父の業を継ぐべく、医書を勉強しかけたものである。
「本草綱目」は明の李時珍の著薬物学の書で五十巻ある。「五元集」に
父が医師師なれば
鰒(ふぐ)汁に又本草のはなしかな
とあるのは、此頃の回想であろう。
十五歳、内経素本、易経素本寫。
蒲生五郎兵衛需にて伊勢物所書之、右表紙出来、
本多下野守殿へ献之、右之御褒美として刀申請候
とある、「内経」は支那古代の医書、易経などと共に、その白文を筆寫したものらしい。また、渠は俳壇
屈指の能筆家であるが、十五歳の頃既に能書の名が聞えて居たものである。
十六歳、草刈三越講筵、服部平助撰述。
十七歳、桃青廿歌仙。
三越は医学者で通称永伯。平助字は紹卿、将軍家宜の侍講を勤めた儒者、それらの講義を聞き、尚この時代に圓覺寺の大嶺和尚に詩や易を學んで居る。「桃青門弟獨吟二十歌仙」の版行されたのは延宝八年(1680)であるが、その歌仙の巻かれたのは、其角十七歳の延賓五年(1677)である事が知られる。渠の作は地の巻第四番目にあり。
脈を東籬の下にとって本草に對すと美子か薬もいまたうつけを治せず
月花ニ医ス閑素幽栖の野巫の子有
と冒頭にあって、当時早くも自分の生活な詠んで居るようである。「桃青門弟廿歌仙」より一年前の延宝七年に梓行された、才麿の「俳諧板東太郎」に
朝鮮の妹や摘らん紫人參
なら茶の詩さこそ廬同も雪のはて
雁虎蟲とばかり思ふて暮けり暮
など入集して居る、板本に見える渠の作の最初のものかと思はれる。いったいはいっ芭蕉の門に入ったかといふに、芭蕉がはじめて江戸に来たのが寛文十二年、種々の文獣によれば延宝二年十四歳で入門したらしい。元禄十四年まで年譜を自ら認めて、芭蕉に入門した年を記録してゐないのは、後の研究者には物足りない気がする。
天和元年(1681)年 二十一歳には桃青、其角、才麿、揚水の四人で著した「次韻」、言水の「東日記」等が上梓された。当時既に俳人として書家として、一家をなして居たらしく、「東日記」二巻は其角の筆蹟をそのままに用い、渠の発句は廿八句入集して居る。天和三年には堀江町から、芝の金地院前に移り、「虚栗」「新二百韻」等の編著があった。
父の東順は六十歳限り、医業を脱して文筆に親しんだといふ、東順の六十歳は天和二年に當る、其角は医名を順哲と呼んでゐたが、果して医業に携ったものか、明らかでない。想ふに、東順 其角の父子は天和二年の頃、百味箪笥を抛(ほお)り出し、其角は俳諧専門家として立つ事になり、芝へ移ったものではあるまいか。天馬行空的の渠の性格はこの頃から発揮し、酒を被り高楼に放吟するなど、いよいよ磊落(らいらく)放縦な生活は、渠をして短命に終らしめたかの感がある、仔細らしく坊主頭を傾けて、医業に邁進していたら、或は長命したであろうが、榎本順哲老で医人伝の一頁を占め得るや否や覚束ない。
「無窮の壽を保たん事を要す、著者須らく書に托すべし」
といふ古人の言が思い出される。
芭蕉は其角の大酒を戒めるため、飲酒一枚起請の寫しを渠に附贈った事がある。
右飲酒一枚起請は、尊重親王御作の由承候、
さる人の許には鰐筆にて懸物にして、
床に掛り在候餘り/\面白き御作故、
ちよと寫し来候、貴丈常に大酒をせられ候故、
此御文句を心して、大酒は御無用に存候、仍一句
朝顔に我は飯くふ男かな はせを
元禄時代の或る一面は、紀伊国屋文左衛門、奈良茂、其角、一蝶、佐々木文山、柏筵等が代表するやの観がある。記文、奈良茂は豪富の商人、遊里に驕りて金銭を土芥の如く消費した。其角。文山、一蝶等に顕門富豪に夤祿(いんろく)して、花柳の巷に放浪し風騒を助けた。柏菰(市川団十郎)は荒事師の本家、また文事あって其角に相親しみ多くの俳優の中に蔪然頭角をあらはしていた。
而して豪遊一世を驚かした紀文は、俳諧に千山と號し、其角の門人、また其角の保護者にして且つ遊び仲間であった、渠は一蝶と共に常に其の宴席に侍してゐたようである。
暁の反吐はとなりかほとゝきす
大酒に起てものうき袷かな
酔登二階
酒の瀑布冷麦の九天より落るらん
酒仙其角の面目を髣髴(ほうふつ)たしめる句は多くある、又、嗜好としては鮓好であった事が、渠の
僕にして俳句をやり、後医道に入った是橘が
わが檀那鮓をこのみてくはれければ
しらせばや蓼くふ蟲にすしの味
といふ句な作りて居る事によって知られる。渠はまた泥を一蝶に學んだ。一蝶は狩野安信の門人であるが、才気煥発、師家の規矩を守る事をなさず、安信の門な斥けられ、自ら一流を開かんとしたものである。
其角は性格豪放、その俳諧には江戸兒気象の顕れたものがすくなくない。また鬼面人を嚇(おど)すようなもの、難解のものも少なくないが、画は俳諧矛ほど豪勁(ごうけい)で至極落ち着いた作を見せている。
お汁粉を還城楽のたもと哉
饅頭で人をたづねよ山桜
意馬心猿の解
立馬の日は猿の華心
いさよひや龍眼肉のから衣
軍兵を炭團でまつや雲礫
前書略
土手の馬くはんを無下に菜つみ哉
接木を畫て
来ませる申継とや見えつらん
これ等は謎の句、難解の句と称される側のものである。
鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春
猫の子のくんずほくれつ胡蝶哉
雛のさま宮腹/\にまし/\ける
明星や櫻さだめん山かつら
子規一二の橋の夜明かな
越後屋にきぬさく音や子規
うの花やいつれの御所の加茂桜
笋(たけのこ)や丈山などの鎗の鞘
鎌倉やむかしの角の蝸牛(かたつむり)
水うてや蝶も雀もぬるゝ程
鶏頭や松にならびの清閑寺
秋の空尾上の杉をはなれたり
背面達摩の贅
武帝には留守と答へよ秋の風
むら時雨三輪の近路たづねけり
からびたる三井の仁王や冬木立
鹽擔子(しおくみ)や投てたゆたふ磯鵆
これらの句は、一読清新り感にうたれ、人をして豁達(かったつ)ならしむるものがある。
其角の逸話として最著名ものは、「雨乞い」と「赤穂義士」に関するものであろう。
「五元集」に
夕立や田を見めぐりの神ならは
圍の句がある、そして句の次に「翌日雨降る」と書いて居る。「近世奇跡考]によれば、
元禄六年午六月廿八日、渠が隅田川に舟遊びせし行、
三圍社頭に雨乞する者の請にまかせて詠んだところ、
翌日雨が降つたといふ。
義士闘係の逸話は、両国橋上、煤竹売りの子葉(大高源吾)との邂逅は桃中軒に任せておく事とし、討入の晩、吉良家の隣の土屋邸に居て、てこれまた子葉との邂逅、君時の状況を秋田の文鮮へ報じた書簡は、百歳の下尚儒夫を起たしむるほど痛快な光景を、目のあたり見るやうな文章である。
歳暮の為御壽例の如く遠来の處、酒量一封、
蕗漬一桶被贈下、御厚志の程幾久敷致受納候、
御序御家内はじめ御社中にも宜敷御傳可被下候
しかれば去十四日、本所都文公に於て忘年の一興御催有
嵐雪、杉風予等も出店にて、折柄雪雨白く降出し、風情手にとる如く、
庭中の松杉はゆきをいただき、雪間の月は暗を照し、風興今は難捨と、
夜いたく更ゆくまゝもはや丑みつ頃に成行き、犬さへ吠えず打しづまり、
文臺料紙もおしかたよせ、四五人あつまりて蒲団をかつぎ、
夢の浮世といふ間もあらせす、はげしく門をたゝくものあり、玄闘に案内し、
予等は浅野家の浪人堀部彌兵衛、大高源吾にて、
今夕御隣家吉良上野介屋敷へおしよせ、亡君年来の遺恨を果さんとして、
大石内蔵之助をはじめ都合四十七人門前に進み、唯今吉良氏を討亡し候處、
御近隣の好み武士の情、
萬一御加勢も下され候はば末代の仰恨稀代の御不畳と奉存候、
願くば門戸をきびしく御防、火の元御用心被下候はば忝く存候とて
いひもはたさず忽ち出づる其の聲神妙なることいふべくもあらす。
今は俳友も是迄なりとて、其角幸い爰にあり、生涯の名残見んとて、
門前に走り出ければ、各吉良家に忍ひ入りしほどに
わが雪とかもへば軽し笠のうへ
と高々と呼ばり、門戸を閉て内を守り塀越に提灯を高くし始終を窺ふところ、
そのあはれさ骨身にしみ入、女人の叫び、童子の泣聲、風諷々と吹さそふて、
僥天に至りては本懐既に達したりとて、
大石主税、大高源吾、穏便に謝義を述べたるは、武士の誉といふべきなり
日の恩や忽ちくだく厚氷
と申捨たる源吾の精紳、いまだ眼前に忘れがたし、
其公年来熟懇故、具に認申候、早春は彼是御彼是御指繰御出府も候はば、
彼落着も承り無餘義及伏劒候はゞ窃かに追善も相榮申度候、
先は餘日も無之書餘期貴面時候、恐惶謹言。
十二月二十日。
吉良邸討入は云う迄もなく元禄十五年である、而して上の文中にある「わが雲と」の句は、元禄四年出版の「雑談集」に「笠重呉天雪」と前書して出て居り、享保五年版の「綾錦」には「東坡賛」と前書きして出て居る。「綾錦」は兎も角とするも、此際、十年餘前の偽作を思ひ出して「高々と呼ば」はつたであらうか、また同一書簡が数通現はれたとやらで、眉唾物のように説くく者もある。
赤穂の士人には俳句を嗜む者少なからず、大高源吾(子葉)の他、茅野三平(涓泉)、富森助右衛門(春帆(神崎輿五郎(竹平)、吉田忠左衛門(白砂)、岡野金右衛門(放水)等は沾徳門の俳人にして、其角の門にも出入したものであった。文涜に燈ったといふ書簡は。よし贋物なりとするも、其角の句集を読めば、侠骨稜々たる渠の面目躍如たるものがある。
「五元集」には
故赤穂城主浅野少府監侵長矩奮臣大石内蔵之助等四十六人、
同志異體報亡君之讐(むくい)、今茲二月四日官裁下令一時伏刄斉屍
萬世のさえづり黄舌をひるがへし肺肝をつらぬく
うくひすに此芥子酢はなみだ哉
富光春帆、大高子葉ご岬崎竹乎これらが名は
焦尾琴にも残り聞えける也
など見える。義士の応分は時の大問題であったが、其角等が横議を挿むべくもない、元締十六年二月屠腹の事行はれ、追善供養は素より、墓参をすら許されなかったのであるが、熱情漢の彼は同人を會して追善り句会を開いた。
萬世のさえづり血行を韓し黄舌をひるがへす
鳶にこの芥子酢は涙かな 晋 子
ちる約束や名残ある梅 應 三
船頭の喧嘩は霞むまでにして 沾 徳
物書捨しあみ笠のうら 澁 斎
隼の祭見る間や峯の月 周 東
無地には染ぬ千丈の蔦 貞 佐
(以下略)
元禄十六年七月十三日 泉岳寺に亡友の墓を望見し、烈士の鬼に手向けた一文を渠の文集「類柑子」
から披く事としよう。
文月十三日、上行寺の墓にまふでてのかへるさに、いさらごの坂をくだり、
泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとむもふより、
子葉、春帆、竹平等が悌まのあたり来りむかへるやうに覚えて、
そぞろに心頭にかゝれば、花水とりてとおもへど墓所参詣をゆるさず、
草の丈けおひかくして、かず/\ならびたるも、それだに見えねば、
心にこめたる事を手向草になして、
亡魂、聖霊、ゆゝしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。
几人聞のあだなることを観ずれば、我々が腹の中に屎と慾との外の物なし
五九輪五體は人の體何にへだてのあるべきやと、披傀儡にうたひけん、
公卿、太夫、士庶人、土民、百姓、工商乃至三界萬霊等、この屎慾をおほはんとて、冠を正し、太刀はき、上下知着て馬にめす、
法衣法服の其の品まち/\也といへども、生前の蝸名蠅利成り
たらちねに借賤乞はなかりけり
人間生路のいとなみ、一朝一タを貪る事ことはり也、いきてなき人何のこたへかあるべき、
それに一口の棚経よんで、家々をありくは何事やらんとあやし、
是かのなき玉のために奏者取次とおもへば、墓をならぶる而々其名暗からず、
地獄にて馳走せらるべしとこそ
かへらすにかのなき王の夕べかた
微書記が生きてかへりしよりも、死をいさぎよくせし兵。
ふるさとに思ひのこす事露なかるべし
皮肉と詼謔をつきまぜたこの手向草には、地下の鬼雄も莞爾として得度した事であらう。
「黒双紙」に……師(芭蕉)の目、其角は同席に建るに一座の興にいる句をいひ出て、人々をいつとて感す、師は一座その事なし、後に人のいへ名句はある事も有となり……と、句合の席上などにて、喝采を博する句を作るのは、芭蕉よりは多かったであらうと思はれる。
許六曰く
「諸集の中目立つ句有候は大かた晋子なり、彼に及ぶ門弟も見えず」
と、また曰く
「晋子其角が器極めてよし、人のとりはやするも、生得活景むもてに上手をあらはせし故に、諸人の耳目を驚かす」と。
初め螺合、麒角、後に其角と改む、米元章の用ひたる硯を三弄子から附られ、その硯の裏に■(不明)りたる寶晋斎の文字より寶井晋子。寶晋斎と號するに至った、
狂雷堂等の別號もあった、宝永四年(1707)二月廿日三日。青流が其角の病床を訪ねて、
鶯の眺寒しきり/\す 其 角
筧の野老髭むすぶ 同
青流、第三を附け両吟を試みたるに、裏の三句目に至り「晋子ねぶたきけしき」にて分れたるに、これを最後の吟詠として、同廿九日茅場町の草庵に歿した。
年四十五。芝二本復上行寺に葬る、法號 喜覚居士。
著書は虚栗、新山家、花摘、雑談集、枯尾花、わか葉合、末若葉、焦尾琴等約三十種に及ぶ。
渠の門人中、巴人、淡々、貞佐、湖十、秋色等は錚々たるものである。
而して所謂「江戸風」の沿革に就ては、山口黒露の「俳論」その他に種々の説あり、其角以前に不角によって起りしものとの説もあれど、江戸座の俳諧が其角によって勃興したものなるは争はれない所である。
桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説(4)
篠原昭二 氏著
若菜(わかな)上
花が雪のように舞う春のタ暮れ,六条院の人々は蹴鞠(けまり)に興じていた。階 (きざはし)に腰をドろして一休みする柏木(かしわぎ)が女三の宮のいる辺りに目をやると,折しも描が飛び出し,付け紐で持ち土げられた簾の端から、内部が見通された。几帳の際に立つ小味(こうちき)姿の女はまさしく女モの宮である。小柄で髪のふさやかな,いい知れぬほど高貴で愛らしい姿に柏木は胸もつぶれる思いだったが,わが身のみ立つ場を思い,かわいげに鳴く猫を招き寄せてやるぜなさを慰めるしかなかった。
京都国立博物館
若菜(わかな)下
柏木は手を回して女三の宮の飼い猫を手に入れ,日も夜もそれを愛撫して時を過ごす。ようやく馴れた描は,恋の病に悄然として臥す柏木に身をすり寄せて,にょうにょうと鳴き声をたてるのだったが,柏木にはそれが「寝よう寝よう」と言っているように聞こえた。恋しい人の形見であるお前がなんで恋い患うわたしに寝ようなどと言うのかと描に問えば,描はますますかわい気に鳴くのだった。
京都国立博物館
柏木 (かしわぎ)
花のころ、夕霧は落葉のK宮を見舞った。柏本のいまはの際(きわ)に宮の後見(うしろみ)の委嘱を受けていたからである。応待に出た母御息所(みやすどころ)は彼の親切に感謝しながら朱雀(すざく)院や人出の意向に従って宮を結婚させたことを悔み,いずれにしても不幸を招くのだったら,何故強く反対しなかったのかと,激しく意に任せぬ世を嘆いた。宮と柏木との結婚生活は決して幸福なものではなかったが、それだけにかえって,庭の桜の昔通りに美しく咲く姿がもの哀しさをさそった。
東京都・徳川黎明会
横笛(よこぶえ)
朱雀院から女三の宮のえとへ山寺の辺りで採れた筒(たけのこ)などが贈られてきた。院は落葉の宮が人聞きの悪い境遇にあり、また三女の宮も出家生活を送っていることが不満であったが,今はただ現世を諦めて来世に望みを託す道を姫宮たちと共に歩きたいと,こうして折につけて見舞いがあるのだった。しかし来あわせた光源氏には、明日知れぬ命のほどに対面のままならない嘆きを記す文面から、女三の宮に対する院の情愛が立ち昇るように思われて,心苦しかった。
東京都・徳川黎明会
鈴虫(すずむし)
女三の宮は念仏三昧に日々を送っていたが、光源氏はこの庭を野の風情にしつらえて虫を放し,風の涼しい夕暮れなどに訪れては,なお末練の思いを訴えたりしていた。八月十五夜、今宵も宮のもとで琴(きん)を弾じていると,螢宮や夕霧をけじめ殿ll人たちが月の宴を期待して訪れ,そのまま管絃の遊びになった。月光と虫の音にはやされて興がたかまっていった乱 光源氏には亡き柏木(かしわぎ)が慕わしく思い出されて、涙がこぼれた。
東京都・徳川黎明会
夕霧(ゆうぎり)
母御息所(みやすどころ)の薨去によって,落葉の宮の心は固く閉ざされ、夕霧の弔問にも全く応ぜず小野に一生を埋めようと決意した。焦燥の思いも深く,タ霖は忌明けも待たずに訪れた。本枯らしの吹き払う晩秋の山里,鹿の鳴く声にまじってかすかに読経の声が聞こえる。堪え難いもの哀しさにふと立ち止まり,ほんのりとさした夕日を,扇をかぎして眺めわたす夕霧の姿には女も及ばない美しさがあった。しかし宮の心は解けず,彼は空しく帰って行くのだった。
京都国立博物館
御法(みのり)
出家を許されない紫の上は,せめてのことに,長年書写してきた法華経千部の供養の法会(ほうえ)を催した。光源氏,帝,東宮らから供物の料が捧げられ、花散里や明石の方も参会してこの上なく盛大な法会は、3月花の盛り極楽もかくやと思われるほどで,念仏の声と管絃の斥け夜を徹して響き,明け行く空の霞の間より浮かび出た花の影からは,笛の斤に負けずに鳥がさえずった。それは存を愛した紫の上の最後を飾るにふさわしい情景であった。
京都国立博物館
幻 (まぼろし)
光源氏は紫の上を失った悲しみに惑乱する心を鎮(しず)め鎮めして1年を過ごし,ようやく出家を果たせる心境をえたのだったが,少しずつ身辺整理をするうちに,須磨の流誦時代に届いた紫の上の書簡をみつけて心の平静を失い,とめどなく流れる涙は,いま書いたように新しい紫の上の水茎の跡を濡らした。彼は女々しい心を女房たちに隠すように,よくも見ずに,見てもかいのない形見よ,主と同じ煙になれと,紫の上の細やかな言葉の傍らに書きつけて火に投じた。
京都国立博物館
匂宮(におうみや)
賭弓(のりゆみ)の還饗(かえりあるし)に,夕霧は親王方を招く準備をしていた。例年通りに左方の勝ちに終わると,彼は自分の車に匂宮のほか常陸(ひたち)の宮と信服の五の宮を同乗させて退出した。薫(かおる)も敗け方でひっそりと帰るところだったが呼びとめられ,夕霧家の君達(きんだち)やその他の上達部(かんだちめ)たちに一緒になって誘いたてられ,六条院に同行した。夕霧は何気な<典侍(ないしのすけ)服の六の君を匂宮や薫に見せて,縁談を進めようとしていたのである。春の初め,雪の散る夕暮れだった。
京都国立博物館
紅梅(こいうばい)
紅梅の大納言は後妻に迎えた真木柱(まきばしら)が蛍宮との間に設けていた宮の君の高貴な風情に惹かれていた。紅梅の盛り、大納言は、若君に笛を吹かせ宮の琴を聞いたが、それは光源氏の弾く音色を思わせた。彼は中の君の婿に臨む匂宮に紅梅の一枝を賜るように若君に命じたが、今の若君が匂宮に慣れ親しむように自分が光源氏に仕えた昔が恋しく,光源氏に比べれば世間の特別扱いする匂宮とて遠く及ばないと思うと,おのずから胸がふさがるのを覚えた。
京都国立博物館
竹河(たけかわ)
玉鬘(たまかずら)の大君(おおいぎみ)は多くの求婚者を捨てて、結局冷泉(れいぜい)院に参上した。蔵人(くろうど)の少将などは狂わんばかりに嘆いたのだが、薫も表面はそれほどに見えなかったが、内心では未練を捨てきれないで、冷泉家に参るといつも大君の居る辺りが気にかかるのだった。ある夕暮れ,御方近くの五葉の松に藤が美しく咲きかかっていたが,大君の弟の侍従と連れだって苔をむしろにそれを眺めていた薫の口からは,思うにまかせぬ世を恨む言葉がこぼれ出た。
京都国立博物館
橋姫(はしひめ)
秋の末,有明の月の輝く夜半,薫は思い立って宇治を訪れた。木の下゙露のこぼれかかるわびしい山道を行くと,遠くから琴(きん)の音が絶え絶えに聞こえたが,山荘に着いて透垣を押し開けてのぞくと姫君たちが折から秋の風情を愛でて琴に興じていた。雲間から急に射した月光に,琵琶を前にした1人が撥(ばち)をかざして
「扇ならで,これしても月は招きつべかりけり」
と言うと,琴にもたれたもう1人は変わった思いつきだと笑った。薫は,昔物語にでも聞くような情景だと思った。
京都国立博物館
浮舟(うきふね)
匂宮は中の君のもとにいた浮舟の愛らしい人柄が忘れられず,その行方を探し求めていた。正月ののどかな昼下がり,若君を相手に遊んでいると,女童(めのわらわ)が針金細工の小松に付けた髯箭(ひげこ),緑の薄ように包んだ文,立文(たてぶみ)などを中の君に届けにきた。中の君が困惑の体(てい)で取り隠させようとするので,匂宮は薫からの文ではと疑ったが,開けてみると浮舟が若君のために卯槌(うづち)を献上する文だった。中の君は薫のため,浮舟の居場所を秘していたのであった。
東京都・徳川黎明会
蜻蛉(かげろう)
浮舟を失った衝撃も次第に癒えて,薫にはものうい日常が返ってきた。あるときは女一の宮に憧れ,妻(女二の宮)に彼女と同じく薄物を着せて水遊びをさせてみたり,あるときはまた女二の宮のもとに出仕した蜻蛉の宮の姫君の境遇に同情して関心を寄せたりしていた。そして今日は六条院の東の渡殿(わたどの)に集う中宮方の女房たちの手習いの仲間に入り,彼を迎えて色めき立つ弁のおもとらと軽口を叩き合うのだった。しかし実はそういう薫の胸には中の君を得られぬ嘆きが重くわだかまっていた。
東京都徳川黎明会
手習(てならい)
9月になって尼君たちは長谷詣りに出かけて行った。浮舟は気分が悪いのを口実に残ったが,実は母や乳母と共にした参詣が何のかいもなく,命さえわが思いのままにならぬ今の境遇を思えば,到底回行する気持になれなかったのだ。とはいえ留守は心細く,わが人生を思えば気分はめいるばかりである。少将は見かねて碁に誘い,冗談を言って碁の強さをほめたりしてくれたが,浮舟にはかえってわずらわしく,もの思いに沈むばかりだった。
東京都・徳川黎明会
夢浮橋(ゆめのうきはし)
薫は,明石の中宮より浮舟の消息を知らされて,まだ匂宮などが知らないことを確かめた上で,横川(よかわ)に僧都(そうず)を訪ねた。僧都は薫の並々ならぬ態度に浮舟の素姓を察知して驚愕し,こと細かに受戒させるまでの事情を語ったが,薫は浮舟の身の上を問う僧都にはおぼめかして詳しくは答えず,自分は浮舟が出家していると聞いて安心したと言って,母親の心配にこと寄せて僧都の尽力を乞うた。彼は浮舟に深入りして恥をかくことを恐れたのである。
東京都・徳川黎明会
土佐光吉と光則の『源氏物語画帖』
源氏絵の永い歴史のなかで,古代~中世の伝統を近世につなぐ重要な役割を演じたのは土佐光吉(久翌(きゅうよく),1539~1613)である。各帖からの画面選択法や構図の原則には伝統を巧みに継承しながら,桃山時代の華麗な感覚を生かし,精緻な技法による細密画の源氏絵色紙のシリーズをつくり上げた。これは名流の筆になる詞書の色紙と組み合わされ豪華な画帖に仕立てられて大いに時流に投じた。絵の裏面に「久翌」墨印をもつ彼の源氏絵は幾種類も伝存しているが,代表的なものは京都国立博物館所蔵の色紙画帖2帖である6詞と絵を対ページに貼り,両帖の表裏合わせて見開き54面(色紙1枚は各縦25. 7cm, 横22. 6cm)。
しかし五十四帖を完結させず,「桐壷」から順次進んで(48)の 「早蕨」で終わり,最後の6面には「夕顔」「若紫」「末梢花」 「賢木」「花散里」「蓬生」がもう一図ずつ繰り返されるという特異な構成をとる。しかも最近修理の際裏面を検すると,「桐壷」の図から(36)の「柏木」までが「久翌」印を押されて光吉自筆と思われ,「横笛」以下「早蕨」までは印がなくて画風も異なり,最後の6図もこれと似た繊細だが構成の弱い筆致で,裏に「長次郎」という註記がある。各段の詞は後陽成天皇(1571~1617)はじめ貴紳23人の寄合書(よりあいがき)になるが,その年代から推すと,光吉としては最晩年の製作と思われるので,恐らく光吉自身は「柏木」までで絵筆がとれなくなり,後を側近の画家を指図して描かせ,さらに光吉の他界後長次郎と名のる後継者の1人が注文主の好みに合わせて繰り返しの6段を選び,図様に多少の変化を加えながら補い描いたものと推察される。
光吉の子とも弟子ともいわれ,土佐家を継いだ光則(1583~1638)は彩色密画の方向をさらに進めて,極限に近い微細で精巧な画面をつくり上げた。尾張徳川家に伝わった『源氏物語絵詞』と題する1帖は,全60丁に絵と詞の色紙各60枚を貼り合わせたもの。色紙も縦15. 3cm, 横14. 1cmと前者より一段と小さく,しかも図様は複雑で,戸外の自然景や襖絵などにも充分な詩情を盛っている。
桐壺 『源氏物語』画巻 作品解説(2)
篠原昭二 氏著
松風(まつかぜ)
光源氏は父人道の計らいで上京し,大堰(おおい)の山荘に入った明石の君母子を見舞った。それは嵯峨の御堂とか桂の院とかさまざまに口実を設けてやっと叶った訪問であったが,女には男の誠意はそれとして,行動の不自由な男の身分と自分との違いが絶望的に思われる。人々にせかされてのあわただしい出発,乳母に抱かれて見送る姫君の愛らしさに彼は胸が一杯になって,思い乱れて几帳(きちょう)の陰に嘆きふす女に,姫君を二条院に引き取るとはついに言えなかった。
東京都・徳川黎明会
薄雲(うすぐも)
姫君を二条院へ引き取って後,光源氏は明石の君のことをつねに気にしながらも、天変地異や藤壷女院,大政大臣等の死去など公の多忙のために訪れは絶えていた。女が何故もっと気楽に東院にも住まないのかと,その誇り高い態度を身分不相応に生意気だとは思うものの,やはり人気違い山肌のわびしい暮らしには同情されて,初秋のある日,例の嵯峨の御堂の常念仏にことよせて見舞いに赴いた。明石の浦に通う大堰川の水辺の情景に,彼ら2人の不思議な因縁が思われるのだった。
京都国立博物館
朝顔(あさがお)
光源氏は父宮の薨去によって斎院より退下した朝顔の姫君を桃園の宮に訪問したが,人づての対面のみで,全く冷たい応接であった。打ちひしがれしおれて帰宅し,もの思いに寝覚めがちの一夜が明けると,朝霧の中に枯れ枯れの花にまじって朝顔の花がはかなく咲いていた。昔を知る恋しい人々が次々に亡くなって行く中で,それはかけがえのない朝顔の君を象徴しているかのようであった。彼は花につけて,せめて自分の長年の思いを哀れとは思ってくれるだろうかと,いい送った。
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少女(おとめ)
四季折々の趣向をこらした六条院が完成した秋,秋好(あきこのむ)中宮はわが住む所を誇って,いろいろの花紅葉を箱の蓋に載せ,着飾った女童(めのわらわ)に持たせて,紫の上に贈った。消息には,
春を待つあなたはせめてわたしの所の紅葉を風の伝(つて)に見てください
とあった。風情あるもてなしに人々は感動し,紫の上は作り物の五葉の松にかけてなお春を待つ心を中宮に誓ったのだったが,光源氏は春の花の盛りにきっとこの返礼をと薦めたのである。人々相和す六条院の一日だった。
京都国立博物館
玉鬘(たまかずら)
年の暮れ,光源氏はあ方々に新春の晴れ着を贈るべく調えられてきた衣類を、紫の上を相手に選んでいた。紫の上は着る人によく似合うものを差し上げるように助言するのだったが,玉鬘には鮮かな赤色の衣に山吹色の細長を取り揃えて選ぶのを横目に見て,まだ見ぬその姿を想像し,父内大臣の華麗で美しくはあるがしっとりとした感じにはいささか欠けた様子に似ているのだろうかと思ってみた。光源氏は紫の上のただならぬ風情に,容貌に合ったものというのはむずかしいと言って,とりつくろった。
京都国立博物館
「初音」(はつね)
新春,光源氏が明石の姫君のもとへ年賀に赴くと,そこには明石の方(かた)から正月の祝いが届けられていて,ただ姫君の成長だけを楽しみにひっそりと暮らすわたくしに鶯の初音のようなあなたの便りが欲しいという意味の消息が添えられていた。実際,明け暮れを共にする人でさえ可変らしくて仕方のないこの姫君を,実の母として対面もかなわずに過ごすのはどんなに辛かろうと思うと,彼はわが罪の程が思いやられて心苦しく,思わず涙がこぼれそうになった。
京都国立博物館
胡蝶(こちょう)
3月20日過ぎ,春の盛りを迎えた春の町では折しも新造の龍頭鷁首(りょうとうげきす)の舟を浮かべて舟遊びが行われた。秋の町の中宮方の女房が招待され舟に乗せられた。舟は梶取りの童(わらわ)にみな角髪(みずら)を結わせるなど,すべて唐(から)風に装われて大きな池に曹ぎ出したから,慣れない女房などは異国に来たように思った。参会の貴族たちも夜更けまで歓を尽くし,仕える下人(しもびと)たちまでも,生けるかいありと思ったのだった。
京都国立博物館
「螢 (ほたる)
募る恋心をもてあまして訪れた蛍官に,玉鬘(たまかずら)は光源氏の強いすすめで気の進まないままにやっと対面したのだったが,そこへおびただしい蛍が放たれた。にわかに明るい蛍の光に驚き,彼女は扇で顔をさし隠したが,その横顔はまことに美しい。光源氏は蛍宮に玉鬘の真の美しさを見せて,その恋心をいやが上にも惑わせてやろうと,こんなことをしたのだったが、彼女が実の娘だったらするはずのない,すきずきしいたずらであった。
京都国立博物館
常夏(とこなつ)
真夏の一日、釣殿(つりどの)に出て夕霧や彼を訪ねてきた内大臣家の君達(きんだち)と鮎などを食して暑さをしのいだ光源氏は,夕暮れ,彼らに送られて玉鬘の西の対(にしのたい)にやってきた。前栽(せんざい)には丹念に植えられた撫子が見事に咲き乱れて,彼女を実の兄嫁と知らない君達は御簾(みす)の中の女主人に,心を燃やしたが,光源氏は彼らの姿を玉鬘に見せながら,内大臣は何故夕霧をいとうのかと愚痴をこぼしていた。玉鬘には,それで光源氏と実父の不仲が知られて嘆きが加わるのだった。
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篇火(かがりび)
光源氏は玉鬘(たまかずら)への執心に忍び難く,共に過ごす時間はおのずから多くなっでった.風の音もようやく秋らしい一夜,光源氏は今日も人の不審を恐れ玉鬘うながされて重たい腰をやっと上げたが,東の対に夕霧たちの楽の音を聞いて立ち止まり、重たい腰をやっと上げたが,東の対に夕霧たちの楽の音を聞いて(立ち止まり,彼らを呼び寄せ,音楽に一時を送ることにした。夕霧は盤渉(ばんしき)調に笛を調べ、弁(べんの)少将は拍子,柏木(かしわぎ)は光源氏に譲られて琴(きん)を弾じた。玉鬘は兄弟たちの演奏、と心をとめたが,彼女に懸想(けそう)する柏木は平静ではいられなかった。
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野分(のわけ)
夕霧は荒々しかった野分の翌朝,見舞いに歩く光源氏の供をして方々を巡った。玉鬘(たまかずら)の所ではねんごろな言葉に待つ時間も延びたものかと, 夕霧が簾(すだれ)をそっと引きあげてみると、そこには光源氏と彼女との、父娘間柄とは思えない馴れ馴れしくしどけない姿があった。不快ではあったが,夕暮れの中にしっとりと咲き乱れた八重山吹,といった女の風情に,夕霧は心をひかれた。見てはならぬものを見た恐ろしさに,思わず逃げ腰になる彼の背後に光源氏の女にささやく声がきこえた。
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行幸(みゆき)
12月、大原野に鷹狩り行幸(みゆき)があって,大臣以下廷臣は残らず随行し,大路は見物人であふれたが,玉鬘も見物に出て,帝の立派な姿に強く心をひかれた。物忌(ものいみ)のため不参の光源氏は狩りの場に酒肴を贈ったが,帝からは蔵人(くろうど)の左衛門尉を使として,唯子(きじ)が木の枝につけられて届けられ,故事に習って太政大臣のあなたも同行してほしかったという意の歌が添えられていた。恐縮した光源氏は,昔の野の行幸にも今日ほどの盛儀ではなかったでしょうと御代をことほいだ。
京都国立博物館
.藤袴(ふじばかま)
大宮(おおみや)が死去して玉鬘は薄い鈍(にび)色の喪服を着ているが,それでかえって美しい容貌が際立つってみえる。そこへ同じく喪服の夕霧が光源氏の使で尚侍(ないしのかみ)の勅旨が下ったことを伝えに訪れた。彼は野分(のわき)の折の長髪の姿が忘れられないでいたが,血のつながる姉弟でないとわかって,わが胸の内を伝えたいと願っていた。彼は,父からの伝言を口実に,藤袴の花を贈るとみせて,簾の内に差し出した于で彼女の拍を引き熱心にかき口説いたが,彼女には急に恋人と思えるはずもなかった。
京都国立博物館
真木柱(まきばしら)
玉響(たまかずら)が髭黒(ひげくろ)のもとへ去ってから半年近くが過ぎていった。3月になり,藤や山吹の美しい風情を見るにつけ、光源氏には玉響(たまかずら)が思い出されて,主のいない西の対(たい)に1人坐って彼女を恋い忍ぶのだったが,もとより慰むはずもなかった。彼は堪え難い思いを贈り物に託し,父親らしい言葉を連ねて彼女に贈ったが,聚黒もそれを見て,妻となった女には実父とて気ままには会えないのに,なぜこの大臣は諦めずに言い寄るのかと,憎々しく討うのだった。
東京都・徳川黎明会
梅枝(うめがえ)
六条院は明石の姫君の裳着,そしてそれに続く入内(じゅだい)のため大わらわであった。光源氏は一人娘のために全霊を打ち込んでいた。2月10日,紅梅が咲き匂い少々の雨にしっとりと落ち着いた日,螢宮(ほたるのみや)が訪れてきて花をめで,開方山話に興じているところへ,朝顔の宮から優雅に取りつくろって薫(たき)物が届けられた。文には自分の老いを卑下して姫君を祝福してあったが、このような折の趣味の高さはなお当代第一の人で,光源氏は彼女に,特に調合を依頼してあったのである。
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藤裏葉(ふじのうらば)
内大臣邸に催された藤花の宴の夜、招かれて出席したタ霧は,晴れて雲居雅(くもいのかり)と結ばれて得意の絶頂にあった。それは積年の恋人を得たことだけではなく,内大臣らに対する己れの忍片の勝利をも意味していたからである。しかし後朝(きぬぎぬ)の文には,彼は作法通りに打ち解けぬ女の態度を怨む体(てい)に書き記したので,待ちかねて娘と其にそれを見た内大臣も満足の微笑をしたが,そこには彼らの結婚を妨げていた昔日の面影の名残りはなかった。
東京都・徳川黎明会
若菜(わかな)上
花が雪のように舞う春のタ暮れ,六条院の人々は蹴鞠(けまり)に興じていた。階 (きざはし)に腰をドろして一休みする柏木(かしわぎ)が女三の宮のいる辺りに目をやると,折しも描が飛び出し,付け紐で持ち土げられた簾の端から、内部が見通された。几帳の際に立つ小味(こうちき)姿の女はまさしく女モの宮である。小柄で髪のふさやかな,いい知れぬほど高貴で愛らしい姿に柏木は胸もつぶれる思いだったが,わが身のみ立つ場を思い,かわいげに鳴く猫を招き寄せてやるぜなさを慰めるしかなかった。
京都国立博物館
若菜(わかな)下
柏木は手を回して女三の宮の飼い猫を手に入れ,日も夜もそれを愛撫して時を過ごす。ようやく馴れた描は,恋の病に悄然として臥す柏木に身をすり寄せて,にょうにょうと鳴き声をたてるのだったが,柏木にはそれが「寝よう寝よう」と言っているように聞こえた。恋しい人の形見であるお前がなんで恋い患うわたしに寝ようなどと言うのかと描に問えば,描はますますかわい気に鳴くのだった。
京都国立博物館