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山の「性格」とその倫理 長谷川如是閑 著

2025年03月24日 08時58分17秒 | 山梨県林政調査研究所

山の「性格」とその倫理

 

長谷川如是閑 著

 

 山に対する関心が時代とともに変化して来たことは、我国のように古くから登山の習慣のあった所では、一層その感を深くするのである。

登山ということは、我国では一つの漠然たる活動で、その動機も効果も、全く意識されずに、ただ生の衝動……それは恋愛や、冒険や、好奇やと同じような……に駆られた一種の盲目的行動とも云えるものであった。それがためにおのずとそれが宗教と結びついて、その肉体と精神との活動の、人生に対する力を宗教的に把握するに至って、山の宗教が発達したのであった。

今日では、その衝動が、現代の科学と文学とによって精練された一種の文化的行動にまで発展するに至って、登山の記録も、現代文明の立派なドキュメントとしての形態をもつものとなった。

 こうした過程を短期間に踏んで来た私どもは本誌の昨年十一月号に掲載された木暮氏の講話を読んで、あらためて今昔の感に堪えなかった次第であるが、ことに私はかくまで登山の形式内容の進んだ現代に於いて、木暮氏が我国の過去の登山の歴史を顧みて、そこに幾分執着の想いをもたれたことに、深い同情同感を禁じ得なかったのである。

 というのは、いかに現在の山の関心が、科学と文学との洗礼を享けたそれであるにせよ、大多数の人間の登山の活動、山へ山への衝動は、やはり昔ながらの漠然たる生活の衝動として行われているものであるということを否定し得ないからである。

 今日の山の記録に現われているような科学と文学とは、たとえそれが多数者の鑑賞の的となっているとはいえ、現実登山の興味を自から味う多数人は、その科学も文学も、恐らく少数者の所得として、自分自からの関心がそこまで到り得ないことを知っているに相違ない。それでいながら彼等自身が、山への衝動を感ずるのは、山の科学や文学に彼等自身徹底したからではなく、全く昔の人人と同じく、山そのものに対する生の衝動からのあこがれだということは、彼等自身自覚はしないが、全く免れ難い小火なのである。現在山をさして集まって行く大衆の大部分は、この範躊を出でないものの群であるといっても大過ないであろう。

 そこから私は、昔の先覚者が、この大衆の衝動を宗教的に指導することによって、山そのものに一種の観念的性格を与えた、その指導精神の賢さを想わないわけに行かないのである。

彼等は、山を一つの性格として敬慕せしめる宗教的指導に成功したのであった。

 これを今日の、科学及び文学による山への関心の指導様式に比べて見ると、ちょうど、智識や文学に於いて人間を観るのと、全人格的に人間を見るのとの相違に似ている。昔は山をその全人格に於いて憧憬せしめたのであったが、今は山をその智識と文学とに於いて憧憬せしめんとしているのである。

 そのどちらがよく目的を達したかを考えて見ることが必要である。山への関心の、昔の指導精神は、木暮氏も語られたように、山に対する絶対的崇敬の精神を植えつけることに全く成功した。全国の都会にも農村にも、山の講社を持たぬ場所はなく、いやしくも山に登る一群が、ある種の登山者に制裁を加えるための暴行を、上高地か何処かで行ったという記事を見た時に、そうした暴力を絶対に排斥する私が、その暴行者の動機に幾分無理のない点かおるのではないかと感じたのであった。

無論、その場合の事実がどんなものであったかを知らないので、その事件に対して何ともいうことは出来ないが、私の乏しい経験によっても、最近は山を都会の延長……それもいわゆる場末興味の……でもあるかの如くに考えるものによって、山が文字通り荒らされている

ことを感じたこともすくなくないのである。彼等には山の科学も文学もあるのではなく、ただ一種「異国的」の興味を、山の空気に感じて、低劣な感覚的享楽を山に求めるに過ぎないのである。

 そうした大衆を迎えようとして、都会人的の交通のためにケーブルカーの計画が、投資的に試みられ、二 三成功すれば、山という山にその計画を見ないものはないというほど流行的となり、それを「山の科学化」と唱える。女のような都会武士が、細身の太刀を落し差しにして、「武士の魂」を失わぬと誇っているのにも似た、「山の科学」である。

 山の科学も文学も持たなかった昔の日本人の山への憧憬、それが今日の大衆の山への憧憬であるという事実は、高い文化層の人々の山の記録を見ているものには、ややもすれば忘れられる。そうしてその衝動は、いかに科学と文学とによってそれを方向づけようとしても、大衆の求めるものが外にある以上、とても徹底し得るものではない。多数の凡人の山に求めるものは、山そのものの全性格であって、その山の智識や芸術ではない。無論、智識や芸術がそれにプラスされることは、望ましいことであり、文明とともに必ずそうなる筈のものだが、そうなった後に於いても……つまり山の科学と文学とが大衆に徹底した後に於ても……山そのものの全性格に対する人間的の衝動が充たされない限り、山への人間的関心が正しく充たされたとはいわれないのである。

 

 昔の先覚者は、この衝動的なるものに指導精神を与えることに成功したのである。従って山そのものの全性格的存在が毀損されないだけの用意が昔の人にはあったのであり、またそれが実践に於いて透徹されていたのである。

 

今の先覚者は、この衝動的なる発展に 任せで、都会的悪趣味によって山の全性格が失われることを顧みない。そうしてただ科学と文学とを与えようとしている。今日の教育の欠陥が、山への関心にもそのまま現われているといわざるを得ない。

そのことは何よりも、山の景観の破壊に現われている。なるほど、今の山岳家等は、山の地質学や生物学や考古学や史学やを丹念に詮索する点に於いては、昔の人の想い及ばなかったほど高い、深い所に達しているが、山を全性格に於いて観るという点では、全く昔の人に及ばない。山の景観というものが、山の全性格の表現であって、その科学や文学の形骸ではないということを今の山岳官達は知っていない。

 

科学と文学といって、ここに科学とならべて文学をいうのが穏やかでないことを、私は気付いていない訳ではない。山の文学は、全性格的に山を見る人々にのみ与えられる宝である。山の文学の近年の発達を私は全く知らないのではない。ことに女性山岳官等の山のセンチメントの表現の巧みさには驚きをさえ感じている位である。

そういう私が、今の山の文学を山の全性格的理解に於いて充分でないかのようにいわざるを得ないのは、今の山の文学には山の景観について、それを人間との関連、人生との交渉に於て観るという精神に不足があることを観ているからである。

 

私はかつて、もう十数年前に故人となった私の友人の、神戸の画家岡本月村が、朝夕神戸から大阪に通う電車の窓から六甲山を見ると、一口としてその自然の色彩が同一であったと感じたことがない、見る度毎にその色彩は千変万化していると語ったのを聴いた時に、私は自然の景観を画家はそう見るのが当然だが、私達社会人は、その六甲山の自然が日々人間のために破壊されて行くのを見て、その「自然」とは何であるかをしっかり把握することも出来ない癖に、それが日日破壊されて行くことに限りない痛恨を感じないわけに行かないと語ったことがあった。

 画家のように山の色彩を芸術的に感ずる教養もなく、科学者のように山の科学をくわしく観る眼もない一般社会人は、しかしながら、両家や科学者に劣らず、或はそれらの人々よりも強く。山への衝動を感ずるのである。

それはただ山の自然が一つの全性格として、人間の精神と肉体とに与える力を、その力そのものとして感じるからである。しかしてそうした意味の山への関心こそ、人間と自然との本来の交渉なのであり、人間の自然愛の最も本質的なるものなのである。

だから人間の肉体と精神とに対する、自然の力としての山の全性格を損ねないことが、山への人間的関心に意義あらしめる最も根本的の道なのである。しかして山の景観が、人間の風格のごとくに、山の性格を表現する対象なのである。

この意味の山の景観は、あながち冒険的によってのみ達し得る山の塙・珀に限定される理由はない。昔の山麓の村が山の空気を象徴していたように、今は自動車も通う上高地のような所にも、それか象徴されねばならぬのである。それは住居の気分に於いて、門前から玄関までの景観さえ重要の部分をなしているのと異らない。

 

しかるに、今の人々の山に対する関心には、そうした「全体」の感覚に乏しい。周囲の地帯の均質学的構成を見たり、植物の分布を検したりすることし知っているが、そうした地質や植物が何を人間に感覚せしめるために存在するかということを却っていない。

従ってそういう景観を背景にして、奇怪な建造物かあったり、不調和な人間が蠶動していたりすることを何とも思っていない。自然は自然、人工物は人工物、人間は人間、といったような離れ離れの存在のように観て、それらの綜合が、無意味な、不可解な、時には、賄賂な「全体」に堕していることには一向に無関心である。

 

彼等が、人跡を超越した雲上の雄大な山の景観を尊重するのはいいが、それをあたかも、額縁に入れられた絵画のように孤立の存在として見ようとする。全くそうした景観の間違いを、その何尺何寸の形に於いて賞翫しているのと異ならない。

それは決して生きた、現実の山の景観を賞する道でもなければ、愛する道でもない。昔から月はただ小さい円い光だが、それをただ空の上に見るだけを「観月」といわないし、その月の天文学的写真を見て、月を見たとは感じなかったのである。月を観るということは、自分の環境に於いてそれを見ることで、対象の月よりはむしろそれを見る自分の環境が大切なのである。「観月」という伝統をもっている日本人は少くとも月に於いては、それだけのことを知っているが山となるともうそれを忘れている。自然の山の景観を仰ぐのに、ただ対象に気をとられて自分を忘れている。山を見て人間を見ない。

だから人間に踏まれない所だけは、自然が損われないが、いやしくも人間の足の至る地点の自然は無残に破壊される。それを、今の山岳家等は何とも思っていない。

箱根の芦ノ湖、日光の中禅寺湖といったような、特殊の景観に恵まれている自然も、湖水こそどうすることも出来ないためにそのままであるが、全体の景観は、見る所もなく破壊され、又現に同じ破壊過程を発展せしめつつある。そうなるともういわゆる山岳家は、そういう所を破履の如く棄てて顧みない。いわゆる山岳家のうちで、今もなお芦ノ湖や中禅寺湖を口にしたり気にしたりしているものがあるだろうか。その自然の破壊を嘆く代りに、彼等は、無慈悲の親と同じく、損われた自分の子供を棄てて顧みないのである。

もし中禅寺湖や芦ノ湖が、今も人跡至らぬために自然の景観を保存した湖水だったら、山岳家達は、どんなにそれを、口にして筆にすることであろう。その自然を、見る影もなく、人間に損われた故に、彼等はもはやそれを棄子のように顧みないのである。それほど自然の損われたことを憎むならば、彼等は、そうした自然の破壊を一つの大なる罪悪とする精神、昔の人々が山の一木一石をさえ動かさなかったような精神と趣昧とを、その科学や文学とともに何故高調しないのであるか。

人間を科学者たらしめ文学者たらしめんと努力して、人格者たらしめる道を忘れているということを非難するものは多いが、いかにそうした非難者自身が上すべりの附焼刃であるかは、彼等の自然に対する道が、その性格の忘却に於いて徹底していることによって明かである。自然に対する道を知らぬ人間が、人間に対する道を知っているわけがないではないか。

 

山そのものの全性格を表現する景観は、ただその山そのものだけの孤立の現象ではない。それは人間の性格が社会的にのみ意義をもつ存在であるのと同じである。我あっての我である如く、人間あっての山である。我の道徳的性格と対する時、我の性格がそれに共鳴同化するごとく、山の全性格の裡に、人間は、その肉体と精神との、特殊の緊張を感じ、そこに性格的反響を見ねば已まぬのである。山を尊重する道は、山そのものをしてそうした性格の力を失わざらしめるということの外にはない。

科学と文学とを誇る今の山岳家にはその基礎的の精神が欠けている。

 大衆は山に対する自分の肉体と精神との衝動を、正しく指導されないために、山はただ自己の劣情の玩弄物とすることを知って、山の性格の力を感ずることを知らない。

 私は恐らく少しばかり……又は大いに……言い過ぎたであろう。それは私がこういう近頃の山の空気い飽き足らないために、近年余り山に親しまないために、で多少余計に考え過ぎているのかも知れない。それならば寧ろ満足である。

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『森と人間の文化史』只木良也氏著  一部加筆 山梨県歴史文化館 山口素堂資料室

2023年08月22日 18時57分17秒 | 山梨県林政調査研究所

森林は日本文化の石油であった

 

『森と人間の文化史』只木良也氏著

 一部加筆 山梨県歴史文化館 山口素堂資料室

 

国敗れて山河あり 城春にして草木深し

 杜甫「春望詩」。戦いに明け暮れて国は疲弊したが山河だけは残された、無人の城郭に巡りきた春は草本を生い茂らせるのみ……。

戦のむなしさをしみじみと想わせる。しかし、国敗れたりといえども、そこに山河あり、草水生い茂るのはまだ幸いともいえるのである。

 戦争には負けた、だが緑の山河はそのままたった。太平洋戦争を生き抜いてきた人々にもそれは実感であった。復員船の土から祖国の緑の山々を眺めて涙した人も多かった。しかしその山河にも、戦争の爪跡は厳しかったのであるが。

 戦侍中、樹木も重要な戦力であった。建築材や燃料材としてはいうにおよばず、鉄やアルミやガソリンの代役としても重要であった。すべての物資が底をついた太平洋戦争末期には、学童生徒まで動員して松の根を掘り起こし、蒸留して航空燃料用の松根油を採るまでに至ったのであった。

文字通り根こそぎの利用であった。

 昭和二〇年終戦。戦後の復興のために、日本の森林はまた大量の木材を供給しなければならなかった。伐採した跡には植栽しなければならないということはわかっていても、誰もが食うのに精一杯の時代。昭和二三年末には、伐りっ放しの森林面積は全国で一五〇万ヘクタール(岩手県の面積に匹敵)にも及んだのである。伐り荒したままの山からは洪水禍が相次ぎ、人々は国土緑化の重要性に目覚める。昭和二五年、第一回国土緑化太会開催。いまの全国植樹祭のはじまりである。これを契機として、全国の造林熱は高まった。営々と裸山の植栽が進められ、わずか数年、昭和三一年には一五〇万ヘクタールの造林は完了した。この全国的な努力は高く評価されねばならない。

 戦中戦後の乱伐によって山々は確かに荒廃していた。しかし、そこにまだ回復能力と土地の生産力が残されていたことは幸いであった。国敗れても山河は在った。高温多湿なわが国の夏が、それを支えてくれたのである。

経済成長のかげで

 昭和三〇年代後半には経済成長期に突人。本村需要も増加して、不便なために手つかずになっていた奥地林へと伐採が進んだが、それでもまだ木材は不足であった。現在のように外国産材に多くを頼れない時代であり、木材価格は高騰し、それが引き金となって諸物価が上昇した。「木材をもっと供給せよ」「国有林はなぜ伐り惜しむのか」これが当時の新聞論調であった。隔世の感がある

論に押された国有林の伐採はますます奥地へと進み、天然林伐採跡の人工林が急増していった。しかし、一部には人工林化に失敗して、広大な笹地などになったところもあったのである

本村価格の高騰は、高い輸送費をかけても外国座付輸入が引き合う状態を生んだ。昭和三八年木材輸入自由化以来、米材、ソ連材、南洋材(ラワン材)が国内に氾濫する。

 昭和四〇年代半ば、高度経済成長の落とし子ともいうべき環境汚染が問題化する。経済成長の夢から覚めた人々の目に映じたのは、変わり果てた自然の姿であった。森林地帯も地形まで変えられて、宅地・工場・ゴルフ場・観光造園施設等に変貌し、山肌を切り裂き谷を土砂で埋めた道路、まだ緑に回復しない見渡すかぎりの伐採跡地……。世論は一変して緑志向となったが、そこには、若者流出で活力を失った過疎の山村、手入れが行き届かず荒れていく人工林の姿があった。国敗れても生産力を持つ山河はあった。しかし、一見国栄えると見えるその陰に山河は姿を失い、その生産力も奪われていったのである。山河が亡ぶということがどれほど重大なことか、じつは国が敗れるより重大なことかもしれないのだが、それに気付いている人は案外少ないようである。

 生産力の源は土壌。

土壌は、その土や中に生育する生物たちが有機物を加え、分解し、また侵食を防いで、長年月かけて造り上げたものである。その土を、ほんの最近地球上に現れたばかりのヒトという動物が、道具を使い機械力を駆使して破壊し、その表面をコンクリートなどの異物でおおってしまう。地球の新参者らしく、もう少し謙虚に土を使わせていただく態度がないかぎり、ヒトという生物の未来は暗い。

森林国か貧林国か

 

 降水量が多く、暑い夏を持つわが国は、全国土のほとんどで森林が育つ条件を備えているが、永い歴史の間に、また最近の「開発」によって、平他地のほとんどは田や畑に、街にと変えられて森林は姿を消してきた。しかし、全国統計ではまだ国土の六七パーセントは森林が占めている。これに匹敵するのは、フィンランド、スウエーデン、ブラジル、マレーシア、インドネシアなどで、国の数はそんなに多くない。この数字からいえばわが国は世界有数の森林国である。

 しかし、何分にもわが国は国土面積が狭いから、森林率は高くとも実際の森林面積がそんなに多いはずはない。約二五二〇万ヘクタールで世界の森林面積の〇・六パアーセント。そこに一億二〇〇〇万の国民が住んでいるのであるから、国民一人当たりの森林面積は世界平均〇・八七ヘクタールを遙かに下回る〇・二一ヘクタール、六三〇坪にすぎない。この数字に関しては「貧林国」と呼ぶにふさわしい。

 わが国は木材消費の多い国である。古くから身の周りに普遍的にあった木材を主要な資材として使い、「木の文化」を築いてきたからである。かつての木材用途は、鉄、コンクリート、プラスチックなどによってかなり置き換わったが、実際の木材消費量はそんなに減っていない。わが国で毎年使用する木材量は一億立方メートル弱、これは全世界の使用量の三パーセント強に当たる。これだけの量を自国の森林だけではとても賄い切れず、その三分の二が海を渡ってくる外国産材なのである。いまのわが国の木材は山からではなく、海から採れるのである。

農業を支えた森林

 さて、わが国の森林が使われてきた歴史を振り返ってみよう。

 太古の昔、雨の多い日本列島はほとんど全部森林におおわれていたに違いない。まだ農耕と呼べるほどのものがなかった頃、人口も少なく、人々は森に入って鳥獣を狩り、柔らかな植物の葉や果実、根などを採り、水辺に魚介を求める生活であった。

 農耕文化が発達しだすのが二千年あまり昔のことである。農耕のためには何よりも土地が必要で、そのためには平地の森林を壊すことは当然の成り行きであった。それのみならず、農耕をともなった定住生活は、その周辺の森林から、住居を建てるための、また道具を作るための木材、炊事をしたり暖を採ったり、土器を焼いたりするための燃料林を採る必要があった。

もう一つ重要なことは、農地や農村集落周辺の森林が、農地すなわち田や畑の地力を養ったことである。

 森林の樹木は、枯れ棄や枯れ枝を落とす。それは徐々に腐りながら上の中へ混ざり込み、栄養分豊かで柔らかな構造を持つ土壌を生成していく。したがって、森林を開拓して農地にすれば、しばらくの間は長年かかって森林が創ってきた豊かな地力が農業生産を支えてくれるが、森林と違って毎年の生産物をそこから採り出す一方の農地では、地力は年々低下してくる。

そこで、生産力維持のための手段をこうじる必要が生じる。もっとも簡単な方法は、地力の衰えた農地は放棄して、別の場所へ移ってそこの森林を農地に変える方法である。このような転々と移動して耕作する方法は、森林を農地化するために樹木を伐採焼却するのが普通であったため、移動耕作というのとほぼ同義語として、焼き畑と呼ばれた。放棄農地跡は、また自然に森林に戻り、数十年後に再び農地化可能なまでに地力を回復する。肥料もなく、農具も未発達、人口密度も低かった時代には、天然の回復力を利用するこの方法はなかなか合理的なものであったといえるかも知れない。しかしこの方法では、定住生活は営めない。そこで、農地周辺近在の森林から青草や落ち葉を採ってきて、直接農地へすき込む技術が生まれた。この技術はすでに弥生時代にあったというが、時代はずっと下って森林の落ち棄や下草を直接田畑へ入れるのではなく、積み上げて腐らせてから施用する堆肥化の技術が生まれた。また鎌倉時代末頃からは、落ち葉や下草を家畜の敷料(家畜舎の床に散く材料)として利用した後の厩肥(きゅうひ)を用いるようにもなった。有機肥料である。これらはじつに素晴らしい技術であった。

 農地農村付近の森林、すなわち里山林が農地へ肥料として提供したのは、落ち葉や下草だけではなかった。里山林から採られたものには薪や柴があった。薪や柴は農家のかまどやいろりで常に燃やされ、燃えた後に残った木灰は、蓄えられてやはり農地に施され、カリやリンなどを補給する無機首肥料として役立ったのである。採暖、炊事、家族だんらんの場として、いつも農家の中心的存在であったいろりは、じつは無機質肥料生産の役目も持っていたのであった。堆肥の材料は、稲から、麦わら、その他草地の植物でも対応できるが、木灰という無機質肥料を大量に得る原料は、森林に求めるほかはなかったのである。木灰施用は平安末期以降に一般化したという。

お爺さんは山へ柴刈りに

 堆肥厩肥や木灰という手近な里山林から得られる材料による肥料は、農地の地力維持のうえで農家にとって非常に重要であった。いうならば、里山の森林が農地と農村を支えていたわけで、農家の人々は暇を見つけては近在の山へ、落ち葉採りに、柴刈りにと出かけたものであった。「昔々お爺さんとお婆さんがありました。お爺さんは山へ柴刈りに……」誰もが知っているこの文句は、農村の日常の姿を描いている。

 蛇足ながら、わが国では「森林」と「山」とはしばしば同義語として扱われる。山には木が生え、森があって当たり前というわが国らしい使い方である。関東あたりの平地林でも、森林作業を山仕事と呼ぶし、東北地方には、大鷹森というような、山の代わりに森の字のついた山の名も多い。だから、お爺さんが柴刈りに行くのは、森林へ行ったのだと誰もがわかっていて、山といっても違和感はない。お爺さん加山へ柴刈りに行けば、お婆さんが川へ洗濯に行くのも日常の姿であった。

 農村集落を流れる川は、生活用水供給の上水道であり、農業用水であった。その水源は多くの場合森林であり、森林に降った雨はその柔らかな上に席み込み、ゆっくりと時間をかけて川に出るため、水源に豊かな森林があれば、晴天が続いても川の水はいつも絶えることなく、また上の中を通過してくる間に浄化されて、水は清浄良質になっている。同時に、川の水の中には森林の土から溶け出したミネラルが含まれ、これが農業用水として使われるときには、若干量ながらも農地に養分を供給する役割も果たしたのであった。

 一方、川は生活廃水の下水道でもあった。「三尺流れて水清し」と、川の流れの浄化能力が信じられ、実際にその能力を発揮してきた。人々は「水に流す」ことですべてきれいに処理してきたのである。ごく最近、人間社会の構造が複雑となり、浄化能力を超えた量と質の廃棄物を流し込まれるまで、川にたいした破綻もなかったのであったが。

自力まかないシステム

 森林の樹木が落とした枯れ葉や枯れ枝は徐々に腐りながら土の中へ混ざり込み、栄養分豊かで柔らかな構造を持つ土壌を生成していく。つまり自分で自分を肥やす「自賄いのシステム」を森林は持っているわけであるが、その自賄いのシステムに割り込んで、落ち葉を採り、薪や柴を採る人間の行為があった。その人間の行為が過度であれば、森林は荒れていくことになるが、繰り返される人間の収奪によって、後で述べるように部分的には破綻を見せながらも、わが国の森林がなんとか維持できたのは、降水量が多くて暑い夏を持つわが国の自然条件と、自己再生可能な森林の自賄いのシステムそれ自体のおかげであった。

 では、森林の自賄いのシステムについて考えてみよう。

 自然界には、常に物質の移動と集積が繰り返されており、その流れは循環的である。森林では、大小様々な木や草などの植物が光合成をする。光合成とは、大陽エネルギーを用いて大気中の二酸化炭素(炭酸ガス)、土中の水や各種の養分元素などの無機物から有機物を合成する作用である。合成された有機物は、構物の生活に用いられ、また一部は自分で光合成できない動物たちの食料になる。構物の枯れ葉・枯れ枝・枯死体や動物の排泄物・死体などの生命を失った有機物、すなわち生物遺体は主として地表に落ち、小動物がこれらを順み砕いて絹かくし、それに微生物が取り付いて腐らせる。腐るということは、有機物がまたもとの無機物に還元されることであり、大気中や土壌中に戻された無機物は再び光合成に用いられる。

 植物はそれを取り巻く環発から無機物を取り入れて有機物をつくる生産者である。自分で生産できない動物は生産者に依存した消費者である。そして微生物は生産者・消費者の廃棄物の分解還元者である。このような生物たちと環境とを経由する物質の動きのことを物質循環という言葉で表現しているが、物質が循環する一方で、光合成で取り入れられたエネルギーは物質循環のそれぞれの段階で消費されていく。

 物質循環は、自然界のどこにでもあるものであるが、それが大規模かつスムーズで比較的完全な形に近いのが森林である。これが自賄いのシステム、つまり自給自足の経済なのである。

 しかし、森林といえどもそれは大白然の大循環の中の一部である。無数の部分が集まって大自然を成し、部分それぞれには嫌でも相互の関連があるから、一つの森林で完全な物質循環系が成り立っているわけはない。二酸化炭素は開放的な大気から取り入れられ、また、そこへ返っていくわけであるし、雨に溶け、また粉塵として持ち込まれる物質があり、水に溶けて流出していく物質もあれば、森林を出入りする動物を経由するものもある。同じ物質がその森林の中だけで循環しているわけではないのである。

 物質循環という言葉から、東京の山手線のような循環を想像しがちであるが、決してそうではなく、一つの森林という単位で考えれば、それは森林の生物とそれを取り巻く環境との出入りを通じた物質の収支とみるべきであろう。

金は天下のまわりものというが、その「まわり」の意昧での循環なのである。いま財布から一万円札が出ていったとしても、同じお札が返ってくる必要はない、ほかの番号の一万円札でも、五千円札二枚でも戻ってきてくれれば、財布は安泰なのである。

自然の状態では、森林の収支はマイナスにならないのが普通である。これが自賄いということである。そこへ例えば人間の収奪といった余計な出費が強いられれば、森林の収支は赤字に転じる。

しかし、その赤字は赤字のままふくらんでいくわけではなく、雨が多く、生育期に十分な気温があるようなところならば、その赤字をいつしか黒字に変える修復能力を森林は持っている。

 

森林生態系                                  

 物質循環を通じた生物相互の関係は密接である。しかし生物は、それだけでは生きられない。それらの生活空間を埋めて、物質の供給源であり、排出先であり、流通経路でもある非生物的環境もまた重要であって、生物と環境は相互に影響しあっている。

「あるまとまった地域に生活する生物のすべてと、その生活空間を満たす非生物的環境とが形成する一つの系」

には生態系という名が与えられている。生物がいるところには必ず環境かおるはずであるから、極端なことをいえばボーフラの湧いた竹の切り株も生態系である。しかし、その生態系の安定性あるいは永続性ということになれば話は別である。

  では、生態系の安定のための条件を考えてみよう。

 まず、第一の条件は、太陽エネルギーが十分に供給されること。太陽エネルギーは光合成に不可欠のもので、それは生態系全体の活動を支えるものである。そして、植物が固定したエネルギーは、生態系内の物質循環の各段階で消費されていくから、常に十分にエネルギーが供給され続けなければならない。

 第二は、その生態系が存立するための環境条件が満足されていること。   例えば、森林が成立するには降水量が十分で、森林の種類に応じた気温が必要である。森林に乾燥害や寒害が起こるのは、その条件が撹乱されたためだからである。もともとそこの環境条件に適合した生態系がもっとも安定性が高いわけで、環境の変化はその生態系自体の変化、ときには破壊を招くことになる。

環境の変化は、なにも異常気象等に限られるものではない。最近は人為的な環境汚染などによる生態系破壊の例も多い。

 第三は、生物相が豊かで相補的であること。多種多様な生物で構成されていれば、その生態系内でお互いに過不足を補いあうことができる。生物相示豊かであるほど、その物質循環のネットワークは複雑で、循環経路のどこかに支障が生じても、他の経路がバイパスとして働き、生態系全体の機能麻蝉には陥らない。

 第四は、生物量それぞれ適量であること。多様な生物相互間には、量的な平衡状態が保たれていること示必要で、ある特定の生物の量示少なすぎればそれは物質循環のネックになり、逆に多すぎれば循環系がそこでパンクしてしまう。後者の例としては、いわゆる害虫の大発生を考えればよいであろう。

 最後に、生物と環境とのバランス。生物が環境に支配されていることは誰でも知っているが、それだけではなく、生物は環境に働きかけて環境を維持したり変化させたりする。例えば、二酸化炭素は大気中に十分量示確保されていて潤沢に植物に供給されているわけではない。生物自体の呼吸や土壌中の生物が行う分解作用によって大気に戻されて、その大気中の量示維持されている。また落葉落枝と土壌動物・徹生物の共同作業によって土壌の栄養や構造の状態を維持・改善する土壌生成作用は、まさに生物が環境を作る作用である。生態系は、生物と環境相互間の作用・反作用のバランスのうえに成り立っているものなのである。

 以上を要約すれば、生態系の安定性、維持条件とは、いかに完全に近い物質循環系が存在するか、ということに帰すようである。そして森林は、その理想のかたちに近い生態系といえるのである。巨大な生物量と豊かな生物相、それらが作る複雑な構造が生む大きな生産量、そして大規模でスムーズな物質循環、森林は「究極の生態系」といえよう。

 自然の生態系の構造と機能は、人間社会にとっても大切な情報を与えてくれる。例えば都市を生態系として見てみよう。そこでは生産と消費の段階が極度に発達している。そのために外部から大量の持ち込みがあるのであるが、分解還元の段階が格段に弱い状態にあるのが都市である。こうした状態の生態系は、不安定であることはいうまでもない。もし都市がその永続を願うならば、なによりも分解還元の段階を強化しなければならないのである。

 それは単にゴミを集めて山に埋めたり、海に島を作ったりするだけではない。自然が行っているのは、廃棄物を分解し、次の生産の原料へと還元する有限資源の循環的有効利用だということを忘れてはならないのである。

 

落ち葉の役目

 風に誘われてはらはらと舞い落ちる葉、カサコソと踏みゆく一面に散り敷いた落ち葉。秋の風情の代表格の落ち葉であるが、それは森林にとって単なる衣替えでもなく、使い捨てでもないのである。森林の地表にはいろいろなものが落ちてくる。葉・枝・幹・樹皮・花・実等々、これらのうちで圧倒的に量が多いのは落ち葉である。

落葉量は、熱帯などの暑いところの森林では多くなるが、わが国あたりの気候帯の森林では樹種や場所とはあまり関係なく平均して年間ヘクタールあたり三トン前後である。よく発達した森林では葉以外の落下物の量も増える。

 地表に落ちた枯れ薬や枯れ枝は、土壌動物によって細かくされ、微生物がこれらを化学的に分解する。したがって地表に枯れ葉や枯れ枝が積もる一方ということはない。分解は時間とともに進むが、分解されにくいリグニンなどが残り、もはや薬や枝の原形を留めない黒い腐植となる。

分解・循環等についての研究を続けてきた農林省林業試験場の河原輝彦博士によると、気温の高いところほど落ちた薬の分解速度(重量減少)は早く、年間の落葉分解率は亜寒帯針葉樹林で一~三パーセント、照葉樹林で五~九パーセント、熱帯林では二五パーセントぐらいで、これから計算すると落ちた薬が完全に分解消失するまでに亜寒帯林では三〇~一〇〇年かかるのに対して、熱帯林では四年ぐらいであるという。熱帯林での分解の速さには驚かされるが、そのために、落葉供給量が多いにもかかわらず、熱帯林の土は有機物の少ない、やせた土なのである。

 落葉の分解速度は樹種によって当然違う。河原博士の測定では、ヒノキの落葉が三年間に四〇パーセント重量を減らしたのに対し、近くのブナの落葉は五六パーセント減であったという。広葉樹の落葉の方が一般に分解か早い理由として、針葉樹の落葉より樹脂やロウ質分か少ないこと、またチッ素やカルシウムなどの養分物質の多いことがあげられている。

 落葉などの有機物の中に含まれていた養分元素は、分解にともなって土壌中に移動する。元素の中では、ナトリウムやカリウムは早く分解・放出されやすく、チッ素やリンは遅い。

 土壌有機物の分解過程である腐植は、土の粒子を結びつけて団粒構造と呼ばれる土壌構造を作る。この構造は、大小多数のすき聞(孔隙)を持ち、このすき問に空気や水が保持されるために、適度

の柔らかさと湿り気があり、通気性、保水性、透水性に優れた、植物にとっても最も好ましい土壌構造である。有機物が豊富に供給されるということは、土壌に栄養を与えるだけでなく、その構造を発達させるところにも重要な意味がある。そして当然、森林土壌にその構造はよく発達する。

 また、腐植はその集積の具合や、土壌中の養分元素の量や状態、そして気候条件や地形などによって、様々なタイプの土壌を作り出す。落葉に代表される植物の有機物は、土壌生成に欠くことのできない重要な要素である。落ち葉が土を造るのである。

 

酷使に耐えてきた里山林

 話を里山林に戻そう。落ち葉や下草、薪や柴の供給源となって、農地農村を支えた里山林は、直接的な収入源として運用される場合も多かった。自家用の燃料を採るだけではなくて、商品としての薪や炭を作り出すところでもあったのである。そこでは低林作業と呼ばれる特殊な方式で、薪や炭の材料が計画的に採られていた。

 低林作業とは、ナラ類やクヌギ、シイやカシの類などの、薪や炭の材として適し、かつ萌芽すなわち伐り株から新しい幹が株立ちになって発生する性質の強い樹種の林で行われた方法で、伐採収穫した後、伐り株から自然に発生してくる萌芽を育てて次の代の林とするやり方である。普通二、三〇年で伐採を繰り返すが、この方式はかつて日本各地の里山にみられ、農村の背景として代表的な風景であった。一般に樹高は儒く、一抹から何本も幹が出た広葉樹のおり成す景観は温和で女性的、新緑、紅葉また冬枯れと魅力的な風景でもあった。

 また里山林の一部では、スギやヒノキなどの針葉樹用村林が仕立てられることもよく見られた。これら人工林からの材木は、建築用材などとして売却される場合ももちろん多かったが、本格的な林業経営というよりは、冠婚葬祭など不時の出費に対応するための、財産備蓄の意味が大きかったようである。

 さて、農地と農村を支えた里山林ではあったが、そのために絶えず落ち葉を採られ、柴を刈られたことは、絶え間なく有機物を収奪されていたということである。森林としての物質循環が大いに撹乱を繰り返されているわけで、自分で自分を養うための材料を農地に常に取り上げられてしまう里山林の土壌が、次第にやせていくのは当然の帰結であった。いうならば、わが身を削って道楽息子に仕送りを続けているようなものである。

 とくに農耕文化が早くから発達した西日本ではそうであった。それに西日本には深くまで風化か進んで崩れやすい花崗岩の地帯が多く、繰り返される収奪のために土壌が悪化していく速度も速くて、表居士の侵食も進んでいった。そうして、そのようなところでは、その土地本来の森林植生を維持できなくなり、やせ地でも育ちうる貧しい植生に代わっていったのであった。

その代表が、アカマツやクロマツのマツ林、もっとひどいところはイバラやススキあるいはコシダ、さらにはげ山の状態である。

 明治のはじめ、わが国を訪れたドイツの地理学者リヒトホーフェンはわが国の海沿いの里山の景観を次のように書き残している。

 「それらの山々は、けわしく傾斜しているとはいえ、粗削りの形はどこにもなく、針葉樹の群を含む灌木で覆われている。数多くの露出個所が赤みを帯びた分解した土壌を示しているが、その土壌ははなはだ不毛に違いない。そのために、それぞれの山は全体が、赤みがかった荒涼たる外観を呈している」

(千葉徳爾「近世の農民生活と山林の荒廃」『林業技術』四四二号、一九七九)。

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日本林野庁に捧げる川柳

2023年08月21日 18時30分09秒 | 山梨県林政調査研究所

 補助金は人の止めよりかしずく業者へ

 補助金の飴で里山森林山嵐

 CO2自ら放出 林野庁 農林水産省 

 補助金で日本全国唐松林に

 木の重量 急傾斜地では倒壊 当たり前

 直根の張らぬ 杉桧唐松 土砂滑り

 補助金は 国民の思考力を減退す

 補助金の上での林政 地域里山破壊

 補助金で林道造って そのまま放置 土砂災害の要因に

 一度きりの補助金 どんなに壊れても 二度目の補助金 ほど遠い

 補助金林道 里人知らず 土砂災害の大きな要因

 国有林 国民の森林であること すっかり忘れ

 機械林業その前に 木と人の関わり 勉強して

 ほったらかし 里山に 鳥も動物も昆虫も草花も みな何処へ

 水業者 自然の影響 無関心 取って掘って吸いまくる

 山梨県 ○○の森 企業の森 しっかり育った試しなし

 補助金切れれば 放置林 観るも無残な 植林者の名札

 荒れ果てる 教育の森 これも勉強

 間伐が 木の生育に不可欠と これは大きな間違い

 一気に陽がさし 枝が伸び伸び 鹿も伸び伸び

 機械林業 山地の崩壊 勧める林野庁

 補助金林業 みんなで荒らせば怖くない

 木の種類 名前も知らない 林野職員増加傾向

 机上の空論 里山森林 驚き悲鳴

 バイオマス マスマス進む 地球温暖化

 八ヶ岳 荒らす林地が 温暖化要因

 八ヶ岳おろし 木材腐食の風が吹く

 開発優先 守る里山 自然と共に 生きれない

 テレビ放映 土砂災害は森林破壊が大きな要因

 

 家何軒建つ 木材毎日 バイオマス 醸す煙はCO2

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山梨県 現況 昭和59年 『角川地名辞典 19 山梨県』 山梨県森林里山大学校 講義

2023年08月20日 09時57分42秒 | 山梨県林政調査研究所

山梨県は内陸的な気候

 

 山梨県 現況 昭和59年

『角川地名辞典 19 山梨県』

山梨県森林里山大学校 講義

 

本県の気候は日本全体の気候区分の中では,太平洋岸の気候をもつが,太平洋岸の中では

降水量が少なく,かつ気温の,日および年較差の大きな内陸的な気候を示している。

 しかし県域は大きな山地により分断されているため地域差が大きく,通常以下の5気候区に区分されている。ただし,山腹や山頂部については,観測値がなく,不明な点も多い。

 ①甲府盆地 

甲府を中心とする甲府盆地内は山梨県でも最も平年降水量の少ない地域で,その値は1,200mm内外であり,日本全域の平年降水量の3分の2程度である。降水量年変化上,梅雨季と秋霖季の降水量は月平均降水量としてはほぼ等しく,その中間に盛夏の乾季がある。一方,年平均気温は13.7°Cであり,富士川河谷に次いで温暖である。しかし,1月の平年平均気温は2.3°C,8月は26.7°Cとなる。1月の日最低気温は平均-3.6°Cとかなり低く,7月,8月の日最高気温の平均は30.7°C,31.5°Cであり県内で最も暑い。いずれにしろ,冬と夏は気候的に厳しく,春と秋は快適である。

 ②富士川・早川流域 

南巨摩郡中富町以南の富士川とその支流がこの地域に含まれる。平年降水量は1,600mm以上で,同地域の南部では2,400mm以上に達し,富士山麓とともに県内での多雨区である。降水量の年変化の上では9月が他の月より多い傾向があり,台風が本県より西方の中部地方を通過した場合に特に多く降る傾向がある。富士川河谷の海抜高度は甲府盆地より低いが,夏の最高気温は盆地ほど上昇せず,冬も温暖である。山岳部を除けば,平均的には温暖多雨な地域である。

 ③富士北麓・道志 

前述の地域と同等ないし,やや多い平年降水量をもつ。ただし,平年降水量の年変化上では,8月に最大の降水量を示す地点が多い。また一般に海抜高度が高いため,前述の地域と比較して冷涼な気候となる。すなわち,道志を除けば,1月の平20㎜、年平均気温は氷点下となり,8月の平年月平均気温も 22°C未満である。

  ④桂川流域 

平年降水量は1,400~1,600mmで甲府盆地に次いで少ない。8月または9月の降水量が最大 となる地点が多い。また梅雨季の月降水量も甲府盆地より4omm程度多い。一方,年平均気温は13.5~14°C前後で甲府盆地に次ぐ高温域である。冬の月平均平年 値は甲府盆地とほぼ同じであるが,夏にはそれほどに は暑くならず,1゜C程度低温である。

  ⑤県北西・北東部 

県北西部から秩父山地内にかけてこの地域に相当する。甲府盆地に近い地点では平

 年降水量は1,300mm以下であるが,山麓部では1,400~1,700mmに達する。この地域のうち,甲府盆地側 では,平年降水量では6月が最多雨月となり,郡内側 では8月が最多雨月となる。最寒月の平年平均気温は 東山梨郡三富村を除くと氷点下となる。また最暖月の 平年平均気温は20~23°C程度となる。したがって気 温年較差は甲府盆地内に次いで大きく,その意味で内 陸的である。

  このような気候環境は,気流系と天候との関係から ある程度説明される。冬季,北西の季節風が卓越する時,富士山,赤石山脈北部,八ヶ岳などは,積雪を甲府盆地から遠望できる時がある。しかし低地で雪が降ることはまれで,県北西部から甲府盆地西部で多少舞う程度である。このような時,甲府盆地では,「八ケ岳おろし」と呼ばれる乾燥した寒冷な風が吹く。この風は関東地方の北西季節風と異なり,時として夜じゅう吹き続く。甲府盆地の寒さは2通りある。「無風でしんしんとひえるのと冷風が吹きまくる夜だ」という ことになる。また,春の移動性高気圧が発達し日本方面に張り出した時にも北西風が強くなりやすく,果樹を中心とする農産物の被害が出やすい。一方梅雨季のいわゆる北東気流時に往々にして甲府盆地と郡内地方で天気が異なる。笹子峠の東で雨,盆地側で曇天または晴はしばしば経験することである。

  このような地形・気候の特色から,山梨県は夏乾燥 すれば盆地周辺の台地・段丘ないし扇状地の高乾な部分では,乾燥による被害が生じるため,耐乾性の農作物を選択せざるを得ない。また,大雨が降れば低地の洪水・山地の崩壊が多い。このため,古くから農業用水路が作られ,台地や扇状地が開発され,最近も潅漑事業が行われている。一方堤防などにはわが国の土木史上著名なものもある。

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少ない低平地 山梨県 現況 昭和59年 『角川地名辞典 19 山梨県』

2023年08月20日 09時39分59秒 | 山梨県林政調査研究所

少ない低平地 山梨県 現況 昭和59年

『角川地名辞典 19 山梨県』

 

山梨県森林里山大学校 講義

 

県内のまとまった低平地は甲府盆地に限られ,ほかは小規模の谷底平野が散在するにすぎない。

甲府盆地は松本・諏訪盆地に続く構造盆地で,北側を除きほとんどが周囲を断層崖により限られる。周辺山地は隆起し盆地床は沈降する傾向にあるため,四周の山々から流下する河川による堆積層が盆地周辺ならびに盆地床を埋めている。

盆地床は富士川流出部の鰍沢付近の河岸で235m程度,甲府駅前でおよそ270m,盆地全体の平均で約285mの海抜高度をもつ。

盆地周辺には曽根丘陵・市之瀬台地など丘陵ないし,やや開析された台地のほかに,大木・竜岡・登美台地などがある。

また笛吹川およびその支流の複合扇状地,巨摩山地車麓の複合扇状地があり,これら複合扇状地の多くは合成扇状地的な傾向を示している。

また,荒川・相川扇状地のような若い扇状地もある。

これら扇状地より低い鰍沢から甲府南部,石和南西部にかけては氾濫原となり,低湿であり,地下水の自噴帯となっている。甲府盆地からの流出口は鰍沢付近に限られ,峡谷をなしている。したがって古い時代に一大湖水であったとする説もあるが,堆積物の上からは,今のところ否定的な資料が多く,部分的ないし,小規模な水塊が点在していたと考えられている。

 本県の全体としての,地形的な特色をみるため若干の数字を挙げると,県内の標高区分は,海抜1,000 m以上の地が県土の49%を占め,海抜400m未満の地は12%にすぎない。また居住・農業などに適する8°以内の傾料地は17%であり,20°以上の傾料地が62%を占める。

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