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古代~平安、甲斐ふる歌

2022年05月21日 14時51分44秒 | 山梨 古きを求めて

古代~平安、甲斐ふる歌

 

 この項の中には甲斐とは関係の無い歌も含まれると思われる。

 古代から平安にかけて甲斐の名勝を詠んだ歌は、「都留(鶴)の郡」や「塩の山 さし出の磯」であり、古代勅使牧の穂坂牧や小笠原牧・甲斐の黒駒などが多く見られる。

 文化十三年に完成した『甲斐国志』の古蹟部には多数の古歌が収録されているが、中には間違いも見られ、特に真衣野牧関連として載せている歌は信濃の歌である。

塩の山さしでの磯についても現在も笛吹川沿岸に差し出の磯があり塩山には塩の山があるが、和歌集の注には所在不明とする書もあり海辺を歌ったようにも思われる。 甲斐の黒駒などは甲斐の地名としてより甲斐の名産馬としての知名度が高かったことが理解される。

 歴史は古歌からは追求できないもので参考として捉えるべきであり、それは美豆の牧や小笠原小野牧の所在地の不確かなことからも分かる。 

数多く残された和歌集から甲斐関係の歌を抽出したが、ここに載せたのせた歌が全てではなくいまだ未見の書もあり、今後のさらなる調査をして追刊する予定である。

 

日本書紀歌謡 日本武尊(やまとたける)『日本書紀』

 

蝦夷既平ぎ、日高見の国より還りて、

西南の方、常陸を歴て、甲斐の国に至りて、

酒折の宮に居ましき。

時に擧燭して進食したまひき、

この夜歌以ちて侍者に問ひたまひしく

新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

と曰りたまひしに、

諸の侍者、え答へ言さざりき。

日日並べて 夜には九夜 日には十日を

 

即と秉燭者の聴きことを美めて、敦く賞みたまひき

 

 ▽ 日本書紀歌謡

   ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば

命死なまし甲斐の黒駒 『日本書紀』

 

 ▽ 古事記歌謡(『古事記』)

 

 即とその国より甲斐に越え出でまして、

酒折の宮に坐しますけるに、歌ひたまひく

   新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

 ここにその御火焼の老人、御歌を續歌ひしく

   日日並て 夜には九夜 日には十日

 ここをもてその老人を誉めて、東の国造りになしたまひき                                       『古事記』

 

  富士を詠む(掲載以外の富士の歌は別掲)

 ▽ 富士の山を詠む歌 一首并せて短歌 『万葉集』

 

 なまよみの 甲斐の国 うち寄する     

駿河の国と ことごちの 国のみ中ゆ   

出で立てる 富士の高嶺は 

天雲も い行きはばかり

  飛ぶ鳥も 飛びも上らず 

燃ゆる火を 雪もて消ち  

降る雪を 火もて消ちつつ 

言ひも得ず 名付けも知らず 

くすしくも います神かも

  石花の海と 名付けあるも 

その山の 堤める海そ   

富士川と 人の渡るも 

その山の 水の激ちそ       

日本の 大和の国の 鎮めとも 

います神かも 宝ともなれる山かも 

駿河なる 富士の高嶺は  

見れど飽かぬかも

 

▽ 反歌

  富士の嶺に 降り置く雪は    

六月の 十五日に消ぬれば その夜降りけり

 

▽ 山部宿禰赤人、富士の山を望る歌 一首并せて短歌

  天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き   

駿河なる 富士の高嶺を 天の原 

振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ  

照る月の 光りも見えず 白雲も 

い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 

語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は

 

▽ 反歌

  田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 

富士の高嶺に 雪は降りける

  

甲斐が根   甲斐のけ衣

 

 ▽ 東歌

   かひかねに しろきは   ゆ きかや 

いなをさの  

かひの けころもや

   さらすてつくりや さらすてつくりや

   甲斐が根に 白き雪か いなおをさの 

甲斐の褻衣 晒す手作り 『万葉集』

 

▽ かひ歌

   かひがねはさやかにも見しがけけれなく

横ほりふせるさよの中山      

   『古今和歌集』 【成立-延喜十三年(913)頃】 

 

 ▽ 布 よみ人しらす

   をち方に白き花こそいなをさの

かひのてなこ(てこな)のさらすてつくり 

   『夫木和歌集』

 

 ▽ 衣 前大納言言隆卿 ( 1145~1151)

   ふり積る白根の雪はいなをさの

かひのけころもほすとみえたり

   『夫木和歌集』「久安百首」    

             東歌

 ▽ 多摩川に晒す手づくりさらさらに

何ぞこのこのここだかなしき

   『万葉集』巻十四

 

 ▽  かひのけ衣 太宰大貳重家

   月影にかひのけ衣たゝすかと

みれは白峯の雪にそありける

   『夫木集』「安元元年閏九月歌合」(1175)

 

▽    紀貫之(延元二年/924)御屏風

   かひがねの山里見ればあしたづの

命をもてる人ぞすみける      

   『六帖和歌集』      -    ~   (868~945)

 

 ▽  順徳天皇詠                  

    かひかねは山のすかたもうつもれて

雪のなかはにかゝる白雲        

  ? 【成立-貞元・天文頃 976~982】            

   『順徳院御集』 類従群集 巻四百二十四 

【成立-貞永元年 1232】        

               

 ▽   旅の歌とてよめる    大江義重

   雪つもるかひの白峯をよそに見て

はるかに越るさやの中山 『新千載和歌集』

 

 ▽  前中納言定家卿

   かひかねに木の葉吹しく秋かせも

心の色をえやはつたふる 『新拾遺集』

 

 ▽  信實朝臣                                     

   春のくる霞をみれはかひかねの

ねわたしにこそ棚引にけれ            

   『夫木集』「建長八年(1256)百首歌合」

 

 ▽ 月照山雪(かひのけころも) 太宰大弍重家卿     

   つきかけにかひのけ衣さらすかと

みれはしらねの雪にそありける           

      『夫木和歌集』 安元元年(1175)閏九月歌合

     

 ▽ 西国なれど、甲斐歌など謂ふ………

(貫之が土佐から京に帰任する乗船の際に)

      『土佐日記』 紀貫之

 

 ▽ 女はじめ詠ひたる歌をふりあげつつ、

甲斐歌に唄ひ行けり 『平仲物語』

 

  甲斐、都留(重複する歌あり)

 

▼ 『風土記』

甲斐の国、鶴の郡、菊花山あり。流るる水菊を洗ふ。   

   その水を飲めば、人の壽、鶴のごとし云々。

  ▽ 雲の上に菊ほりうゑて甲斐国の

鶴の郡をうつしてぞ見る           

     

 『夫木集』十四 藤原長清撰 【成立-延慶二年 1309】

 

かひの国つるの郡に菊おひたる山あり、

その谷よりながるゝ水菊をあらふ。

これによりてその水をのむ人は

命ながくしてつるのごとし。

仍て郡の名とせり、彼国風土記にみえたり。

 

      ………『和歌童蒙称四』

   藤原定家著 【成立-久安~仁平頃 1145~1153】

 

 ▽   延長二年左大臣殿北方御五十賀屏風料…延長二年(924)    

       鶴郡但北方巳所選其事

   かひかねの山里みれはあしたつの

命をもたる人そすみける                  

   『紀貫之集』類従群集。第五

 

 ▽  関白道長

   甲斐国都留の郡の千年をば

君が為延と思ふなるべし             

       道長…生、康保三年(966)~没、万寿四年(1027)

 

 ▽   慶賀

   すへらきの君につかへて千年へん

鶴の毛衣たもとゆたかに           

   『朗詠題詩歌集』    類従群集。巻四百二十一

 

 ▽   かひへゆく人に      伊 勢

   君が世はつるのこほりにあえてきぬ

定めなき世の疑もなく         

             『伊勢集』 下                         

       伊勢…生、元慶元年(877)~没、天慶元年(938)頃

 

 ▽   かひ               柿本人麿

   須磨の浦の鶴のかひこのある時は

是か千世へん物とやはみる      

             『柿本集』                             

       人麿…生不詳~和銅元年(708)没『日本書紀』

 

 ▽   甲斐国へくたりまかり申侍りけるに

                           壬生忠岑

   きみがためいのちかひにそわれは行

鶴の郡に千代をうるなり

   『新千載集』【成立-延文四年(1359)】二条為家撰。

   

 

 ▽   題しらす           八条院六條

   よろつよを君にゆつらんためにこそ

鶴の郡のさなへとるらん

   『夫木集』

 

                           祐 擧

 ▽ 君が代はつるのさとなる松原のは

まのまさこもかすしらねかな

 

 ▽   題しらす           読み人しらす                 

   甲斐国鶴の郡の板野なる

しら玉こすけ笠に縫らん                  

   『夫木集』【成立-二条為定撰。延文四年(1359)奉覧】        

 ▽  宗祇法師

   はるくと甲斐の高根はみえかくれ

板野の小菅すゑなひくなり 『夫木集』

 

 

 ▽ 宗祇法師              

   友千鳥さし出の磯や暮れぬらん

つるの郡に鳴きわたるこゑ    

         『日本名所千句』                              

       宗祇-生、応永二十八年(1421)~没、文亀二年(1502)

 

 ▽  みさか甲斐(東国風俗歌)能因法師                     

   み坂ちに氷かしけるかひがねの

さなからさらすてつくりのこと             

  -生、永延二年(988)~永承六年(1051)頃 『夫木集』巻第二十一

 

 

 

 

 

 

 


土塀から甲金ザクザク 甲金地蔵の下からも16個

2022年05月21日 14時39分16秒 | 日記

土塀から甲金ザクザク 甲金地蔵の下からも16個

 

塩山市千野部落に村田七郎家という旧家がある。「峡中家歴鑑」という甲州武家の総系譜は、実にその家譜を詳しく伝える武家資料だが、村田七郎氏の始祖については、黒川金山最初の発見者だとある。

多分これはすでに採掘されていた黒川谷鶏冠山において、新しい別の間歩を発見したものと解すべきだろう。すでに同市上粟野「村高書上げ帳」では、田辺家も金山の発見考としているから別に金筋を発見した者が重く用いられたものである。

村田家の由緒によると、その始祖は村田弥三と称し(京都出身の僧)、武田氏に仕えていた当初に黒川で金山を発見し、信虎に上申して大いに金脈に当たった。これを奇として作られたのが「金見地蔵尊」で、正しくは千野村字鴬居原に祀り、つつじケ崎の守護のために古府中へ向いていた。

信玄時代は「普譜奉行として仕へ十二代昭貞に至る」と、武田氏より給わった物品も数種あるが、とくに元亀二年(1571)に、信玄より与えられた

「一間棟別共御赦免、然而御普請役隠田等軍役衆可為重、云々」

の朱印状を伝えている。この村田家が、いかに黄金との関係があって栄えたかは、隣村まで他人の地所を一歩もふまなかったという点でも、近くの鳶の宮神杜が村田助之丞正次の創建といわれ、始祖の墓が五輪塔の並ぶ大きな墓地だったことでもわかる。

すっかり産を傾けたことを悔やみもLない七郎氏は、

筆老にその金見地蔵を贈呈すると言い出した。幾重にも辞退したが、この金見地蔵の下から十六個の駒金(石打金)が発見されている。それも真面目なるが故に、むかしの警察へ渡してしまったという。

この甲金は多分、屋敷墓の下にまだ埋もれているだろう。たまたま新仏を埋める時に掘り返した土にまじっていた物であると判じられる。この村田家の真裏にある家来宅の村田源一二さん(現在空屋敷)宅で、土塀を崩したとき、塗り込めてあった甲州古金がザクザクと出て来たのは近年のことで、今は厳重た竹垣をして東京へ移ってしまったので、隣家で行先きを訊ねるのも面倒なので、その駒金の詮索は市の住民課ででも訊ねて、読者に任せたい。ただしザクザクという近所の人の弁の通り、一升マスヘ一杯も出たという程ではあるまいから、量についても、出土の状態も、本人の方が正確だが、東京まで訊ねて行くことは筆渚としても時問が許されないので、埋蔵金の出たことだけは確実である点を保証するにとどめたい。

ともかく、さすがは黄金王国だった甲州のことであるから、埋蔵金だけでも前記のように続々と出ているだけに、今後の発掘の成行き次第で、とんだ大口に当たる可能性も高い。実際に埋蔵金とは、必ず出るというデータによって発掘の範囲を縮めていけば、山吹色に頗が染まるような夢も叶うものである。

本願寺門主顕如と相婿だった信玄が、本願寺へ軍資金だけでなく、出兵して紀州雑賀衆と共同作戦で信長と戦わせたことは、NHKの「国盗り物語」には出て来なかったが、現実には勢州長島の門徒教団が信長に抵抗した長島へ出兵している。その大将の種村兵部丞に対し、武田信豊(信虎の孫)が出した次の印書がある。

 

「至勢州、長々存陣炎天時分苦身推察候----」

また甲州へは、別に本願寺の教如から末寺へ軍資金を求めた檄文が寄せられている。これは、筆者の生家の寺と程遠からぬ勝沼町の万福寺に三通ほかが遺されているが、愚民の信徒をして武力に対抗させ、双方何十万もの人を殺し合っている点では、いつの世も「万民ノ心ヲ以ヅテ心トスル」為政者は不在のようである。

坊主が戦争や政治に介入することに対し、

「僧トハ影キ珪いでずこけいすまず

(自己)山ヲ不出、客ヲ送リテ虎渓ヲ不過」(無住国師)が本釆の姿で、教団の屋根の高さを競い合うことは、いずれの始祖も本願とするところではなかった。

 

「三衣一鉢ヲ身二随ガヘテ、四海ヲ以テ家トナシ、父母妻子を離レテ山林二交ル」

宗祖道元も教団を否定し、

「僧トハ水ノ如クニ流レユキテ、寄ル処モナキヲコソ僧トハ云フナリ。従へ衣鉢ノ外二一物ヲ得ズトモ、一人ノ檀那ヲモ頼、ミ、一類ノ親属ヲモ頼ムハ自他トモニ縛住セラレテ不浄食ニテアルナリ」(正法眼蔵随聞記)

と断じ、門徒宗の始祖親驚が、

「死後は鴨川の水に捨てよ」

と言ったのも、教団の主となることは、望みでなかったからである。

 

信玄の黄金に踊った坊主はあまりにも多い。坊主嫌いの信長が、甲州攻めの折りに、戦さに加担した寺々を片っ端から焼き払ったのも、坊主が戦争の媒介をしていたからである。

信玄の師、快川和尚も、また恵林寺(古文書では栄林寺が本来の名だ)の山門上で、八十余人の坊主、法印、山伏とともに生きながらに地獄の業火の中で果てた。

表土にしか黄金の盛山期が存在しなかった黒川金山の黄金も、幾十万という人間の血を吸ってどこかへ失せてしまい、古府中のつつじが崎へ大穴を開けて、大騒ぎを起こす埋蔵金探しの勇者が現われる始末だ。

「玉ノ台(ウテナ)ハミガケド毛野辺コソ遂ノ栖(スミカ)ナレ」

英雄信玄を、もっと黄金史の裏側から追ってみると、神格化された信玄の映像にも、一個の支配者の束の間の強欲しか映らない。筆者には、黄色い砂塵を捲いて掠奪による英雄を生んだ北方大陸の鏡馬民族の姿を、信玄から思い浮かべずにはいられない。

その信玄時代に盛山の幕を閉じた黒川鶏冠山は、全身に穴を掘込まれた満身創夷の孤影を、佗しく春日の空にかこっているかのようだ。

 

<甲州金><タライまわしされた極印>

 

甲州金の極印松木氏の由緒書(分かり易くした)

 

先祖松木次郎三郎正利

甲斐国八代郡上浅利村飯室(西八代郡豊富村)の郷、浅利与市義遠の末葉にて代々右の村へ住居して参りましたが、原因にどんな訳があったのか、本家まで不和となり、同郡中之郷に別家し、それより姓を松木と改めた郷士でありました。双方の当住(主人)が不通のため家の旧記は分かりませんが、そのようなおりに次郎三郎は、武田信玄公の御代の天文中より御陣中の御用を折々おおせつけられ、永禄十二年二十五日に御朱印をたまわり、勝頼公の御代、天正五年二月晦日に御朱印をたまいて、只今所持しております(「甲斐国志」所載の判物)。

次郎三郎の男子には三太夫、市左衛門、七右衛門、五郎兵衛、七郎兵衛とあわせて五人あり、三太夫は山梨郡小瀬(今の甲府市小瀬)に居住していたが、病身ゆえ独身のまま早世の由にございます。

市左衛門、七郎兵衛の儀は、のちのち江戸表へ御奉公にまかりでました。次郎三郎は三男七左衛門、四男五郎兵衛を召連れて由緒もこれあり、府中柳町へ転住して、その後刺髪をあらため小瀬村へ引込んで隠居したが、御朱印地所は分かりません。

松木七右衛門

 

右は次郎三郎の三男にて相続後に刺髪を改めたのは存じおります。甲府町の検断役をおおせつけ被り、天正十年午年に、同役衆三人一同は駿府へ召出されて権現(家康)様に御目見え申L上げ奉り、御ねんごろの上意を被り領物をおおせつけられました。

同年八月、御入用金の節もなお改役の者共が右左口村までまかりいでて、上曽根村竜花院に御逗留の折々ご機嫌を伺い、御駕籠の節も府中まで御案内したのは存じております。

五郎兵衛は御用を相勤めて当国の通用金ならびに国枡(甲州マス)を奉り上覧に供しました。その節、判屋の儀についておたずねにたりました。武田御歴代の先祖より勤めおった由を申上げますには、成瀬隼人守殿をもって先儀を相届け、なおまた五郎兵衛に相勤めます様おおせられました。

しかるに文禄年中に当柳町へ引移り、両人ならんで帯刀で勤めておりましたところ、その後召出されて右両人ともに江戸表へまかり越しましたが、このことも存じております。 伜が初年にて相勤めおぼつかぬゆえに、巨摩郡乙黒村郷土山本八左衛門の伜茂兵衛と申す者を養子に貰いうけて跡目を相続いたしましたが、しさいがあって山本法号清純と申上げました。五郎兵衛のあとの判屋のことは伜の弥右衛門が相続いたしました。

柳町一丁目の南角両側にて間口十三間の屋舗を判屋処ととなえました。

しかるところ寛永年中に右弥右衛門が間屋役を仰せつけ被りましたので、判屋を勤めまするにも御用に差支えがありましたので、判屋の役はほかへゆずりますよう御沙汰がありましたが、判屋の儀は由緒もある役目のことゆえ、ほかへゆずることは御免にして下さる様に申上げましたけれども、間屋役勤め中に判屋を相勤めるのは不都合なので当分の間ぜひゆずるよう仰せきき、よんどころなくおうけ申上げて妹婿の柳町組の庄三郎にゆずり、極印ならびに御奉書とも相渡し申しました。

一、右屋舗の十一二間口のうち、戸口で四問分で相済むよう仰付つけ被り、弥右衛門の儀も極印へ立会いますよう仰付け被り、立合って極印をつかまつりました。

しかるところ、御届けどおりとどこおりなく吹き納めましたのに、どんなまちがいがあったのでしようか、右極印は甲府御奉行の竹川監物殿、渡辺弥兵衛殿へ御取上げに相成る由、そののち判屋の儀は、武井村郷士善太夫へ、婿がその一門より出ている竹川監物殿からゆずり渡されてしまいました。しかるに善太夫儀は段々に身上が不如意となり、同郡木原村郷士次右衛門へまたまた婿の引出物としてゆずられましたところ、これまた身上不如意とたり所持なりがたく、巨摩郡宮原村郷士桜林源十郎へ仰せまかせ、婿引に相ゆずり、それより松木源十郎が今もって判屋舗を所持つかまつり、甲金吹足したどの御用も仰せつかっていました節は、古来の由緒をもって御町御支配どおり前事の御用を仰付かりました。

 

一、 問屋弥右衛門は寛永二十年(1643)に病気になりましたので孫の伝右衛門に御役を仰せつけ、郭内ほか四千坪、毎年、御城米を百俵公許借の仰せつけ、しかるところ延宝六年戊午年(1678)に伊右衛門落馬いたし、役目つとめがたくなりましたので、甥の松木甚右衛門へ同九月二十九日に跡目を仰せつけられました。同八年(1680)三月二士二日五人扶持をこおむりました。

右は幼年の時より父物証うけたまわりおきました趣により、このたび一記しおくものなり。

享和和三(1803)年癸寅三月 

松木成山正弥花押

山本金左衛門殿

 

以上、タライまわしされた極印のゆらいが、この由緒書にあきらかだ。また松木成山については甲斐国志でも取り上げている人物である。

 

「慶長見聞集」<武田時代の庶民と甲州金>

 

「慶長見聞集」巻之七の「日本に黄金はじめしこと」

に、推古天皇の六〇五年、高麗国の大興王が造仏の勅を聞いて黄金参百両を貢上したのにつづげて、

「----かるところに当君の御時代に金山できて、金銀の御運上を車に引きならべ、馬につけならべて毎日おこたらず、なかんずく佐渡島はただ金銀をもってつき立てる宝の山たり。

この金銀を箱に十二貫目入りあわせ、百箱を五十駄積の舟につみ、毎年五十艘づつよい波風に佐渡島より越後のみなとへ着岸す。これを江戸(城)へ持ちはこぶ。おびただしきこと、むかしいま、たとへとてもなし、民百姓まで金銀とりあつかふこと、ありがたき御時代なり----」

とある。

「慶長見聞集」は、小田原城の北条氏政の臣、三浦浄心が入道して筆録したもので、永禄八(1565)年に生まれた作者は、天正十八(1565)年に二十六歳で小田原城へ籠城したが、城が落ちたあとは江戸に住み、「順礼物語」「見聞軍抄」「北条五代記」などの諸文集があることで有名だ。

同記巻之六の

「江戸にて金の判あらたまること」

で、

「江戸町にて金に判する人、四条、佐野、松田とてこれら三人也。砂金を吹まろめ、壱両、弐朱、朱中などと、目方をも判をも紙に書つけ取波すること天正寅の歳より未まで六年用いきたる。この判自由ならずとて、後藤庄三郎という、京よりくだり、おなじ未の年より金の位さだめ、壱両判を作り出し金の上に打刻ありて、これを用ゆる。また近年は壱分判出来て世上あまねくとりあつかへり。されば愚老の若い頃は、壱両弐両、道具よりはづし金を見てもまれごとの様におもひ、五枚十枚持たる人をば、世にもなき長考、うとく者などいい」

が、今はいかようなる民百姓にいたるまでも、この金を五両十両持ち、また分限者といわれる町人達は五百両、六百両持てり。此金家康公御時代より諸国に金山出来たり。万民金持事は秀忠公の御時より取扱かへりし」と。

 

以上は、戦国時代に成長し、江戸へ出てからは上野不忍池付近に住んで、徳川三代にわたる社会情勢を見ながら書き続けて、八十歳で没する正保元(1644)年までの実録であるから、甲金研究にとっては注目すべき一級の側面資料である。

 

これで天正十九年ごろ(1591)の万民は余り金を持てず、二代将軍秀忠の時代(慶長十年・1605~元和九年・1623)に至って、はじめて平等に金を売買通貨として、普遍的に持てるようになったとある。

この点、浄心自身が江戸において初めて通貨としての金判を手にした実感を筆録したもので、文中の十八年は十九年の誤記と思う。

家康は関東受封の翌十九未年から文禄四(1595)年まで、小額の鋳造を行ったが、甲斐国志では

「慶長以前ノ金ハ犬判ノミデ小判ナシ。壱両十匁ニテ慶長小判ノ弐両余二当タル----」

とある。

家康が文禄四(1595)年に、後藤光次を京から下し、小判座二十七人を定めて、駿河、武蔵判を吹かせた頃に甲州金はどうであったかは、

「坂田清九郎古券集」、

青木昆陽の「甲州略記」「昆陽漫録」「甲州古文書集」「甲陽軍鑑」「甲斐律令雑輯」「裏見寒話」「甲陽旧尋録」「古山日記」「歴代譜」など、二十指に余る古記を整理しながら、「慶長見聞集」などの中央文献とも比較したいが、武田以後のものをざっとひろう。

 

「慶長見聞集」は、陸奥の藤原氏の栄華を伝えたあと、

「……天正年中の頃、金壱両に米四石、永楽は壱貫、但し、びた四貫に当たる。是は三十年余以前の事なり。其頃、金壱両見るは今の五百両、千両見るより稀なり。然れば国治り、民安穏の御時代、皆人金たくさんに取扱ふといへども、あたいは古今同じとて、めでたからたり----」

と、「吾妻鏡」にある鎌倉初頭の物価を挙げて比較している。

なお「是は三十余年以前」とあるのは浄心の在世中の永禄五(1562)年頃にあたり、この頃の民百姓はまったく黄金など拝むこともできないことを示すものだ。

 

土肥金山など日本有数の金銀山をもっていた北条氏の臣だった三浦浄心すら、金判などみることさえまれであったとの述懐でもある。

民百姓まで金銀がもてるよきご時世にしたのは、大久保長安という金銀山開発の鬼才天才と、これを助けた金掘りの力量才覚とみるべきところだが、その長安一族の末路はあわれをきわめている。

浄心ですら、壱両の金をみることのまれだった戦国時代の情勢にてらしても、甲州だけ黄金が通貨として民百姓の問に社会性をもっていたかどうか。これを否定する資料は充分ある。

 

家康が天正十九(1591)年の十二月から小判の鋳造をおこなう以前は、ほとんど貴族、社寺、高級武土のみがもつ寄進物・恩賞用とみて大過はあるまい。

ことに、青木敦書が、天正十(1582)年に、甲州からかき集めた三十万両を吹き替えたという記録など、昆陽の目がくらんでいた、と「甲斐国志」はコキおろしている。

 

四ツ~七ツ時まで宿打ち、

甲金の吹床から埋蔵金出る

 

柳沢吉保―甲州金資料

 

甲州金は、祖父が甲斐の武川(北巨摩)出身で、老中に昇進した柳沢吉保が宝永元(1704)年に甲府藩十五万石に封せられた際に公許を得て、宝永四年(1707)から享保十二年(1727)まで、十一年問にわたり吹替えをおこなった。

甲金の吹床については、「兜嵓(とんが)雑記」に

「・…-佐渡町(甲府市)にて「慶長小判」を吹出す。是を「佐渡小判」といふ。甲州も同小判、これより佐渡町という。その後、宝永年中、甲斐守殿、甲重金、甲安金を佐渡町にて御吹出しこれあり。また、天和年中の頃までは、東は金手町、一条町、和田平町、東光寺村、西は工町、伊勢町、近習町ニツにわかれ、東光寺村に場所をたて、四ツ時(九時)より七ツ時(四時)まで石打ちいたし候。貞享のころより御法度に相なり」とある。

 

この東光寺からでた埋蔵金は後記の通りだ。

 

元文四(1739)年には、横沢町で「づく銭」がつくられた。元文五年七月から翌年の五月まで飯田町でも「づく銭」が鋳造された。これが「銀田銭」といわれることは述べるまでもない。

 

「武甲年表」―甲州金資料

 

江戸時代の歴史年表である「武甲年表」(斉藤月峯)にも、天正十九年(1591)の項で、

「十二月関八州通用のため大判小判を造らしめたまう」

とあり、以後も慶長金など貨幣の記録があるが、また異色の見聞集である津村涼庵(1711一88)の「譯海」にも、おおく貨幣の筆録があるので、貨幣研究の重要参考にたる。

「(前文略)…-甲斐には、武田氏の時製ありし金、いまなお残りて甲州のうちにては、いま時も文金、古金にまぜ通用する事とぞ、壱朱金、二朱金、壱分金と三品なり。壱朱といふは二朱の半金にあたるものなり。三品とも金にて鋳たるものなり。世に甲州金と称するものこれなり。

 いま時はこの金、甲州にても不足になりて、百両主,世つかのうち二分ばかり甲州金を交遺ひて、八分は文金、或は二朱銀を用ひる事になりたるとぞ、---」

 

「謂海」―甲州金資料

 

なお「謂海」から拾うと、

「大判をはじめ吹立てられたるとき、壱万枚を限りとせられて、いま天下に通用するはこの数のほかなし。大判所祷してもたしかなる持主書付などさしださざれば、両替屋みな引替へず。両替ことのほかむずかしきことなり。ただし大判の書判少しも墨色はげおつれ(落ちる)ば通用せず、それゆえ墨色落消するときは後藤かたへ相願い書判を書直しもらふなり。この書直し料大判壱枚に付金壱歩づつなり。今時は壱両も弐両も書替料取るなり。古金は引替のこと両替屋にて難せず、但百両につき元文小判百六十五両に引替ふ。六割半の増なり。元文小判壱両に付き目方は一二匁五分あり、古金は壱両目方四匁八分、当時南鐘壱片の目方三匁七分たりしと、江戸中期にすでに古金は稀少価値をもっていた。

墨が剥げれば両替えがきかぬとあっては、湿気も持ち運びも不便なもので、通用の便には程遠いお宝であったようだ。

同記の甲州金と江戸判金の種類もくわしい。

 

「江戸に下金商売免許の老六十六人あり、上より符をたまわりおるなり。世間に流布する所の金の品三百六十五種ありとぞ。このうち古金と称する品四士二種、慶長金も此品のうちなり。慶長いらい通用金は四十四種より段々ありという目今世、通用の小判は銀を四歩ほどまじへたるたりとぞ。甲州金壱歩たりとも潰す時は、公儀へ訴へつぶす事なり」

 

以上のほかに、中国地方の銀札の不使や貨幣についての筆録は貨幣研究に重要な資料だが、またにゆずり、甲州金は金細工にかなり化けていたものだろう。

 

万民が金銀を普遍価に持てるようにたる以前の戦国時代は、甲州においても、ほとんど高級武士の恩賞用、寺社への寄進、兵器鉄砲などの交易通貨であった。

 

<紙幣と甲州金と貨幣の呼び名>

 

永正十八(1521)年六月十九日、信虎の父信縄は、伊勢神宮の御師幸福大夫に「----初刀一腰金鞘、金納之候」(「甲斐国志」)とある。

前記の「慶長見聞集」にある道具からはずし金を何両としている点で、黄金造りの分量には両目が使用されたものと考えられる。

献金が、甲州の黄金を練金したものかどうかは、武田氏の一級資料とされている「王代記」(山梨市窪八幡宮(大井俣神社)の別当が代々書きついだ)には、「明応七(1498)壬十月、此年八月廿日、日夜大雨大風、草木折、山朋加同廿四日辰剋、天地震動シテ国所女損、金山クツレ、加々美クツレ、中山損」とあり、これは金山がすでにこの頃に存在したことを示すもので、さらに中山とは中富町(山梨県南巨摩郡)旧中山郷の金田千軒と、考えられてくる。

 

これは前稿で記した「たたら遺蹟」から出土した溶金や、江戸時代から現在まで甲州の各地から出土する板金や溶金などからみても、信縄よりはるか上代にさかのぼって金山もあり、溶金の技術もあったとみて非難は受けまい。

天文十三(1544)年、甲州から京の臨川寺へ黄金を運上したのは前記のとおりで、切り使いの板金である。

天文十四(1545)年、武田晴信は近江の多賀神社の祈願状に「----黄金二両奉献----」とあるが、この黄金が溶金か板金かは、練金とみても、大過はあるまいと思う。

 

貨幣研究家が詳しい「古事類苑」では「古へ黄金幾両トイフハミナ砂金ノ掛目ニシテ、銀ハ東鑑二南延幾ツナド見エタリ、然ルニスデニ冶金ノ事アレバ其形制ナキコトヲ得ズ。ヒルモ金ノ如キ々サシク鎌倉ノ時ノモノト見エー…」とある。

 

「昆陽漫録」―甲州金資料

 

「昆陽漫録」には

「南方伝ニイワク応永八(1401)年二月、義満公、大明ノ帝へ黄金ヲオクルト、(中略)サテ応永ノ頃ハ我国ヨリ明ヘヤラレルホド黄金多クシテ銅ハスクナキニヤ、義政公(1436一90)永楽銭ヲ明へ請ハル。善隣国宝記ニ其書ヲノス」とある。

義政の書は分かりにくい漢書である。かいつまむと、

「銅銭は地を掃いたように尽きてしまい、官の庫は空っぽで民を利することができない。使者をもって入朝を求

むるのみ、聖恩広大にして願うところは、壱拾万貫を求む」といった内容で、明の景泰帝に「聖恩広大、謹録秦

上」と最大の讃辞を呈しているのは、よほどゼニに困っていたものとみえる。

 

この義政の頃には、「銅楮並用、交易莫滞(こうえきとどこうりなし)」と、楮(こうぞ)すなわち紙幣を使ったとある。

甲州においても、天文十五(一五四六)年の「高白斉記」(信玄の側近として重用せられた人物の手による勝山記と並ぶ一級資料)にも、戸石合戦後の「十一月に遊麟が上意をうけて使者とたり」のあとに、「石森カレコレ四十貫文納カヘ、大銭、礼銭ナドソノホカ御指置候ヨシ仰出ベクナリ…」とある。

前記の多胡浦浜の砂金は、富士川の上流の下部、早川の両黄金山や阿倍川上流から、砂金が浜にまで流れ出たもので、いまの田子の浦をさすのだろう。海に流れこんだ砂金は、シケには打ちよせる大波によって砂浜に打ち上げられて、金山の発見にもつながっている。隣国駿河をしのぐ産金地であった甲州において、砂金を吹きまるめる練金の技術が、天平十九(747)年の駿河で練金二分を貢金した頃より、八百年(天文十年・1541)まで)も伝わらなかったということは、常識でも考えられないことで、今川対武田戦も金山の取合いにあったと思う。

 

<甲陽軍艦>―甲州金資料

 

「甲陽軍鑑」の品四十八には、永禄五(15627)年の項で

「--その八日目に信玄公伊豆韮山へとりつめ、あたり在郷放火(まさに群盗行為)の時、韮山の城の押さえに山県三郎兵衛あり、城より備えを出してせり合い--」と、ここで六百合まで槍を合わせて敵を追い散らした河村伝兵衛に対して信玄は、

「彼伝丘ハ衛が振舞は信玄家にてもあまり多くはあるまじくとて、信玄公のたまふ、「(前文略)すなわち伝兵衛を被召出御盃給わり、御腰物被下て後に当座の褒美として碁石金を信玄公自身両手におすくひなされ、三杯すくひ、かれ伝兵衛に下さる」とある。

これによると、碁石金の存在は褒賞用であって、民百姓などのもてる売買通貨でなかったことを示している。

したがって前稿の塩山市村田家の金見(甲金)地蔵の下から十六粒出たり、その裏の家来宅の土塀の壁土の中から出た碁石金などは、当時の高級武土が家宝のように隠していたものであろう。

 

甲州金については、すでに近世の旧記に載っている坂田家文書ほかを、文献に振り返ってみていきたい。

 

「甲陽柳秘録」―甲州金資料―

 

甲金甲斐一国通用アリ、甲金トイフ。丸形ニシテ金目銭ニシテ八百五拾文ホド、二分五厘アリテ一朱トイフ、五分アリテニ朱トイフ、四ツアワセテ壱岡トス。コレ拾二両ヲモソテ小判十両ナリ。

元禄中ニ天下通用金御吹替アリ、コレヲ元ノ字金トイウ、慶長小判ヨリ位悪シ。コレニヨリ他国ヘナクスユエ、吉保(柳沢)城主ノトキ甲金吹替、中金トイウ。コノ金四ツニテ宝銀ニ同ジ、壱匁ノ内弐分五厘ハ銀ナリ。天下通ノ金子小形ニナリ乾字金トイフ。

後正徳(1711一15)吹替コレアリ、慶長金トナシ甲斐ニテモ吹替ハジマル、新甲金トイフ。コノ時壱朱金トイフヲ吹替シカバ、モッテノチスタル。享保九(1724)年甲辰五月十一日ヨリ評定所、今吹弐十四両アモッテ小判十両ヒキカウ。

松平甲斐守吉里が、享保七(1719)年に郡山へ転封したあと、甲定金を吹出したが、これは町人の願いによるものだ。この願書は「甲国地方雑記」に

「--甲金吹替の儀は、こんど江戸表へ願出の旨これにより添書願出候--」とあり、願人は川合又右衛門外六人と緑町・和田平町の名主などである。

これより先の天和二(1682)年の「天正宝永年間記」に、

「天和二歳、米殻弥賎(いやいややし)く、甲拾両に五十俵あまり、木綿は作らず金銀不足なり(中略)丙寅十月十八日金奉行下山六郎左衛門切腹仰せつけ、評定所の内庭にて切るなり、これは方々へ金銀貸し失ふ故なり。借るものは皆没収せらる」

とある。

幕府の御金蔵のあった甲府域には、また金山掛の金奉行が常勤していた。したがって、「坂田日記抄」貞享五月についで、

「阿波守様(十左衛門)当時七月川内領御金山へ御出なされ候、御奉行衆、町宿申しつけ候こと八月廿日、小判.壱両、銭壱貫百廿四文落札入れ、上納ニつき町奉行へ納る」と、戸田甲府城代が自ら金山へ視察に出掛けるという異例たことは、この頃河内領の長畑(早川町)から金山が発見されたという「甲斐国代々鑑」の記録と一致するが、数年間のズレはある。これはのちに記しておいた。

 

「坂田日記抄」―甲州金資料―

 

元禄十(1697)年 覚(読み易くした)

 

一、金銀吹直シニツキ古金銀ハ新金銀ト弥引替申スベク候、御料ハ御代官私領ハ地頭ヨリ申シツケ遠国ニ至ルマデ古金銀ノコラズ、引替サセ申スベク候、古金銀ノ儀釆ル寅(翌十一年)ニアハ只今ノ通リ新金銀ト一様ニコレヲ用イ、ソノ以後ハ古金銀通用相止メ、新金銀パカリ用ウベク候間ソノ旨存ジ候、モシ古金銀ヲ持チアリ候ハバ金銀吹直ノ場所(前記の東光寺村の吹床)へ申出候以上、丑五月。

 

 読み下し

元禄十年覚

今度新金の弐朱判出来、世間へ相渡通用自由のために候間、国々所々までその旨を存じ、商売請取方渡方とどこおりなく、弐朱判をも用ひ申すべく、弐朱判は壱分判の半分のつもりたるべき事。

一、大判小判勿論出来る通り通用つかまるべき事、

一、前々相ふれ候通り、にせ金銀つかまつる者これあり本人は申すに及ばす諸親類、そこの者まで曲事たるべきものなり。

このように、甲州金は細工師などがニセモノを作っていたようである。そして新金銀と古金銀の交換はやかましく徹底させたので、いま甲州金が手に入るとしても、埋蔵金くらいしかアテにならない。

このあとの町年寄の日記には、正徳四(1714)年に「甲安金」を吹足したときに出された覚えがあるが、スペースの都合で一部をのせて分かり易くする。(以下「甲州文庫資料」所収)

 

正徳四年(1714)頃は、銭が多く出まわり商人は商売が自由にできたが、江戸も近国も銭相場がさがり、不相応に銭を沢山に買占めるので、両替屋は申すに及ばず、諾商人ども方より売らぬよう申付けの覚があるが、この申付けもききめがなく、さらに二月には銭の貿占めがひどくなって売買に差支えるようになったので、取締りもきびしくなり、遂には商人に至るまで印判状を押させて銭の買占めを禁じた。

 

正徳五年(1715)には、新金銀日をおって世上に流布し通用候、そのうち東国筋は金通用の事に候ところに新金いまだ諸国在々に行渡らず、そのうえ只今までつかひなれ候故に多分は小形金をもって通用の由に候、去年仰せいでられ候新金銀通用の次第は、万事について少しも損徳これ無きための御沙汰侯ヘパ、御触書の旨を相守り、新古金の撰びなく相用ゆべき事に候ところに、小形金ばかりの通用にかたより候事は、遠国の者どもその仔細を相心得ず候と相見へ候間、村みの名主組頭等はいふに及

ぽず、大小の百姓どもまたは諸商売人この旨を相心得候て元禄金小形金ともにありあわせ次第に新金に引替候よう仕るべき事。以下の覚も、新金と元禄金の引替えがなかなか徹底しない点が記されている。

 

 覚

一、新金銀、日をおって通用し候について只今にいたっては世上に相残る元禄金その数を減じ候、これにより元禄金通用の事は来カ年の十二月(享保二年)限りとし、その明年正月よりは世上の通用一切に停止たるべき事。(以下略)

 

享保二(1717)年の覚には、

一、新金出来候にしたがい、乾字金も段々引替候、これにより乾字金通用のこと当酉年より来る亥年(享保四年)を限り、翌子年より世上の通用を一切停止たるべきこと。

一、乾字金通用年数おわり停止ののちに至ても、或は遠国にて新金引替申すべきことと、町内の者から申渡しの印形を取置くという、きびしい申付けを行っている。

 

この問に差しはさんでおきたいのは、甲州金の名称である。

 

<甲州金の字源>―甲州金資料

 

○「甲斐叢書」に所収されている「坂田家文書」に、「小判壱両、甲壱両三朱、これは申正月は江戸与一左衛門殿よりわれらの借り分、丹尺壱分この甲壱分二匁五分」、また「古山日記」にも「--右雑用金丹尺壱分渡--」

「右竹右衛門村方へ出候賃銭丹尺弐分、残り三百五十文つかわす。ただし丹尺弐分は兵大夫方へ渡す」などとある。

○「昆陽漫録」に、「梁ノ時(504-557)官銭ニアラズシテ民問二行フ銭ノウチ径七分半、重サ三鉄銭アリテ文ヲ五朱トイフ。コレ鉄(金ヘソ)ヲ省キテ朱トスルナリ、甲州金ノ鉄ミナ朱ナレバコレニヨルベシ」とある。

「鐚(ビタ)は悪銭ヲ一字トシ、天正ノコロ(京ヨリ西ハ金壱両二鐚五千貫」、この悪銭に対して「青銭ハ精銭ノ精ヲ省イテ青銭トイフ。青銭ハ青銅トモ言ヒ--」、

鉛銭は「九暦ニイワク天徳(957-60)三月二十八日、新鋳銭を吹くべ」(これは天徳二年三月の「□(不詳)元大宝銭」のこと)、鉛銭出ル、天正慶長ノコロ関東ノ民ヒソカニ鉛銭使ヒシナリ」とある。

○昆陽セソセイも、銭にはとくに学究心が高く、著書に「奉仕小録」「昆陽漫録」「甲州略記」などがあり、学識の豊かさでまとめている。

 

甲州金の旧記と埋蔵金百パーセントの実録

 

「甲国聞書」(一六六〇年、甲州巡見の覚、町年寄覚・小峰弘致著)

 

一、甲州金山黒川というところの金の位、甲州にうえ少なという。(中略)同河内には中山(下部)というところより出る金位悪し。ただし在々幾つもこれありという。

一、同西山(南巨摩郡)には、戸ヅラ(黒柱)戸城、アンハタ(雨畑)という所より出る金位、黒川より下位なり。甲金より一朱遺(まま)、川上(信州)というところよりも出る。これは山どめ申候。

一、新府(韮崎市新府域)西に当り跡部大炊劫、長坂釣閑屋敷、この長坂屋敷に池あり、此池金子有(埋蔵金)という人あり、浅野左京(大夫長政)掘りて池大きくなり、金はたし、しかれども金ありうる様なるべく、西厩くるわ北に当たる(新府域西に必ず埋蔵金ある、と記している)

 

 

「甲州昔話」(奥野半四郎記享保十七年、巡見視の時の覚書)

 

一、甲斐国金山、山梨郡萩原山黒川は、往古は佐渡の金山同様に金銀おおく出候より、金銀掘る穴数おおくあり、西川内(河内領)早川雨畑山は先年金多く掘出し候よし、いまも右山まわり雨畑村に大島、保の村々にて押掘役とて運上をさし上げ、金山真向いの近辺山砂集め、たびたび水にて洗流し、たまり候金をもって渡世の助けと致し候よし、右押掘役は巨摩郡西河内領にて金三両二分二朱運上、壱両二歩保村、壱両二分雨畑村、弐朱づつ経ケ島、湯島村、早川村、黒桂村、金壱朱づつ新倉村、西宮村右八ヶ村納候(以上、現早川町)東川内領戸城村に金山数ケ所これあり、先年多く金掘出したるところ、ある時天人ともいうべき化身のもの右金山真穴の近所に出現せしを、所の猟師鉄砲にて打ち候へば、形消失し猟師もその場に死す。これより何程掘ても金出る事なし。近年銅これあり、間掘致すところに山師の入る沙汰なし--。

 

甲州通用金は甲金とて丸き金なり、いにしえは甲ノ字判といふ。壱分、二分、三分、二朱、一朱も同断にて金の形定らず、松木判といふは一分判、二朱、一朱判と一二色なり。

金目一歩判にて二朱判五分、一朱判二分五厘也。

古金は上金のところ宝永中、松平甲斐守吉里国主の節、右上金を吹直し、これを「どぶ金」といふ、悪しき金たり。

享保九年甲斐守和州郡山へ所替への節又どぶ金を吹直し、甲重、甲定という上金になる。しかれども往古の甲金位格別悪くたる。只今通用新小判、拾両にてつりあい候を、小判拾弐両銀四匁に値段をきめ、甲府町内兼御代官陣屋附に両替を定め、包賃銀を取り引替え、この甲金の位悪しきにより江戸小判、小粒は甲州に払底なり。これにより口留番所にて隣国より売人ら持ちいり候小判を両替所にて引替候得ども段々に小粒甲州に少く百姓町人難儀候よし……」

 

「甲国律令雑輯」―甲州金資料

 

「甲国律令雑輯」文政七(1824)年五月

一、甲金銀のわけおたずねに御座候

この儀甲金はこれあり候得ども、甲銀はこれなく、甲金壱両は甲銀に直し四十八朱替(中略)往古は壱両判より朱中判まで通用いたし候由に候ところ、壱両判、弐歩判は近来無数、当時は壱分判はこのぶん甲銀十二匁、銀になおし拾七朱壱分四厘弐毛余りなる。

弐朱判   この分甲銀六匁

壱朱判   甲銀三匁.

失中判   甲銀一匁五分

に相成り、右朱中判も払底に相たり当時売買金壱分に相たり候

 

「甲斐国代々鑑」―甲州金資料

 

「甲斐国代々鑑」(武田始祖より天明中までの国守交替ほかの年録)

一、延宝二(1674)年甲寅九月より己の五月まで四ヶ年、河内領雨畑村長畑遠田谷というところにて金山はじめて金多く出る。同三年乙卯、十月廿九日御金蔵へ源兵衛と言ふ盗人忍び入り殺さる。同八年庚申年十一月三日より白雲へ布目引く。

 

甲府城には幕府の御金蔵があって、常時何万両かの金が入っていた。享保十九(1734)年の十二月二十日夜半、甲府城の御金蔵が破られ、千四百四十二両五分という甲金が盗まれた。盗ったのは百姓で、犯人は九年後に捕ったが、甲府に甲金を吹く松木氏がいたことも、金山があったからだ。

 

元禄九(1696)丙子年三月十二日新金おおせつけられ、甲金吹所、引替所片羽横町和泉屋二右衛門、三井次郎右衛門、右甲金吹替訴訟に江戸までまかりいで候得ども相かなわず

 

甲金之事

 

甲斐一国通用金と名づけ、その形丸金にして二分五厘たり、一朱と云う二百五十銅に当たり、五分あるを二朱という、四に合せて壱両として十二両をもって小判十両におなじ、さてこの甲金と申すは武田信玄より以来初まりし金にして最上の黄金なり、しかるに元禄中吹替あり、これを元禄金という、慶長の判より位悪しく、よって甲金他国へ失し、美濃守吉保支配の時吹替へて中金とし、吉里吹替しを命吹といふ。正徳のころ吹替て、これは慶長金とおなじ、形は小さけれども、金に違ひなしとして甲辰五月廿一日より評定所にて今吹金弐拾両をもって小判十両宛に残らず引替えたもう。

(かいつまんでいくと)

正徳三(1713)年に、乾ノ字金吹出しにより甲州金も乾ノ字金に準じて甲安金に吹改め、甲安一分に銭相場四百文----享保七(1722)年甲金吹替、甲重出る。享保十二(1727)年、甲重金吹出し不足で吹足す。

 

「甲州府中聞書」―甲州金資料

 

「甲州府中聞書」(貞享元禄ごろ成立)

佐渡町にて慶長中、小判吹出す、これを佐渡判という。甲州も同判、これより佐渡町という。

一、その後宝永中、甲斐守殿、甲安金、甲重金、佐渡町にて御吹なられ候。代官町に大久保石見守殿ともおす郡代、金山見立て家康公御らんあそばされ、石見守佐渡国へつかわされ夫よりさまざま悪事を企ておこりをいたしける。

 

「裏見寒話」―甲州金資料

 

 

「裏見寒話」甲手金

甲金は元碁石金ととなえへしより、大古は知らず、吉里(柳沢)の時用ひたる甲金は松木と甲重のニツ極印たり。

これを甲手金という。今用うるところ享保十一年府下の町人頗により吹足したり、重の字は御講の字たるをもって甲定と松木印あり。

(将軍吉宗時代に吹いた甲重と、家重将軍の名と重なったので甲定とした)

 

ここでまた、松木氏の家譜が登場してくるが、注目される項へ傍点を打っておく。

以下かいつまんで引用すると、享保十一年、松木源十郎が甲金を吹くにあたり、有馬出羽守支配の木田源八郎など四人が吟味役仰せつけられて、六、七年吹いて吹止めた。

 

一、甲金松木の概印は、いにしえ御入国のころ(家康)松木七郎兵衛忠成という者が打ちはじめ、のちにこの印を町奉行竹川靴物にゆずる(松木求由緒書と符合)監物又宮原村浪人石川源十郎(桜林源十郎?)へゆずる。よって石川改めて松木と名乗る由。

一、忠成は勢州北畑の末で、本姓は野田なり。忠成、弟市右衛浄成、皆野田と改む。

 

松木が野田姓に改めたことは「甲斐国志」にも

「源十郎のさきを松木了存、その次を五郎兵衛浄哲、天正十年甲府の検断となる。浄哲の弟七左衛門、市左衛門、浄哲の一男七郎兵衛浄安、二男三郎左衛門浄可等みな御代官をつとむ。のち野田氏に改むる者多し。松木五郎兵衛が浄哲の家蹟をうけ、甲金極印の役をかね、柳町にて御吹屋敷表六間、裏三拾四問を賜わり、双吹シ下金一式を司る。石川十郎左衛門という浪人、松木了存を頼って遂にその家に卒し、亦十郎右衛門という男子があったが、子孫衰微した。石川十郎右衛門、参州一向一揆の逆徒の中に見えたり」

この二つの松木家譜などをみていくと、石川源十郎なる浪人は松木家の居候の伜が改姓し、松木氏を継いだものとみられ、このとき松木氏から野田に改めた一族も多くでて、竹川の策謀で、松木一族は野田姓に変え、石川源十郎が松木の家名をついだようだ。

「古府中堅町の用地よりふるき金をだす、いまの用金とは形、極印等もかわれりしこのあとの同記の、仰、享保十七年の吹替えについては略して、これまで甲州から出土の金は無刻印のものがほとんどだが、出土の古金は極印があった。

 

『三貨図彙』―甲州金資料

 

「三貨図彙」は大内壁書に

「京都金銀最目ヲ定法黄金一両ノツモリナリ、武田菱ノ極印アリテ金上次ノ位、形制、最モ醇古ナリトイエリ、コレ武田信虎、信玄ノモノニシテ、京都室町李世ナリ。信長時代大判出来ス、永禄ヨリ天正中ノモノナラン----」

とあり、これからみて武田氏の定紋いりの甲金が最も古いものだ。

 

「甲斐国志」に吊るしあげを食った「昆陽先生漫録」

―甲州金資料―

 

「甲斐国志」は、青木昆陽(元禄十一年・1698~明和六年・1769)が幕府の書物方として関東、東海の諸州古文書を収録した際に、甲州金について二巻の書を発刊し、一般の貨幣をもくわしく記したが、この昆陽の貨幣史の誤りをひろいたてて痛烈に反論している。いつの世もモノカキというものは、挙げ足をとられるものである。

家康は天正十年に甲州へ入国すると、ほとんど信玄の国法を認めている。天正十年に三十万両の甲州金を集めて松木氏に吹替えさせ、一匁判、一分、二朱、一朱、朱中(細字金)を鋳造したという「昆陽漫録」の記事は、天正十年から、家康が関東を受封された天正十八年までの争乱時代をみると、まったく論拠のないものだ。これは「甲斐国志」に肩がわりしてもらおう。

国志は昆陽のあげた竹流し金、鳥目金六角極印の甲州金は、現物をみずにして本州の金とする、明確もなかるべしと突放し、「松木源十郎ノ出セル書ニ灰吹碁石金、延金、縄目金ト記セリ、イマ再ビコレヲ問フニ甚ダ詳ラカナラズ。ブタ甲金ノ員数ハカツテ人ニ知ラサズト聞コエタレバ信ジ難シ、甲金ハ正金ヲ鉄砲玉ノ如クニシテ打平メ、ソノ形碁石ニ似タル故ニ名トス、重サ一匁、又四出匁不同ナリ」

という昆陽の記述に対し、

一、甲金ハ古今トモニ鋳ニシテ、古ハ全体鋳ツケニテ極印ナシ、後ハ極印ニテ打ナレドモ縁ノ縄目ハ鋳ナリ、未ダ打平メ金ヲ見ズ(前出の旧記も同意見が多い)

一、板金ハ薄ク板ノ如ク打チ延シテ切リテツカウ。享保中板金拾枚ホド掘出シタルヲミルニ、長サ二三寸、四寸五寸不同ナリ、暗ニ板金、切金、竿金トモ掘出シ官ニ上リタルヲ聞クニ長短アリ、幅ハ歩金ホドニテ、厚サハイガタニキワメテ、本州ノ金トモ見エズ」と疑いをもっており、歩金を造るために延した砂金としている。

 

東光寺村(甲府)で出たのも下金であったと思うのは松木家で一品見たが、イガタの切込なるべし。東光寺の吹床から盗んだ下金であろう。埋蔵金説はここにもある。

太鼓金は信玄の時つくり、重さ一匁、表に桐、周りに七ツ星、その後は縄目金になり、小判は鶏卵のようで表裏にヤスリ目五筋、表の上に字あり。

国志はさらに昆陽の記に手心をくわえずに

「松木文書ヲミルニ、甲金二数品アリ、壱両壱分弐朱壱朱朱中アルハ神租ノ御時二始ルトイウ」(昆陽)

に対し、国志は

「慶長十年十二月小判分金を造ラセタ事ヲ臆度シテイフ誤ナリ、本州ハ武田ノ制度ヲ循承シテイマニ至ル通用ヲ免許セラレル。タダシ古文書ニハ貫文ヲモツパラ用ウレバ金子ノコト見ル所スクナナリ。偶書スルニ黄金何両トアリ、又何疋何貫ト記シタルハ貫文ニモイフ分明ナラズ」

 

と逃げても、黄金は黄金、小判は小判と記されるべきで、駿河の大宮神馬奉納の記に「黄金壱分」と見えることを挙げている。

文禄中の浅野印書に、弐朱一朱とある八卦壱両判、志村壱分等に武田家紋を付したるは本州に以前よりあったもので、武田通用の碁石金の無文説はヒガコト(甲斐国志)とL、碁石金は慶畏吹替えまで使われたとしているが、前記の通り民百姓の通用金ではない。

豊臣大名の加藤光泰(1537-93)が、甲斐へ封ぜられたときの印書に、

 

当国黄金かけ候事如先規 不可有相違老也

天正十九年六月廿二日    光泰在判

野中新兵衛

 

とあり、これで新兵衛はこの頃まだ金座を認められていたが、あとの消息は不明だ。

豊臣大名の浅野左京太夫長継の出した文禄五年の二つの印書を挙げると、

 

覚(以上「甲斐国志」ほか)

一、金壱両  京目  五拾枚出

一、金四両二分二朱 為中目 弐百枚ひ出目あわせて五両弐分弐朱壱厘五毛なりは為中目二延引候なり。

  覚

一、金子弐両壱朱は為中目右は百枚のうちにて出目金なり

文禄五年二月十二日・左京在判

野中新兵衛へ

 

このあと、「坂田家文書」と「甲州古文書集」には浅野長政と長継の手形三通がある。

 

木綿役銭のこと

 

野中新兵衛判

金子壱両二両ハ 正月二日約銭 合五十壱貫八百文分

  同

但三月朔日より十日迄

同壱枚四両四ふん七りんハ 但 三月一日より十日迄 合五十六貫四百七十五文分

金子

合弐枚七両四ふん七りん

右請取候たり

文禄三年三月廿六日        弾正花押

あさひかもん

請取申す木綿役金子の事

合七枚は 為中目なり

文禄三年六月廿三日        左京花押黒印

 

この註に、「浅野左京様御代に布の役仰せつけられ候、親与一左衛門義町の検断つかまつり候節、布お役改に両

三人仰せつけられ候」とある。

 

  覚

小中目

一、金子拾枚弐分は十二月甘九日上ル、金子七枚は当月廿三日ニ請取候なり、金子弐枚七両四フン七リン八、蝉正  殿請取有之也、則朝日かもん上ル(中略)右木綿役金子前後弐拾枚之通請取申也

文禄三、十二月廿九日        左京花押黒印

円喜、善忍、坂田両三人方へ

 

この「坂田家文書」は甲州金の消息を追った側面資料だが、「甲斐叢書」などに一部が紹介されている。「甲斐国志」国法の部と、「坂霞家文書」があげている前記の木綿役銭で、

「甲金一両が銀四十八匁」と定まったのは、一貫文に籾八斗を六合摺りにして米が四斗八升の割合より出で、十二匁を一分とし、六匁を二朱、三匁を一朱、一匁五分を朱中、七分五厘を糸目、三分七厘五密を小糸目(中)という。

 

糸目運上については、武田時代に税率があって、反物一反に七分五厘の運上を納めたのがはじめで、七分五厘のことを「糸目」といい慣らわしていたが、七分五厘の金子は元来無かった(国志)。

松木文書は、すでに出典していると思うが、念のためのせる。「甲斐国志」から、ざっとかいつまんで読み易くした。時代は慶長中である。

 

一、急度申し候したかね灰ふきの儀は一円御法度の儀に候へ共松木五郎兵衛壱人には御ふかせこれある可く為、其申しつぎ侯恐々謹言

 

五人の書判で、日附は七月二十一日。後藤庄三郎ほか

二、急度申つき候条、去年その地より納候江戸判金、皆々諸代官衆へ御返しなるべく侯、其方判に極め候、申し御□候間、其分御心得もっとも候、金くらい能候由御意候間弥々入念べく肝要に候・恐々謹言

 

九月三日、差出人は成瀬隼人で松木五郎兵衛あて。

三、急度申入候条その元の金子碁石にてまね判多く候間のし金に江戸小判のごとく仕るべく由御意に候、金二三両のし候はば右の分に致して御目に懸けるべくこれも尤候

 

五郎兵衛あての光次と成瀬、長安のもの。

 

昆陽センセイの甲金録

「甲州金ハ江戸ニテハ甲州判トイフ。甲金ハ一分ヲ拾二匁ト定ルナリ。甲金ノイワレ甲府ノ町年寄二尋間セシニ、其始ヲ詳ニセス。古キ甲金ハ其形色カアリ、碁石金ト云アリ、太鼓判ト云アリ、壱両判アリ、又壱両、糸目、小糸目ナド極印、打タルアリ、縄目甲金、一分ノ重サ一匁、二朱ノ重サ五分、一朱ノ重サ一一分五厘、朱中ナド定寸リタルハ神租ノ御時ノ事ナリ、一兀禄金ハ吹カヘラルル年マデハ古来ヨリ一ヶ年二年、三千五百両、又ハ山金買出シ有次第中絶ナリ。判本方ニテ吹出シ、金ノ位上金ニ極メ、一国中甲金ヲ以テ売買ス、元禄金吹カヘラレテ後、甲金通用ヲ禁セラレ、松平(柳沢)みの守甲斐領ヲシテ三四年ノ後、在々ノ者甲金通用ナキヲ患シニョリ、美の守(美濃守)公儀へ願ワレ、甲金通用免許セラレ、甲金ノ位、元禄金ノ位トチガヒ有ニヨリテ、甲斐守公儀へ伺ワレ、甲金吹替甲安金ト極印ウツ、宝永七(一七一〇)年乾金ニ吹カヘラレシニヨリ、甲斐守ヨリ乾金ノ位ニ甲金吹替エ、享保中新金ニ吹替ヘラレシニヨリテ、今ノ通用ノ甲金ニ吹替ヘリ

 

あとは長文なのでかいつまんで、甲金の推移を記していく。

甲安金は宝永四年より享保二年まで吹替、甲重金は享保六(1721)年より同九年まで吹出して、その金高は三万五千両ほど、甲安金をまぜて使う。その後、天領となった享保十二(1727)年から十七年まで、甲定金を町人の願いで、二万両余り吹足したが、極印は松木源十郎で、この松木に会って昆陽の聞いた書付は、

 

灰吹碁石金

コレハ慶長ノ始メ通用ニシテ、極印ナシ。(昆陽の誤り)

延シ金

コレハ慶長ノ中比通用ノ金ニシテ松木ト極印ウツ。縄目金コレハ慶長末ヨリ、元禄中マデノ通用ノ金ニシテ、片面二松木ト桐ノ極印ウッ。

甲安金

コレハ宝永中ヨリ正徳年中(1711~1715)マデ通用ノ金ニシテ、表ニ松木ト桐ト、裏ニ甲安金ト極印ウツ。

甲重金

コレハ享保ノ始メヨリ、今ニ至ルマデノ金ニシテ、表二松木ト桐、裏二甲重ト極印ウツ。

甲定金

コレモ享保十二年ヨリ今ニ至ルマデ通用ノ金ニシテ、表二松木ト桐、裏二甲定ト極印ウツ。

 

この二通を考えて甲金の大略知るべしとある。甲金の形は定まって後も、朱中金は丸いものと四角で長いものがあり、今の朱中金、角にして少し長い、ともある。

 

「今度松木源十郎ガ家ニアリシ古キ書状ヲ視シニ、神祖(家康)ノ御時ニ甲金ノ形極マリタルト云説ヨロシカルベシ、ソノ書状別ニ記ス」

 

註に元文庚申(1740)年に、昆陽が直接甲斐で調べて上書したものだが、甲斐国志もこれに前記の反論を行なった。

昆陽の甲州金の調査書は、このあとに付録もある。

 

「甲金ハ往古正金ヲ鉄砲玉ノ如ク打平メ、其カタチ碁石ノ如クナルユヘ碁石金トイフ。ノチ通用不便ナルニヨリ薄ク板ノ姉ク打伸べ切リテ通用ス(この板金も、「甲斐国志」は下金と否定)是ヲ板金トイフ、享保年中ハタケノ中ヨリ板金十枚ホド掘出ス。長短同ジカラズ、五寸バカリ、又二三寸ホドアリ、武田信玄公ノ時始メテ分判ノ吹キマロクシテ、表二桐、プワリニ星七ツアル。重サ一匁、コレヲ太鼓判トイフ。其後マワリニ縄目、桐アルアリ、又裏ニ山下ノニ字アルアリ。色々ノ甲金アリ。甲金ノ小判ハ大キサ鶏卵ホドニシテ、裏表ニヤスリ目五筋アリテ表ニ上ノ字アリ、甲金ノ三分ニアテ通用スト云伝ナリ。天正年中、神祖(家康)甲州へ入リタマイシ時、国中ノ印金ヲ集メテ宮原村松木氏ニ命シテ甲金三十万両吹カル」(これはすべて「甲斐国志」が執拗に反論している)

 

つづく同記は

「重サ一匁、コレヲ松木判トイフ。又絹字金トイフ、二朱判、一朱判、朱中判アリテ一分ヲ銀十二匁ニ当テ通用スル(譚海、見聞集と同記述)、元禄年中甲金ノ位モ元ノ地金ヨリ宜キヲ以テ、国右へ買取ニヨリテ、額主松平(柳沢)美濃守吹替、コレヲ甲安金ト云、甲安金クライヨロシカラザルニヨリ吹替、コレヲ中金トイフ。其後、古甲金ノ位ニ吹替、甲斐守所替(郡山)アルニヨリテ古甲金ノ高ニ四五万両不足ニテ吹替サス、後、甲府ノ町人願フテ右不足吹足セリ、是ヲ甲定金トイフ。

甲重、甲安、甲定ノ位ニ二割悪シシトイフ。武川筋宮脇村ノ農民三七、古甲金ヲ色カ所持ストイヘリ。甲金吹替

アルハ請負人運上出スユヘ我利ヲ専ラ計ルニヨリ、金ノ位悪シクナリテ吹替ノトキハ定メノトオリ行使スルトモ、後カハ一分ニハ五六十銭ホドイヤシク通用シテ民ノワズライヲナス。ソノウエ吹替フゴトニ甲金ノ数多クナリ、古来ハ三十万両トイフ、今ハ四十万両モアリテ通用賎シクシテ民ノ利ナラズ」

 

「三貨図彙」に、

 

「むかしはいまの如く金銀自由ならず、金銀を以て形を鋳て通用することなし。ただ金銀銅の銭を以て交易をさだむ。『天正の切遣い金』というある。もっとも茄ほどのごとくなるものにて、取扱うごとに散失し不便なるものゆえ、大正年中に至りて砂金を冶錬し延し金にしてまた切遺いせしあり。砂金は年々減じ天正年みな切つかいのばしにたりたり。これより大判に転ぜしなり。このこと信長時代よりおこれり、享保中尾州清洲の山王杜内の土中より掘出す切金六十枚、また或は信長時代の切金あり、長さ三寸四分幅八分、最目四匁なり」。

とあるこの切り金は、甲州からも出ている。慶長十九年、大阪城では「太閤の千枚分銅」といわれる金と、調度の飾り金もひっぺがして竹流し金を吹立てて浪人を集めた。貧乏の者を「磨切り」というのも切遺いの金よりでた。

この「三貨図彙」は日本の黄金史にとって縦横に古典の出典を駆使して甲州金研究にも欠かせない名著で、「家忠日記などものせて、大方の参考になっているようだ。

 

銀は甲州にもあったー本願寺教如の書状

―甲州金資料―

 

甲州には銀山がなく、黄金ばかり使ったとあるが、石和町八田の「八田家文書」に、前稿の本願寺献銀の印書がある。年代は当然教如が一向一撲を指揮していた戦国時代のものだ。

「心ざしとして銀四拾三メ目到着候なかなか懇志ありがたく候さてハ安心の一儀においてハもろもろの雑業雑修の心ふりすてて一心に弥陀ヲ帰命したてまつる人々ハみな極楽に往生すべきこと」

教如の書信からみて、四拾三貫という銀は当時として莫大たもので、広大な農地をもっていた裕福な八田家私有の財産であろうが、信玄のすすめで貢銀したものとおもう。


真昼間ちょうちん 宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より)

2022年05月21日 14時36分13秒 | 日記

真昼間ちょうちん

宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より)

 

いまから223年前(著当時)の宝永四年十一月二十三日、久しく静かな眠りをつづけていた富士山がとつぜん大爆発をおこした。

この宝永の噴火は、すでにニカ月も前から全国にバカ陽気がつづき、おかしなことばかりおこっていた。これは噴火の前ぶれであったのだ。

ことに富士山のお膝元である駿河、相模、甲斐の諸国においては、思いがけたい異変つづきで、真昼問キツネに化かされているようなことばかりであった。

「なんともふしぎの年じゃあにやあか、いつまで経っても冬が来ずに、一足とびに夏になったようなバカ陽気じゃな」

そま山道を下ってきた杣伐りは、道端の竹ヤブで、タケノコ掘りをしているじいさまにそうはなしかけた。寒中にタケノコ掘りをしているのもふしぎなら、杣伐りが山で採って手にしている一束のワラビだって、ふしぎ千万なのだ。

「わしの掘っているタケノコも、あたりめえなら来年の四月はじめにならねえと、頭をもち上げねえものだが、こうあちこちから土を持ち上げられちゃあ、竹にならんうちに市へ出さねえとな」

なんとも奇妙たはなしだが、.これは当時の火山の前ぶれをしるした文献にあるのだからどうしようもない。

「甲州より暖ったけえ駿河じゃあ、梅も桜も二度呆けの花を散らし、冬、お茶つみをしているそうじゃ」

「夏のようなバカ陽気で、麦はのびるは、茶の芽はホケるは、いやはや気違い陽気じゃ」

十一月も末である。いっもなら富士山にも、二度や三度小雪が降るというのに、樹海はいつまでも青々として、次から次へと木の芽、草の芽が伸びて青く茂り、冬になればよけい殺風景になる転石(まるび)の溶岩帯には、名物の富士桜が、柳のような細い枝に、一本かれんの花を咲かせていた。

杣伐りと老人の話している山道には、タソポポ、スミレの花盛り、蝶や蜜蜂が花から花をとび、カエルやヘビも冬眠を忘れて這いまわっていた。

「この先月三日の大地震では、富士山の大沢がひどく崩れおちたが、雪しろになると、駿河の衆は、大沢の砂礫でまた家、田畠を流されるんじゃろう」

十月三日の大地震では、駿河の吉原、富士宮でも倒れた家が多かったが、西国ではさらにひどい被害をうけた。夏のようなバカ陽気をぶりかえしたのはこのあとで全国的の暖冬異変であった。

富士山北麓の人たちが、江戸といわず諸国におこった、できごとをよく知っているのは、富士山、御正体山(懸仏の意)、十ニカ岳たどをめざして全国から集る山伏、修験老、富士講の信者たちが、いつも耳新らしいニュースを流していくからだ。

「山伏たちのはなしだと、このふた月つづきの地震とバカ陽気は、お山のお怒りなされる前ぶれだといっているそうじゃ。音から湖水が氷らぬような年は、よくききん、疫病、天災がおこる前ぶれと相場は決まっている。」

「延暦のむかし、お山がお怒りになったときは、近江の地が裂けて、びわ湖という大きな海がでけたそうじゃ。お山がお怒りなされてはたいへんじゃ。南無浅間大菩薩」

老人は、富士山の山頂へ向かって合掌した。浅聞さまの本体は神さまで、菩薩は仏さまである。霊山信仰は、神と仏とが奇妙にとけあった、特殊な大衆信仰といえる。神さまと仏さまを一諸におがんでいれば、それにこしたことはないのだから合理的信仰だ。

ごくおおざっぱだが、富士山麓に起こった出来事をしるした「勝山記」には、富士山麓のふしぎのできごとをしるしている。そんな奇跡のおこった前後は必ず天災地変がおこっている。伝説では、海に千年、山に千年住むという本栖のヌシである大蛇が、この頃、本栖湖からとび出して山へ姿をかくしたという。この本栖のヌシについては、丸太とまちがえて棒でつついたら動き出したなど、富士山には、蛇をみた体験者が多い。これは別にしるす。

 

<すさまじい噴火のありさま>

 

宝永の噴火は文献が多いので信じられることだ。十一月二十一日、相変らずバカ陽気でたるんでいた、山麓の人々の間で、気のつく人は、すでに遠雷のようたとどろきを地の底からときどき感じた。樹海のあちこちからは、蒸気が上がりはじめていた。気づかないような徴震は、すでにたえまなくおこり、軽震がこれに加わった。

ヒズミ地震計とか、ベニォフ地震計といった高感度の地震計では、一日に何千回も徴震をキヤチッして噴火の予知もできただろう。

 

<昼日中提灯をつけた大噴火>

 

二十二日、朝から富の富士山は「腹の底」にこたえるような鳴動をはじめた。「ゴロゴロゴロ」と、山鳴りのはげしくなった午後二時頃からは、二十三日の朝までに家の倒れるような地震が相ついで三十数回もおこった。

この間にも軽震は絶えまなくおこり、ついにお山は火を吹き出し、樹海といわず、溶岩の隙問といわず、ボイラーのフタをとったようにはげしい白煙をふき出した。このため木の葉は爛れ(ただれ)、穴へもぐっていたヘビやカエルも、冬眠をやぶられてノロノロと這い出しては熱気で茹(ゆだ)ってしまった。

もうこの頃になると、翅のある鳥はとっくにとび去り、足のある野獣も御坂山脈の方へ姿をかくして、お山はもうからっぽだった。

奥秩父の山火事のとき、とび出してきた数百頭もの山うさぎをアミでとったという話もある。富士山の噴火ともなれば野獣の、のがれていく姿も多く見かけた。

二十三目の十時頃、大地震、山鳴りというすさまじいるつほのなかで、ついに富士山は、雲をつき破って大火焔を噴きあげた。「ド、ド、ド、ドヵーソ」「ド、ド、ド、ドカーソ」耳の障子は破れんばかり、大地はゆれる、山は鳴る。十二、三キロ四方に真赤の火山弾がとび散って、たちまち甲、駿、相模は夜昼灰の闇にとざされてしまった。

火山灰がまるきり太陽の光りをさえぎってしまったのだ。ものすごい降灰で、江戸も昼日中まっくらやみ、ましてや富士山のおひざもとはまっくらけで、鼻をつままれても分からないので、日中、提灯(ちょうちん)をつけて歩いた。

灰の降ること二十日間、この問富士山はただ暗やみの中で火を吹き続けた。ともかく、十二月中旬にいたるまで噴火は続いたのだ。

ようやく人の顔が見えるようになった頃、富士山麓はまさに灰色の底にすっぽりうもれていた。家はつぶれて灰にうずまり、田畠は溶岩でゴロゴロ、これに灰がニメートルも三メートルもつもって、まったく死の世界であった。

宝永の大噴火で、スマートだった富士山の胸のあたりには、デッカイたんこぶ宝永山ができ上っていた。

幕府は関東一円に灰を降らせた田畠の復旧と、住む家を失したった農民に対して、救済するために、一万石に対して二百両(いまの五百万円)当たりの金を拠出させた。十万石の大名は、いまの金で二千五百万円も出した勘定だ。石高百石取りの下級武土まで二両を拠出した。この金、〆て四十八万両にのぼったが、幕府は十六万両を出しただけで、三十六万両は将軍さまの台所へまわってしまった。

(江戸時代史)

 

<宝永大噴火の日記(富士吉田師職田辺安豊記)>

 

宝永四年十月四日、大地震おこる。二夜三日神事をおこなったところで神の告げあり。大火来ると…(以下分かりやすくして付記した)

  • 二十二日、暮六つより(いまの午後六時前後)地震数十回おこる。暁よりは地震の数はもうかぞえられないほど頻発する。
  • 二十四日、巳の刻(午前十時)頃、天よりまるい鐘ほどもある光がくだるとみるや、黒煙山のようにのぼり、富士山が鳴動し轟音を発すること、天上の百雷を一つに集めていちどに落ちたほど。稲妻もしきりにおこり、みな肝をつぶしたほどであった。酉(夕方六時)の刻より雷光はいっそうはげしく、火烙は火の玉が逆に天へ上るようで、このため夜が昼のように赤々と照らし出した。
  • 二十四日、巳の刻(午前九時~十一時)、煙が四方へ墨をふりまいたようにひろがり、須走は石と砂が降って八十六戸の家はすべて焼かれたり土に埋もれてしまった。降灰の深さは約三メートル、このため村人は逃げ去って無人の村となった。女子はナベ、カブを頭にかぶって四方へにげたが、真赤にやけた火山弾が「ゴチーソ」とぼかりナベをつき破って頭から腹へとびこみ、命をなくしたもの、重傷を負うもの数しれず、戌の刻(夕方六時~九時)には、又々家のつぶれる大地震でのこった家はすべてつぶれてしまった。音も光りもますます激しくまさにこの世の生地獄のようだった。
  • 二十五日、朝すこし陽が射したが又昼頃から曇った。
  • 二十六日、師職、神官たちが集って、各浅間神杜につめて、禁足のまま御山の安全といかりをしずめる御祈祷した。そのうち西風がでて黒煙もようやくはれ、鳴動も次第におさまって来たので大祝詞をあげた。近隣、遠村を問わず参拝の民衆は、稲麻竹葦(からだがくっついてもみくちゃ)のように雲集して祈りをささげた。
  • 二十七日、けむりはふたたび空高くのぼり午の刻九つ(十二時)頃に薄陽がさした。
  • 二十八日、鳴動、光りもやわらいで、大鳥居や富士の砂礫の上で貴賎群衆、悪人、善人のくべつなく一心にお山へいのりをささげた。
  • 三十日、みそかの戌の刻すぎ大地震がおこり、震動、煙も特別大きく、火の玉があがって溶岩がどっとおし出してきた。
  • 十二月一日、日の神を朝より拝む。
  • 二日もおなじ、
  • 三日の夜は曇ったまま四日をむかえて暁に雪が降って白くなる。又巳の刻(午前九時三十二時)大地震がおこって夜半までゆれる。火の玉はますます激しべ光りきらめいた。五日、ことに南風にて昼すぎまで天地鳴動した。しかし申の刻(午後三時~六時)の下刻より急に静かにたった。
  • 六日、七日朝から明るい太陽をのぞみそのありがたさに祈った。
  • 八日、地震はまたも度々おこり、子の刻(夜中の十二時)ばかりには特に大きくゆれた。火の玉も千たびも上った。さるほどに神風のせいか、寅の刻(午前三時~六時)ようやくおさまった。

駿東郡は、足柄より富土山頂まで、村里も草木も焼かれて砂だけの一望灰色にとざされた。鎌倉でも三十センチから九〇セソチの灰がつもった。

河の水も井戸水もたえて、のどを潤るおそうにも一滴の水もない。人々は江戸高井戸、八王子、谷村ときいて富士へ登るべく、新しい宝永山をみたくて集ってきた。このとき山中、長池、平野は灰の降って以来、草木は絶えて出でず。以上すさまじいさまがよく綴られている。