歴史文学さんぽ よんぽ

歴史文学 社会の動き 邪馬台国卑弥呼
文学作者 各種作家 戦国武将

台ケ原宿 「白州町誌」第六節街道と村(伝馬宿と助郷)より

2023年09月06日 04時56分59秒 | 白州町見て聞いて

台ケ原宿 「白州町誌」第六節街道と村(伝馬宿と助郷)より

徳川氏が政権を掌握すると、江戸を中心に五街道を制定し宿駅を設けた。宿場は本来、公用の旅行者の貨客の輸送を円滑にすることを目的としていたが、もちろん一般旅行者も利用した。公用の旅行者とは、将軍の朱印状や幕府の証文を持参するものである。幕府の名代で朝廷への使者、伊勢神宮代参などに当る幕府役人や大名をはじめ、公家、門跡が主要なもので、変ったところでは「宇治御茶壷御用」などがあった。
宿駅における逓送(継ぎ立て)には
御朱印=公用の貨客で無賃
御証文=公用の貨客で無賃
御定賃銭=公定の価格で割安
相対賃銭=使用者と駄賃稼のもの相互で決める価格で、天保年間ころの例では御定賃銭の約二倍

各宿場とも駅伝業務を円滑にするため、常備の馬や人足が定められていた。甲州街道の各宿は、25人、25疋と決められていたがそのうち五人、五疋は火急に備えて待機させていた(囲い人馬)、常備の人馬は宿内の一定の家が当り、交代で勤めたが余暇があると相対賃銭で駄賃稼ぎもした。
公用者はあらかじめ先触れを出すことにより、許可された範囲の人馬を無料で使用でき、不足の場合は御定賃銭によるのが通例である。
諸大名の参勤交代の場合は、御朱印、御証文は与えられたかったから多くは御定賃銭であり、一般旅行社は相対賃銭であった。御定賃銭は人足や馬の運ぶ目方も決められ、各宿場ごとに次宿場までの値段が、高札場に掲げられたのである。一般的には人馬の運ぶ量は次の四種に分けられていた。
本馬(馬へ荷物だけつける)40貫以内。
乗尻(人が乗った馬に荷物をつける)20貫以内。
軽尻(人が乗った場合は小荷物)5貫以内。
(荷物だけの場合)20貫以内。
人足(人の背で運ぶ荷物)五貫以内。
《助郷》
大通行の場合は、宿場の人馬だけでは消化できず近郷の応援を求めることになる。これが助郷村で元禄7年(1694)制度化され、各宿ごとに助郷が指定された。助郷は宿場の近隣とはいえ、宿場への往復にも蒔間がかかり、しかも交通量の多い時期が農繁期と重たり、さらに動員されるのは働き盛りの男であることなど、農村に与える影響が大きく、しばしば間題が起っている。
先に述べたように宿場は貨客の逓送業務のために設けられたものであるが、一つの村落でもある。従って一般の村落同様、村方三役(問屋などの兼任もある)が置かれ、領主(代官)の支配下に属していた。しかし宿場の業務は幕府の所管で、道中奉行の支配下にあり、間屋場を中心に駅伝業務が行なわれていたのである。問屋場は、貨客の継ぎ立てを行なうための事務所であり、その責任者が問屋である。通常は宿場の中央部にある問屋の家が問屋場となり、間屋のほかに年寄、帳付、馬指など宿役人が毎目詰めて業務に当っていた。
年寄は問屋役の補佐であり、帳付は問屋場の下役で毎目の人馬の使用状況を日〆帳に記録した。馬指は問屋場で直接人馬の配置に当る役で、宿内人馬はもとより助郷人馬も差配した。人馬の差配や駄賃の支払い業務は極めて複雑であったから、問屋場での仕事は実際上、帳付と馬指によって行なわれていたと考えられる。
宿場のもう一つの機能は休泊機能である。そのため宿泊のための旅篭屋や休憩所(立場)としての茶屋などがあった。寛永12年(1635)、三代将軍家光によって参勤交代制が定められ、大名や上級家臣が休泊する本陣や脇本陣ができた。
甲州街道は、臨時の通行を除き、信州の高島、高遠、飯田の三藩が利用しただけであったが、他の街道同様に本陣や脇本陣がある。本陣、脇本陣は問屋同様、宿場の中央部にあり、格式も高く間屋や宅主を兼ねる場合もあった。
一般家臣団や庶民が宿泊するのが旅篭屋である。旅篭屋の数は同じ街道でもかなり違いがあるが、通行量の少ない甲州街道は一般的に少なく、農業と兼業のものが多かった。
宿場の町並は、高札場や間屋場、本陣、脇本陣などを中心に、街道の両側に街村状に人家が並び、裏通りもあっても田畑への通行路などであった。また宿の入口や出口には、枡形や鍵の手があって宿内が見通せないようになっていた。

《台ケ原宿》
台ケ原宿の起源は明らかでないが、甲斐国志に「甲州道中ノ宿場ナリ、古道ハ逸見筋ソ渋沢ヨリ此二次グ、今ハ韮崎宿へ逓送セリ」とある。
渋沢(長坂)から花水坂を下り、台ケ原に達する古道というのは、近世以前の諏訪口を指していると思われるから、台ケ原は甲州街道の設定以前から、交通集落としての機能を果していたと考えられる。
近世における江戸中心の幹線道路である五街道は、慶長6年(1601)にまず東海道に伝馬制を定めから中山道、奥州道中(街道)、甲州街道(道中)、目光道中(街道)が順次整備されていった。
甲州街道は元和4年(1618)に「宿請」が申し渡されたという。(「勝沼町誌」)、従って本町内の台ケ原・教来石両宿ともに、このころから宿場として整備拡充されていったと考えられる。すなわち、渋沢から花水坂へ下る古道から、釜無川に沿う甲州街道への移行は、治水や架橋など土木技術と深いかかわりがあり、近世初頭は、このような意味で本県交通史上一時期を画すものといえる。もちろん甲州道中の設定後も洪水には悩まされている。
釜無川をはじめ西部山地から流出する諾河川を横断するための橋が流されることが多かったからである。「此宿前後橋々出水之節流失いたし本道通路差支候砌者、若神子通り渋沢村江当宿より出張いたし、御朱印、御証文、御用物、御状箱等小渕沢村通継立候侯」(宿村大概帳、台ケ原宿)のように、本道が通行不能のときは、韮崎宿から七里岩台上へ上り、渋沢、小渕沢を経て蔦木宿へ逓送した。この場合、宿から渋沢や小渕沢へ出張となり、橋の修復とともに本町の両宿は負担が大きかった。
(略)
当時おおかたの宿場同様、台ケ原宿も高札場や問屋場などを中心に約1キロにわたって道路の両側に家並が続いていた。
国境に位置し、比較的近距離にあった台ケ原、教来石両宿と信州蔦木宿は、人馬の継ぎ立てに関して申し合せがなされていた。すなわち台ケ原宿は、御朱印、商人荷物は毎月1日から25日まで、上りは韮崎宿へ、下りは蔦木宿へ継ぎ立て、25日から晦日まで、下りは教来石宿へ、上りの武家荷物だけは終始韮崎宿へ継ぎ立てることになっていた。
規定の人馬、25人、25疋のうち、4人、4疋は加宿の三吹村が受け持ち、5人、5疋は緊急用の囲い人馬であった。伝馬役は宿内で優劣のないよう配慮され、勤めることの困難なものは「随役金」と称して出金し、病人、子供は随役金も免除された。
(略)
安永八年(1779)の「台ケ原宿人馬勤方二付宿中連印一札」(県立図書館蔵)の定書に
「惣家数九拾四軒之内七拾六軒ハ宿役相勤、残リ拾八軒之内拾軒ハ随役金差出、其外平吉、伊右衛門、新七、幸蔵、甚五左衛門、又七、新五右衛門、松之丞八人之儀ハ親夫相果、後家、子供或ハ重病人ニ而当日難凌困窮之者ニ付、宿中相談之上随役金用捨致侯事」
とある。また同資料によると、台ケ原宿の人馬役金は当時、弐拾両弐分で、その半額は高割、半額は間口割で出金していた。役金は当時の宿役馬37疋、人足3八人に割り当てられるが拾両弐分を馬持ち、残りの拾両を人足役のものが受けとっている。
甲州街道は、東海道や中山道と異たり大名通行や商人荷物は少なく、しかも中馬(農民の駄賃稼ぎとして発達したもので、馬による荷物運送であり宿場も一定の口銭を納め付け通すことができた)が発達していた。そのため宿村大概帳にもみられるように、駄賃の割増しも何回か行われたが実利は少なかった。
《お茶壷道中》
先に述べたように甲州街道は、大名通行は少なかったが、近世前半の寛永9年(1632)から元文3年(1738)の間、御茶壷の通行があった。将軍飲用の宇治茶を、東海道は潮風に当るとして中山道から甲州街道を経て江戸に運んだのである。台ケ原の田中神杜は御茶壷の一宿の場所であった。
甲斐国志に「村上官道ノ東ニ在リ、除地四畝廿四参、社記ニ云フ所祀大已貴ノ命ナリ、古神像アリ、馬場美濃守ノ産神ニテ安産ノ守リ神ト称ス(中略)
此ノ拝殿、昔時ハ毎年御茶壷一宿ノ処ナル故ニ修造料トシテ、金十両宛二度拝領セリ、慶安五年六月、立札ノ写一御茶壷毎年当杜拝殿御一宿候間、拝殿並御番所柱、板壁等落書一切仕ル間敷候、総而穢ラハ敷者並ニ乞食非人等昼夜不可集リ居候事トアリ、其ノ後御茶壷通行相停リ、今ハ形バカリノ拝殿ナリ、見聞雑事ニ御茶壷通行ノ停マリシハ、元禄三年ナリト見エタリ(後略)とある。
御茶壷道中の各宿では、道路を清掃し、環境を整え、百数十人の人足と数十匹の馬を用意し送迎したのである例年六月初旬から下旬が、本町付近の通過時期であり、農繁期と重なった。御茶壷に限らず代官所役人の視察である御巡見もやっかいなものの一つである。

「御巡見二付申渡御請印帳』
一、土橋等取繕可申事
一、木之枝、竹薮等往還江出張之分者不障様切払可申事
一、往還筋垣根繕直シ塗肇屏等破損所取繕可申事
一、民家見世先葦鮭草履等つるし置申間敷、下ニ置可申事
一、通行之節送り迎え役パ其外御駕篭之右之方江平伏可致事
一、壱里豚虻拾弐町目、弐拾四町目建札可致事
一、休泊請候宿麻上下着用村内断案内可仕事
一、番小屋三ケ所村役人詰合不寝之番時序廻り火之元心附之事
一、休泊所之三宝三ツ御朱印御証文可載三宝壱ツ置可申事
(中略)
一、不用物置雪隠等取払可申候用候分ハ取繕可申事
一、大巡見御廻術之節御休泊所ニ耐馬撃場取建置可申事
「休泊之記」
一、上ノ間襖替可致事
一、小用所等新規ニ可仕事
一、大便所籾柄入可申事
一、手水鉢、手拭、風呂桶
一、手水たらい心附可申事
(後略)
甲州巨摩郡白須村
天保八年酉十二月(白州町役場蔵)

右の資料のように通行路の清掃から垣根や屏の修理、不寝番など事前の準備、見廻りの場合の案内人は麻上下着用・一般の村人は右側へ平伏することまで指示されている。

 


白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)

2020年12月19日 07時28分16秒 | 白州町見て聞いて

白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)
 (「白州町誌」昭和61年)
白州町上教来石、古屋長吉の長男として嘉永二年四月十日に生まれ、幼名を徳太郎という。
東京松屋デパートの前身である呉服反物商鶴屋の創始者である。
氏は文久元年、十三歳で江戸に出て日本橋本石町一丁目にある豊島屋五兵衛という薪炭仲買人の家に身を寄せた。
時あたかも明治維新の大変革に遭遇し、主家が倒産したので郷里に帰る。その後家産所持品などを売却して金に代え、再び横浜に出て呉服の仲買商を始めた。
慶応四年二十歳の時江戸・横浜問を往復しながら横浜緑町に呉服商を開業した。
明治二年横浜の石川口に鶴屋呉服店を開業し徳兵衛と改名する。誠実と勤勉で商にあたったので店は大いに発展した。
明治二十三年、東京神田今川橋の松屋呉服店が経営不振になつているのを買収して立て直し、松屋と名のった。
明治三十六年代には横浜貿易銀行・横浜実業銀行などの取締役に耽任し、また東小呉服、反物協会頭取として繊物税問題で奔走するなど業界において大活躍した。
また氏は商道に徹し、華客であるとして客人を大切にしたり、店員を優遇し当時は年期奉公が普通であつたが給料を与えて、積み立てさせて株金として配当をつけてやるなど気を配り事業を拡大していったが、その陰には夫人満寿が和裁などを教えて店員教育に心がけたり、端切れ布の小売りや、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って客に提供するなど、今日のバーゲンセールに相当する特売日の創始者として努力したことも松屋デパートの繁米につながっている。
一方氏は郷土愛に燃えており、鳳来小学校の子弟のために多額の金銭や物品など数十回にわたって寄付している。鳳来小学校跡地(現熊本ジユースエ場敷地内)にはその業績をたたえて顕徳碑が立てられて永くその功績を伝えている。明治四十四年七月六十二歳で残した。
 (「白州町誌」昭和61年)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
古屋徳兵衛(3代) ふるや-とくべえ 
 1911-1992昭和時代の経営者。
明治44年1月1日生まれ。名古屋地裁の判事をへて,父の2代目徳兵衛の死去にともない,昭和13年家業の松屋呉服店(現松屋)社長となる。戦後,アメリカ軍に接収されていた銀座本店,横浜店の再開復興につとめる。51年横浜店を売却し,伊勢丹から山中鏆(かん)を副社長にむかえ,経営を立て直した。47年日本百貨店協会会長。平成4年11月7日死去。81歳。神奈川県出身。東北帝大卒。幼名は祐次郎。
松屋 (百貨店) – Wikipedia
概要
1869年に横浜で創業された呉服店、鶴屋の流れを汲む百貨店。拡大路線をひた走ったが、1970年代のオイルショック以降に経営難になり、銀座店と浅草店の2極体制になる。経営再建には東武百貨店と伊勢丹が関わった。仕入れ関係は、松屋と伊勢丹主導で結成した全日本デパートメントストアーズ開発機構(ADO)に加盟し現在に至る。
高級ブランド、ラグジュアリーファッションやアクセサリー、豪華絢爛な店舗の内・外装で、根強い女性ファンが多い。銀座を代表する百貨店である。
伊勢丹との提携伊勢丹(現・三越伊勢丹)とは1971年の「業務提携に関する覚書」、「商品券の相互利用に関する契約書」の締結や、1973年のADOの設立などで幅広い提携強化を図ってきた。2002年11月には更なる提携強化を目指して伊勢丹の株式を買い増し、副社長も同社から迎えた[1]。しかし、2007年に三越と伊勢丹の経営統合が発表されると、両社間にすきま風が吹き始める。伊勢丹が統合する三越の銀座店は、松屋の競合相手のためである。2007年秋のADO会議において、同機構の総合幹事店である松屋は欠席した。
伊勢丹は今も大株主に名を連ねている。
沿革
1869年12月5日(明治2年11月3日)- 初代古屋徳兵衛により横浜石川町にて「鶴屋呉服店」を創業したのが始まり。
1899年(明治32年) - 東京神田今川橋の松屋呉服店(1776年(安永5年)創業)を買収し、東京へ進出。当時は「松屋呉服店」「鶴屋呉服店」の屋号を並行して使用していた。
1978年(昭和53年)まで使用されていた紋章は「松」と「鶴」を形取っていた。
1903年(明治36年) - 合名会社松屋呉服店となる。
1908年(明治41年) - 呉服以外に雑貨、洋品の販売を始め、化粧品、帽子の一部を海外より直接輸入して販売するようになり発展した。
その後、銀座、新宿、浅草、横浜関内の吉田橋際や伊勢佐木町に店舗を構えるなど、事業を拡張。
1970年代 - 70年代前半のオイルショック後、経営が傾き、現行の東京銀座と浅草の2店舗体制となる。再建の過程で東武百貨店や伊勢丹との関係を強化。

店舗 
東武鉄道浅草駅ビルにある松屋浅草店日本国内店舗銀座本店
1925年(大正14年)5月1日に開店。翌年に本店となり、今に続く。地下1階、地上8階の豪華な建造物であったが、太平洋戦争後の一時期は、連合軍のPXとして接収されていた。昭和20年代後半に接収が解除された後は、豪華絢爛であった外装、内装が改装によって廃された。
開店当初は贅を尽くした内装で耳目を集め、圧巻は正面玄関入ってすぐの中央ホールであった。天井のステンドグラスはローザリーの華やかなもので、ホールの内側の柱はモザイク模様を取り付け、1階のホールの四方はサラセン風の漆喰模様で飾られていた。7階のホール周りはサラセン風の柱廊となっていた。現在でも残っているが、エスカレータ脇の鉄板が張られている吹き抜けは、当時、地上7階まで吹き抜けであった中央ホールの名残でありファッションショーも開催されていた。1964年(昭和39年)、東京オリンピックの開催に合わせて大改装を行い、現在の形となり、また、現在の外装は4代目となる。あまりに大幅な改装が行われているため、建築当時の面影は皆無に等しい。竣工当時のエレベーターはオーチス製。当初は客用正面に6台、ホール周りに2台、他に社員用、荷物用、料理用などがあった。それでもビルの裏へ回ると、いくつかの窓が見られる。

銀座松屋と鶴屋呉服店
銀座松屋の創業時代のエピソードをネットで調べてみました。
松屋の前身は鶴屋呉服店という名前でしたが、松屋呉服店を買収して現在の松屋に至っています。さて、「買収」という言葉を聞くとどんなイメージですか?
マスコミで話題になったニュースからですと、お金の力で他の会社を乗っ取るような、ダーティーなイメージが強いようです。しかし、企業の生存競争と事業拡大のために「買収」は盛んに行なわれています。
松屋が鶴屋呉服店に買収されるようになったエピソードを紹介します。
 『横浜の鶴屋呉服店は明治2年の創業と日は浅いが、横浜が新興都市として成長するのに応じて大きくなった。明治22年のこと、取引先の塚本商店から東京・神田今川橋の松屋という呉服店を買わないかと持ち込まれた。問屋としては売掛債権の確保のためだろう。
 鶴屋の古屋徳兵衛は「他人の不幸につけこむようなことはしたくない」と、いったんは断ったが、東京進出というのは魅力がある。さらに詳しく聞けば松屋は老舗ではあるが、神田の大火災で大きな被害を受け、跡継ぎの長男が稼業を顧みないなどで、適当な買い手を探していることがわかった。
そこで古屋は言い値の 13,000円で、従業員18名もそのまま引き取った。当初80,000円程度の売上げが、30年には20万円に伸びている。後に創業の横浜の鶴屋の名を松屋と改名して今日に至っている。最近の銀行が3階建ての名称にしたりしているのに比べると、さっぱりしたものである。』
「鶴亭雑話-M&Aへの備え」より
松屋は鶴屋に買収されることによって経営危機を助けられたのですね。さらに、松屋とかかわりのある取引先や松屋の従業員にとっても助けになったのでした。
「他人の不幸に付けこむことはしたくない」という言葉は、後に銀座の松屋として本店を銀座に出すだけの人徳を感じますね。


白州人物史 宮川義汎 県会議員 電力尽力者

2020年12月19日 07時21分27秒 | 白州町見て聞いて

白州人物史 宮川義汎 県会議員 電力尽力者
(白州町横手「駒の松」所有者(枯れ死))顕彰碑がある。
 
慶応元年八月十四日、旧駒域村横手一八九九番地、武川筋の名門宮川伝左衛門・はんの二男として生れる。
はじめ甲府徴典館に学び、のお上京慶応義塾に学んで帰郷した。
温厚で衆望厚く明治二十八年駒城村長に選ばれ村政に尽し、
明治三十年郡会議員に、
明治三十二年には県会議員に当選。のち県参事会員に推されて功績を上げ、政友会県支部総務にもなって県政界に貢献した。
その他郡農会長、地方森林会議員、赤十字山梨支部商議員等多くの要職を歴任した。その問県道改修、穴山橋改築など氏の力にあずかるところ大である。
一方実業界にも敏腕を振い、大正二年七月、高尾水力発電株式会杜を設立、取締役となり(中巨摩郡榊村上宮地に高尾発電所建設)。
大正十年三月駒電力株式会杜取締役杜長(竹宇大原発電所、同十五年一月青木発電所建設)に就任、続いて中央電力株式会社監査役も歴任し電力界に偉大な業績を残したことは特筆すべきことである。また山梨銘醸株式会杜(七賢)、甲斐無尽などの各会社にも関与して進展に尽した。
このように氏は家を妻「ます」にまかせて日夜東奔西走、社会のため人のために尽したことは万人の認めるところである。
惜しくも昭和七年六月六日、八十四歳で逝去したが、有志相図り横手の(駒城小学校入口)駒の松の敷地内に類徳碑を建立、永くその功績と徳を讃えている。
  (「白州町誌」昭和61年)


白州人物史 埴原 一亟 芥川賞3回候補に上る

2020年12月19日 07時19分29秒 | 白州町見て聞いて

白州人物史 埴原 一亟 芥川賞3回候補に上る
 
白州町白須上出身
産まれ 明治40年(1907)
早稲田大学露文科中退
芥川賞候補作品
第12回「店員」 
第13回「下職人」 
第16回「翌檜」   
 
主な作品と履歴
◇『人間地図 』 埴原一丞  創思社 昭44  
◇  『一国一畳ぼろ家の主』 栄光出版社 昭52  
◇  『東京湾の風 画像』 埴原一丞  栄光出版社 昭56 
◇  『蒼白きインテリ』
◇  『埴原一亟創作集』
◇  「文芸復興」同人
◇  東京作家クラブ会員