北杜市偉人伝 小尾守彦 『北巨摩郡勢一班』(一部加筆)
寛政四年(一七九二)甲村五丁田(北杜市高根町)なる里正の家に生れ、通称兵之進、諱は保教、字は子孝、鳳山と号した。幼にして谷戸の祠官某に学び、其の後独学独習一家を成し又書を能くした。蕪(かぶら)庵二世蟹守に就いて俳諧を学び悟入造詣深く、同門下中の逸才で、遂に師の衣鉢を継ぎ「蕪庵三世守彦」と称する。私塾を開き子弟を教養すること千余人、弘化元年(一八四五)九月四日、行年五十三歳で病死した。『人道辨義』一冊『人道俗説辨義』二冊、
『鳳山詩文稿』二冊、『新編俳諧文集』一冊、『土鳩集』等の著書がある。其の辞世の句に曰く、
名月の名残ばかりとなる夜かな
門人師翁の徳を後世に伝えんが為、一代の詠草を蒐め『旭露集』と称して上梓した。
春の雪少しの物の上に降る
秋立つや夜の次第のしれながら
置扇問はれて譯もなかりけり
ある上にある上にあり田螺殻
新蕎麦や味につれたる里の寂
芥子散るや蝶の力もやゝ見ゆる
伸直る臥猪のあとや青薄
折りおりは風の助けたる鳴子哉
峡北偉人伝 塩崎村宇津谷 有泉棔齊『北巨摩郡勢一班』(一部加筆)
明治初年の俳壇に立ちて峡北の天地に燦爛たる光彩を放ち、而もー種独特の凰調を有して人に媚びず世に阿らず能く自然を吟じ、能く実情を描き才名を壇にしたる者は塩崎村宇都谷の有泉棔齊である。彼は同村久保寺平左衛門に就いて詩文書を学び、その傍ら武術を修めまた浄瑠璃や謡曲の諸芸を学んだ。
ある年甲府の豆々花通志が同村妙善寺に俳諧連座を開いた時、彼は書を能くするの故を以て宗匠を助け執事をなし、遂に師弟の契りを結んだ。これが俳諧入門の一歩である。而して研鑽する處愈深く、遂に俳人として頭角を現すようになった。同村には昔時芭蕉翁の句碑螢塚なるものがあったが、星遷り物変り何時しか湮減に帰せしかば、明治十八年これが再建を企て
畫見れば首筋あかき螢かな
の句を自ら揮毫して一基の碑を建てた。従游する子弟多く探志、梨柳、松逕等の高足が輩出した。明治二十二年一月四日、八十二歳の高齢を以て此の世を去った。
門人相謀り翁自詠の句、
二日見ぬ柳青木となりにけり
の碑を建てた。
柳見に行けば雨ふる澤邊かな
菊の花数々どれも咲いたげな
薮世帯今日も時雨で日暮哉
神道を心に歩く春日哉
蔦からむ古木の蔭や蝸牛
神道の修業とて上る山路にて
夕立や高天ノ原に上る道
等が秀吟である。
北杜市偉人伝 山本閑湖 長坂町
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
名は裕、秋田村大八田(北杜市長坂町)山本甚五左衛門の長男で、文政八年(1825)六月六日に生る。峡中の歌人輿石守郷の実兄である。
權大教正に任ぜられ同村郷社建岡神社の社司を奉じた。和歌及俳句に長じ其の遺吟が少なくない。明治四十二年(1909)六月二十日逝去した、享年八十五。
ぬれ色に晴れ間を高し五月不二
八ケ根のふもとのさくら咲きにけり 山田のゆたね今やまくらん。
韮崎偉人伝 金井志雪(白眞斎志雪)
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
凡俗を超越して俳諧三昧に一生を終り、巨万の富を見ても芥の如く、人の栄達を見ても羨まず、思想淡白人の褒貶を度外においたのは白眞斎志雪である。彼は元諏訪の藩士で廃藩の際官途に就き、若しくは産業に従事する事を欲せず、本郡に流れ込み円野村・清哲村、韮崎等に寄食し遂に韮崎町の馬方茶屋秋山留吉方で生涯を終った。生涯独身で邊幅を餝(かざ)らず、足らざれば受け、余りあれば輿へ、其の無慾なる蓋し稀に見る所である。彼は嘗て江戸詰をして居た際俳諧に趣味を持ち、月の本爲山に師事して、正風俳諧を習得し、本郡に来て俳道を鼓吹誘導した。
韮崎町の池田稻月が組織した天狗党の顧問として発達を助け、岡倉は大正三年(1914)十月白髭神社境内に
くれかゝる枝から明ける桜かな」
の句碑を建てた。
大正十年(1921)初冬、病に罹って起きることが出来なくなる事を知ると
今一度見たし木枯なぎた跡
の句を吟じた。これが志雪最後の吟である、其の坦懐思うべし。同年十月八日八十歳を一期として永眠した。韮崎天狗曾は厚くこれを葬り、一基の石碑を建て、其の裏面に略歴を刻み生前の徳に報いた。(現存する)
【註】七里岩の共同墓地(平和観音の筋向い)の入口に天狗会の句碑がある。
韮崎市偉人伝 伊藤松逕 穴山
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
穴山村の人。実名は勘左衛門、壮年の頃勝山享□(扌昏)斎に就き俳諧を尊び、晩年に迨(およ)んで全く俗事を擲(なげう)ち専心俳諧の奥儀を究めんと志、自然は詩歌の良師なることを思い、一葢の笠一枚の杖によつて天下を漫遊し詩嚢を肥やした。
清見寺より三保の松原を望みて
羽衣と見えて霞むや三保の松
須磨の浦にて
初花や制札かきし武蔵坊
寧楽の舊都にて
春寒し足のきかざる大鼓橋
などの句がある。明治三十八年(1905)二月十三日齢七十二にて長逝した。其の節世の句に曰く、
世に耻(はじ)をかき捨てにして春の旅
韮崎市偉人伝 宮澤随斎 藤井
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
通称を彦太郎と云い、「駒の家」又は「素堂」と号した。初め東都の此華庵鶯洲に就いて俳諧を学ぶ。後京都の花の本聴秋に入門して研鎖をつみ造詣する研が深かった。明治三十六年(1903)還暦の齢に当り四方より祝草を請い、自詠を合せて「千代見草」という一書を刊行した。其の時の自賀の句に曰く
身にあまる其の賜物や花の数
又聴秋師より立机(宗匠となること)を許された時
旭に添ふてかをり初るや薮の梅
と吟じた郷社常麻戸神社境内に
人はよき友と交れ月と梅」
の句を後昆に遺すべく石に刻し、大正九年(1920)二月十一日永眠した。齢八十歳。
北杜市偉人伝 輿石守郷 長坂町➡甲府
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
物質文明の悪弊天下を風靡し、国民精神の漸く薄くなろうとするときに当り、特に県下唯一の国学の士輿石守郷翁の如きを想い起さざるを得ない。
輿石守静は本姓山本、天保八年(1837)二月秋田村大八田(長坂町)甚五左衛門二男として生れ、郷社建岡神社紳職輿石森喜の家を継ぎ、その姓を称したのである。
幼名を亀之助と云い「岡廼舎」と号した。幼にして堀秀成に師事し、後、落合直澄に就き本邦の古典及和学を学び、明治八年(1875)国幣中社浅間神社の主典となり居を甲府に移した。同十八年同社の禰宜に進み、明治十九年(1886)郷社稲積神社祠官、併せて山梨神道分局長に任ぜられ、四方の諸社を併管し山梨皇典講究分所長ミなつた。明治三十九年(1906)大教正に進み、明治四十三年(1910)病を得て職を辞し、病床に就くこと一年、明治四十四年(1911)八月享年七五にて逝去し、城北愛宕山に葬る。
性篤実撲素にして、あえて邊幅を飾らず、好んで和歌を吟詠し、雑誌「えびかづら」を刊行し、また「鶯蛙会」を設け歌道を奨励した。為に本県和歌の隆盛を見るに至った。又俳句を善くし戯曲・浄瑠璃を嗜み、能く飲み能く談じ、酔えばすなわち諧謔(かいぎゃく 機知や滑稽と同じく笑いを引起す)百出傍に人なきが如く痛快であった。或る人が守郷の草字を誤り、「馬太」と読み「馬太先生」として応答した。翁は喜び以来俳名を「岡の合馬太」と称した。
蜀山人の故事にも似て洒落想うべきである。その著す所
「甲斐古社考一巻」・「補正活語図解一巻」・「伊勢物語段解」
等世に行われている。
又山梨湯田裁縫女学校長として伊藤うた女史を援け、同校の発展に尽瘁する事前後十七ケ年、同校の今日の隆盛があるその大半は翁の力によるものと云っても過言ではない。
翁辞世の歌は実に人生観である、その数首を掲げる。
辞世
うきをのみかぞへてなにかなけくらむ たのしと思へば楽しかる世を
新年
いまになほをさな心のうせずして 年のはじめは嬉しかりけり。
早春川
不盡川のこほり流れて下るめり 甲斐の国原はるやたつらむ
窓前春雨
ほろほろと垣根のこぶし花ちりて 窓の外しろく春雨ぞふる。
行路卯花
うたひつつ静にゆかん卯の花の 雪の山路は寒けくもなし
暁郭公
ほととぎす今宵もかなとまつの戸を おしあけがたの月になきけり
螢
照らさやばのがれんものを夏虫の 光りぞ遂におのが仇なる
荻風驚夢
昔しへにかよふ夢路なさまたげて こよひも吹くか荻の上風
露
風吹かばみだれやせんと朝露の おけるかうへにおく心かな
月
月見ればいよいよ丸くなりにけり 千々にくだきし秋の心も
時雨
引き捨し鳴子の縄もくちはてゝ とぎれとぎれにふる時雨かな
社頭落葉
冬もまた浅間のもりの朝風に ぬさとみだれてちる紅葉かな
庵雪
怠りて掃きもきよめぬ朝庭を かくすや雪のなさけなるらん
寄簾恋
玉すだれたまたま人を見てしより ゆらぎ初めたる我こころ哉
峡北偉人伝 野村宗貞 双葉町(現甲斐市)
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
江戸の人で塩崎村宇津谷字中八戸にきて住した。彼の楯無堰はその居宅で計画したもの
で、その偉業遺徳は堰の流れとともに、千歳盡きざる大恩人と仰がれている。
野村宗貞は天和二成年(1682)二月二十日同所で没した。その家近世に至って断絶して廃家となったから、村人背謀りて碑を墓畔に建て徳を不朽に伝える。
北杜市偉人伝 助之丞、市郎右衛門 長坂町
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
昔秋田村大八田(長坂町)に助之丞、市郎右衝門という義人があつた。
元文四年(1739)四月前年よりの凶作で飢餓に迫るものが多かった。助之丞、市郎左衛門の両人これを見るに忍びず、居村は勿論近村まで多額の米を施興した。為に救われたもの大八田村に百八十人、長坂上條に四十九人・外六ヶ村に百五十人、米十二石八斗四升(但し三升桝にて)此の篤行は官に聞こえて同年五月松平左近将監、神尾若狭守外六人の連署にて御褒美白銀十枚を両人に下された。
北杜偉人伝 繁官利左衛門 小淵沢町
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
長野諏訪郡境村並に本郷村の地籍に係る八ヶ岳の内字編笠岳、擬寶珠岳、虚空蔵岳、西岳、広原等は往古より小淵村並に諏訪郡舊上蔦木村、烏帽子村、瀬澤新田村、葛久保村、先達村、田端村、池袋村、高森村、小六村、乙事村、立澤村等の入会地であったのに、小淵澤村は距離遠き上に、証拠薄弱なるに乗じ、諏訪郡各村は小淵澤村を除外せんとした。時に繁官利左衛門総代に選ばれ江戸奉行所に訴を起し決せざること十数年、村民倦怠して費用を弁償せざるようになった。利左衛門は成果なく帰村し、自家所有の田畑は勿論世帯道具、建具等に至るまで菅売却して其の費を調べ、終にその訴訟に勝利を得、今に至るも其の入会権を継続してる。後人氏の業績を徳として字「井詰原」に石嗣を建て氏の霊を祀ってある。
常時の裁許状
八ヶ岳山逸見筋小淵澤と諏訪領蔦木村山出入ノ事以見分遂穿鑿申付上者長谷澤ヨリ境
川迄如先規之双方可為人相若此旨相背者曲事ニ可申付者也
坪井金太夫 印
石川三右衛門 印
伊奈半十郎 印
宮城越前守 印
甲州逸見筋小淵澤村
名主 惣百姓中
北杜市偉人伝 丸茂忠兵衛 須玉町
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
丸茂忠兵衛は多麻村上小倉の人である。夙に公共の事莫に尽力少なからず、明治十八年
(1885)選ばれて山梨県会議員となり、県治に貴臥することもまた少なくなかった。
多麻村の北に突起する班(まだら)山は明治八年(1875)検地の時官有地に編人せられ、芻蕘雉兎の者為に困窮した。氏これを憂い諸人と謀り官にその復帰を訴願し、官縷々吏員を派遣して案検し、明治二十九年(1896)十一月七日民有地に復帰することを得た。これ氏の功績なりりて区民相謀り碑を建て其の徳を不朽に伝える。
北杜市偉人伝 三井治左衛門 大泉町
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
三井治左衛門 大泉村西井出の人、明治初年(1868)西井山村の地傍、八ヶ岳山麓原野三千餘町歩の入会山に関し、境界を争って両党分立し久しく決せず、氏是れを憂い実地を歩査し、文書を勘校し官に訴え境界を正くする。是れによって諸村諧和して長く紛擾を絶つことができた。諸人之れを徳とし尊敬せざるはなかった。後八ヶ岳山峰甲信の境を正しくせんと欲し、嶮峻を凌ぎ地理を測っていた処、天色忽ち変じ急雨昏黒衆色を失う。深山寒気特に甚だしく濕衣凝氷、氏は遂に凍死する。實に明治十六年(1883)九月二十九日である。享年四十有九、郷土の人碑を建て徳を不朽に伝える。
韮崎市偉人伝 内藤朝政
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
円野村(現韮崎市)の人、幼より書を読み、剣を学ぶ。少壮京に上り勤王の士々と交はる。明治の初、郷に掠り村吏又は郡吏となり公共の事業に力を尽くす。後感ずる所あり退職して栗原信近氏等と産業方面に従事し功績多し。
明治十二年(1879)県会議員に挙げられる。
翌年、明治天皇本県御巡幸の際に御小休の栄誉を賜い、拝謁を賜りたり。
明治二十二年(1889)九月二十七日に歿す、行年五十五歳。
明治十三年(1880)聖上陛下御巡幸の際御小憩あらせられし縁故により、明治十五年(1882)三月東宮殿下行啓の際田内侍従を派遣せられ、令旨を嗣子彦一に伝えさせ給う。
韮崎市偉人伝 千野林蔵 龍岡
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
天保元年(1830)龍岡村に生れる。天資頴悟、年壮なるに及び県の四傑と称せられ、名声県下に轟き、
明治二年(1869)十二月郡中総代となり、甲府県に出仕し、
明治三年(1870)十二月甲府県より河除掛惣代を申付けられ、
明治四年(1871)堤防取締役を拝命、勤役中帯刀差を免ぜられる。
明治五年(1872)十一月山梨県より戸長申付けられる。
明治八年(1875)一月巨摩郡二十四区長申付けられる。
明治九年(1876)一月巨摩郡二十四区長兼学区取締を申付けられる。
明治十年(1877)県会幹事に申付けられる。
明治十一年(1878)十二月北巨摩郡長に任ぜられた。
明治十八年(1885)七月、職を辞して閑生活に入るまで、公職に尽瘁すること二十年である。
明治三十二年(1899)八月長逝した。
初代郡長
郡名 初代郡長 郡役所所在地 所属町村数
東山梨 加賀美嘉兵衛 平等村 村31
西山梨 八代駒雄 甲府常磐町 町59
村15
東八代 加賀美嘉兵衛 鶴飼村 村42
西八代 名取善十郎 市川大門村 村35
南巨摩 名取善十郎 鰍沢村 村25
中巨摩 三枝七内 竜王村 村52
北巨摩 千野林蔵 河原部村 村44
南都留 斉上斉 谷村 村21
北都留 鯛淵忠常 大原村 村18
北杜市偉人伝 小松益(?)謙 長坂町 小泉
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
幼名を道三郎と云い、後に益謙と改める。別に漱石又は撫泉と称した。
文政二年(1819)十二月小泉村に生まれる。幼時、竹村淇齋に就いて書を学び、又竹村山陽に従い画を習う。
明治五年(1872)副戸長になり、区長、区長惣代理、北巨摩郡書記等を経て中巨摩郡長に任ぜられ.後山梨県会議員に選ばれ、甲府治安裁判所判事に任ぜられる等公職に尽すこと多年、遂に退きて文墨を弄ぶ。絵画は殊に山水人物に妙を得た。明治四十一年(1908)八月郷里にて永眠する。享年八十歳。
北巨摩郡偉人伝 綱蔵輝明 双葉町(現甲斐市)
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
網倉氏は其の本姓は平賀である。世々通称を平輔と称する。
輝明の親父平輔嗣無く竹内氏の子を養って嗣とした。これを輝基翁と云う。輝基翁思へらく、他家を継がばその家産を起すは義務であると。奮然殖産の志を起し、自ら倹素を守り日聴稼穡に勤め、遂に室内の富を致した。その子輝明、人となり温厚篤實で仁慈の心に富み、貧を憂い、窮を救い美事善行勝り数える可からず。
偶郷党に結党の事があって、父輝基嫌凝を被り獄舎に囚われる。輝明自ら絶食して神明に祈り父の難を救おうとした。
その孝心が神に通じ難なきを得たのである。輝明また書画を好み古書画あれば、財を惜しまずしてこれを買い求めた。故に元明以下の真蹟が櫃に満つる程集めた。
惜しいかな此の人齢僅に三十七にて明治十三年(1880)三月此の世を去った。
韮崎市偉人伝 栗原信近 『北巨摩郡勢一班』
一部加筆
明治の二宮尊徳と称すべきは実にこの栗原信近翁である。翁は弘化元年(1844)九月穴山柑次第窪に生れ、幼名を希助と呼び後に傳左衛門と改め、柴山樵夫、梧園耕夫の号がある。資性温順常に意を産業の振興に致し、公金事業に尽瘁して東奔西走眞に席温まるに暇あらずの形容詞が適当している。其の事業の大要を摘めば、原野な開墾して移住の途を開き、銀行を設立して金融機関の運転を創始し、養蚕を勧め、製紙業の振作を図り、或は富士川に新水路を開鑿して運輸交通を促し、南陲の諸村三椏(みつまた 紙の原料)栽培に通ずる事を見るや、殖産社を起して民に職業を授け、市川紡績所を起してその業の発展を企て、或は養鶏、植林・勤農及四品取引の業に、或は風俗改良勤倹貯蓄の奨励に、或は葡萄の栽培に、或は信用組合の設立に、老體を忘れて奔走し、清廉潔白、世に阿らず人に衒(てら)わず、賢に勧業の木鐸であった。
編者明治の末年ゆくりなく中巨摩郡宮本村大黒屋で信親翁と同宿した。時に十二月末にて筧の水も氷柱を垂れる寒さであるにも関わらず、翌朝未明齢七十に垂たる翁の水垢離をとっていったには少なからず感激した。而して其の日は無言の日とて終日啞の如く一言も発せず、筆にて一ケ月に一日無言日のあることを告げたその修養想うべきである。
明治三十七年(1904)十二月六日勅定藍綬褒章を賜はり、明治四十五年(1912)東宮殿下本県行啓の際(四月一日)御旅館に召され、波多野東宮太夫より多年実業に奮励の段御満足に思召さる、御令旨を伝え、且つ茶菓を賜わる事の光栄に浴せり。大正十三年(1924)六月十四日多大の功績を遺して此の世を去られた。行年八十一歳、泉龍寺に葬る。
北杜市偉人伝 長坂町塚川 三井松軒
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
通称将監後に松軒と改める、諱は栄親、文政元年(1818)十二月、日野春村塚川に生れる。資性温厚、幼にして学を好み研鑽克く力め、後に医を業として貧者に施療した。また地域の子弟に謹書習字を教授し、教えを受ける者数百人、元治元年(1864)武田耕雲斎当国に乱入の聞あるや甲府勤番に従い長澤口(高根)を警衛した。明治元年(1868)上野原関門の警衛に当り、同年総督府参謀入国護国隊編成に付其の取締役となり、後戸長区長の職に就き信州往還関通の事業、小学校創立等に貢献するところがあった。特に日野春開拓の時にはその世話係りと功績が少なくなかった。明治十年(1877)郷社の祠官なり、同十五年(1882)八月十三日、八十五歳を以て病歿し神道管長より樺少教正を贈られた。
参考記事 杉浦醫院四方山話: 5月 2014
韮崎市偉人伝 八代駒雄 穴山
『北巨摩郡勢一班』一部加筆
八代駒雄は穴山村(韮崎)に生る。学を堀秀成に受け.後権田直助に師事し、国学の造詣深く、和歌を能くした。彼の家世々医を業とした。初め家業を継ぎ、医を業としたが、壮年に及び信州諏訪神社の宮司及び国幣中社浅間神社の宮司を歴任し、後郡長に任ぜられ西山梨、中巨摩、南巨摩、東西八代、南都留等の郡行政に従い、其の功績が少なくなかった。明治三十一年(1898)南都留郡長在職中逝去した(11月、徴兵問題にからんで、自殺(58))。資性誠実厳直尊王愛国の念深く、至誠人を率いた。
四子ありいずれも俊秀、
長男を秀雄と云う、医学専門学校を卒業し、祖業を継ぎ居を甲府に移した。
次男を澄雄と云う、医科大学を卒業の業を卒へ医学博士の単位を授けられ、侍医に登用される。
三男を建男と云い、陸軍砲兵少佐となる。
四男を春雄と云い、これまた医科大学を卒業し医学博士の学位を授けられる。
山高神代桜の和歌 明治時代(『武川村誌』一部加筆)
甲斐 八代駒雄
七ひろにあまる桜は七国を たつねてもまたあらしとそ思う
郡名 初代郡長 郡役所所在地 所属町村数
東山梨 加賀美嘉兵衛 平等村 村31
西山梨 八代駒雄 甲府常磐町 町59
村15
東八代 加賀美嘉兵衛 鶴飼村 村42
西八代 名取善十郎 市川大門村 村35
南巨摩 名取善十郎 鰍沢村 村25
中巨摩 三枝七内 竜王村 村52
北巨摩 千野林蔵 河原部村 村44
南都留 斉上斉 谷村 村21
北都留 鯛淵忠常 大原村 村18