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歴史展望 日本と朝鮮 その真実

2023年09月10日 10時54分56秒 | 戦争の記録

歴史展望 日本と朝鮮 その真実

 

 最近の報道で、『関東大震災』「朝鮮人暴動」取り上げている。しかしそれは短絡的・断片的な扱いが多い。戦国時代豊臣秀吉による朝鮮出兵での朝鮮の人々への残酷な仕打ちは目を覆うばかりである。

 

秀吉の朝鮮出兵の基礎史料

 

(『歴史読本』「日本史資料の基礎知識」臨時増刊号 1994・春号 入門シリーズ) 一部加筆

 

豊臣秀吉の朝鮮出兵とは、いうまでもなく文禄・慶長の役と称されている二度の出兵のことである。この意志が初めて表明された時期は、天正13年(1585)九月頃とされているが、秀吉は、この時すでに唐国(=明)までの大遠征を構想し、これを譜代の重臣らに告げていることも、岩沢悳彦氏によって紹介されている (『伊予小松一柳文書』)。 

さて、島津氏が秀吉に服属し、九州制覇が完成してからは、秀吉の意志も徐々に明確なものになっていった。天正15年5月には対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属交渉を始め、朝鮮がそれに従わなければ、翌年には出兵することを九州の陣の直後すでに北政所にも書状で伝えているのである(『妙満寺文書』)。

 天正十八年、宗氏の交渉の結果、秀吉の日本統一を祝福する朝鮮使節が来日した。この時秀吉はこの使節を服属使節と思い込み、明征服の意志を告げ、その先導(=征明嚮道)を命じた。だが朝鮮側は、これを拒否した。

しかも小西行長らは、明に入るための道を借りたいという名目(=仮途入明)に替えて交渉を繰り返したがこれも挫折し、文禄元年、未曾有の大動員で文禄の役が開始された。

 緒戦で日本軍は、加藤清正らの善戦によって朝鮮の首都漢城を陥落することに成功した(『韓陣文書』)。その後、日本軍は朝鮮の全八道に清加藤正の他、福島正則や宇喜多秀家、小西行長らの部将を配備して、転戦していった。

しかし朝鮮軍も、義民らの決起や李舜臣率いる水軍の活躍によって日本軍の兵糧補給路を断つことに成功し、平壌と碧締鯖の戦いでは李如松らの防戦で後退を余儀なくされたため、秀吉は七か条の講和条件を提示し、停戦を迎えることになった。

 ところが朝鮮側は、秀吉の求めにあった明との仲介を無視した。そのため、一旦結ばれた和議も破綻し、第二次朝鮮侵略(=慶長の役)が開始されることになったのである。

 慶長二年(一五九七)七月、日本軍は再度朝鮮に上陸し、侵攻を続けた。この時は加藤清正が蔚山城に、小西行長が順天城に在番したが、戦況は厳しく、戦線縮小論も出始めた。だが、秀吉は「老若男女薙斬れ」と命じたため、慶長の役では日本軍のゲリラ的殺りくが繰り返された。ここに示した史料もその一部で、戦場で「鼻斬り」は武将の戦意鼓舞と功名心を煽るために強制されたのであった。

(『吉川家文書』)。

 この他、日本軍は朝鮮農民や陶工、朱子学者を捕虜として強制的に日本へ連行した。しかし、翌年八月十八日には太閤秀吉が大坂城で死亡したため、豊臣政権の朝鮮出兵も一変した。長く苦戦を強いられていた戦場には、徳川家康ら五大老、五奉行の撤退の指示が出されたのである。撤退の際には、朝鮮軍の追撃による打撃も受ける結果となり、また、敗戦色濃厚だったために生じた部将間の感情的なもつれは、以後、豊臣政権崩壊の遠因にもなっていったのであった。 △ 會田康範氏著 ▽

 

1910年 明治43年

1910年7月23日,日本軍の護衛を受けてソウルの日本人街を通過,着任する三代統監・寺内正毅の一行「併合」とともに与内は、そのまま初代の朝鮮総督になり、引「後には内閣総理大臣となる。

 

O「日韓併合1910年8月22日」

 

1910年8月22日、軍隊の警戒と憲兵の巡回の中で「日韓併合ニ関スル条約」が調印された。 

これは一連の朝鮮植民地化政策の仕上げともいうべきむので、第1条に

「韓国皇帝陛下ハ韓国ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久二目本国皇帝陛下ニ譲与ス」

とあるように,朝鮮はついに国家としてのすべての権利を目本に奪われたのであった。

この「併合」が公表されると、朝鮮全土は大地をたたいて泣く声に満ちたという。一方、日本では軒なみに国旗が飾られ、花電車や旗行列などの祝賀行事が行われた。目本国民の大多数は、社会主義者の一部もふくめ、この「併合」を歓迎、容認したのだった。

「併合」を指揮した寺内正毅は、祝宴の席で

「小早川加藤小西が世にあらば、今宵の月をいかに兄るらむ」

という歌を詠んだ。秀吉の武将たちが果たせなかった朝鮮征服の夢を白分が果たした、という得意満面の歌であった。

 

石川啄木は,

「地図の上 朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聞く」

と、「併合」の本質をさめた眼で歌ったが、こうした声は圧倒的に小さくささやかなものであった。

*事例

 景権官(王宮)の勤政殿に掲げられた日章旗「併合」と同時に日本は朝鮮各地に日本の国旗を掲げた。

 

「併合条約」朝鮮語テキストの末尾部分

 

朝鮮側の内閣総理大臣として署名した「李完用」の名は,以後売国者の代名詞として使われるようになった。

……韓国の如きは元来,独立国として存在し得べき硬度を有する物体に非ず。その二千年の歴史も多くは他の国家に依附随従したる事蹟にして,日清両国を硬く丸き物体にたとうれば,その接触せざる隙間にありて僅かに不完全なる国体を維持せしのみ。近年西洋列強の圧力しきりに東洋に加わるに及び,日清露米美の隙間を転々せしが,遂に国としての存在を保つ能わず,破れて日本に合することとなれるなり。

……斯くのごとき国家の偽物がポンペーの博物館に陳列せられずして日本の隣に存在せしは,国際関係の密接ならざりし結果にして,交通貿易に不勉強なりし東洋人種の恥辱なり。

今度朝鮮が日本に合併せらるるを見て,或いは二千年来の懸案を解決したりなんと誇る人も有る如くなれども,この一問題が二千年も片付かずとは,随分悠長なる次第というべし。

然して二千年前より日本にねらわれながらその防禦策を講ぜざりし朝鮮人の無神経は更に驚くべきものと言わざるべからず。

……韓国合併後は,いかにして朝鮮人に文明の昧を覚えしめ,日本の有難さを知らしめんかというは,即今の一問題にて間々,韓人服すべきや否やの論あれども,余輩は信ず,韓人をして日本人たらしむるは唯,善政と同情とにありとす。……

 

「東京朝日新聞」1910年8月24・27・29日号)

「日韓併合」にあたって「東京朝日新聞」は6回にわたって「合併せらるべき韓国」という論説を掲載した。これはその一部。朝鮮に対する驚くほどの差別の論が展開されている。

 

*当時の記事より

サーベルを手にした教師たち 1912年5月には全官吏に武官服着用が指示され,学校の教師まで警官まがいの威圧的な服装をするようになった。

 

朝鮮総督府庁舎 

イギリスのインド総督府をまねて造つたという。

 

書堂で学ぶ子どもたち 

書堂は朝鮮人自身の教機関として、公立校で教えられなくなった朝鮮の地理や歴史などを教え民族の誇りを伝えた。書堂を危険視した日本は、1918年,「書堂規則」を発して取締りにのりだす。

 

逮捕された義兵指導者・蔡応彦 

 

激しい弾圧のため1910年以降,義兵の闘いは下火になっていくが「根絶」されたわけではなく,多くは北の国境地帯に移って新しい闘争をつくり出していく。写真の蔡応彦は咸鏡道一帯で活躍し,日本軍をしばしば脅かした。 1914年には彼の逮捕に懸賞金までかけられたという。 1915年,成川で逮捕され,処刑された。

 

*東洋拓殖株式会社 略称「東拓」。

日本が1908年に設立したもので、毎年、日本政府から巨額の融資を受けて朝鮮の土地を手に入れていった。土地調査事業の終了したころには、7 ̄万8000町歩以上の土地を所有し,朝鮮鍛大の地主になっていた。東拓の小作料は一般よりもかなり高く,収奪の方法も悪どかったので,朝鮮の人々の東拓への怨みは深かった。

 

「武断政治」

 

「併合」後は、「統監府」にかわって「総督府」が置かれ,寺内初代総督の下,これまでにもましてむき出しの暴力的支配が行われるようになった。

憲兵と警察を一体化した憲兵警察制度が全国に網の目のようにはりめぐらされて地方行政を担い,2個師団の陸軍と海軍の2個分遣隊などが日本の朝鮮支配をささえた。

朝鮮人の出版・言論・集会・結社の自由などは「集会取締令」により,すべて

奪われ,容赦なく弾圧された。

1911年には「朝鮮教育令」が出され,教育の目的は,日本と同様「教育勅語」にあるとされた。

以後,公立学校では,朝解語の授業以外はすべて日本語で行われるようになり,朝鮮語の授業そのものも大幅に減らされた。また,朝鮮の歴史や地理のかわりに,日本の歴史や地理,修身が教えられるようになった。併合直後から10年近くつづく,このむき出しの暴力支配の時期は,「武断政治」と称されている。

 

収奪・搾取・流浪… 日本の経済侵略

日本の植民地支配は,1910年代の「土地調査事業」による土地収奪,1920年代の「産米増殖計画」による米の収奪,そして1930年代,15年戦争下における地下資源の収奪というように,朝鮮のあらゆる富を根こそぎ奪っていった。

1910年代から1920年代にかけて,つぎつぎと土地を失っていった朝鮮の農民たちは、あてどもなく村を離れ,見知らぬ土地で過酷な生活を送らねばならなかった。

目にしみるような青空の下,ふりそそぐ陽を浴びながら,故郷の土地を奪われた悲しみを,ある詩人は「奪われし野にも春はくるか」と歌った。

 

「土地調査事業」

 

1910年から1918年にかけて行われた「土地調査事業」は、近代的な土地所有権の確定を名目にしたものだったが,調査の実務は日本人官憲や地主たちによって行われ,一般の農民の多くは,期限付きの煩雑な手つづきによる自己申告制のため,土地の所有権を失っていった。

「調査」が終了した1918年には,全農民の80パーセント近くが小作農な

いし自小作農になっていたという。

奪われた土地は大部分が総督府の所有となり,総督府はこれを日本人に安く払い下げた。小作農になった農民は5割をこえる小作料のほか,各種の追加的負担をおしつけられて貧窮にあえいだ。

 

みよ,この厳然たる事実を!

朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。

だが,その上地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつゝあることは、地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……

「東亜日報」(1922年1月18日付社説)

=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より

 

 われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれわれの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。

 今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を楯棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……

 

 天人共に怒る東拓の罪悪! 世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破壊する者、それは誰であるか。東拓である。……

   「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上

 

奪われる米

 

日本に向けて運ぶため,仁川港に野積みされた朝鮮米

群山の東拓工場前に積まれた朝鮮米

 

1918年,日本では米騒動が起った。こうした食糧危機を克服するため,また日本の工業化にともなう安価な食糧をまかなうため,1920年代の朝鮮では「産米増殖計画」が実施された。朝鮮の農民は米をつくればつくるほど,自らは米を食べることができなくなり,コーリヤンや粟などを常食するようになった。

 

このほか,森林については1908年の「森林法」と1911年の「森林令」によって大部分が「国有化」され,日本人の地主と少数の朝鮮人地主が独占的に使用するようになるなど,日本の収奪政策はあらゆるものに及んでいった。

米の増産と逆に、朝鮮人の消費量は減っている。

  朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂,1974年)による。

 

みよ,この厳然たる事実を!

 

朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。

だが,その土地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつつあることは,地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……

 「東亜日報」(1922年1月18日付社説)

=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より

 

われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれ

 

日本人技師による「土地細部測量」

 

1917年,全羅市「土地調査事業」のために,こうした測量が全国で実施された。

 

土地測量 京畿道高陽郡

 

われの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。

 今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を拗棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……

 

天人共に怒る東拓の罪悪!

 

 世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破

壊する者,それは誰であるか。東拓である。……

  「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上

 

日本はその統治下で,「京城」というという意味の伝統ある地名だが

ソウルの日本人街「ソウル」は朝鮮語で<都〉名に勝手に改めた。

 

流浪する人々

 

土地を奪われ,小作すらできなくなった朝鮮の農民は,大都市近くの据っ立て小屋に住む「土幕民」となったり、山岳地帯で焼き畑農業を営む「火田民」となったり,「満州」(中国東北部)や日本に移住したりした。「満州」に向かう列車の中では,垢にまみれた子どもだちと沈痛な顔をした大人たちがひしめきあっていたという。

1930年代の終わりごろ,「満州」の朝鮮人は100万人をはるかにこえるようになっていた。このうち半数の人々が住みついた間島地方は,抗日パルチザンの根拠地として,独立運動の中心地となっていく。

日本に渡る朝鮮人は1920年代に急遠にふえていき,日本社会の差別と偏見,低賃金と失業、暴力的強制労働などの過酷な条件のもとで,底辺の労働を担った。

……父は,朝鮮の金海の出身だと聞いています。母もまた,金海の人です。父も母も,その生まれ故郷である金海では生きてゆけなくなって,この日本に渡って来たのでした。

 これは叔母たちの笑い話の一つですが,母が父との結婚を承諾したのは,ひと足先に日本に来ていた父から,日本ではお米のご飯が食べられると聞かされたからだといいます。父と母は,それほどまでに貧しかったのでした。しかも,やっとの思いで日本に渡って来た母でしたが,ここでもやはり、満足にお米のご飯が食べられることはなかったのでした。……

  カミ一枚 ハシ一本 クギ一本 

トッテクルナ モラッテクルナ ヒロッテクルナ

 

 これは,父がいつも口にしていた鉄則です。わたしたちが,みじめになったり,ゆがんだり,いじけた子にならないようにという父の願いが,きっとこの鉄則になったのです。 このほかにも、父がしばしば口にしていた教えがあります。

人ヲナグル者ハ,背中ヲチヂメテ眠ルガ,

人ニナグラレタ者ハ,手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。

 

 わたしたちは,幼いときから,これらのことばを何回となく言い聞かされてきました。父はこのわが家の鉄則を,わたしたちのからだに細い竹のむちでもってたたきこんだといえるでしょう。そして父は,この鉄則を自分自身でもきびしく守っていました。それは貧しい朝鮮人である父が,朝鮮人の誇りをもって,人間らしく生きようとした姿勢のあらわれだったと思います。

……わたしは,とうとうがまんしきれなくなって言い

 「それは,いったい,どこの国の旗だよ」

すると,父はまっすぐわたしの目を見つめて言ったのでした。

 「朝鮮ノ国旗ダヨ。キマッテルジャナイカ」

 「朝鮮の国旗だって?」

 わたしは驚きの声をあげました。わたしには,朝鮮の国旗という父の言い方が奇妙にひびいたのです。朝鮮に国旗といわれるものがあるということは,かつて間いたことがなかったのでした。

 「朝鮮にも,国旗があるの! 日の丸が,朝鮮の国旗じゃないの」

 瞬間,父は,はっと表情をこわばらせました。わたしたちに向けた目が,急に暗くしぼんでゆきます。

 「ウン……」

 しばらくして,父は低くうなずきました。しかし,不意に首を左右に振り動かすと,しわがれたきびしい声を出して言いました。

 

 「コノ話ハ,コレデヤメダ。イイカ,朝鮮ニ国旗ガアルトカ,

ナイトカ,ホカノ人ニイウンジャナイゾ。コノ話ハ,モウ忘レロ」

 

 わたしは,父のそのきびしい声を聞いて,黙ってしまいました。そのとき父の目にあらわれた恐怖の色は,わたしにとっても何か感ろしいものを感じさせるものだったのです。

  高史明『生きることの意味』(ちくま少年図書館,筑摩書房,1974年)

 

*在日朝鮮人として過した少年時代の記録。父の描写の中に,在日朝鮮人の苦しみ・悲しみ・誇り・やさしさなどをよく知ることができる。

 

実質的には2000万万大の全朝鮮大のほとんどが,この運動になんらかの形でかかわったと考えられる。朝鮮の人々の日本に対する怒り,独立への意志が,どれほど激しく強いものであったかがうかがわれよう。


歴史展望 日本と朝鮮 その真実

2023年09月10日 10時54分56秒 | 戦争の記録

歴史展望 日本と朝鮮 その真実

 

 最近の報道で、『関東大震災』「朝鮮人暴動」取り上げている。しかしそれは短絡的・断片的な扱いが多い。戦国時代豊臣秀吉による朝鮮出兵での朝鮮の人々への残酷な仕打ちは目を覆うばかりである。

 

秀吉の朝鮮出兵の基礎史料

 

(『歴史読本』「日本史資料の基礎知識」臨時増刊号 1994・春号 入門シリーズ) 一部加筆

 

豊臣秀吉の朝鮮出兵とは、いうまでもなく文禄・慶長の役と称されている二度の出兵のことである。この意志が初めて表明された時期は、天正13年(1585)九月頃とされているが、秀吉は、この時すでに唐国(=明)までの大遠征を構想し、これを譜代の重臣らに告げていることも、岩沢悳彦氏によって紹介されている (『伊予小松一柳文書』)。 

さて、島津氏が秀吉に服属し、九州制覇が完成してからは、秀吉の意志も徐々に明確なものになっていった。天正15年5月には対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属交渉を始め、朝鮮がそれに従わなければ、翌年には出兵することを九州の陣の直後すでに北政所にも書状で伝えているのである(『妙満寺文書』)。

 天正十八年、宗氏の交渉の結果、秀吉の日本統一を祝福する朝鮮使節が来日した。この時秀吉はこの使節を服属使節と思い込み、明征服の意志を告げ、その先導(=征明嚮道)を命じた。だが朝鮮側は、これを拒否した。

しかも小西行長らは、明に入るための道を借りたいという名目(=仮途入明)に替えて交渉を繰り返したがこれも挫折し、文禄元年、未曾有の大動員で文禄の役が開始された。

 緒戦で日本軍は、加藤清正らの善戦によって朝鮮の首都漢城を陥落することに成功した(『韓陣文書』)。その後、日本軍は朝鮮の全八道に清加藤正の他、福島正則や宇喜多秀家、小西行長らの部将を配備して、転戦していった。

しかし朝鮮軍も、義民らの決起や李舜臣率いる水軍の活躍によって日本軍の兵糧補給路を断つことに成功し、平壌と碧締鯖の戦いでは李如松らの防戦で後退を余儀なくされたため、秀吉は七か条の講和条件を提示し、停戦を迎えることになった。

 ところが朝鮮側は、秀吉の求めにあった明との仲介を無視した。そのため、一旦結ばれた和議も破綻し、第二次朝鮮侵略(=慶長の役)が開始されることになったのである。

 慶長二年(一五九七)七月、日本軍は再度朝鮮に上陸し、侵攻を続けた。この時は加藤清正が蔚山城に、小西行長が順天城に在番したが、戦況は厳しく、戦線縮小論も出始めた。だが、秀吉は「老若男女薙斬れ」と命じたため、慶長の役では日本軍のゲリラ的殺りくが繰り返された。ここに示した史料もその一部で、戦場で「鼻斬り」は武将の戦意鼓舞と功名心を煽るために強制されたのであった。

(『吉川家文書』)。

 この他、日本軍は朝鮮農民や陶工、朱子学者を捕虜として強制的に日本へ連行した。しかし、翌年八月十八日には太閤秀吉が大坂城で死亡したため、豊臣政権の朝鮮出兵も一変した。長く苦戦を強いられていた戦場には、徳川家康ら五大老、五奉行の撤退の指示が出されたのである。撤退の際には、朝鮮軍の追撃による打撃も受ける結果となり、また、敗戦色濃厚だったために生じた部将間の感情的なもつれは、以後、豊臣政権崩壊の遠因にもなっていったのであった。 △ 會田康範氏著 ▽

 

1910年 明治43年

1910年7月23日,日本軍の護衛を受けてソウルの日本人街を通過,着任する三代統監・寺内正毅の一行「併合」とともに与内は、そのまま初代の朝鮮総督になり、引「後には内閣総理大臣となる。

 

O「日韓併合1910年8月22日」

 

1910年8月22日、軍隊の警戒と憲兵の巡回の中で「日韓併合ニ関スル条約」が調印された。 

これは一連の朝鮮植民地化政策の仕上げともいうべきむので、第1条に

「韓国皇帝陛下ハ韓国ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久二目本国皇帝陛下ニ譲与ス」

とあるように,朝鮮はついに国家としてのすべての権利を目本に奪われたのであった。

この「併合」が公表されると、朝鮮全土は大地をたたいて泣く声に満ちたという。一方、日本では軒なみに国旗が飾られ、花電車や旗行列などの祝賀行事が行われた。目本国民の大多数は、社会主義者の一部もふくめ、この「併合」を歓迎、容認したのだった。

「併合」を指揮した寺内正毅は、祝宴の席で

「小早川加藤小西が世にあらば、今宵の月をいかに兄るらむ」

という歌を詠んだ。秀吉の武将たちが果たせなかった朝鮮征服の夢を白分が果たした、という得意満面の歌であった。

 

石川啄木は,

「地図の上 朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聞く」

と、「併合」の本質をさめた眼で歌ったが、こうした声は圧倒的に小さくささやかなものであった。

*事例

 景権官(王宮)の勤政殿に掲げられた日章旗「併合」と同時に日本は朝鮮各地に日本の国旗を掲げた。

 

「併合条約」朝鮮語テキストの末尾部分

 

朝鮮側の内閣総理大臣として署名した「李完用」の名は,以後売国者の代名詞として使われるようになった。

……韓国の如きは元来,独立国として存在し得べき硬度を有する物体に非ず。その二千年の歴史も多くは他の国家に依附随従したる事蹟にして,日清両国を硬く丸き物体にたとうれば,その接触せざる隙間にありて僅かに不完全なる国体を維持せしのみ。近年西洋列強の圧力しきりに東洋に加わるに及び,日清露米美の隙間を転々せしが,遂に国としての存在を保つ能わず,破れて日本に合することとなれるなり。

……斯くのごとき国家の偽物がポンペーの博物館に陳列せられずして日本の隣に存在せしは,国際関係の密接ならざりし結果にして,交通貿易に不勉強なりし東洋人種の恥辱なり。

今度朝鮮が日本に合併せらるるを見て,或いは二千年来の懸案を解決したりなんと誇る人も有る如くなれども,この一問題が二千年も片付かずとは,随分悠長なる次第というべし。

然して二千年前より日本にねらわれながらその防禦策を講ぜざりし朝鮮人の無神経は更に驚くべきものと言わざるべからず。

……韓国合併後は,いかにして朝鮮人に文明の昧を覚えしめ,日本の有難さを知らしめんかというは,即今の一問題にて間々,韓人服すべきや否やの論あれども,余輩は信ず,韓人をして日本人たらしむるは唯,善政と同情とにありとす。……

 

「東京朝日新聞」1910年8月24・27・29日号)

「日韓併合」にあたって「東京朝日新聞」は6回にわたって「合併せらるべき韓国」という論説を掲載した。これはその一部。朝鮮に対する驚くほどの差別の論が展開されている。

 

*当時の記事より

サーベルを手にした教師たち 1912年5月には全官吏に武官服着用が指示され,学校の教師まで警官まがいの威圧的な服装をするようになった。

 

朝鮮総督府庁舎 

イギリスのインド総督府をまねて造つたという。

 

書堂で学ぶ子どもたち 

書堂は朝鮮人自身の教機関として、公立校で教えられなくなった朝鮮の地理や歴史などを教え民族の誇りを伝えた。書堂を危険視した日本は、1918年,「書堂規則」を発して取締りにのりだす。

 

逮捕された義兵指導者・蔡応彦 

 

激しい弾圧のため1910年以降,義兵の闘いは下火になっていくが「根絶」されたわけではなく,多くは北の国境地帯に移って新しい闘争をつくり出していく。写真の蔡応彦は咸鏡道一帯で活躍し,日本軍をしばしば脅かした。 1914年には彼の逮捕に懸賞金までかけられたという。 1915年,成川で逮捕され,処刑された。

 

*東洋拓殖株式会社 略称「東拓」。

日本が1908年に設立したもので、毎年、日本政府から巨額の融資を受けて朝鮮の土地を手に入れていった。土地調査事業の終了したころには、7 ̄万8000町歩以上の土地を所有し,朝鮮鍛大の地主になっていた。東拓の小作料は一般よりもかなり高く,収奪の方法も悪どかったので,朝鮮の人々の東拓への怨みは深かった。

 

「武断政治」

 

「併合」後は、「統監府」にかわって「総督府」が置かれ,寺内初代総督の下,これまでにもましてむき出しの暴力的支配が行われるようになった。

憲兵と警察を一体化した憲兵警察制度が全国に網の目のようにはりめぐらされて地方行政を担い,2個師団の陸軍と海軍の2個分遣隊などが日本の朝鮮支配をささえた。

朝鮮人の出版・言論・集会・結社の自由などは「集会取締令」により,すべて

奪われ,容赦なく弾圧された。

1911年には「朝鮮教育令」が出され,教育の目的は,日本と同様「教育勅語」にあるとされた。

以後,公立学校では,朝解語の授業以外はすべて日本語で行われるようになり,朝鮮語の授業そのものも大幅に減らされた。また,朝鮮の歴史や地理のかわりに,日本の歴史や地理,修身が教えられるようになった。併合直後から10年近くつづく,このむき出しの暴力支配の時期は,「武断政治」と称されている。

 

収奪・搾取・流浪… 日本の経済侵略

日本の植民地支配は,1910年代の「土地調査事業」による土地収奪,1920年代の「産米増殖計画」による米の収奪,そして1930年代,15年戦争下における地下資源の収奪というように,朝鮮のあらゆる富を根こそぎ奪っていった。

1910年代から1920年代にかけて,つぎつぎと土地を失っていった朝鮮の農民たちは、あてどもなく村を離れ,見知らぬ土地で過酷な生活を送らねばならなかった。

目にしみるような青空の下,ふりそそぐ陽を浴びながら,故郷の土地を奪われた悲しみを,ある詩人は「奪われし野にも春はくるか」と歌った。

 

「土地調査事業」

 

1910年から1918年にかけて行われた「土地調査事業」は、近代的な土地所有権の確定を名目にしたものだったが,調査の実務は日本人官憲や地主たちによって行われ,一般の農民の多くは,期限付きの煩雑な手つづきによる自己申告制のため,土地の所有権を失っていった。

「調査」が終了した1918年には,全農民の80パーセント近くが小作農な

いし自小作農になっていたという。

奪われた土地は大部分が総督府の所有となり,総督府はこれを日本人に安く払い下げた。小作農になった農民は5割をこえる小作料のほか,各種の追加的負担をおしつけられて貧窮にあえいだ。

 

みよ,この厳然たる事実を!

朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。

だが,その上地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつゝあることは、地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……

「東亜日報」(1922年1月18日付社説)

=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より

 

 われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれわれの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。

 今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を楯棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……

 

 天人共に怒る東拓の罪悪! 世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破壊する者、それは誰であるか。東拓である。……

   「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上

 

奪われる米

 

日本に向けて運ぶため,仁川港に野積みされた朝鮮米

群山の東拓工場前に積まれた朝鮮米

 

1918年,日本では米騒動が起った。こうした食糧危機を克服するため,また日本の工業化にともなう安価な食糧をまかなうため,1920年代の朝鮮では「産米増殖計画」が実施された。朝鮮の農民は米をつくればつくるほど,自らは米を食べることができなくなり,コーリヤンや粟などを常食するようになった。

 

このほか,森林については1908年の「森林法」と1911年の「森林令」によって大部分が「国有化」され,日本人の地主と少数の朝鮮人地主が独占的に使用するようになるなど,日本の収奪政策はあらゆるものに及んでいった。

米の増産と逆に、朝鮮人の消費量は減っている。

  朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂,1974年)による。

 

みよ,この厳然たる事実を!

 

朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。

だが,その土地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつつあることは,地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……

 「東亜日報」(1922年1月18日付社説)

=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より

 

われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれ

 

日本人技師による「土地細部測量」

 

1917年,全羅市「土地調査事業」のために,こうした測量が全国で実施された。

 

土地測量 京畿道高陽郡

 

われの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。

 今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を拗棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……

 

天人共に怒る東拓の罪悪!

 

 世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破

壊する者,それは誰であるか。東拓である。……

  「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上

 

日本はその統治下で,「京城」というという意味の伝統ある地名だが

ソウルの日本人街「ソウル」は朝鮮語で<都〉名に勝手に改めた。

 

流浪する人々

 

土地を奪われ,小作すらできなくなった朝鮮の農民は,大都市近くの据っ立て小屋に住む「土幕民」となったり、山岳地帯で焼き畑農業を営む「火田民」となったり,「満州」(中国東北部)や日本に移住したりした。「満州」に向かう列車の中では,垢にまみれた子どもだちと沈痛な顔をした大人たちがひしめきあっていたという。

1930年代の終わりごろ,「満州」の朝鮮人は100万人をはるかにこえるようになっていた。このうち半数の人々が住みついた間島地方は,抗日パルチザンの根拠地として,独立運動の中心地となっていく。

日本に渡る朝鮮人は1920年代に急遠にふえていき,日本社会の差別と偏見,低賃金と失業、暴力的強制労働などの過酷な条件のもとで,底辺の労働を担った。

……父は,朝鮮の金海の出身だと聞いています。母もまた,金海の人です。父も母も,その生まれ故郷である金海では生きてゆけなくなって,この日本に渡って来たのでした。

 これは叔母たちの笑い話の一つですが,母が父との結婚を承諾したのは,ひと足先に日本に来ていた父から,日本ではお米のご飯が食べられると聞かされたからだといいます。父と母は,それほどまでに貧しかったのでした。しかも,やっとの思いで日本に渡って来た母でしたが,ここでもやはり、満足にお米のご飯が食べられることはなかったのでした。……

  カミ一枚 ハシ一本 クギ一本 

トッテクルナ モラッテクルナ ヒロッテクルナ

 

 これは,父がいつも口にしていた鉄則です。わたしたちが,みじめになったり,ゆがんだり,いじけた子にならないようにという父の願いが,きっとこの鉄則になったのです。 このほかにも、父がしばしば口にしていた教えがあります。

人ヲナグル者ハ,背中ヲチヂメテ眠ルガ,

人ニナグラレタ者ハ,手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。

 

 わたしたちは,幼いときから,これらのことばを何回となく言い聞かされてきました。父はこのわが家の鉄則を,わたしたちのからだに細い竹のむちでもってたたきこんだといえるでしょう。そして父は,この鉄則を自分自身でもきびしく守っていました。それは貧しい朝鮮人である父が,朝鮮人の誇りをもって,人間らしく生きようとした姿勢のあらわれだったと思います。

……わたしは,とうとうがまんしきれなくなって言い

 「それは,いったい,どこの国の旗だよ」

すると,父はまっすぐわたしの目を見つめて言ったのでした。

 「朝鮮ノ国旗ダヨ。キマッテルジャナイカ」

 「朝鮮の国旗だって?」

 わたしは驚きの声をあげました。わたしには,朝鮮の国旗という父の言い方が奇妙にひびいたのです。朝鮮に国旗といわれるものがあるということは,かつて間いたことがなかったのでした。

 「朝鮮にも,国旗があるの! 日の丸が,朝鮮の国旗じゃないの」

 瞬間,父は,はっと表情をこわばらせました。わたしたちに向けた目が,急に暗くしぼんでゆきます。

 「ウン……」

 しばらくして,父は低くうなずきました。しかし,不意に首を左右に振り動かすと,しわがれたきびしい声を出して言いました。

 

 「コノ話ハ,コレデヤメダ。イイカ,朝鮮ニ国旗ガアルトカ,

ナイトカ,ホカノ人ニイウンジャナイゾ。コノ話ハ,モウ忘レロ」

 

 わたしは,父のそのきびしい声を聞いて,黙ってしまいました。そのとき父の目にあらわれた恐怖の色は,わたしにとっても何か感ろしいものを感じさせるものだったのです。

  高史明『生きることの意味』(ちくま少年図書館,筑摩書房,1974年)

 

*在日朝鮮人として過した少年時代の記録。父の描写の中に,在日朝鮮人の苦しみ・悲しみ・誇り・やさしさなどをよく知ることができる。

 

実質的には2000万万大の全朝鮮大のほとんどが,この運動になんらかの形でかかわったと考えられる。朝鮮の人々の日本に対する怒り,独立への意志が,どれほど激しく強いものであったかがうかがわれよう。


対馬島民とロシア軍艦 錨(いかり)を奪われた軍艦 占領された砲台 フランス軍服を着た徳川慶喜(よしのぶ)岩倉遣欧使節

2023年09月04日 09時17分42秒 | 戦争の記録

 対馬島民とロシア軍艦 

 

一八六一 (文久元)年二月三日、ロシアの軍艦ポサドニック号が、対馬の浅茅湾内に侵入し、その付近を測量し、つづいて三月四日、芋崎浦に停泊し、上陸しはじめた。名目は軍艦の修理であったが、木を伐り、営舎を建設し、どしどし永住の施設をかまえはじめたということは、この対馬を事実上支配下に

おこうという意図があったことが知られる。

それは、対馬が東アジアにおいて重要な位置にあったからだ。だからイギリス、フランスに対馬占領計画があるとの噂がでるや、ロシアは急いで手をつけたのだ。またこのことを知ったイギリスの駐日公使は、ロシアが対馬から退去しないときには、フランスと協力して対馬を占領し、さらには割譲させるべきだと本国に上申していた。

他方アメリカ公使は、対馬を西欧諸国に占領されるまえに国際自由港とすべきだとの意見をもっていた。たしかに対馬の位置は重要であった。欧米諸国は、すきがあれば対馬を自分のものにしようとねらっていたのである。

 ところがこのロシアによる日本領土の事実上の占領という事態にたいして、藩や幕府は、きっぱりとした態度を示そうとはしなかった。四月一二日、ロシア水兵の一隊が大船越村に上陸しようとしたとき、これにたいして勇敢にたたかったのは、藩の武士ではなく、この村の農民であった。そのため一人が殺され、二人が捕えられた。この事件が局内に伝わるや、府内の郷士や農民たちは憤激して、老人や女・子供を安全なところにうつし、ロシア軍の侵略に断固抵抗しようとの意気にもえたった。

こうなると、「穏便に」すませることだけを考え、ロシアのなすがままにまかせていた藩政府も、武力対決の意向を示した。だがそのとき幕府の意見を聞いてからという逃げ口上も忘れていないのである。

そこへようやく幕府から外国奉行の小栗忠順(ただまさ)がやってきた。この小栗の態度は、藩よりも弱腰であった。一応ロシア軍に退去をもとめはしたが受容されるはずがない。それどころか、それまで藩政府が拒否していたロシア軍の藩主との面会と自由散歩の要求を認めてしまって、わずか二週間で江戸へ帰ってしまうありさまであった。

しかし藩政府は、自由散歩も土地の租借もゆるさなかった。藩政府は、もしロシア軍の望み通りにすれば、「一同不服、憤怒の人気取押相成り難く」なるからだと書いていた。

 そこでロシア軍は、六ヵ月間もねばってもなお目的が達せられなかったので、イギリスの圧力もあって、八月二五日対馬を退去した。

この事件は、この時期の日本が、場合によっては植民地にされる危険が多分にあったこと、そしてそれにたいして本当に抵抗したのが、幕府や藩の武士ではなく、農民であることを示していた。 

 

錨(いかり)を奪われた軍艦

 

 世界に冠たる英国艦隊が、錨の鎖を切って後退し、その錨を敵にひろわれたとあっては、あまり名誉なことではあるまい。

一八六三(文久三)年七月二日、鹿児島湾は台風のためはげしい荒れ模様であった。数日前からイギリス軍艦は薩摩藩にたいして、生麦事件の犯人の逮捕・処刑および賠償金を要求するため、鹿児島湾におしよせてきていたのだが、その交渉がついに決裂した。

しかしイギリス側は薩摩藩の力を見くびっていたのか、戦闘準備をしておらず、鹿児島の砲台が火を吹くやあわてて、ある軍艦は錨をあげる余裕もなく鎖を切って後退するありさまであった。この錨が、のちに薩摩藩によってひろわれ、イギリスに返却されたのである。

この薩英戦争は、はじめはイギリス側の油断もあって、薩摩藩はかなりの戦果をあげた。イギリス艦隊七隻は、ほとんどが被害をうけ、旗艦の艦長以下一三名が戦死し五○名が負傷するありさまであったのに、薩摩藩の砲台の死者はわずか一名であった。

しかし防御側の被害も大きかった。砲台の射程距離外にでたイギリス艦隊は、ようやく陣容をととのえ、鹿児島の砲台や町を砲撃した。そのため砲台の大半が破壊され、市街地の約一割が焼かれた。

だがイギリス艦隊は、薩摩仰を完全に沈黙させることなく、翌日退去していった。だからこのとき軍艦に乗っていたイギリスの外交官は、滞日記録において「薩摩仰では、自分の力でイギリス艦隊か。旧去の止むなきに至らしめたと主張するのも無理ではなかろう」と書いているのである。

 

ところでこの事件は、イギリス側にも薩摩側にも、いろいろな教訓あたえたようである。

イギリスは、生麦事件の賠償にも応じようとしない薩摩藩を直接武力でたたくことによって攘夷主役を圧殺しようとしたのだが、この事件の結果かえって薩摩藩を見直すようになっていった。そのときイギリス外交官の頭のなかには、イギリスがインドや中国でうけた民衆のはげしい抵抗のことがあったであろう。他方薩摩藩のほうは、もっと深刻に考えた。武器の優劣の差をはっきりみせつけられたからである。ある篠原藩士は、このときのことを明治になってから回想して、「この戦争は今にして考えると、たいへん開明薬だと考えます。それからして一般の思想が進んだのでござります。大久保利道などは真の攘実家で、外人といえば唾を吐くようでありましたが、それから後は、こりごりして、和睦内にせねばならぬということになっております」と。単純な攘夷主義ではだめで、近代的な軍備をととのえる必要があることを、痛感しはじめたのである。             

 

占領された砲台

 

 軍艦一七隻、砲二八八門、兵員五〇一四名。

これは、一八六四(元治元)年八月五日、長州下関を攻撃してきた英・仏・蘭(オランダ)・米四力国連合艦隊の兵力である。これだけの兵力に攻撃されて、長州側の主要な砲台は、一時間ほどでみな沈黙してしまった。そして翌六日には二〇〇〇名余の陸戦隊が上陸して、すっかり砲台を破壊した。さしもの長州藩も、強力な近代的軍備の前に、あっさりと頭を下げたのである。

 

長州藩といえば、藩の正規の軍事力だけでなく、奇兵隊その他の農民・町人を含んだ軍隊を編成しており、国をあげての防衛体制をつくりつつあった。それというのも、京都における「禁門の変」に大敗し、朝敵と宣告されるという苦しい立場に置かれており、しかもイギリス留学からあわてて帰国してきた伊藤俊輔(博文)や井上聞多(もんた 馨)が、連合艦隊と戦うことの無謀を主張していたため、最後まで連合艦隊にたいする方針がぐらついており、民衆動員を徹底して行なっていなかったからである。

それに連合艦隊は、砲台は占領したが、それ以上藩内に攻め入ろうとはしなかった。それは民衆を敵に回すことが不利であると考えたからだ。

 ともあれ長州藩は降伏し、諧和が成立した。その協定のねらいは、長州藩を攘夷から開国に「改宗」させることであり、さらに下関を開港させることであった。下関は河口本の海運の中心であったので、下関を掌握することは西日本の経済をおさえることを意味する。

当時対日外交の中心であったイギリスは、開国に反対する勢力には徹底的に武力を行使したが、民衆の反乱による混乱を避け、貿易の拡大をもとめることには慎重であった。それに長州荷の指導者も不揃い敗北の結果、大きく開国に傾きはじめた。

ところが事態は、そうはかんたんにすすまなかった。というのは、幕府が朝敵長州藩追討の命をうけ、諸藩に出兵を命じたからである。ちょうど連合艦隊が下関を攻撃していたとき、幕府の命をうけて中国・四国・九州の二一藩一五万の兵が、長州藩をとりまいた。この窮境のなかで、保守派が藩政権をにぎり、禁門の変の責任者である三人の家老と四人の参謀を処刑することによって、幕府軍にたいし、たたかわずして恭順することとなった。第一次幕長戦争である。かつての急進的な尊攘派が開国に傾きかけたとき、幕府に恭順する保守派に藩の主導権をとられたのだ。だがその急進派の指導者高杉晋作はいったん九州にのがれたが、一二月下関に帰り、武力でもって保守派をたおし、藩の主導権をとりかえしたのである。もはや彼らは藩をとびだしはしない。藩権力をにぎることこそが必要であったのだ。

 

 フランス軍服を着た徳川慶喜(よしのぶ)

 

 第二次幕長戦争の失敗、江戸・大坂の打ちこわしをはじめとする民衆の蜂起のなかで、将軍家茂は急死した。しかも跡つぎがきまっていないのだ。そこでいろいろ問題はあったが、結局一橋慶喜が将軍におさまることとなった。とりわけ老中板倉勝静(かつきよ)と越前の松平慶長(よしなが)とが、くずれつつある幕府の屋台骨をたて直す人物として慶喜を強く推したのだ。廃喜は、攘夷派の総本山である水戸の徳川斉昭の第七子であったが、決して攘夷主義者ではなく、むしろ西洋かぶれといわれた人物であった。フランス語の知識があり、フランス料理を好んだ彼は、「私かこれまでに見た日本人の中で、もっとも貴族的な容貌をそなえた一人で、色が白く、前額が秀でくっきりした鼻つきの立派な紳士であった」と、イギリスのある外交官に評されている。

 

慶喜が将軍になったとき、「私が最後の将軍になるだろう」とのべたというが、決してそうではあるまい。彼は、徹底した幕政改革を実施して、幕府の力で諸藩をおさえこもうと、必死の努力をした。しかも彼は、フランスの経済的・軍事的援助によって、それを実現しようとしている。

将軍就任の直前、一八六六(慶応二)年一一月、慶喜は、熱海に保養中のフランス公使ロッシュのところに外国奉行を派遣し、その意見を聞いている。

 まず彼は、大名でなければなれない若年寄に、旗本の永井尚志(なおむね)を起用したように、破格の人材登用を行ない、つづいて第二次薩長戦争の失敗に学んで、軍制改革を行なった。旗本が手勢らを率いて軍役をつとめる制度をやめ、代わりに旗本から金をとり、それで傭兵を組織した。それと旗本以下茶坊主にいたるまでの軽輩を、銃隊に編成した。洋服を着せ、鉄砲をもたせたのである。その上フランスから軍事教官を招いて近代的な軍事訓練をさせた。他方幕府機構を、従来の老中会議の体制を改め、首相格の老中首座の下に、海軍・陸軍・会計・国内事務・外国事務の総裁をおき、内閣に近い形のものにしたのである。またフランスの経済援助により、軍艦や武器を買入れ、その見返りに対日貿易の独占をゆるすフランスの商社を設立することとなった。それどころか、火薬製造所や製鉄所の建設もすすめたのである。このような幕府の改革は、幕府の力だけで全国統一をなしとげようとする意気込みの現われで、倒幕勢力に不安をいだかせた.岩倉具視(ともみ)は、慶喜は「軽視すべからざる強敵である」とのべていたし、木戸孝允は、「家康の再生を見る」思いがするとのべていた。だからこそ幕府が体制をととのえるまえに、これを倒さねばと考えたのである。        

 

岩倉遣欧使節

 

欧米諸国との不平等条約は結びそこない 金は捨て世間へ対し(大使) なんと言わくら(岩倉)な条約を改正するため、岩倉具視以下の使節が、横浜をたったのは、一八七一 (明治四)年十一月二日であった。

明治政府は廃藩置県をなしとげ、ようやくその基礎を固めるや、首脳部の大半を欧米に派遣したのだ。一行はまずアメリカに渡り、ワシントンで条約改正の交渉に入ったのである。交渉がはじまるとアメリカ側は、まず主権者からの委任状の提示をもとめた。ところが日本側は、そのようなものが必要であることを知らなかったので、いそいで取りに帰ることとなった。これでは話も進められないというので、彼らは条約改正交渉のことはあきらめて、第二の目的であるある欧米詰国の視察に主力をむけることとなった。こうして彼らは、二年近い歳月とI〇〇万円の国費を使って帰国したのである。                          

だがこの視察団がもった意味は大きい。ともかく一国の最高首脳部の大半が、国ができて間もないころに、二年もの間先進的な文明国を歩いて回ったのである。大使に岩倉具視、副使には大久保利通・水戸孝允(たかよし)・伊藤博文・山口尚芳(なおよし)、そのほか総勢四八人であった。このなかには、大蔵喜八郎のような商人、仏教界を改革した島地黙雷、歴史家久米那武、新聞界の先駆者となった福地淳一郎なども加わっていた。ざらに五九人の留学生も同行している。このなかには一五歳以下の少女が五人もおり、のち女子高等教育につくした津田梅子は、わずか八歳で参加した。また大久保利道の子牧野伸顕も一〇歳で参加していた。その後の日本の近代化政策を推進した人物ばかりである。国家の草刑期にこれだけの人物が一度にしかも長期間外国を巡遊したということは、明治政府の意気込みを知らせるものである。

それだけに使節の人選については、いろいろということは、明治政府の意気込みを知らせるものである。

それだけに使節の人選については、いろいろと問題があった。政府部内のいわば開明派のほとんどが出るので、太政大臣の三矢実美は、大久保・水戸の出張に反対し、同じ開明派であった大蔵大臣井上馨は、せめて大久保だけでも残るべきだこ主張したという。だが岩倉は、この二人は今後の日本のためにぜひ出すべきだと、力説した。こうして彼らは、アメリカからヨーロッパに渡り、ロンドン・パリ・ベルリンを歴訪した。これらの国々の中で、とりわけ一行に意味があったのは、プロシャの鉄血宰相ビスマルクとの会見にあったようだ。ビスマルクは、一行にまねかれた宴席で、日本が学ぶべきは大国に抗して独立を維持している君主権の強力な自分の国であるとのべたという。一行はこの独

裁的なビスマルクに魅せられたようである。


三菱美唄炭鉱 三菱美唄への強制連行者数

2023年09月02日 08時57分28秒 | 戦争の記録

三菱美唄炭鉱
① 美唄への連行前史を示す額

三菱美唄炭鉱は美唄駅から美唄川をさかのぼった地点にあった。

 三菱美唄は三菱鉱業が北海道炭礦汽船・三井に対抗して北海道開発の拠点とした炭鉱である。この炭鉱を三菱が買収したのは一九一五年のことであり、一九一七年には二坑、三坑を開発した。朝鮮人はこの炭鉱の開発がすすむ一七年に雇用されている。一〇年後には朝鮮人数が七〇〇人を超えた。朝鮮人が増加する中で、二七年には桜ケ岡の直轄寄宿所で舎監の更迭を求めて、五一人が連判してストライキを起こした(「美唄鉱業所山史稿本」『戦時外国人強制連行関係史料集』Ⅲ朝鮮人2上一〇九頁)。

 この年の十一月には、ガス爆発事故がおきて三九人が死亡したが、そのうち朝鮮人は六人だった。この事故で死亡した朝鮮人が採用されたのは二七年の七月から九月のことだった。死亡者の年齢は二五歳から三五歳にかけてであり、経歴を見ると、土木、港湾、炭鉱などで働いた後に美唄に来ている。たとえば、趙正淑は三菱鯰田・小樽の荷役、金元学は三菱方城・新入、呉俊乾は朝鮮での農業・夕張炭鉱を経て美唄に来ている(「竪坑瓦斯爆発事件」『戦時外国人強制連行関係資料集』Ⅲ朝鮮人2上 二三七頁)。

 市街地であった我路のファミリー公園には一九七七年六月に建てられた炭山の碑がある。公園近くの三菱美唄記念館には鉱業所名の石板、大正期の地図、友子免状、美唄炭鉱地域の模型などが展示されている。展示品の中に、一九二三年五月一日に神社に納められた額がある。額には寄贈者の名前が記されているが、そこに日本人とともに、許億・李濟愚・李徳梧・李福祚・朴●漢・鄭徳化といった名前が記されている。三菱美唄には一九一〇年代末から朝鮮人が働いているが、この額は当時朝鮮人がこの地域で働いていたことを示すものである。



三菱美唄への強制連行者数

恐慌になると朝鮮人は大量に解雇されたが、戦争の拡大にともなう労働力不足によって大量に連行されるようになった。このころ、職場では産業報国が叫ばれ、労使協調から一君万民へと戦時統制が強まり、軍隊的労務管理がすすめられていった。
一九三九年の一〇月二〇日、三菱美唄への連行者の第一派三一八人が慶尚北道義城・達城などから連行され一心寮に収容された。この連行から一〇日後の三〇日には一五〇人が契約違反に抗議して入坑を拒否している。十一月六日に一一二人が連行されるが、十一日には連行者への傷害行為に対し抗議している。三菱系の雄別炭鉱への連行に際し、三菱は三菱マークのはいった戦闘帽を着用させている。美唄への連行の際も同様であったとみられる。翌年の一月には落盤で死亡した仲間の慰霊や同僚の釈放・待遇改善を求めてサボタージュやストライキをおこなっている。連行されてもこのような抵抗をつぎつぎとおこしていった。
三菱美唄への連行者数を諸史料からみてみると、一九三九年十二月末の現在員数は六五九人、四〇年三月末の現在員数は一一二一人(山史)、四一年三月までに慶北達城・永川・安東・義城から一五〇〇人を連行し、その後、安東・醴泉・青松、慶南晋州から連行した(「半島労務者勤労状況に関する調査報告」)。四二年六月までには二一五〇人が連行された(現在員数は一三六六人、協和会史料による)。一九四三年には一年で九二七人を連行、四四年一月から八月までには約八五〇人を連行している(石炭統制会史料)。連行者数の不明の月での連行者数を、連行状況から約一三〇〇人と推定すると、連行者総数は約五二〇〇人となる。
美唄には鉄道工業、黒田、原田、石崎、菅原、団、地崎、川西といった多くの下請けの組があり、そこにも多くの朝鮮人が連行されていたから、それらの人々を加えると三菱美唄への連行者総数は六〇〇〇人を超えたとみられる。
 三菱美唄の場合、坑内の請負労働者の率が他の炭鉱よりも高く、一九四五年七月の数字をみると坑内五八一九人中七九八人が請負である(北海地方商工局「北海道各炭礦別労働者調」)。
連行された人々は一心寮、常盤寮、自啓寮、旭日寮などに収容され、家族持ちは清水台、常盤台、旭台、桂台などに居住した。下請の組の飯場も各所にあったが、多くがタコ部屋と呼ばれていたところである。そこは拘禁性が強く、暴力的な労務管理がおこなわれていた収容所であった。
連行されてきた朝鮮人は戦時下の労働奴隷であった。とりわけ請負の組に配置された人々への虐待と拘束性は強かった。
一九四四年七月末、三菱美唄(含む日東美唄・下請組)の労働者は約一万人、そのうち三菱が直轄していた朝鮮人は約三〇〇〇人、下請けを入れれば朝鮮人は三五〇〇人ほどとみられる。この数は北炭夕張の朝鮮人約七〇〇〇人に次ぐものであり、北炭空知(含む赤間)と並ぶ数である。
三菱美唄への連行については、丁在元、金相国、金全永(黒田組)、李基淑(黒田組)崔千守(原田組)の証言がある。
三菱美唄では一九四四年に一八九万トンの石炭を産出したが、労働現場ではここでみてきたようにたくさんの連行朝鮮人がいたのである。
解放後、三菱美唄の朝鮮人は一〇月一日から十一月一九日にかけて、五次にわたって約三千人が集団帰国している。

三菱美唄での死亡者数

三菱美唄での朝鮮人死亡者はどれくらいになるのだろうか。
三菱美唄炭鉱関連での一九三九年から四五年の朝鮮人死亡者(子どもをのぞく)の数を「美唄関係朝鮮人死亡者名簿」(『戦時外国人強制連行関係資料集』Ⅲ朝鮮人2上)や「美唄朝鮮人関係死亡者調査書」から作成したところ、二七〇人を超えた。連行期の三菱美唄の死者は他の炭鉱と比べて多い。
三菱美唄では一九四一年三月通洞坑でガス爆発事故(一七七人死亡、内朝鮮人は三二人)、一九四四年五月には北部第一斜坑でガス爆発事故(一〇七人死亡、内朝鮮人は七〇人以上か)というように大きな事故が二回おきている。また下請けの組での危険な現場での労働や虐待も多い。四一年三月の事故の際、三菱は朝鮮人寮や通洞坑口の警戒を強めた。事故の二日後には坑道をコンクリートで閉鎖したため、五三人(内朝鮮人は一四人)の遺体は今も地中にある。四四年五月の事故は石炭増産運動の中でおき、報道されることもなかった。
死亡者名簿から朝鮮人が連行されてきた郡がわかる。三菱美唄には慶北の義城・達城・慶山・安東・永川・醴泉・迎日・善山・聞慶などから連行されている。三菱へと戦時中に編入された日東美唄へは慶北尚州から連行されている。
下請けの組へと連行された朝鮮人の出身郡は、黒田組は京畿道・江原道・黄海道など各地、鉄道工業は京畿道楊州・冨川ほか、団組はソウル、地崎組は陜川などである。
札幌の東本願寺別院で発見された朝鮮人の合葬遺骨にはこの三菱美唄の下請けの組である鉄道工業や黒田組に連行され放置された遺骨が含まれていた。死亡して放置され、すでに六〇年が経過している。二〇〇四年五月、鉄道工業によって連行されて死亡した具然喆氏の遺族が捜し出された。遺族によれば、具氏は結婚してすぐに連行され、現在まで行方不明のままであったという。
なお大円寺には過去帳が残されているという(北海道新聞二〇〇一年八月一〇日付)。常光寺では過去帳に朝鮮人強制連行真相調査団の調査で朝鮮人名が確認された(一九七四年報告書)。
三菱美唄記念館から楓橋をわたると奥に大きな「弔魂碑」(一九二九年三月)があり、近くに小さな慰霊碑(一九七七年六月)がある。弔魂碑には三菱鉱業取締役会長が「殉職諸氏ノ英霊ノ為」「冥福ヲ祈念」して建てたことが記されている。小さな慰霊碑は閉山後の一九七七年に三菱美唄で殉職や病気で亡くなった人々の冥福を祈り、故郷を偲んで建てたと記されている。
しかしここには死亡者の名前やその死亡者の数を知るものはなく、三菱美唄に連行された朝鮮人や中国人のことは記されていない。

美唄駅と炭鉱を結んでいた鉄道の廃線駅(東明五条)に四一一〇型の機関車(一九一九年発注・三菱神戸造船製)が残されている。戦時下この鉄道は石炭を運び出すとともに、労働奴隷としての連行朝鮮人を運送する路でもあった。
朝鮮人家族も住んでいた清水台の社宅跡地は敷地の段を残して草に埋まっている。コンクリートの橋はひび割れ、欄干が崩れている箇所もある。
美唄炭鉱の施設が集中していた一の沢の跡地は炭鉱メモリアル森林公園となり、竪坑の捲揚櫓二機(一九二三年)、原炭ポケット・炭鉱開閉所(一九二五年)の建物が残されている。一九七二年の閉山にともない、ほとんどの炭鉱施設が破壊された。市街地だった我路には廃屋が並ぶ。そこに社会党の衆議院議員だった岡田春夫の生家(一九一三年頃)が保存されていた。かれの成長と活動はこの地域の炭鉱労働者の精神によって闇の奥底から支えられていたのだろう。
 労働者が入坑し、資材やズリを搬出し、入気・排気がおこなわれていた竪坑の捲揚櫓二機はあざやかな赤色に塗装され、公園は整備されていた。近くには閉ざされた坑口が残っている。それらは墓標のようである。ここで労働を強いられ、坑内に埋められたままの死者たちは、示されてはいない労働者の歴史と戦時下の連行と強制労働の史実を語り継いでいくことを求めているように思われた。
 すでに連行期の朝鮮人使者については明らかになっているので、ここでは連行前期の三菱美唄での朝鮮人死者の名を示して追悼のための資料としたい。

三井美唄の朝鮮人寮跡

三井美唄炭鉱へと連行された朝鮮人は約四〇〇〇人とみられる。三井は全羅南道から連行してきた。死亡者名簿から、連行者の出身地を見ると、谷城、宝城、求礼、長興、羅州、和順、海南、康津、済州島、莞島、霊巌、務安などであり、慶南の密陽、河東などからも連行している。連行期の子どもをのぞく朝鮮人の死亡者数は約一四〇人である。
三井美唄炭鉱跡地には当時の建物が残されている。朝鮮人寮として使われていた建物の一部は改築され、幼稚園として使用されている。三井のマークをつけたこの建物は一九三三年ころのものであり、南美唄町下五条三丁目にある。
 ほかにも三井美唄炭鉱事務所の建物や一九二八年頃に建てられた炭住が転用されて残っている。山神の近くに三井美唄炭鉱跡の碑(一九六四年美唄市建立)があり、一九二八年から六三年にいたる三五年の炭鉱の歴史の概略が記されている。旧炭鉱厚生館の建物の近くに慰霊の碑があり(一九七八年建立)、閉山十五周年行事として、生命を捧げた人々を慰霊する旨が記されている。
三井美唄には朝鮮人・中国人・連合軍捕虜が連行されていた。日本人の労働者のみならず、この中からも多くの死者がでた。その歴史を記した碑はここにもない。


第二次世界大戦終了時 中国人・朝鮮人の「暴動」と「強制連行」

2023年09月02日 07時04分27秒 | 戦争の記録

第二次世界大戦終了時 中国人・朝鮮人の「暴動」と「強制連行」

『昭和の歴史』8 89㌻~90・91㌻

占領と民主主義 神田文人氏著 小学館 一部加筆

(終戦を迎え)、政治家は戦後いち早く行動を開始したが、一般国民の動きはにぶかった。それと対照的なのが中国人・朝鮮人の行動であった。日本の敗北は、彼らにとっての「解放」であったから、戦時中の日本・日本人による支配からの解放を求めてたち上がった。経営者も警察も、自信と進路を見失っていたときであり、その行動は効果的であった。敗戦当時、北海道には朝鮮人37,171人(全国の41%)中国人 3,079人(同30%)がおり、炭坑・鉱山・土建・港湾部門等で強制使役されていた。敗戦後彼らは、ただちに、戦時中の日本の労務管理の責任追及を開始した。
それらの戦後「暴動」事件について、桑原真人『近代北民主主義運動の開幕北海道史研究序説』が、『北海道警察史』を基礎に、その後の発掘によって補充し、45年8月15日から11月28日までの間の31件を収録している。彼らの要求は、労務管理への不満・待遇改善・送還問題等が多い。
 そのうち、9月19日から10月中旬にかけての、三井美唄・三菱美唄と三菱大夕張炭鉱の場合は、白人俘虜のイュシアチブによる中国人寮解放にはじまった。解放された三菱美唄の中国人が三井美唄を訪問したのがきっかけで、三井美唄の中国人の態度が変わり、衣服支給を要求、寮や現場の係官を襲撃した。さらに、9月24日には、両美唄から134人が大夕張に出向き、戦時中同様の待遇に激怒し、「食糧増配、衣料支給、自由外出」などを要求した。翌25日夜には、中国人約400人と警官隊の大衝突がおこり、警官一名が死亡のほか多数の重傷者も出た。このため、翌日から、「中国人にたいして白米8合の他に肉・魚などが毎日支給」されることになった。いきおいづいた大夕張の中国人は、30日、角田に出向いた。角田の中国人は賃金交渉をけじめ、会社側の一日5円案にたいして、本国から強制連行のさいの条件、一日90円を主張し、労務課長を殴打・監禁する事態にいたった。結局10月10日、占領軍の斡旋により、石山以後一か年分2500円(貸し付物品代50円をふくむ)で解決した。真谷地・大夕張・三井美唄などでも、これに準じた金額が支払われることになった。中国人の動向は朝鮮人にも波及した。7000人ちかく朝鮮人のいる夕張炭鉱では、10月5日、朝鮮人労働組合を結成し、8、9日、ストライキを決行した。占領軍は再三にわたって布告を発し、鎮静化をはかった。結局、帰国促進・食糧改善等を一括する300万円の要求にたいして、5万円で妥結したが、以後彼らの稼働率は、10月には36%、11月には19,6%と激減した。

 中国人・朝鮮人の帰国要求にたいして、10月4日、函館に上陸した米軍司令官ブルース少将は、11
月1日、「北海道の炭鉱にある華人、朝鮮人に対する布告」を出した。中国人・朝鮮人の帰国はすみやかにみとめられるべきであるが、いまは船がない、帰国までの間、米軍のため石炭増産のために働くことを要望する、というものであった。こうしたなかで、「暴動」はほぼ11月いっぱい継続する。

  労働組合の結成
 これらの「暴動」が、日本人労働者の労働組合結成を刺激した。
10月6日には、三井労働組合の芦別従業員組合が230名で組織され、10月19日には平和炭鉱、さらに同月中に明治上芦別・新夕張・豊里・空知・歌志内、11月3・4日、三井美唄・三菱美唄にそれぞれ組合が結成され、同年末までに、北海道の炭鉱労働者の58%を組織した。彼らは、解放の意気に燃えていた。平和炭鉱労働組合の結成宣言はいう。
  
我等の邁進する処解放の鐘は鳴りひびき自由の讃歌は湧き起らん。
我等を緊縛せる軍国主義、官僚主義、資本主義の暗黒支配の鉄鎖は断ち切られて、
強権の支配は転覆せん。
  征かん哉、断々乎として征かん哉。
 
北海道各地の労働組合を結集するため、11月11日、北海道鉱山労働組合連合会が結成された。
 (以下略)