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墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ   長峰光壽 氏著

2024年08月04日 11時50分22秒 | 古書・古画さんぽ

墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ

長峰光壽 氏著

 一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

  

私達の東京! 馬駕籠から圓太郎馬車に、鉄道馬車から電車に、猪牙船から一銭蒸汽船に、モーター付きの屋根船からモーターボートにと云う様に、乗物の上に於いても可成の変遷があった。町並を見て

もアメリカの都市計画に倣って數次の市匹改正が行われた為に、交通機関の登達に順じてまた可成の変遷があった。ところがこの東京も大正十二年九月一日の未曾有の大震災と云ふ天罰の為に、江戸の面影

を多く残して居った下町一圓を大半烏有に帰せしめてしまった。それから十余年の尊き生贅を捧けた此の東京の下町復興の為に、復興院から復興局と云う沿革を持った役所が出来、各夫々の第一流の専問家が役人として任命され、数億の予算で事業が着々進行される事となった。この大事業も昭和四年度で完成されると云う事であるが、まことに此の様な大事業を僅か七年の短日月で成し遂げた御役人たちの努力に對しては私達東京市民は心から感謝の意を表さなければならぬ。而し各一流の大家を以て自認する御役人達は、四百余年の光輝ある歴史を持って居る我東京市の沿革、由緒並に江戸から東京へと云う四百節年の市民佳と云うものに対しては全々素人であって、此の様な事には趣味の無い方々であった。

言ひ換えれば一昔前のアメリカの都市計画の書物には此の様な事に就いては少しも書いて無いから、アメリカ文明を無上の文化と思って勉強されたこれ等御役人達の頭には我が光輝ある日本存続の為の復興と云う様な観念の無いのは当たり前の事である。殊に多くの技術者と云うものは由緒の有る無しに拘らず彼等が手掛ける舊文化は根本から破壊しない迄も、より多く其の中に新文化を取り入れる事を以て能事とし得意とする啓蒙的傾向が多い様に思われる。今回の東京復興事業の上に於いても、私が技術者の有する悪弊であると主張する夫等の傾向が甚だしく現われて居る様である。 

 

 在来の江戸研究者は只単に江戸が好きであるという自分の趣味のみによって研究を進められた方が多い様に思われるが私が今回江戸の舊文化に就いて書こうとするのは、別に自分は汀戸研究者と云うのでも何でもないのであるけれども、次に述べる様な自分の主義の上から少し江戸の文化に接して見たくなった迄の事であるから、或は誤謬が多いかも知れないし、足らざる所が少なくないであろうと思うが、其の点は始めから読者諸賢の御寛容を願って置く次第である。

 然らば何の為に私が此の問題に手を出したかと云うに、近頃やかましいところの某国に本部を有する第三インターナショナルの主義綱領が、我国体と全々合致せざるところから、彼等は我国体を変革する為に全力を尽くして居るのである。而し我国体が他に其の比を見ざる上、国民の忠君愛国の精心が強固である為に、他国は数叡年にて彼等の目的を達する事を得たけれども、我国に対しては其の十倍の努力並に技術を要するものと定め、徐々に我国固有文化を破壊する事に勉めて国民性の変革を来さしめ、其の暁に於いて彼等最後の目的を達せんとして居ると云う事を、私はある事情によって知って居るのである。其の点から行けば現在我国に於ける彼等同志と称する者の行動は前座に過ぎざるものと云えると思う。こういう事を察知して居る私にとっては、我國固有文化が破壊されると云う事を一番恐れるのであって、即ち私が今回の復興事業に対して不満を抱くのは斯くの如き理由なのである。それ故私は心細くなる事の余り専門でない事に手を出したのであるから材料も易く得られる自分の起臥して居る近所に取た訳である。

 

 甲信堺に源を発し、秩父山塊の間を縫って武蔵平野に出で、我東京市の東部を洗って品川湾に流れ込んで居る隅田川は徳川家康が関東に入国した時迄は其の源を上野国藤原おこす利根川と、南葛飾先で合流し品川湾に注いだものである。その合流点は即ち上古よりの奥州街道の要衝にあたって居った所でもあるから、千余年の昔より奥州への旅人が残したロマンスがすくないのである。その中でも現在に至る乞一番人口に膾炙して居るロマンスは何と云っても在原業平の東下りの故事であろう。

 業平が隅田川に得た感じは一言で云えば、武蔵野の秋は淋しいと云う事と、「都恋し」と云うホームシック的の気分であったと思われる。而して此の事件が余り有名になった為に、其の後ここを過る人々

の感じは勿論、都に住んで居る人々で隅田川の題詠をする吟などは必ず先入先となって居る淋しい、都恋しといふ概念が何時までも附き纒っていたのである。

 

例へば元弘二年(1332)の乱の際、北條高時に捕へられた藤原師賢卿が下総の國に流謫される事となって此の隅田川の辺りに着いた時に、

   こと問いていさゝはこゝに隅田川鳥の名聞くも都なりけり

と詠じた様に、師賢卿は自分の流人と云ふ儚い身を都鳥に擬し、また「李花集」題詠名所川の歌の中には、

   こゝにのみすみだ川原の渡守みやこにあり都にありし人はあらしな

と云う様な句が見える様なものである。

 

世も下って千石時代になると、太田道濯が此の隅田川の辺りの平河の丘にわが庵は松原つゞき海ちかく富士の高嶺を軒端にぞ見る江戸城を築いてからは、彼は此の隅田川の水郷の景色をか愛し、彼の詩藻を慕って訪れる高鮒文墨の士があれば直ちに辰ノ口から飾り立った般に客を招き乗せ隅田川に浮べて四時の景趣を渠しんで居た。其の頃に出来た梅花無盡蔵の中に                   

   江上春望 

十里行浪自花 遊不覚在天涯 隅田鴎叉應都鳥、鼓吹晩來聲入霞   

と云ふ一詩があるが是即ち右に述べた道灌の故事を証明するものと云ふべきであろう。

 天王十八年、徳川氏が関東に入国するや代々の勝軍を始め諧大名は勿論町人に至る迄隅田川原に四時の清遊を催した事實は其の史料を挙げる暇がない。殊に徳川氏の泰平が続くに従って、江戸の繁昌は日に月に栄え江戸市民の隅田川に遊ぶものも亦多くなったが、元禄六年、榎本其角の三圍社頭に於ける雨乞の事は益々隅田川の聲價を天下に高からしめ、寛政より文化、文政に至る江戸爛熟時代に至っては益々訪れるものが繁くなった。

 東京に於ける江戸の遺芳は大正十二年の大震災の焉めに煙滅したものが可成多くあるけれども、それでも右に述べた様に一千余年の歴史を有する隅田川沿岸には江戸爛熟時代の面影か偲ぶに足る遺跡遺物が可成り残されて居るから、私はそれ等の数多いの遺芳の中で碑石を中心として江戸を偲びまた正に滅びんとする江戸の文化を弔って見度いと思う。

 

一、夕立家

 

待乳山に対して隅田川東岸堤側に鎮座する三圍神社境内西南隅に、

  この御神に雨乞する人にかはりて

  遊ふた地や田を見めくりの神ならは  晋其角

と表面に刻んである自然石形の碑が建てられてあり、其の裏面には、

 

   安永丁酉六蔵庵寶井

   所創立而歴年磨滅矣今茲

    明治発酉春再建

     永機晋無諍謹書

   貸主 横濱三越店中

        磯清五郎

        高橋啓助

    三園社

       永峯光耀

とある。

 徳川治下の泰平が続くに従って江戸の繁昌は日に月に其の度を増すとともに、隅田川に遊ぶものも叉多くなった事は前に述べた通りであるが、明暦の大火以後遊里吉原が親父橋の側から山谷堀の上流田圃の中に移轄されてからは、益々遊里通いの猪牙船を仮に三圍の雁木に繋ぎ向島に遊ぶ市民が多くなって来た。

 元禄六年は春以来非常な旱魃であって早苗を植えつけた水田には、一滴の水もなく、亀の背・網の目の様に亀裂を生じて農民が命の綱である稲もまさに枯れ死せんとする有様であった。為に農民共は各所に集って連日連夜の雨乞を実施したが、向島の農民も小梅村三圍稲荷(みめぐりいなりじんじゃ)社頭に集い、鐘・大鼓を叩いて祈願をこらす事数日、然れどもその効験は少しも顕れないために一同悲歎に暮れ今日を最後と一心に御前に額いた。時に六月二十八日であった。

 如何なる神の引合せであったろうか、會々蕉門の俳人宝晋斎其角は其の日彼の門人で白雲と號する蔵前札差の利倉三郎左衛門と共に北廊谷堀を遡ろうとして三圓の雁木に舟をもやひ稲荷に参詣すべく境内に足を運んだ。然るに社頭は前に述べた様な有様であったので同行の白雲が諧謔して里人共に言うには此の人は日本俳諧の達人である。昔小町能因等の雨乞した試しもあるから此の人を頼んで雨乞したならば必ずや観応があるであろうと述べた為に農民どもは其角をとりまいて「是非雨乞してよ」と哀願するによって、其角も止む事を得ず、手を洗い口を漱ぎ神前に向って祈願する事暫し、「ユタカ」の字を折句にして其の場に有り合せた奉書に

 

   この御神に雨乞すゐ人にかはりて

     遊ふた地や田か見めぐりの神ならば

               晋 其 角

 

と染めて神前に奉り、直ちに引返して山谷堀を登り紅燈の巷に其の夜を明かした。即ち其角の俳書「五元集」に彼は

 

  牛島三遶り紳前にて雨乞するものにかわりて

    夕立や田を見めぐりの神ならば

     翌日雨降る

 

と記して居る通り、翌日観応があった為に其の年は思わざる豊年となり農民共の喜びは並大抵ではなかった。これは其角が、

   天の川苗代をせきくたせ、天降ります神ならば神

と、能因法師が三島明神に祈願した故事を思い浮かべての即吟であるが、古来この其角の雨乞いの句並びに事実に対して随分むずかし議論をしたり、句の結び法の善悪を説く者もあるけれども真実に晋其角と云う人物を味わうときに於いて果たしてそれ等の議論は当を得ているとは云われるであろうか。

また白雲と云う人に付いては撮巌島廻船問屋の主人だとか紀ノ國屋文左衛門であるとか種々解いたものがあるがどれ誤である。彼は白雲の戯れによって其角が止む事を得ず雨乞の句を詠んだと云う事に對して余り小説的であると云う様な説も唱える人がいるが其の説を唱へる人は白雲と云う人、また蔵前の札差しと云う階級の事情を知らない人の云う事である。それ故に次に白雲の人と成りについて、一例をあげて世の誤謬を解いて置き度いと思う。

 寛政の始めまで三圍稲荷の辺りに庵を結んで居た秋田藩の御留守居役に佐藤晩得と云う人が著した雨華抱一以下の短冊帖がある。此の人が著した「古事記布倶路」と云う随筆の中に白雲の逸事が記るされてあって白雲の面目が躍如して居る様に思われる。即ち彼白雲は余程奇人であって彼の句も種々人口に膾炙して居るものが多い。生れは上方であるが想わざる縁故で蔵前利倉屋の養子婿に選ばれ出府する事となった。ところが利倉屋は何しろ御蔵前の札差の家であるから総て成す事が華美であって、彼白雲が中仙道を江戸に入る日に利倉屋の一家一門は早朝から千往口まで麻柿で迎えに出ていった處、白雲は何時の間にか股引草靫掛けで風呂敷を背負い利倉屋の台所へ来て腰を掛けた。これを見た仲人は婿殿の振舞醉興も甚だしいと驚き呆れながら、早く足を洗い給へと云ったので下女下男が立騒ぐのを白雲が眺めて云うのに、いや騒ぐ事はない、今日から此の家は自分の家であるから女房共を呼んで下さいと命令を下した。よって装い飾った花嫁は恥しがりながら立ち出でた時、彼は花嫁に向って足を洗ってくれと云った。これには家内の者共を始め手伝いに来て居るもの共は花嫁を誠に気の毒に思ったけれども致し方なく白雲の命ずるままに任せた。それから白雲は風呂敷を解いて衣裳、裃(かみしも)を着した上で改めて皆に向って言うのに入婿と云う者は女房の尻に敷かれるのが普通であるけれども自分は女房に敷かれる事は絶対にしないと大きな聲で罵って座に着いたと云う事である。

 即ち晩得が古事記布倶路に記した右の記事を精読玩味する時には彼白雲が三圍稲荷社頭に於いて農民共に其角を諧謔的に褒めそやし記事も決して後人の小説的記述でないと云う事が判ると思う。

 此の三関社頭に於ける其角の雨乞は益々隅田川の聲價を天下に高からしめて、いやしくも江戸に起臥する者で隅田川に遊ぱぬものは無いと云う有様となった。其のために特に俳人等は三圍稲荷を以て俳諧の露場として深く信仰し、安永六年()六蔵庵寶井は晋其角の功績を永久に倍伝えようとして社宝の献句を碑石に彫って境内に建設したのである。しかし此の碑文も星霜を経るとともに磨滅して不判明の点が多くなったから、明治六年()其角堂七世永機と私の父とが相談の上、横浜三越支店有の寄逞を得て彫りはじめたものである。  

晋子献吟から百十年、永逝から九十二年の寛政十一年()、晋其角の徳か慕う里人等が故人の遺徳を奉斎すべく三井氏を始め晋子を慕う俳人の採助の下に三圍稲荷に於いて、二月十五日から五月四日まで日延 とも八十日間の大開帳を催したところが、遂に余り盛んになり過ぎた事によって幕府から中止を命ぜられたほどの盛況を来したが、此の開帳に際しては稲荷の境内に種々の飾り物が出来、其の主体としては「夕立塚」の側に其角庵を設け社宝の雨乞の句をかけて一般奏者の参拝を許すと共に江戸俳談林七世一陽井素外を庵主とした。現在稲荷に社宝として残されてある開帳の際の遺物もかなりあるが、其の中に開帳献句短冊帖が二部あって其の大きい方が村名主の高橋新左衛門氏が発起して、一陽井素外に献句か勧進させて集めた帖であって、其の序文は素外が書いて居るし種々参考になるから次に其の序文を載せておく。

 

神は人の崇るを以て威を増す。人に神の験むるをもって敬ふ。

元禄十一年(六年)戊寅季夏、寶斎賓其角、農人に代り当社に零して夕立や田を見めぐり、

濃吟に感応在し事は今海内兒俗いええども知らざるなし、

今年や御帳をひらき尊容を普く拝せさしむるにつけて暇に其角庵と云うを結び彼吟をもかけられる、

この事は東都より近國に及び由さりて詣つ、

爰に村長高橋氏父子、晋子の吟に寄て俳句を勧めて手艦となし、当社の宝庫に永世とゞめる事を思い、

山口雀笑をして予を右の庵に向かう、おのれ其末流にあらねど、いにしえ時を同じくして師祖西鶴・

才磨の知巳たる上、風流那そ自他を隔むやと諾して一神祇雨いえる題者となり、

将題の外をも作者の志す所にまかせて発句の短冊を輯めて一帖となし納む、

仰ぎ願う五穀にもとより言の葉の道の栄えを守り給へと、

江戸俳談林七世一陽井素外謹上再拝して曰く

   寛政十一年已未仲夏

 

二、宗因白露家

 

 この碑も三圍稲荷境内にあって碑面には西山宗因の名吟「白露」やの句が刻まれてある夫婦石である。 

此の碑か建てたのは其角庵最初の庵主を勤めた一陽井素外であって、文化元年の建設である。

此の碑は四面に刻まれてあって正面から向って左側へかけては次の文が在る。

   白露や無分別なろ置ところ

    浪花天満梅翁 西山宗因

 

白露家、去来抄に先師芭蕉翁常に曰く宗因なくんば我々の俳諧今以貞徳乃涎(よだれ)ねふるべし、

宗因は此道中興開山也といへり「雑談集」に其角云。

露と云う題は案じては南ゐましき也、志良露の発句観念の上にかけとはいろへ難し、また此の翁に仇なる句なしと母書里又虚栗に宗因嵐雪其角が三夕の吟あり、歴代滑稽傳に許文云う露の発句は、古今なきもの也、後代宗因ほどの句云う出すべき作者が有りとも覚えず。

 

鼻祖梅翁、世に聞えし名吟多く依て諸集に出就中此句他門にて

珠に賞誉せし事上農久たりの如し、

爰に予が門人誰かれ今や其言葉を碑して此三国に廣前に建てるに及で、

己等が鄙唫とも左右に双へ仰ぎ願う常流の俳諧永世蓋榮ゆかむ事を。

                     発起 一陽井

光利あれ石瓦にも露の多満      素外   

世に高し音なき露の其聞え      素塵

 

向つて右側は

   武蔵野の花や小草も露の息      補助福井藩 一夏井奇峰

   露は松に琥珀と凝るや句の工み    発句同志連 一禮井治百

   つゆてらてら西山の月に入と亭も   百瓜園秋策

   をきやうそ露ははかなき物なか羅   森住氏母 素好

  爰にをく津遊やこのうへ幾千秋    遯斎 宣月

   されは今にたもつ露あり言葉の花   一老弁 寛之

裏面に

  天和二年壬戌六月廿八日 宗因終至文化九年壬申百三十一稔

   動きあらしこの露此碑千代經と母   當社別當一如

 

 素外が梅翁宗因の句碑か建てるのに如何なる縁故を以て三圍稲荷境内を選定したかといふ謂はれは、彼が其角庵の庵であつたと云う関係からであるが、宗因と彼との関係は夕立冡の處で最後に挙げて置いた彼の寛政九年開帳記念献句短冊帖の序文にもある通り、彼の俳風が宗因の流れを汲んで居たからであり、そ

れ故少し改まったものには必ず江戸俳談林七世一陽井素外と認める習慣があった。即ち江戸俳談林と云う流派は梅翁西山宗因を第一世として居って、第二世は江戸時代に於て好色五人女、好色一代男によって一世を風靡した松壽軒井原西鶴であり、第三世は許六堂才磨、第四世は致曲庵笠安逸志、第五世は笠家古道左簾、第六世は柳前斎小菅蒼孤とし、第七世が谷一陽井素外であって、号を玉池と称し連綿として居ったのである。

 

 この江戸俳談林と云うものは右に乗せた様に、西山宗因が江戸に出て来た折に在来あった松永貞徳の俳諧様を改革して新しく江戸俳諧の風を興したもので、この事が俳諧と云うもの、大いに盛んになる基をなすに至る淵源をなしたものである。このグループを江戸俳談林と称し、素外はこの道の為に可可成り活動をした様である。梅翁句集を見ると『江戸俳談林にて』の題下に、

  さればこゝに談林の木あり梅の花 の句を残して居る。

 芭蕉翁すら

「宗因なくんば吾々が俳諧今以て貞節の誕をねぶるべし宗因はこの道中興開山也」と云って居る程で、即芭蕉翁の俳諧風も煎じ詰めれば宗因の開いた處の江戸俳談林の流れを汲んで居るものであると云ふ事が出来るのであるから、江戸俳談林の七世を綱ぎ賂に堕落せんとしつゝあった俳諧の舊に復そうとして努力を借しまなかった紳田お玉ク池の住人素外が其角庵の最初の庵主として迎えられたと云う事も充分因縁ある筋道であると云へよう。又言ひ換へれば寛政の当時其角の正系を汲んで居った江戸の俳人中には大した人物が居らなかった様にも考へられるけれども事實に於いては、然らず「精霊に後の祭りとなりにけり」の辞世を残して文化三年七月二十七日歿した五世深川湖十の如き江戸座の大家が存在して居ったのであるが、寛政の開帳献句短冊帖の素外の序文にもある通り当時の小梅村名主高橋新左衛門の胒懇者山ロ雀笑が子弟の関係から案外を導いたものである。

 今一つ素外が江戸座と奇縁を有して居ったと云ふ事を記して見よう。素外の蒐めが三圍稲荷開帳献句短冊帖を繙いて見ると最初の短冊に、

  紳 祗 雨

 小田凉しちはやふるもの神と雨 旭陽井

 と云う句があるが此の龜文と云う人は、摂津尼ケ崎藩主松平遠江守忠見侯で、俳諧は素外の門に入り一桜井龜文と號した殿様であって、大いに素外を援助して江戸俳談林は勿論一般俳諧の道に対しても盡した方である。この遠江守の下屋敷は新大橋の下流で、小名木川の北岸に在ってこの屋敷内に有名な芭蕉庵の古蹟があった。其の為に龜文侯は素外をこの芭蕉庵の庵主となして彼に芭蕉翁の位牌を御守りさせた事があった。彼は右に述べた様に流派にかまわず俳諧の道の為めならば如何なる事でもなさぬば気がすまぬと云ふ性質の人であって、宗因の句碑に於ても三関稲荷境内の「白露や」の碑以外に日暮里養福寺境内には「江戸を以てかゝみとすなり花に樽」の梅翁の句碑を建て、第三には深川洲崎辨天境内に三圍稲荷白露や句碑銘中に彼が唱へてなる「三夕句碑」と云うものを建てたのを見ても如何に彼がこの道の為に奮闘努カしたかと云う事が充分に察せられるのである。其の「三夕句碑文」を次に挙げて見よう。

〔前面〕

    秋は此法師すがたの夕かな     梅翁宗因

    舟あふる苫屋の秋の夕かな     雪中庵嵐雪

    和歌の骨槇たつ山のゆふべ哉    寶晋斎其角

〔南面〕

    何処にても悟れさう也秋のくれ   我 蝶

    暑も霧にきゑ行く秋のゆふべ哉   宣 秀

    日も西に見えすく秋や峰のまつ   理 山

    塵の世やしらて古人の秋のくれ   花 慶

    木々に残錦して秋にくれはどり   素 好

    秋やよするさはさは浪の磯の風   英 玞

〔北面〕

秋そよき般の苫屋の夕けふり    嘉 峰

聲なしに雁にゆく見ゆ秋の空    呉 卿

紅葉今や夕くれなゐも秋のもの   僊 里

獵もせず後世もねかはす秋の夕   鹿 笛

秋か只夕まくれとて酒たゝそ    従 一