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甲州の文学碑 許山茂隆の歌碑 奥山正典著

2023年09月10日 18時58分31秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

甲州の文学碑 許山茂隆の歌碑

 

奥山正典著

 

皆からか志阿はせとなる難きかな 

毛乃かげに陽の安田らぬことく

七十五叟茂隆

甲府の許山病院にある。

 この歌碑は甲府市中央一…十二…六の許山胃腸病院の庭園に、昭和四十年五月二十二日に建立され、同日除幕式が行われた。裏面に「昭和四十年五月これを建てて贈る。国民文学甲府支部、樹海社、許山病院一同」と刻まれている。

 歌碑はサンゴジュに覆われ、翁の寿像のレリーフ(浮彫リ)も碑の中にある。整未亡人・信子さん(茂隆二女)にお話を伺う。

除幕式には「国民文学」の地元の同人として、清水八束、石川清、田野口清、斉藤薫、鈴木孝、許山整、文化人として加賀美子麓、内田一郎の各氏。他「樹海」会員多数が見える。

父のレリーフは彫刻家の森川昭氏(横浜市)。文 字は父茂隆の自筆、石工は「樹海」会員、佐田春笛氏(山梨市)です。

父は甲府市医師会長、山梨県医師会長、山梨県病 院協会長、日本医師会理事、日本医療法人協会長等の仕事に追われ、短歌以外の趣味はもてなかったようです。専門の教育も受けていず、独力で今日を築きあげた、本当の勢力家でした。

 さて、翁は生前、歌集「郷園」「わが彭を踏む」を出版されたが、この一首は「わが影を踏む」の頁に

「皆からか幸福となる難きかなもの蔭に陽のあたらぬ如く」

と出ている。また「寿像歌碑除幕式」の五首の中の

力強く彫りし塑像に気圧されて弱よわしかもわが歌の文字

ねがはくば世の人びとの汎くがしあわせとなる時来たれかし

 の二首にも、箭の謙譲にして、温厚篤実、真にヒューマニズム(人道主義)に生きた人柄がしみじみ偲ばれるのである。

 翁は昭和五十三年六月六日、八十八歳で他界されたが、そのいのちは不滅といえよう。


歴史展望 日本と朝鮮 その真実 朝鮮 独立の叫び 1919(大正8年) 朝鮮での日本の残虐行為

2023年09月10日 15時11分03秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

歴史展望 日本と朝鮮 その真実

 

朝鮮 独立の叫び 1919(大正8年)

朝鮮での日本の残虐行為

 

1919年3月1日,ソウルや平壌にはじまった「独立万歳」の叫びは,たちまち全国にひろがり,きびしい弾圧にもかかわらず,ほぼ1年にわたってつづいた。全体としては特定の指導者をもたないこの運動は,女学生から老人まで,無名の民衆たちが自発的にくりひろげたもので,日本側の資料によっても、1919年3月から5月の間に,217の本部で1491回のデモや「暴動」があり,延べ200万人の民衆が参加したとされている。

 

独立への熱い想い

 

日本に抵抗する意志を見せたため1907年以来軟禁状態に置かれていた高宗(こちょん)が,1919年1月21日,急死した。

独立宣言書は,高宗の葬儀を機に,33名の「民族代表」によって書かれたもので,朝鮮の独立が,アジアや世界の平和にとっても大きな意義をもつことを訴える格調高い文章であった。

3月1日,ソウルのパゴダ公園で発表・配布されたこの宣言書は,たちまち人々の心を捉えた。ソウルでのデモ行進は,高宗の葬儀を見物にきていた地方の農民や市民をまきこんで,たちまち数十万にふくれあがっていった。

 

は,目をおおうような弾圧によって,すぐにはその目的を達することができなかったが,朝鮮の歴史のうえでも,アジアの反植民地闘争のうえでも、大きな意義をもつ闘いであった。

 

宣 言 書

 

われらはここに,わが朝鮮国が独立国であること,および朝鮮人が白山の民であることを宣言する。このことを世界万邦に告げ,人類平等の大義を開明し,これをもって子孫万代に告げ,民族自存の正当なる権利を永久に有するものである。……

旧時代の遺物たる侵略主義,強権主義の犠牲となって,有史以来累千年,はじめて異民族に箱制される痛苦を言めてから,ここに十年を経過した。わが生存の権利を剥奪したのは,およそいくばくであろうか。精神の発展の障碍となったのは,およそいくばくであろうか。民族の尊厳と栄光の毀損したことは,およそいくばくであろうか。……

自己を鞭励するのに急なわれわれは,他人を怨み咎めるいとまはない。現在の問題を絹謬するに急なわれわれは,過去を懲弁するいとまはない。こんにちわれわれの専念するところは,ただ自己の建設にあるだけで,決して他を破壊するものではない。厳粛なる良心の命令により,自国の新たな運命を開拓しようとするものである。けっして旧怨および一時の感情によって他を嫉逐排斥するものではない。……

こんにちわれわれが朝鮮独立をはかるのは、朝鮮人に対しては,民族の正当なる尊栄を獲得させるものであると同時に,日本に対しては,邪悪なる路より出でて,東洋の支持者たるの重責をまっとうさせるものであり,中国に対しては,夢麻にもねすれえない不安や恐怖から脱出させんとするものであるかつまた,世界の平和,人類の幸福を達成するには,東洋の平和がその重要な一部をなし,そのためにはこの朝鮮の独立が,必要な段階である。……(姜徳相訳)

 

……父は,朝鮮の金海の出身だと聞いています。母もまた,金海の人です。父も母も,その生まれ故郷である金海では生きてゆけなくなって,この日本に渡って来たのでした。

 これは叔母たちの笑い話の一つすが,母が父との結婚を承諾したのは、ひと足先に日本に来ていた父から,日本ではお米のご飯が食べられると聞かされたからだといいます。父と母は,それほどまでに貧しかったのでした。しかも,やっとの思いで日本に渡って来た母でしたが,ここでもやはり,満足にお米のご飯が食べられることはなかったのでした。

 

カミ一枚 ハシー本 クギ一本

トッテクルナ モラッテクルナ ヒロッテクルナ

 

 これは,父がいつも口にしていた鉄則です。わたしたちが,みじめになったり,ゆがんだり,いじけた子にならないようにという父の願いが,きっとこの鉄則になったのです。このほかにも,父がしばしば口にしていた教えがあります。

人ヲナグル者ハ,背中ヲチヂメテ眠ルガ,

人ニナグラレタ者ハ,手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。

 

 わたしたちは,幼いときから、これらのことばを何回となく言い聞かされてきました。父はこのわが家の鉄則を,わたしたちのからだに細い竹のむちでもってたたきこんだといえるでしょう。そして父は,この鉄則を自分自身でもきびしく守っていました。それは貧しい朝鮮人である父が,朝鮮人の誇りをもって,人間らしく生きようとした姿勢のあらわれだったと思います

 

とうとうがまんしきれなくなって言いました。

 「それは,いったい,どこの国の旗だよ」

 すると,父はまっすぐわたしの目を見つめて言ったのでした。

 「朝鮮ノ国旗ダヨ。キマッテルジャナイカ」

 「朝鮮の国旗だって?」

 わたしは驚きの声をあげました。わたしには,朝鮮の国旗という父の言い方が奇妙にひびいたのです。朝鮮に国旗といわれるものがあるということは,かつて聞いたことがなかったのでした。

 「朝鮮にも,国旗があるの! 日の丸が,朝鮮の国旗じゃないの」

 瞬間,父は,はっと表情をこわばらせました。わたしたちに向けた目が,急に暗くしぼんでゆきます。

 「ウン……」

 しばらくして,父は低くうなずきました。しかし,不意に首を左右に振り動かすと,しわがれたきびしい声を出して言いました。

 「コノ話ハ,コレデヤメダ。イイカ,朝鮮ニ国旗ガアルトカ,ナイトカ,ホカノ人ニイウンジャナイゾ。コノ話ハ,モウ忘レロ」

 わたしは,父のそのきびしい声を間いて,黙ってしまいました。そのとき父の目にあらわれた恐怖の色は,わたしにとっても何か感ろしいものを感じさせるものだったのです。

  高史明『生きることの意味』(ちくま少年図書館、筑摩書房、1974年)

 

在日朝鮮人として過した少年時代の記録。父の描写の中に、在日朝鮮人の苦しみ・悲しみ・誇り・やさしさなどをよく知ることができる。

実質的には2000万人の全朝鮮人のほとんどが,この運動になんらかの形でかかわったと考えられる。朝鮮の人々の日本に対する怒り,独立への意志が,どれほど激しく強いものであったかがうかがわれよう。

3・1独立運動の叫びは,目をおおうような弾圧によって,すぐにはその目的を達することができなかったが,朝鮮の歴史のうえでも,アジアの反植民地闘争のうえでも,大きな意義をもつ闘いであった。

 

過酷な弾圧

 

3月一日、独立運動への弾圧はすさまじく、デモ参加者の射殺や拷問が当然のことのように行われた。

とくに地方では,水原(すうおん)・堤岩里(ちえあむり)で起った、村人を

教会堂に集めて焼き殺すというような無残な弾圧が多かった。朝鮮側の資料によれば、3月から5月の間に,7500人余の人が殺されたという。

 

女子高等普通学校の慮永烈は,裸体で十字架の上に仰臥させられた。日本人は,後列の十字架の傍に炭炉を置き,鉄線を真っ赤に焼いて慮永烈の乳頭を三,四回刺してからその縄を解き,刀で四肢を断ちおとし,まるでまこも(真菰)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。そこでまた他の十字架にうつし,四肢と頭髪など五ヵ所を縛り,天空に懸けて仰臥させ,膏薬を火に溶かしたものを頭髪と陰門と左右両腋とにねばりつけ,冷却させた後に強い力で急に引っぱった。髪の毛も皮膚もともに剥げおちて,血があふれるように流れ,大地を染めた。日本の野蛮人どもは,大笑してこの残虐を楽しんだ。

いわゆる長官なる者が質問して,「お前はこれでもなお『万歳』を叫ぶつもりか」と言った。彼女はこれに答えて,「独立が達成できなければ,たとえ死んでもやめない」と言った。……

 一朴殷植著,姜徳相沢『朝鮮独立運動の血史』(平凡社・東洋文庫、1972年)

 

注 写真

❖拷問を受け,血まみれになった3・1運動参加者

❖「独立万歳」を叫び腕を切り落とされる婦人の絵

❖一焼き払われた村に立ちつくす少年 堤岩里

❖焼跡に座りこんで嘆く犠牲者の家族 堤岩里

 

 私は63年が過ぎた今でも,あの日に起ったことをはっきりと記憶している。あの日はいつもと違った風が強く吹いて,台所の板戸が絶え間なく音をたてていた。

 あの日の2時,歩兵隊78連隊所属・有田俊夫中尉が率いる日本軍30余名が,堤岩里の村に入って来た。朝鮮人巡査袖垣ギチエと日本人商大佐縦旭吉が村に入って来て,しばらく演説をするから15才以上の男子は全て礼拝堂に集まれと言った。

 夫は,裾をつかんで行かないように引きとめる私を,子どもを背負ったままでちょっと抱き部屋に押し込んだ。

 「子どもをつれてじっとしておれ」

 夫はこの言葉を最後に残して,余り健康でない体をひきずりながら礼拝堂に行った。

 ……夫が出て行って30分ぐらいたったか,私は畑で草取りをしていて,鼓膜を破るような銃声を聞いた。

 「まさか,まさか……」どきどきする胸を抱いて,あわてて家に走って入り,裏門の割れ目から教会を眺めた。

 日本の兵隊たちは村人を礼拝堂に集めておいて,窓と出入門に釘を打ちつけた。窓をこわして逃げようとした人には容赦なく弾丸の洗礼をあびせた。

 彼らは教会をとりまいて銃を撃ち始めた。一人の婦人が子どもを窓の外に押し出して,「この子だけは助けて下さい」と哀願したが,日本の兵隊は子どもの頭を銃剣で刺し殺してしまった。いつもは讃美歌と折りの声が聞こえた礼拝堂は,絶叫と悲鳴がいっぱいに満ちた。教会の壁と土に血と肉が飛び惨酷な状況だった。

 日本の兵隊は射撃を終えて,わら束を持って来て礼拝堂の周囲に積み重ね,石油に火をつけた。ときどきかすかなうめき声が洩れてくる礼拝堂のわら屋根の上に火が立ちのぼった。

 火は丁度吹いて来る風にのって民家にひろがった。

日本の兵隊は気が狂ったように村を走り廻りながら,まだ火が燃え移らない家の軒に火のついたわら束を投げ入れた。

 礼拝堂だけで28名が死亡。

 姜泰成氏の花のような新妻は夫を失って礼拝堂の垣根の横で泣いていた。日本の兵隊は軍刀で彼女の首を三度ほど切りつけ,死体を火の中に投げ込んだ。

 礼拝堂内で22名,外で6名が死んで,日本軍は白分たちが宿所に使っている2軒だけを残して,堤岩里の村の32軒をすべて火で燃やしてしまった。

 

……私は23才で寡婦になって86才になる今でも一度としてあの日を忘れたことはない。

 私は死んで天国に居る夫と再び会う時まで,あの日の悪夢を忘れられない。

 今でも野菜を植えるために庭の隅を掘りかえしてみれば,その日黒く焼けた米つぶが出てくる。

田同礼「忘れられない悪夢『堤岩里虐殺』「東亜日報」1982年8月4日号)

『教科書検定と朝鮮』(神戸学生・青年センター出版部,1982年,信長正義訳)

 ❖1919年4月15日,水原郡堤岩里で起きた虐殺事件の証言。

筆者は現在,堤岩里教会長老。


歴史展望 日本と朝鮮 その真実

2023年09月10日 10時54分56秒 | 戦争の記録

歴史展望 日本と朝鮮 その真実

 

 最近の報道で、『関東大震災』「朝鮮人暴動」取り上げている。しかしそれは短絡的・断片的な扱いが多い。戦国時代豊臣秀吉による朝鮮出兵での朝鮮の人々への残酷な仕打ちは目を覆うばかりである。

 

秀吉の朝鮮出兵の基礎史料

 

(『歴史読本』「日本史資料の基礎知識」臨時増刊号 1994・春号 入門シリーズ) 一部加筆

 

豊臣秀吉の朝鮮出兵とは、いうまでもなく文禄・慶長の役と称されている二度の出兵のことである。この意志が初めて表明された時期は、天正13年(1585)九月頃とされているが、秀吉は、この時すでに唐国(=明)までの大遠征を構想し、これを譜代の重臣らに告げていることも、岩沢悳彦氏によって紹介されている (『伊予小松一柳文書』)。 

さて、島津氏が秀吉に服属し、九州制覇が完成してからは、秀吉の意志も徐々に明確なものになっていった。天正15年5月には対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属交渉を始め、朝鮮がそれに従わなければ、翌年には出兵することを九州の陣の直後すでに北政所にも書状で伝えているのである(『妙満寺文書』)。

 天正十八年、宗氏の交渉の結果、秀吉の日本統一を祝福する朝鮮使節が来日した。この時秀吉はこの使節を服属使節と思い込み、明征服の意志を告げ、その先導(=征明嚮道)を命じた。だが朝鮮側は、これを拒否した。

しかも小西行長らは、明に入るための道を借りたいという名目(=仮途入明)に替えて交渉を繰り返したがこれも挫折し、文禄元年、未曾有の大動員で文禄の役が開始された。

 緒戦で日本軍は、加藤清正らの善戦によって朝鮮の首都漢城を陥落することに成功した(『韓陣文書』)。その後、日本軍は朝鮮の全八道に清加藤正の他、福島正則や宇喜多秀家、小西行長らの部将を配備して、転戦していった。

しかし朝鮮軍も、義民らの決起や李舜臣率いる水軍の活躍によって日本軍の兵糧補給路を断つことに成功し、平壌と碧締鯖の戦いでは李如松らの防戦で後退を余儀なくされたため、秀吉は七か条の講和条件を提示し、停戦を迎えることになった。

 ところが朝鮮側は、秀吉の求めにあった明との仲介を無視した。そのため、一旦結ばれた和議も破綻し、第二次朝鮮侵略(=慶長の役)が開始されることになったのである。

 慶長二年(一五九七)七月、日本軍は再度朝鮮に上陸し、侵攻を続けた。この時は加藤清正が蔚山城に、小西行長が順天城に在番したが、戦況は厳しく、戦線縮小論も出始めた。だが、秀吉は「老若男女薙斬れ」と命じたため、慶長の役では日本軍のゲリラ的殺りくが繰り返された。ここに示した史料もその一部で、戦場で「鼻斬り」は武将の戦意鼓舞と功名心を煽るために強制されたのであった。

(『吉川家文書』)。

 この他、日本軍は朝鮮農民や陶工、朱子学者を捕虜として強制的に日本へ連行した。しかし、翌年八月十八日には太閤秀吉が大坂城で死亡したため、豊臣政権の朝鮮出兵も一変した。長く苦戦を強いられていた戦場には、徳川家康ら五大老、五奉行の撤退の指示が出されたのである。撤退の際には、朝鮮軍の追撃による打撃も受ける結果となり、また、敗戦色濃厚だったために生じた部将間の感情的なもつれは、以後、豊臣政権崩壊の遠因にもなっていったのであった。 △ 會田康範氏著 ▽

 

1910年 明治43年

1910年7月23日,日本軍の護衛を受けてソウルの日本人街を通過,着任する三代統監・寺内正毅の一行「併合」とともに与内は、そのまま初代の朝鮮総督になり、引「後には内閣総理大臣となる。

 

O「日韓併合1910年8月22日」

 

1910年8月22日、軍隊の警戒と憲兵の巡回の中で「日韓併合ニ関スル条約」が調印された。 

これは一連の朝鮮植民地化政策の仕上げともいうべきむので、第1条に

「韓国皇帝陛下ハ韓国ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久二目本国皇帝陛下ニ譲与ス」

とあるように,朝鮮はついに国家としてのすべての権利を目本に奪われたのであった。

この「併合」が公表されると、朝鮮全土は大地をたたいて泣く声に満ちたという。一方、日本では軒なみに国旗が飾られ、花電車や旗行列などの祝賀行事が行われた。目本国民の大多数は、社会主義者の一部もふくめ、この「併合」を歓迎、容認したのだった。

「併合」を指揮した寺内正毅は、祝宴の席で

「小早川加藤小西が世にあらば、今宵の月をいかに兄るらむ」

という歌を詠んだ。秀吉の武将たちが果たせなかった朝鮮征服の夢を白分が果たした、という得意満面の歌であった。

 

石川啄木は,

「地図の上 朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聞く」

と、「併合」の本質をさめた眼で歌ったが、こうした声は圧倒的に小さくささやかなものであった。

*事例

 景権官(王宮)の勤政殿に掲げられた日章旗「併合」と同時に日本は朝鮮各地に日本の国旗を掲げた。

 

「併合条約」朝鮮語テキストの末尾部分

 

朝鮮側の内閣総理大臣として署名した「李完用」の名は,以後売国者の代名詞として使われるようになった。

……韓国の如きは元来,独立国として存在し得べき硬度を有する物体に非ず。その二千年の歴史も多くは他の国家に依附随従したる事蹟にして,日清両国を硬く丸き物体にたとうれば,その接触せざる隙間にありて僅かに不完全なる国体を維持せしのみ。近年西洋列強の圧力しきりに東洋に加わるに及び,日清露米美の隙間を転々せしが,遂に国としての存在を保つ能わず,破れて日本に合することとなれるなり。

……斯くのごとき国家の偽物がポンペーの博物館に陳列せられずして日本の隣に存在せしは,国際関係の密接ならざりし結果にして,交通貿易に不勉強なりし東洋人種の恥辱なり。

今度朝鮮が日本に合併せらるるを見て,或いは二千年来の懸案を解決したりなんと誇る人も有る如くなれども,この一問題が二千年も片付かずとは,随分悠長なる次第というべし。

然して二千年前より日本にねらわれながらその防禦策を講ぜざりし朝鮮人の無神経は更に驚くべきものと言わざるべからず。

……韓国合併後は,いかにして朝鮮人に文明の昧を覚えしめ,日本の有難さを知らしめんかというは,即今の一問題にて間々,韓人服すべきや否やの論あれども,余輩は信ず,韓人をして日本人たらしむるは唯,善政と同情とにありとす。……

 

「東京朝日新聞」1910年8月24・27・29日号)

「日韓併合」にあたって「東京朝日新聞」は6回にわたって「合併せらるべき韓国」という論説を掲載した。これはその一部。朝鮮に対する驚くほどの差別の論が展開されている。

 

*当時の記事より

サーベルを手にした教師たち 1912年5月には全官吏に武官服着用が指示され,学校の教師まで警官まがいの威圧的な服装をするようになった。

 

朝鮮総督府庁舎 

イギリスのインド総督府をまねて造つたという。

 

書堂で学ぶ子どもたち 

書堂は朝鮮人自身の教機関として、公立校で教えられなくなった朝鮮の地理や歴史などを教え民族の誇りを伝えた。書堂を危険視した日本は、1918年,「書堂規則」を発して取締りにのりだす。

 

逮捕された義兵指導者・蔡応彦 

 

激しい弾圧のため1910年以降,義兵の闘いは下火になっていくが「根絶」されたわけではなく,多くは北の国境地帯に移って新しい闘争をつくり出していく。写真の蔡応彦は咸鏡道一帯で活躍し,日本軍をしばしば脅かした。 1914年には彼の逮捕に懸賞金までかけられたという。 1915年,成川で逮捕され,処刑された。

 

*東洋拓殖株式会社 略称「東拓」。

日本が1908年に設立したもので、毎年、日本政府から巨額の融資を受けて朝鮮の土地を手に入れていった。土地調査事業の終了したころには、7 ̄万8000町歩以上の土地を所有し,朝鮮鍛大の地主になっていた。東拓の小作料は一般よりもかなり高く,収奪の方法も悪どかったので,朝鮮の人々の東拓への怨みは深かった。

 

「武断政治」

 

「併合」後は、「統監府」にかわって「総督府」が置かれ,寺内初代総督の下,これまでにもましてむき出しの暴力的支配が行われるようになった。

憲兵と警察を一体化した憲兵警察制度が全国に網の目のようにはりめぐらされて地方行政を担い,2個師団の陸軍と海軍の2個分遣隊などが日本の朝鮮支配をささえた。

朝鮮人の出版・言論・集会・結社の自由などは「集会取締令」により,すべて

奪われ,容赦なく弾圧された。

1911年には「朝鮮教育令」が出され,教育の目的は,日本と同様「教育勅語」にあるとされた。

以後,公立学校では,朝解語の授業以外はすべて日本語で行われるようになり,朝鮮語の授業そのものも大幅に減らされた。また,朝鮮の歴史や地理のかわりに,日本の歴史や地理,修身が教えられるようになった。併合直後から10年近くつづく,このむき出しの暴力支配の時期は,「武断政治」と称されている。

 

収奪・搾取・流浪… 日本の経済侵略

日本の植民地支配は,1910年代の「土地調査事業」による土地収奪,1920年代の「産米増殖計画」による米の収奪,そして1930年代,15年戦争下における地下資源の収奪というように,朝鮮のあらゆる富を根こそぎ奪っていった。

1910年代から1920年代にかけて,つぎつぎと土地を失っていった朝鮮の農民たちは、あてどもなく村を離れ,見知らぬ土地で過酷な生活を送らねばならなかった。

目にしみるような青空の下,ふりそそぐ陽を浴びながら,故郷の土地を奪われた悲しみを,ある詩人は「奪われし野にも春はくるか」と歌った。

 

「土地調査事業」

 

1910年から1918年にかけて行われた「土地調査事業」は、近代的な土地所有権の確定を名目にしたものだったが,調査の実務は日本人官憲や地主たちによって行われ,一般の農民の多くは,期限付きの煩雑な手つづきによる自己申告制のため,土地の所有権を失っていった。

「調査」が終了した1918年には,全農民の80パーセント近くが小作農な

いし自小作農になっていたという。

奪われた土地は大部分が総督府の所有となり,総督府はこれを日本人に安く払い下げた。小作農になった農民は5割をこえる小作料のほか,各種の追加的負担をおしつけられて貧窮にあえいだ。

 

みよ,この厳然たる事実を!

朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。

だが,その上地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつゝあることは、地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……

「東亜日報」(1922年1月18日付社説)

=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より

 

 われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれわれの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。

 今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を楯棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……

 

 天人共に怒る東拓の罪悪! 世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破壊する者、それは誰であるか。東拓である。……

   「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上

 

奪われる米

 

日本に向けて運ぶため,仁川港に野積みされた朝鮮米

群山の東拓工場前に積まれた朝鮮米

 

1918年,日本では米騒動が起った。こうした食糧危機を克服するため,また日本の工業化にともなう安価な食糧をまかなうため,1920年代の朝鮮では「産米増殖計画」が実施された。朝鮮の農民は米をつくればつくるほど,自らは米を食べることができなくなり,コーリヤンや粟などを常食するようになった。

 

このほか,森林については1908年の「森林法」と1911年の「森林令」によって大部分が「国有化」され,日本人の地主と少数の朝鮮人地主が独占的に使用するようになるなど,日本の収奪政策はあらゆるものに及んでいった。

米の増産と逆に、朝鮮人の消費量は減っている。

  朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂,1974年)による。

 

みよ,この厳然たる事実を!

 

朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。

だが,その土地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつつあることは,地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……

 「東亜日報」(1922年1月18日付社説)

=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より

 

われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれ

 

日本人技師による「土地細部測量」

 

1917年,全羅市「土地調査事業」のために,こうした測量が全国で実施された。

 

土地測量 京畿道高陽郡

 

われの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。

 今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を拗棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……

 

天人共に怒る東拓の罪悪!

 

 世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破

壊する者,それは誰であるか。東拓である。……

  「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上

 

日本はその統治下で,「京城」というという意味の伝統ある地名だが

ソウルの日本人街「ソウル」は朝鮮語で<都〉名に勝手に改めた。

 

流浪する人々

 

土地を奪われ,小作すらできなくなった朝鮮の農民は,大都市近くの据っ立て小屋に住む「土幕民」となったり、山岳地帯で焼き畑農業を営む「火田民」となったり,「満州」(中国東北部)や日本に移住したりした。「満州」に向かう列車の中では,垢にまみれた子どもだちと沈痛な顔をした大人たちがひしめきあっていたという。

1930年代の終わりごろ,「満州」の朝鮮人は100万人をはるかにこえるようになっていた。このうち半数の人々が住みついた間島地方は,抗日パルチザンの根拠地として,独立運動の中心地となっていく。

日本に渡る朝鮮人は1920年代に急遠にふえていき,日本社会の差別と偏見,低賃金と失業、暴力的強制労働などの過酷な条件のもとで,底辺の労働を担った。

……父は,朝鮮の金海の出身だと聞いています。母もまた,金海の人です。父も母も,その生まれ故郷である金海では生きてゆけなくなって,この日本に渡って来たのでした。

 これは叔母たちの笑い話の一つですが,母が父との結婚を承諾したのは,ひと足先に日本に来ていた父から,日本ではお米のご飯が食べられると聞かされたからだといいます。父と母は,それほどまでに貧しかったのでした。しかも,やっとの思いで日本に渡って来た母でしたが,ここでもやはり、満足にお米のご飯が食べられることはなかったのでした。……

  カミ一枚 ハシ一本 クギ一本 

トッテクルナ モラッテクルナ ヒロッテクルナ

 

 これは,父がいつも口にしていた鉄則です。わたしたちが,みじめになったり,ゆがんだり,いじけた子にならないようにという父の願いが,きっとこの鉄則になったのです。 このほかにも、父がしばしば口にしていた教えがあります。

人ヲナグル者ハ,背中ヲチヂメテ眠ルガ,

人ニナグラレタ者ハ,手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。

 

 わたしたちは,幼いときから,これらのことばを何回となく言い聞かされてきました。父はこのわが家の鉄則を,わたしたちのからだに細い竹のむちでもってたたきこんだといえるでしょう。そして父は,この鉄則を自分自身でもきびしく守っていました。それは貧しい朝鮮人である父が,朝鮮人の誇りをもって,人間らしく生きようとした姿勢のあらわれだったと思います。

……わたしは,とうとうがまんしきれなくなって言い

 「それは,いったい,どこの国の旗だよ」

すると,父はまっすぐわたしの目を見つめて言ったのでした。

 「朝鮮ノ国旗ダヨ。キマッテルジャナイカ」

 「朝鮮の国旗だって?」

 わたしは驚きの声をあげました。わたしには,朝鮮の国旗という父の言い方が奇妙にひびいたのです。朝鮮に国旗といわれるものがあるということは,かつて間いたことがなかったのでした。

 「朝鮮にも,国旗があるの! 日の丸が,朝鮮の国旗じゃないの」

 瞬間,父は,はっと表情をこわばらせました。わたしたちに向けた目が,急に暗くしぼんでゆきます。

 「ウン……」

 しばらくして,父は低くうなずきました。しかし,不意に首を左右に振り動かすと,しわがれたきびしい声を出して言いました。

 

 「コノ話ハ,コレデヤメダ。イイカ,朝鮮ニ国旗ガアルトカ,

ナイトカ,ホカノ人ニイウンジャナイゾ。コノ話ハ,モウ忘レロ」

 

 わたしは,父のそのきびしい声を聞いて,黙ってしまいました。そのとき父の目にあらわれた恐怖の色は,わたしにとっても何か感ろしいものを感じさせるものだったのです。

  高史明『生きることの意味』(ちくま少年図書館,筑摩書房,1974年)

 

*在日朝鮮人として過した少年時代の記録。父の描写の中に,在日朝鮮人の苦しみ・悲しみ・誇り・やさしさなどをよく知ることができる。

 

実質的には2000万万大の全朝鮮大のほとんどが,この運動になんらかの形でかかわったと考えられる。朝鮮の人々の日本に対する怒り,独立への意志が,どれほど激しく強いものであったかがうかがわれよう。


歴史展望 日本と朝鮮 その真実

2023年09月10日 10時54分56秒 | 戦争の記録

歴史展望 日本と朝鮮 その真実

 

 最近の報道で、『関東大震災』「朝鮮人暴動」取り上げている。しかしそれは短絡的・断片的な扱いが多い。戦国時代豊臣秀吉による朝鮮出兵での朝鮮の人々への残酷な仕打ちは目を覆うばかりである。

 

秀吉の朝鮮出兵の基礎史料

 

(『歴史読本』「日本史資料の基礎知識」臨時増刊号 1994・春号 入門シリーズ) 一部加筆

 

豊臣秀吉の朝鮮出兵とは、いうまでもなく文禄・慶長の役と称されている二度の出兵のことである。この意志が初めて表明された時期は、天正13年(1585)九月頃とされているが、秀吉は、この時すでに唐国(=明)までの大遠征を構想し、これを譜代の重臣らに告げていることも、岩沢悳彦氏によって紹介されている (『伊予小松一柳文書』)。 

さて、島津氏が秀吉に服属し、九州制覇が完成してからは、秀吉の意志も徐々に明確なものになっていった。天正15年5月には対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属交渉を始め、朝鮮がそれに従わなければ、翌年には出兵することを九州の陣の直後すでに北政所にも書状で伝えているのである(『妙満寺文書』)。

 天正十八年、宗氏の交渉の結果、秀吉の日本統一を祝福する朝鮮使節が来日した。この時秀吉はこの使節を服属使節と思い込み、明征服の意志を告げ、その先導(=征明嚮道)を命じた。だが朝鮮側は、これを拒否した。

しかも小西行長らは、明に入るための道を借りたいという名目(=仮途入明)に替えて交渉を繰り返したがこれも挫折し、文禄元年、未曾有の大動員で文禄の役が開始された。

 緒戦で日本軍は、加藤清正らの善戦によって朝鮮の首都漢城を陥落することに成功した(『韓陣文書』)。その後、日本軍は朝鮮の全八道に清加藤正の他、福島正則や宇喜多秀家、小西行長らの部将を配備して、転戦していった。

しかし朝鮮軍も、義民らの決起や李舜臣率いる水軍の活躍によって日本軍の兵糧補給路を断つことに成功し、平壌と碧締鯖の戦いでは李如松らの防戦で後退を余儀なくされたため、秀吉は七か条の講和条件を提示し、停戦を迎えることになった。

 ところが朝鮮側は、秀吉の求めにあった明との仲介を無視した。そのため、一旦結ばれた和議も破綻し、第二次朝鮮侵略(=慶長の役)が開始されることになったのである。

 慶長二年(一五九七)七月、日本軍は再度朝鮮に上陸し、侵攻を続けた。この時は加藤清正が蔚山城に、小西行長が順天城に在番したが、戦況は厳しく、戦線縮小論も出始めた。だが、秀吉は「老若男女薙斬れ」と命じたため、慶長の役では日本軍のゲリラ的殺りくが繰り返された。ここに示した史料もその一部で、戦場で「鼻斬り」は武将の戦意鼓舞と功名心を煽るために強制されたのであった。

(『吉川家文書』)。

 この他、日本軍は朝鮮農民や陶工、朱子学者を捕虜として強制的に日本へ連行した。しかし、翌年八月十八日には太閤秀吉が大坂城で死亡したため、豊臣政権の朝鮮出兵も一変した。長く苦戦を強いられていた戦場には、徳川家康ら五大老、五奉行の撤退の指示が出されたのである。撤退の際には、朝鮮軍の追撃による打撃も受ける結果となり、また、敗戦色濃厚だったために生じた部将間の感情的なもつれは、以後、豊臣政権崩壊の遠因にもなっていったのであった。 △ 會田康範氏著 ▽

 

1910年 明治43年

1910年7月23日,日本軍の護衛を受けてソウルの日本人街を通過,着任する三代統監・寺内正毅の一行「併合」とともに与内は、そのまま初代の朝鮮総督になり、引「後には内閣総理大臣となる。

 

O「日韓併合1910年8月22日」

 

1910年8月22日、軍隊の警戒と憲兵の巡回の中で「日韓併合ニ関スル条約」が調印された。 

これは一連の朝鮮植民地化政策の仕上げともいうべきむので、第1条に

「韓国皇帝陛下ハ韓国ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久二目本国皇帝陛下ニ譲与ス」

とあるように,朝鮮はついに国家としてのすべての権利を目本に奪われたのであった。

この「併合」が公表されると、朝鮮全土は大地をたたいて泣く声に満ちたという。一方、日本では軒なみに国旗が飾られ、花電車や旗行列などの祝賀行事が行われた。目本国民の大多数は、社会主義者の一部もふくめ、この「併合」を歓迎、容認したのだった。

「併合」を指揮した寺内正毅は、祝宴の席で

「小早川加藤小西が世にあらば、今宵の月をいかに兄るらむ」

という歌を詠んだ。秀吉の武将たちが果たせなかった朝鮮征服の夢を白分が果たした、という得意満面の歌であった。

 

石川啄木は,

「地図の上 朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聞く」

と、「併合」の本質をさめた眼で歌ったが、こうした声は圧倒的に小さくささやかなものであった。

*事例

 景権官(王宮)の勤政殿に掲げられた日章旗「併合」と同時に日本は朝鮮各地に日本の国旗を掲げた。

 

「併合条約」朝鮮語テキストの末尾部分

 

朝鮮側の内閣総理大臣として署名した「李完用」の名は,以後売国者の代名詞として使われるようになった。

……韓国の如きは元来,独立国として存在し得べき硬度を有する物体に非ず。その二千年の歴史も多くは他の国家に依附随従したる事蹟にして,日清両国を硬く丸き物体にたとうれば,その接触せざる隙間にありて僅かに不完全なる国体を維持せしのみ。近年西洋列強の圧力しきりに東洋に加わるに及び,日清露米美の隙間を転々せしが,遂に国としての存在を保つ能わず,破れて日本に合することとなれるなり。

……斯くのごとき国家の偽物がポンペーの博物館に陳列せられずして日本の隣に存在せしは,国際関係の密接ならざりし結果にして,交通貿易に不勉強なりし東洋人種の恥辱なり。

今度朝鮮が日本に合併せらるるを見て,或いは二千年来の懸案を解決したりなんと誇る人も有る如くなれども,この一問題が二千年も片付かずとは,随分悠長なる次第というべし。

然して二千年前より日本にねらわれながらその防禦策を講ぜざりし朝鮮人の無神経は更に驚くべきものと言わざるべからず。

……韓国合併後は,いかにして朝鮮人に文明の昧を覚えしめ,日本の有難さを知らしめんかというは,即今の一問題にて間々,韓人服すべきや否やの論あれども,余輩は信ず,韓人をして日本人たらしむるは唯,善政と同情とにありとす。……

 

「東京朝日新聞」1910年8月24・27・29日号)

「日韓併合」にあたって「東京朝日新聞」は6回にわたって「合併せらるべき韓国」という論説を掲載した。これはその一部。朝鮮に対する驚くほどの差別の論が展開されている。

 

*当時の記事より

サーベルを手にした教師たち 1912年5月には全官吏に武官服着用が指示され,学校の教師まで警官まがいの威圧的な服装をするようになった。

 

朝鮮総督府庁舎 

イギリスのインド総督府をまねて造つたという。

 

書堂で学ぶ子どもたち 

書堂は朝鮮人自身の教機関として、公立校で教えられなくなった朝鮮の地理や歴史などを教え民族の誇りを伝えた。書堂を危険視した日本は、1918年,「書堂規則」を発して取締りにのりだす。

 

逮捕された義兵指導者・蔡応彦 

 

激しい弾圧のため1910年以降,義兵の闘いは下火になっていくが「根絶」されたわけではなく,多くは北の国境地帯に移って新しい闘争をつくり出していく。写真の蔡応彦は咸鏡道一帯で活躍し,日本軍をしばしば脅かした。 1914年には彼の逮捕に懸賞金までかけられたという。 1915年,成川で逮捕され,処刑された。

 

*東洋拓殖株式会社 略称「東拓」。

日本が1908年に設立したもので、毎年、日本政府から巨額の融資を受けて朝鮮の土地を手に入れていった。土地調査事業の終了したころには、7 ̄万8000町歩以上の土地を所有し,朝鮮鍛大の地主になっていた。東拓の小作料は一般よりもかなり高く,収奪の方法も悪どかったので,朝鮮の人々の東拓への怨みは深かった。

 

「武断政治」

 

「併合」後は、「統監府」にかわって「総督府」が置かれ,寺内初代総督の下,これまでにもましてむき出しの暴力的支配が行われるようになった。

憲兵と警察を一体化した憲兵警察制度が全国に網の目のようにはりめぐらされて地方行政を担い,2個師団の陸軍と海軍の2個分遣隊などが日本の朝鮮支配をささえた。

朝鮮人の出版・言論・集会・結社の自由などは「集会取締令」により,すべて

奪われ,容赦なく弾圧された。

1911年には「朝鮮教育令」が出され,教育の目的は,日本と同様「教育勅語」にあるとされた。

以後,公立学校では,朝解語の授業以外はすべて日本語で行われるようになり,朝鮮語の授業そのものも大幅に減らされた。また,朝鮮の歴史や地理のかわりに,日本の歴史や地理,修身が教えられるようになった。併合直後から10年近くつづく,このむき出しの暴力支配の時期は,「武断政治」と称されている。

 

収奪・搾取・流浪… 日本の経済侵略

日本の植民地支配は,1910年代の「土地調査事業」による土地収奪,1920年代の「産米増殖計画」による米の収奪,そして1930年代,15年戦争下における地下資源の収奪というように,朝鮮のあらゆる富を根こそぎ奪っていった。

1910年代から1920年代にかけて,つぎつぎと土地を失っていった朝鮮の農民たちは、あてどもなく村を離れ,見知らぬ土地で過酷な生活を送らねばならなかった。

目にしみるような青空の下,ふりそそぐ陽を浴びながら,故郷の土地を奪われた悲しみを,ある詩人は「奪われし野にも春はくるか」と歌った。

 

「土地調査事業」

 

1910年から1918年にかけて行われた「土地調査事業」は、近代的な土地所有権の確定を名目にしたものだったが,調査の実務は日本人官憲や地主たちによって行われ,一般の農民の多くは,期限付きの煩雑な手つづきによる自己申告制のため,土地の所有権を失っていった。

「調査」が終了した1918年には,全農民の80パーセント近くが小作農な

いし自小作農になっていたという。

奪われた土地は大部分が総督府の所有となり,総督府はこれを日本人に安く払い下げた。小作農になった農民は5割をこえる小作料のほか,各種の追加的負担をおしつけられて貧窮にあえいだ。

 

みよ,この厳然たる事実を!

朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。

だが,その上地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつゝあることは、地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……

「東亜日報」(1922年1月18日付社説)

=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より

 

 われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれわれの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。

 今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を楯棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……

 

 天人共に怒る東拓の罪悪! 世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破壊する者、それは誰であるか。東拓である。……

   「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上

 

奪われる米

 

日本に向けて運ぶため,仁川港に野積みされた朝鮮米

群山の東拓工場前に積まれた朝鮮米

 

1918年,日本では米騒動が起った。こうした食糧危機を克服するため,また日本の工業化にともなう安価な食糧をまかなうため,1920年代の朝鮮では「産米増殖計画」が実施された。朝鮮の農民は米をつくればつくるほど,自らは米を食べることができなくなり,コーリヤンや粟などを常食するようになった。

 

このほか,森林については1908年の「森林法」と1911年の「森林令」によって大部分が「国有化」され,日本人の地主と少数の朝鮮人地主が独占的に使用するようになるなど,日本の収奪政策はあらゆるものに及んでいった。

米の増産と逆に、朝鮮人の消費量は減っている。

  朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂,1974年)による。

 

みよ,この厳然たる事実を!

 

朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。

だが,その土地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつつあることは,地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……

 「東亜日報」(1922年1月18日付社説)

=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より

 

われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれ

 

日本人技師による「土地細部測量」

 

1917年,全羅市「土地調査事業」のために,こうした測量が全国で実施された。

 

土地測量 京畿道高陽郡

 

われの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。

 今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を拗棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……

 

天人共に怒る東拓の罪悪!

 

 世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破

壊する者,それは誰であるか。東拓である。……

  「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上

 

日本はその統治下で,「京城」というという意味の伝統ある地名だが

ソウルの日本人街「ソウル」は朝鮮語で<都〉名に勝手に改めた。

 

流浪する人々

 

土地を奪われ,小作すらできなくなった朝鮮の農民は,大都市近くの据っ立て小屋に住む「土幕民」となったり、山岳地帯で焼き畑農業を営む「火田民」となったり,「満州」(中国東北部)や日本に移住したりした。「満州」に向かう列車の中では,垢にまみれた子どもだちと沈痛な顔をした大人たちがひしめきあっていたという。

1930年代の終わりごろ,「満州」の朝鮮人は100万人をはるかにこえるようになっていた。このうち半数の人々が住みついた間島地方は,抗日パルチザンの根拠地として,独立運動の中心地となっていく。

日本に渡る朝鮮人は1920年代に急遠にふえていき,日本社会の差別と偏見,低賃金と失業、暴力的強制労働などの過酷な条件のもとで,底辺の労働を担った。

……父は,朝鮮の金海の出身だと聞いています。母もまた,金海の人です。父も母も,その生まれ故郷である金海では生きてゆけなくなって,この日本に渡って来たのでした。

 これは叔母たちの笑い話の一つですが,母が父との結婚を承諾したのは,ひと足先に日本に来ていた父から,日本ではお米のご飯が食べられると聞かされたからだといいます。父と母は,それほどまでに貧しかったのでした。しかも,やっとの思いで日本に渡って来た母でしたが,ここでもやはり、満足にお米のご飯が食べられることはなかったのでした。……

  カミ一枚 ハシ一本 クギ一本 

トッテクルナ モラッテクルナ ヒロッテクルナ

 

 これは,父がいつも口にしていた鉄則です。わたしたちが,みじめになったり,ゆがんだり,いじけた子にならないようにという父の願いが,きっとこの鉄則になったのです。 このほかにも、父がしばしば口にしていた教えがあります。

人ヲナグル者ハ,背中ヲチヂメテ眠ルガ,

人ニナグラレタ者ハ,手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。

 

 わたしたちは,幼いときから,これらのことばを何回となく言い聞かされてきました。父はこのわが家の鉄則を,わたしたちのからだに細い竹のむちでもってたたきこんだといえるでしょう。そして父は,この鉄則を自分自身でもきびしく守っていました。それは貧しい朝鮮人である父が,朝鮮人の誇りをもって,人間らしく生きようとした姿勢のあらわれだったと思います。

……わたしは,とうとうがまんしきれなくなって言い

 「それは,いったい,どこの国の旗だよ」

すると,父はまっすぐわたしの目を見つめて言ったのでした。

 「朝鮮ノ国旗ダヨ。キマッテルジャナイカ」

 「朝鮮の国旗だって?」

 わたしは驚きの声をあげました。わたしには,朝鮮の国旗という父の言い方が奇妙にひびいたのです。朝鮮に国旗といわれるものがあるということは,かつて間いたことがなかったのでした。

 「朝鮮にも,国旗があるの! 日の丸が,朝鮮の国旗じゃないの」

 瞬間,父は,はっと表情をこわばらせました。わたしたちに向けた目が,急に暗くしぼんでゆきます。

 「ウン……」

 しばらくして,父は低くうなずきました。しかし,不意に首を左右に振り動かすと,しわがれたきびしい声を出して言いました。

 

 「コノ話ハ,コレデヤメダ。イイカ,朝鮮ニ国旗ガアルトカ,

ナイトカ,ホカノ人ニイウンジャナイゾ。コノ話ハ,モウ忘レロ」

 

 わたしは,父のそのきびしい声を聞いて,黙ってしまいました。そのとき父の目にあらわれた恐怖の色は,わたしにとっても何か感ろしいものを感じさせるものだったのです。

  高史明『生きることの意味』(ちくま少年図書館,筑摩書房,1974年)

 

*在日朝鮮人として過した少年時代の記録。父の描写の中に,在日朝鮮人の苦しみ・悲しみ・誇り・やさしさなどをよく知ることができる。

 

実質的には2000万万大の全朝鮮大のほとんどが,この運動になんらかの形でかかわったと考えられる。朝鮮の人々の日本に対する怒り,独立への意志が,どれほど激しく強いものであったかがうかがわれよう。


甲州の文学碑 露木寛の文学碑 著者 奥山正典氏

2023年09月08日 19時18分28秒 | 山梨県歴史文学林政新聞

甲州の文学碑 露木寛の文学碑

 

著者 奥山正典氏

 

甲府の荒川・三ツ水門にある。太田町から朝気方面へ 流れ行く筋は、しばら く南下して三吉町へと 東流するが、里吉、山城方面に向うものは伊勢町に向って更に南流 して行く。

三ツ水門の水は昔から、用水として、おのおのその地域流域の人々と土地とを 潤して来たのである。この文字体は昭和五十二年三月二十七日、甲府市相生二丁目荒川土手下の三ツ水門出口に建立され、同日、春さめのそぼ降る中で除幕式が行われた。

 いま、未亡人露木千代さんから頂いた「三ツ水門」(露木寛)を見ると、

その「御膳水のはじまり」のところに、この原文が出ており、かって総合雑誌「文化人」にも連載された「三ッ水門」の二部であることがわかる。

 除幕式で「芳名簿」(露木先生文学体建立委員会)や「霧氷先生追悼録-先生とユネスコ活動」などを戴いたたが、「芳名簿」の「年譜」には、

「明治三十一年十月四日、神奈川県に生まれる。              

小田原中、愛知県立医専(名古証人医学部)、                

愛知医大研究科等を卒業、医学博士。

昭和五年甲府市柳町(現中央四丁目)に耳鼻咽眼科を開業。県医師会長、    

山梨ユネスコ協会長、日本ユネスコ国内委員、県教育委員、

短歌誌「美知思波」同人等。昭和四十八年四月二日病没、七十四歳。

従五位勲同等」などとあり、志熊孝雄、霧木光彦、市瀬稔、古守豊甫、      

三井浚弘、石川清、斉藤磨真美、今川徳三氏等が、文字体にかかわる、いろいろの記を寄せている。

 除号式に田辺知事さんは「水とかかわりの深い露水先生らしく、水(雨)が祝福してくれる」などと祝いのことばをのべられた。

 「美知思波」主宰、伊藤生更師は「露木は歌が出なくなると、かならず旅行にでて、自然詠に磨きをかけた。そつのない歌を出すからいい」などと申されたことを想起する。光彦さんから頂いた「築城伝説」(露木寛、新人物往来杜)も興昧しんしんである。