歴史展望 日本と朝鮮 その真実
最近の報道で、『関東大震災』「朝鮮人暴動」取り上げている。しかしそれは短絡的・断片的な扱いが多い。戦国時代豊臣秀吉による朝鮮出兵での朝鮮の人々への残酷な仕打ちは目を覆うばかりである。
秀吉の朝鮮出兵の基礎史料
(『歴史読本』「日本史資料の基礎知識」臨時増刊号 1994・春号 入門シリーズ) 一部加筆
豊臣秀吉の朝鮮出兵とは、いうまでもなく文禄・慶長の役と称されている二度の出兵のことである。この意志が初めて表明された時期は、天正13年(1585)九月頃とされているが、秀吉は、この時すでに唐国(=明)までの大遠征を構想し、これを譜代の重臣らに告げていることも、岩沢悳彦氏によって紹介されている (『伊予小松一柳文書』)。
さて、島津氏が秀吉に服属し、九州制覇が完成してからは、秀吉の意志も徐々に明確なものになっていった。天正15年5月には対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属交渉を始め、朝鮮がそれに従わなければ、翌年には出兵することを九州の陣の直後すでに北政所にも書状で伝えているのである(『妙満寺文書』)。
天正十八年、宗氏の交渉の結果、秀吉の日本統一を祝福する朝鮮使節が来日した。この時秀吉はこの使節を服属使節と思い込み、明征服の意志を告げ、その先導(=征明嚮道)を命じた。だが朝鮮側は、これを拒否した。
しかも小西行長らは、明に入るための道を借りたいという名目(=仮途入明)に替えて交渉を繰り返したがこれも挫折し、文禄元年、未曾有の大動員で文禄の役が開始された。
緒戦で日本軍は、加藤清正らの善戦によって朝鮮の首都漢城を陥落することに成功した(『韓陣文書』)。その後、日本軍は朝鮮の全八道に清加藤正の他、福島正則や宇喜多秀家、小西行長らの部将を配備して、転戦していった。
しかし朝鮮軍も、義民らの決起や李舜臣率いる水軍の活躍によって日本軍の兵糧補給路を断つことに成功し、平壌と碧締鯖の戦いでは李如松らの防戦で後退を余儀なくされたため、秀吉は七か条の講和条件を提示し、停戦を迎えることになった。
ところが朝鮮側は、秀吉の求めにあった明との仲介を無視した。そのため、一旦結ばれた和議も破綻し、第二次朝鮮侵略(=慶長の役)が開始されることになったのである。
慶長二年(一五九七)七月、日本軍は再度朝鮮に上陸し、侵攻を続けた。この時は加藤清正が蔚山城に、小西行長が順天城に在番したが、戦況は厳しく、戦線縮小論も出始めた。だが、秀吉は「老若男女薙斬れ」と命じたため、慶長の役では日本軍のゲリラ的殺りくが繰り返された。ここに示した史料もその一部で、戦場で「鼻斬り」は武将の戦意鼓舞と功名心を煽るために強制されたのであった。
(『吉川家文書』)。
この他、日本軍は朝鮮農民や陶工、朱子学者を捕虜として強制的に日本へ連行した。しかし、翌年八月十八日には太閤秀吉が大坂城で死亡したため、豊臣政権の朝鮮出兵も一変した。長く苦戦を強いられていた戦場には、徳川家康ら五大老、五奉行の撤退の指示が出されたのである。撤退の際には、朝鮮軍の追撃による打撃も受ける結果となり、また、敗戦色濃厚だったために生じた部将間の感情的なもつれは、以後、豊臣政権崩壊の遠因にもなっていったのであった。 △ 會田康範氏著 ▽
1910年 明治43年
1910年7月23日,日本軍の護衛を受けてソウルの日本人街を通過,着任する三代統監・寺内正毅の一行「併合」とともに与内は、そのまま初代の朝鮮総督になり、引「後には内閣総理大臣となる。
O「日韓併合1910年8月22日」
1910年8月22日、軍隊の警戒と憲兵の巡回の中で「日韓併合ニ関スル条約」が調印された。
これは一連の朝鮮植民地化政策の仕上げともいうべきむので、第1条に
「韓国皇帝陛下ハ韓国ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久二目本国皇帝陛下ニ譲与ス」
とあるように,朝鮮はついに国家としてのすべての権利を目本に奪われたのであった。
この「併合」が公表されると、朝鮮全土は大地をたたいて泣く声に満ちたという。一方、日本では軒なみに国旗が飾られ、花電車や旗行列などの祝賀行事が行われた。目本国民の大多数は、社会主義者の一部もふくめ、この「併合」を歓迎、容認したのだった。
「併合」を指揮した寺内正毅は、祝宴の席で
「小早川加藤小西が世にあらば、今宵の月をいかに兄るらむ」
という歌を詠んだ。秀吉の武将たちが果たせなかった朝鮮征服の夢を白分が果たした、という得意満面の歌であった。
石川啄木は,
「地図の上 朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聞く」
と、「併合」の本質をさめた眼で歌ったが、こうした声は圧倒的に小さくささやかなものであった。
*事例
景権官(王宮)の勤政殿に掲げられた日章旗「併合」と同時に日本は朝鮮各地に日本の国旗を掲げた。
「併合条約」朝鮮語テキストの末尾部分
朝鮮側の内閣総理大臣として署名した「李完用」の名は,以後売国者の代名詞として使われるようになった。
……韓国の如きは元来,独立国として存在し得べき硬度を有する物体に非ず。その二千年の歴史も多くは他の国家に依附随従したる事蹟にして,日清両国を硬く丸き物体にたとうれば,その接触せざる隙間にありて僅かに不完全なる国体を維持せしのみ。近年西洋列強の圧力しきりに東洋に加わるに及び,日清露米美の隙間を転々せしが,遂に国としての存在を保つ能わず,破れて日本に合することとなれるなり。
……斯くのごとき国家の偽物がポンペーの博物館に陳列せられずして日本の隣に存在せしは,国際関係の密接ならざりし結果にして,交通貿易に不勉強なりし東洋人種の恥辱なり。
今度朝鮮が日本に合併せらるるを見て,或いは二千年来の懸案を解決したりなんと誇る人も有る如くなれども,この一問題が二千年も片付かずとは,随分悠長なる次第というべし。
然して二千年前より日本にねらわれながらその防禦策を講ぜざりし朝鮮人の無神経は更に驚くべきものと言わざるべからず。
……韓国合併後は,いかにして朝鮮人に文明の昧を覚えしめ,日本の有難さを知らしめんかというは,即今の一問題にて間々,韓人服すべきや否やの論あれども,余輩は信ず,韓人をして日本人たらしむるは唯,善政と同情とにありとす。……
「東京朝日新聞」1910年8月24・27・29日号)
「日韓併合」にあたって「東京朝日新聞」は6回にわたって「合併せらるべき韓国」という論説を掲載した。これはその一部。朝鮮に対する驚くほどの差別の論が展開されている。
*当時の記事より
サーベルを手にした教師たち 1912年5月には全官吏に武官服着用が指示され,学校の教師まで警官まがいの威圧的な服装をするようになった。
朝鮮総督府庁舎
イギリスのインド総督府をまねて造つたという。
書堂で学ぶ子どもたち
書堂は朝鮮人自身の教機関として、公立校で教えられなくなった朝鮮の地理や歴史などを教え民族の誇りを伝えた。書堂を危険視した日本は、1918年,「書堂規則」を発して取締りにのりだす。
逮捕された義兵指導者・蔡応彦
激しい弾圧のため1910年以降,義兵の闘いは下火になっていくが「根絶」されたわけではなく,多くは北の国境地帯に移って新しい闘争をつくり出していく。写真の蔡応彦は咸鏡道一帯で活躍し,日本軍をしばしば脅かした。 1914年には彼の逮捕に懸賞金までかけられたという。 1915年,成川で逮捕され,処刑された。
*東洋拓殖株式会社 略称「東拓」。
日本が1908年に設立したもので、毎年、日本政府から巨額の融資を受けて朝鮮の土地を手に入れていった。土地調査事業の終了したころには、7 ̄万8000町歩以上の土地を所有し,朝鮮鍛大の地主になっていた。東拓の小作料は一般よりもかなり高く,収奪の方法も悪どかったので,朝鮮の人々の東拓への怨みは深かった。
「武断政治」
「併合」後は、「統監府」にかわって「総督府」が置かれ,寺内初代総督の下,これまでにもましてむき出しの暴力的支配が行われるようになった。
憲兵と警察を一体化した憲兵警察制度が全国に網の目のようにはりめぐらされて地方行政を担い,2個師団の陸軍と海軍の2個分遣隊などが日本の朝鮮支配をささえた。
朝鮮人の出版・言論・集会・結社の自由などは「集会取締令」により,すべて
奪われ,容赦なく弾圧された。
1911年には「朝鮮教育令」が出され,教育の目的は,日本と同様「教育勅語」にあるとされた。
以後,公立学校では,朝解語の授業以外はすべて日本語で行われるようになり,朝鮮語の授業そのものも大幅に減らされた。また,朝鮮の歴史や地理のかわりに,日本の歴史や地理,修身が教えられるようになった。併合直後から10年近くつづく,このむき出しの暴力支配の時期は,「武断政治」と称されている。
収奪・搾取・流浪… 日本の経済侵略
日本の植民地支配は,1910年代の「土地調査事業」による土地収奪,1920年代の「産米増殖計画」による米の収奪,そして1930年代,15年戦争下における地下資源の収奪というように,朝鮮のあらゆる富を根こそぎ奪っていった。
1910年代から1920年代にかけて,つぎつぎと土地を失っていった朝鮮の農民たちは、あてどもなく村を離れ,見知らぬ土地で過酷な生活を送らねばならなかった。
目にしみるような青空の下,ふりそそぐ陽を浴びながら,故郷の土地を奪われた悲しみを,ある詩人は「奪われし野にも春はくるか」と歌った。
「土地調査事業」
1910年から1918年にかけて行われた「土地調査事業」は、近代的な土地所有権の確定を名目にしたものだったが,調査の実務は日本人官憲や地主たちによって行われ,一般の農民の多くは,期限付きの煩雑な手つづきによる自己申告制のため,土地の所有権を失っていった。
「調査」が終了した1918年には,全農民の80パーセント近くが小作農な
いし自小作農になっていたという。
奪われた土地は大部分が総督府の所有となり,総督府はこれを日本人に安く払い下げた。小作農になった農民は5割をこえる小作料のほか,各種の追加的負担をおしつけられて貧窮にあえいだ。
みよ,この厳然たる事実を!
朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。
だが,その上地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつゝあることは、地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……
「東亜日報」(1922年1月18日付社説)
=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より
われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれわれの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。
今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を楯棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……
天人共に怒る東拓の罪悪! 世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破壊する者、それは誰であるか。東拓である。……
「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上
奪われる米
日本に向けて運ぶため,仁川港に野積みされた朝鮮米
群山の東拓工場前に積まれた朝鮮米
1918年,日本では米騒動が起った。こうした食糧危機を克服するため,また日本の工業化にともなう安価な食糧をまかなうため,1920年代の朝鮮では「産米増殖計画」が実施された。朝鮮の農民は米をつくればつくるほど,自らは米を食べることができなくなり,コーリヤンや粟などを常食するようになった。
このほか,森林については1908年の「森林法」と1911年の「森林令」によって大部分が「国有化」され,日本人の地主と少数の朝鮮人地主が独占的に使用するようになるなど,日本の収奪政策はあらゆるものに及んでいった。
米の増産と逆に、朝鮮人の消費量は減っている。
朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂,1974年)による。
みよ,この厳然たる事実を!
朝鮮の鉄道が日本人の掌中にあり,銀行が日本人の掌中にあり,商権が日本人の掌中にあり,工業権が日本人の掌中にあり,政権がまた日本人の掌中にあり,その他諸般の産業開発に関係する知識と技能と資本が日本人の掌中にあって,ただただ朝鮮人に残存するものは労働力と土地のみである。
だが,その土地もまた漸次日本人の掌中に帰せられつつあることは,地方からの報道が日夜われわれの耳菜を驚打している事実である。……
「東亜日報」(1922年1月18日付社説)
=高峻石『抗日言論闘争史』(新泉社,1976年)より
われわれが,わが民族の経済的生活の吸血鬼となり絞首台となった東洋拓殖会社の撤廃を主張したことは1,2回にとどまらない。しかし,頑冥醜悪な東洋拓殖会社は,毒牙を張り禍心をもって悪極兇極のすべての手段をもって,半万年もの間,世に伝えてきたわれ
日本人技師による「土地細部測量」
1917年,全羅市「土地調査事業」のために,こうした測量が全国で実施された。
土地測量 京畿道高陽郡
われの田畑をむやみに侵奪し,二千万大衆の生命を時々刻々に脅かして少しも憚るところがなく自粛するところがない。これをみるとき,われわれの心胆がどれほどおののき,われわれの血涙がどれほど流れたか,を日本人は知るまい。
今日,われわれは,忍ぼうとしても忍ぶことができず,耐えようとしても耐えることができない,行詰りの小路に立つにいたった。したがって問題は,わが二千万民族が一人残らず生存権を拗棄するか,そうでなければ,東拓が撤廃自決するか,の最後の対決のみとなった。……
天人共に怒る東拓の罪悪!
世界の人道を破壊する者,それは誰であるか。東拓である。人類の正義を破
壊する者,それは誰であるか。東拓である。……
「東亜日報」(1925年2月8日付社説)=同上
日本はその統治下で,「京城」というという意味の伝統ある地名だが
ソウルの日本人街「ソウル」は朝鮮語で<都〉名に勝手に改めた。
流浪する人々
土地を奪われ,小作すらできなくなった朝鮮の農民は,大都市近くの据っ立て小屋に住む「土幕民」となったり、山岳地帯で焼き畑農業を営む「火田民」となったり,「満州」(中国東北部)や日本に移住したりした。「満州」に向かう列車の中では,垢にまみれた子どもだちと沈痛な顔をした大人たちがひしめきあっていたという。
1930年代の終わりごろ,「満州」の朝鮮人は100万人をはるかにこえるようになっていた。このうち半数の人々が住みついた間島地方は,抗日パルチザンの根拠地として,独立運動の中心地となっていく。
日本に渡る朝鮮人は1920年代に急遠にふえていき,日本社会の差別と偏見,低賃金と失業、暴力的強制労働などの過酷な条件のもとで,底辺の労働を担った。
……父は,朝鮮の金海の出身だと聞いています。母もまた,金海の人です。父も母も,その生まれ故郷である金海では生きてゆけなくなって,この日本に渡って来たのでした。
これは叔母たちの笑い話の一つですが,母が父との結婚を承諾したのは,ひと足先に日本に来ていた父から,日本ではお米のご飯が食べられると聞かされたからだといいます。父と母は,それほどまでに貧しかったのでした。しかも,やっとの思いで日本に渡って来た母でしたが,ここでもやはり、満足にお米のご飯が食べられることはなかったのでした。……
カミ一枚 ハシ一本 クギ一本
トッテクルナ モラッテクルナ ヒロッテクルナ
これは,父がいつも口にしていた鉄則です。わたしたちが,みじめになったり,ゆがんだり,いじけた子にならないようにという父の願いが,きっとこの鉄則になったのです。 このほかにも、父がしばしば口にしていた教えがあります。
人ヲナグル者ハ,背中ヲチヂメテ眠ルガ,
人ニナグラレタ者ハ,手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。
わたしたちは,幼いときから,これらのことばを何回となく言い聞かされてきました。父はこのわが家の鉄則を,わたしたちのからだに細い竹のむちでもってたたきこんだといえるでしょう。そして父は,この鉄則を自分自身でもきびしく守っていました。それは貧しい朝鮮人である父が,朝鮮人の誇りをもって,人間らしく生きようとした姿勢のあらわれだったと思います。
……わたしは,とうとうがまんしきれなくなって言い
「それは,いったい,どこの国の旗だよ」
すると,父はまっすぐわたしの目を見つめて言ったのでした。
「朝鮮ノ国旗ダヨ。キマッテルジャナイカ」
「朝鮮の国旗だって?」
わたしは驚きの声をあげました。わたしには,朝鮮の国旗という父の言い方が奇妙にひびいたのです。朝鮮に国旗といわれるものがあるということは,かつて間いたことがなかったのでした。
「朝鮮にも,国旗があるの! 日の丸が,朝鮮の国旗じゃないの」
瞬間,父は,はっと表情をこわばらせました。わたしたちに向けた目が,急に暗くしぼんでゆきます。
「ウン……」
しばらくして,父は低くうなずきました。しかし,不意に首を左右に振り動かすと,しわがれたきびしい声を出して言いました。
「コノ話ハ,コレデヤメダ。イイカ,朝鮮ニ国旗ガアルトカ,
ナイトカ,ホカノ人ニイウンジャナイゾ。コノ話ハ,モウ忘レロ」
わたしは,父のそのきびしい声を聞いて,黙ってしまいました。そのとき父の目にあらわれた恐怖の色は,わたしにとっても何か感ろしいものを感じさせるものだったのです。
高史明『生きることの意味』(ちくま少年図書館,筑摩書房,1974年)
*在日朝鮮人として過した少年時代の記録。父の描写の中に,在日朝鮮人の苦しみ・悲しみ・誇り・やさしさなどをよく知ることができる。
実質的には2000万万大の全朝鮮大のほとんどが,この運動になんらかの形でかかわったと考えられる。朝鮮の人々の日本に対する怒り,独立への意志が,どれほど激しく強いものであったかがうかがわれよう。