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伊達政宗 キリシタン 支倉六右衛門常長 『続 歴史の旅』監修 亀井勝一郎

2024年08月09日 04時33分54秒 | 歴史さんぽ

伊達政宗 キリシタン 支倉六右衛門常長

『続 歴史の旅』監修 亀井勝一郎

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

 政宗がキリシタンにとり憑かれたのはこのときからである。ソテロを招いて家臣たちの帰依をはかることを告げたり、また、城門と大広間にキリシタン布教の自由を掲示したり、そのうえ、松島瑞巌寺の数多くの石像を破壊するという思いきったことさえしている。ある寺の仏像の破壊を命じたとき、これを承知しなかった住僧たちを殺すという暴挙までしてしるのである。

秀吉はキリシタンに対して厳禁の態度でのぞんだが、京染は通商の利益に着目して、この禁令をゆるめたのである。

 新救国であるオランダとの通商をひらいた翌年にあたる慶長十五年、京染はスペイン国王に対し、その領国であるノビスパン(メキシコ)と日本との通商を約束した。このときに、前ルソン(フイリピン)大守ロドリゴの代理として、幕府との交渉にあたったのがソテロであった。

 そのころ、政宗の愛していたある侍女が病にかかり、医者からも見放されるという重態にあった。そのときソアロのつれてきたブルギソョというイルマン(修道士)が見事この難病を治したのである。これを機会にソテロは政宗に近づいた。慶長十六年の五月に帰国した政宗のあとを追って、ソテロも仙台に向かったのである。これと前後して、スペイン使節ビスカイノが仙台にはいった。

 彼は、幕府の許可を得て日本の東海岸を測量することになっていたのである。政宗はビスカイノを仙台城に招き、スペイン国王と親交を結び通商の目的を持っていることを告げた。

 政宗がキリシタンにとり憑つかれたのはこの時からである。ソテツを招いて家臣たちの帰依をはかることを告げ、城門と大広間にソテロを招いてキリシタンの布教を自由に掲示し、その上松島瑞厳寺の数多くの石造を破壊するという思い切った行動を起こしている。ある寺の仏像の破壊命じた時、これを不承知の僧侶たちを殺害するという暴挙まで行った。

このとき政宗の命をうけて、寺に火を放ち僧侶を斬ったのが、支倉常長であった。ここで面白いことに、このようにしてまでキリシタンヘの傾倒ぶりをみせている政宗が自分自身は洗礼を受けていないのである。自分は、親類や友人との関係上できない、といっているのである。ここに、他のキリシタン大名とは異なる、ある片鱗がチラついている。

 仙台には小さな教会堂が二つ建てられたが、政宗はさらに壮大な会堂を建てて布教をすすめようとし、ソテロにその方法をたずねた。ソテロは、ローマ法王に指揮を仰ぐことをすすめた。そして、自身がその使になることを申し出たのであった。支倉常長らが付き添ったこの使節団は、浦賀沖の難破で挫折したが、慶長十八年幕府の許可がおりると、政宗はさらに新船を建造して使節派遣を決心したのである。

 かくして、横五間半、長さ十八間、帆柱十六間余と九間余、二本マストの黒船(洋船)ができあがった。ソテロの残した言葉を集めた『シマンカス文書館文書』によれば、五百トンをこえる大船であったという。

 正使は支倉常長と決まった。そしてソテロもこれに同行することになったのである。そのころ幕府のキリシタン弾圧がはじめられていたが、ソテロは改宗のとりなしで救われた。イエズス会派におくれて日本に入ったフラソシスコ派を奥羽地方に広め、そこに教区を設立して、その哨教におさまろうというのが、ソテロの望みであった。

支倉六右衛門常長は、常陸介常隆の次男伊藤壱岐守常久を祖としている。常久は伊達家の祖朝宗に属して常陸の中村に住んだが、その子久成とともに頼朝の奥州征伐に従軍し、その功によって信夫郡山口・伊達郡梁川・柴田郡の田五百余町が常久にあたえられ、伊達氏の命で支倉を名乗ったのであった。紀伊守時正は信夫郡山口に住み甥の与市を養子としたが、その後二子が生れたので、その禄を分けて六百石を実子の紀伊に、六百石を与市に与えたのである。この与市が後の六右衛門常長であった。大崎・葛西の戦いには、改宗の命を受けてたびたび使となっており、朝鮮征伐にも御手明衆の一人として功をあらわしている。慶長十八年には不惑を越えて四十三歳であった。

 慶長十八年(一六一三)九月十五日の夜、ローマ派遣使節団一行を乗せた黒船は牡鹿郡の月ノ浦を出帆した。常長らはメキシコ、スペインを経てローマにはいったが、そのまえに常長は、スペインのサン・フランシスコ分派の尼院で受洗し、ドソ・フイリッポ・フラ

ソシスコの洗礼名を授けられている。

 月ノ浦を出帆して二年、一行は晴れてローマ法王に謁見することになったのである。一六一五年十月二十九日、一行の華々しいローマ入府式が行なわれた。華麗な日本服にローマ風の帽子をいただいた常長は、ローマ市民の群列するなかを、軽騎兵、各国大使館員、各国貴族神士らに先行され、ソテロ、侍衛兵、馬丁を従え、楽隊の奏楽で市の門から市庁の広場に向かい、礼砲をもって迎えられた。

 十一月三日、法王に謁見して奥州王改宗の国書を呈した。内容は宣教師の派遣を乞い、通商に関してスペイン国王への斡旋を願うものであった。二十日には常長に対しローマ市公民権が贈られ、貴族に列し、随員七人にも公民に列することを許されたのである。

 しかし、この間日本の国情は急激な変化か見せていた。常長の出発三ヵ月後には、宣教師の追放とともに、日本人のキリシタン信仰を禁止する、全面的な禁圧令が出されていたのである。それと共に改宗の心境も変っていた。大阪落城の間際に、スペインの神父が脱走し、改宗の陣営にたどりついて救いを求めたが、政宗はこれを拒絶している。

 支倉常長が帰国したのは、元和六年(一六二〇)八月二十六日のことであった。出発以来、実に七ヵ年の月日か経過している。常長は帰国二年後の元和八年七月一日に病死し、長子常頼は弟がキリシタン宗徒であったために斬罪に処せられ、支倉家は断絶した。しかし寛文八年(一六六八)には、五十石をもって再興を許されている。

 常長と同行したソテロの運命も残酷なものであった。元和八年長崎で入牢させられ、大村に移された後、寛永元年七月(一六二四)火刑に処せられて、五十一歳の生涯を閉じている。

 伊達騒動で有名な政岡の墓というのがあるが、元来この人物の実在には不審が持たれている。仙台線榴が岡駅の西にあたる日蓮宗孝勝寺内にある『三沢氏子初之墓』というのがこれであった。付近は近代的な市街地とは変って埃っぽい士道が緑にかこまれた古びた家々のあいだを通っている。墓所の入口に氷水平やアイスクリームの旗をかかげた茶店があり、それに土産物の陳列所まであった。

そのうえ、広い墓所の門には厳重に閂(かんぬき)がかけられており、周囲に鉄条網がはりめぐらされている。これまで見たどの墓、伊達公の墓でさえも、このように派手(?)な構えではなかった。やはり『仙台萩』のしからしめるところであろうか。

 『伊達騒動』は、わずか二歳で父綱宗のあとをついだ亀千代(綱村の幼名)の妨きに起った。この生

母が三沢初子であった。亀千代には伊達兵部少他宗勝と田村右京亮宗良との二人の後見がついた。宗勝が家老原田甲斐宗輔と結んで悪政をひいたので、寛文十丁年(一六七一)涌谷の邑主伊達安芸宗重はその失政を幕府に訴えたのである。同年三月、ときの大老酒井雅楽頭の邸で安芸、甲斐、柴田外記、古内志摩らに対する尋問が行なわれると、甲斐の罪状が明らかになった。すると、とつぜん一室に休息中の安芸に原田甲斐が斬りつけ殺害したのである。甲斐もその場で討ちとられてしまったが、その後、宗勝は土佐に流され、宗良は閉門を仰せつけられて事件落着、伊達六十二万石は安泰となった。

 

 『伊達騒動実録』によると、政岡を架空の人物として「政岡のモデルらしき人物を強いてあげれば、鳥羽ではないか」と疑っている、鳥羽は、第一回の置毒事件で、嫌疑をうけて仙台に送られた女でありながら、厚遇されて天寿を全うしている人物で、史実もあきらかになっている。

 騒動のとき、伊達兵部宗勝を斬ろうとして捕えられた男に伊東七十郎重孝というのがいた。寛文八年四月二十八日米が袋の刑場で斬罪に処せられたが、片平丁の牢を出っ切りになるとき、揚り屋の床板をどうどうと踏みならした気力は、三十三日間断食した人とは思えなかったという。鹿子清水の坂から捕縄をとっていた獄卒を横倒しにひきずったまま刑場に向かい、どたん場に坐ってから首斬役の小人頭万右衛門に「人は首を刎ねられるとまえにのめるが、おれは仰向けになるだろう。さすれば兵部殿を三年のうちに亡きものとしてみせよう」といい、万右衛門が斬り損じると、「おちついて、よく斬れ」といい、果してうしろに倒れた。

 万右衛門はその翌日、小人頭をやめて仏門に入り、のち七十郎の供養にたてたのが、鹿子清水の河原にある縛り地蔵だと伝えられる。この地蔵は人間の苦しみなら何でも除いてやるといわれ、願かけに繩でしばるため、地蔵さんの顔も体も繩でぐるぐる巻きにされて、繩束が立っているように見える。毎年夏の縁目にだけ繩をほどくので、お顔は年一回この日だげにしか見られない。

 市の西北部、北山の立上にある青葉神社は伊達改宗を祀っており、秋祭の十月九日には旧藩士の子孫たちが集まって甲冑行列が行なわれる。改宗の廟所のあるのは、瑞温寺である。臨済宗のお寺で政宗山といわれ、向山径が峯にある。境内にある瑞鳳殿(政宗廟)、感仙殿(忠宗と綱宗の廟)は、日光につぐ壮麗な美観を誇っていたが、戦災で惜しくも焼失、いまはその焼跡に木碑が立っているの

である。

政宗が仙台に居城を定めたとき、その開府の守護神として遠刈田郡八幡村から仙台へ移しだのが大崎八幡神社であった。応神天皇、仲哀天皇、神功皇后などを祭神としており、松島の端厳寺とともに東北における桃山式建築の由緒を持つものである。市の西北伊勢堂下竜雲寺境内には寛改の三奇人の一人林子平の墓がある。仙台藩上林嘉膳の弟で、蒲生君平、高山彦九郎らとならび称された。深く海防のことを憂い、日本国内を視察し、長崎で海外事情を調べて『三国通覧』、『海国兵談』などを著わしたが、幕府の忌諱にふれ、寛政四年仙台に幽閉されて翌丑年五十六歳で獄中に歿した。

「親もなし妻なし子なし版木なし金もなければ死にたくもなし」

と詠じ、六無斉と号した。

 また、相撲で名高い谷風梶助も仙台の生れだ。寛政元年横綱になり、体重四十八貫、二千七百六十四回の相撲中、敗けたのはたった四回であったという。南鍛冶町東漸寺境内にその墓が残っている。

 『荒城の月』で有名な土井晩翠は仙台の人である。市内新寺小路の大林寺はその菩提寺で墓があり、寺の門前には、

「おほいなる真ひるの夢を見よかしと、生先(おいさき)長き子等に望まん」

の歌碑が立っている。それに青葉城址の仙台市を眺望する高みにも、詩碑があり、仙台名誉市民の晩翠の生前の詩業を偲んでいる。

仙台市の年中行事として有名なものに、毎年八月三日から催される『七夕祭』というのがある。何百年の伝統を持ち、飾りつけにも特徴があって、丈余の葉竹に短冊、吹流し、四ツ身の紙衣、巾着、屑龍、千羽鶴、七夕線香を基本とし、これに宝船、薬玉など思い思いに趣好をこらした紙細工を軒毎に立てるという豪華なもので、日本一と称している。

現在の七夕祭は、もちろん商店街の宣伝と観光用だが、いまよりもっと盛んであった昔の七夕祭は、そのかげに田ノ神信仰があったからではあるまいかといわれている。周期的に襲ってくる冷害による飢饉は、東奥にとっては宿命的なものであった。この凶災からのがれるために田ノ神に願い、祈りをかげるのである。藩政時代二百五十石取りの大番士だった浜田氏の『年中行事』七月の項には

 「六日 五色の色紙、短冊の詩歌を書て竹へ付、牽牛織女の星を祭る。

七日の朝なれ共旧例によって今夜より七日迄立置く也、」

とあるから、大身の門閥、大家、家柄の家臣以下平侍、紙侍、足軽、小人に至るまで侍町、足軽町のすべてをあげて軒並に七夕竹をたてていたことが想像される。

 

白石市はスキーで有名な蔵王の東能にあり、伊達家の忠臣片倉小十郎景綱居城の地であった。市役所の裏手にあたる丘陵の上に白石城址があり、いまは益岡公園となっている。

 市内の傑山寺は小十郎景鋼の開いた寺であり、その背後の山林の中腹には、代々の後室や娘の墓が立ちならんでいる。

 市の西方には小原、鎌先の両温泉があり、和紙や温麺が名産である。

 白石で面白いのは児捨川に架っている橋の欄干がこけしであることだ。市役所の観光課でも、こけし橋がずいぶん評判になって、方々の県市から写真を送れといってくるといっていた。そこから市街地の方へくる途中、白石川にかかる白石大橋北岸の小高い丘陵地には、世良修蔵の墓がある。

 慶応三年(一八六七)十月、大政奉還がなり、十五代将軍徳川慶喜は征夷大将軍を辞したが、仙台潘内の意見はまとまらず、上洛即行論と自重待機論にわかれた。

 そうしているところ慶応四年正月早々…鳥羽伏見の変…が起って討幕の勅令が下った。そして十五日には太政官から正式に仙台中将に討幕の脅か下り、つづいて会津討伐の命が下ったのである。

 三月二目、奥羽鎮撫使の一行、九条総督、沢副総督、醍醐参謀、大山、世良参謀以下薩長筑三藩の兵五百四十名が松島に上陸し、二十三日に入仙、養賢堂を宿舎とした。世良、大山らの下士出身の参謀の尊大な態度は、但木、坂などの重臣の憤激を買い、「竹に雀を袋にいれて後においらのものにする」と城下を放吟して歩く官軍は藩士たちを刺激したが、それでも藩は不承々々ながら準備をしなければならなかった。

 そして、閏(うるう)四月十一日には 白石で奥羽二十四藩の平和同 盟がなり、会津の降伏嘆願書、

 仙米両藩の意見書、二十四藩 連署の嘆願書を調印して平和 裡にことを解決しようと決意 し、その嘆願書を九条総督に提出した。がしかし、これを世良参謀が却下してしまったうえ、逆にもし会津に兵を進めなければ、仙台藩も会津に同盟しているものと認め、仙台を討伐するぞと威嚇する始末であった。これには伊達も上杉も憤激した。四月二十日未明、福島遊廓で泥酔していた世良修蔵は仙台藩士瀬ノ上主膳、姉歯武之進という慷慨の士のために捕えられ、会津藩土によって叩き斬られた。二十一日には仙台を盟主として奥羽越三十一藩の攻守同盟が結ばれたが、結局時の勢いには抗しがたく、九月十二日仙合藩の降伏が決定した。いま、世良修蔵の墓へ参ってみると、あまり訪う人もないのか、周囲はぼうぼうたる雑草の茂るにまかせ、石の囲いもあらかた崩れている。夕暮迫るなかに寂しげに立つ墓のところから、白石川の水沫がキラキラ光って見えた。

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武江年表 寛政~文化年代 寛政二年(1790)庚戌(かのえいぬ)

2024年08月03日 07時48分25秒 | 歴史さんぽ

武江年表 寛政~文化年代

寛政二年(1790)庚戌(かのえいぬ)

 

〇正月二十一日、本所松代町より出火、砂村百姓屋迄焼くる。

○三月九日、画人劉安生卒す(号寿山、麻布曹渓寺に葬す)。

○三月十一日、下谷稲荷社祭礼、産子(うぶこ)町々より出し練物出る

 (本祭の時は産子の諸侯より長柄鎗の警囚を出さるゝ事旧例也。其の後中絶せり)。

○永代寺にて京都大仏の内弁才天開帳、この問境内見せ物に壬生(みぶ)狂言を出す。

世に行はれて両国に於いても見せ物とし、幇間(ほうかん)の輩も酒宴の興にこれか学ぶ

(箱庭云ふ、此の時壬生狂言は大いに流行り、両国の見世物にも真似て是もはやりしが、

弁天の開帳は流行らず)。

○神奈川浦島寺観世音、江戸にて開帳(其の場所不詳、霊宝に玉手箱を見せたり)。

○八月十四日、狩野栄川院典信歿。(六十一歳)。

○〔筠補〕一八月二十日、大風雨、深川出水、所々家を吹流す。

○八月二十三日、前句付点者川柳歿。

(浅草新堀龍宝寺に葬す。川柳は同寺門前の坊正にして柄井(からい)八右衛門といふ。

俳諧の一体に俗談を旨として狂句を作る。其の集を「柳樽」と号し、数篇を撰ぶ。

今に其の流たえず、今の緑亭川柳五世に及び、「柳樽」の後輯年々に梓行せり。

按ずるに、宝暦の頃「武玉川」といへる俳諧の句集あり、専ら俗情を述ぶる。

川柳もこれより一変せしものとなん)。

○九月六日、儒師山中天水歿。(三十二歳、名恕之、称猶平、浅草行安寺に葬す)。

○十一月二十七日、夜大地震。

○十一月、琉球入来聘、正便宜湾王子、

蒲原の間にて富士を見て詠める、 宜湾王子

 かぎりなき山を幾重かながめきてそれぞとしろき雪の富士の根

箱筠云う、琉球人江戸着の日見物多く怪我人あり。

○十二月二日、三日夜、甘露降る。

〇「瀬田問答」或る(天明よりこのかた、瀬名貞雄、太旧蜀漸山、武江の雑事問答の書なり)。

〇「琉球談」刊行(森島中良著、又「朝鮮談」も刊行せり)。

○磁器焼紺屋始まる。

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源氏とよぶは侮称 源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著

2024年07月26日 04時35分41秒 | 歴史さんぽ

源氏とよぶは侮称

源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著

 

 元禄十一年、江戸大火後の弾圧以降は、神仏が強制的に祭祀合併され、「白旗党」といって土豪というか匪賊扱いされた足利時代同様に原住民系が蔑まれる時代がやってきて、人買い、千三つ屋のことを「源氏屋」と呼んだが、お女郎の名も「源氏名」と侮称した。また胡乱くさい青線の女たちの溜りを「地獄長屋」とか「源氏名」と蔑すんだ。芝居小屋に原住系の頭、弾左衛門の管轄なので、舞台の上では、源氏店の名をさけて当て字となし、これを「玄冶店(げんやなだ)」に呼びかえられ、「しがねえ恋が、なさけの仇」と、切られの与三郎が入ってゆくのを、今で云う「オメカケアパート」か、二号さんのマンショソ程度に恰好をつけているが、江戸時代に俗に岡場所といわれた青線は、現在の水天宮を中心に、人形町、蠣殼町一帯が多く、それを知らぬから人形町の先には「玄治店の遺蹟」という標識がでている。かつてあった寄席の「人形町末広亭」の側である。

 螢だって、浮浪みたいに、ふらふら飛ぶのは「<源氏螢」とバカにされる程だから、まさか、ご当人が、文治のその時代に、

 「われこそは、源氏の何某なり」なんて、名乗りをあげなかったのは事実らしい。勿論、「われこそは、みなもとの・……といっていたのだろう。

 なにしろ彼らは(みなもとの民)つまり原住民意識は濃厚にもっていたのである。そして血液の純潔さを保つために、明治までは同族外の婚姻は死罪だった。昭和二十年までは「血統調べ」といって、双方の血脈を厳しく調べたものだが、これも血の中にレプラや悪性の病気があるというのではなく、原住系か外来系かの区別をするために、その調査をしたのである。

 

『古事記』

「忍坂の大室屋に、人多く来入り居り、入り折りとも、みつみつし、久米の子が、

くぶつかり、いしつらいもち、撃ちてしやまむ」

と、土雲八十建(たてる)を殺し、「日本紀』では「八十タケル」を国見岳にてうつ」というように討伐してあるき、「ヤマトタケル」という名を向うから貰って名のら牡るの示日本武尊の神詣だが、これでも判るように日本列島の・原住民示はヤのつくヤ印である。後年は非占領国民としてグレてしまって「ヤーさん」は「ヤア公」になってしまうが、占領系にしてみると、せっかくの舶来系を土着のヤ族と結びつくようなのは、もっての外というのであろう。そうした血脈か無視した結合を彼らの側からは「野合」というのである。何も野っばらで青かんしたという意味ではない。

 さて、原佳民といっても、インデオやインデアンみたいに日本の原住民は馬に跨って「アオ、 アオ」言ってる暇など彼らにはなかった。そして酒や性病で民族の衰亡を招くようなこともなかった。

 なにしろ女尊男卑の彼ら男どもは、山の神である女に、厳しく躾けられ、忍従と精励をたたきこまれていたからである。

 「源・平・藤・橘」と四姓に分けても、大陸からきた占領人種は僅かで、なにしろ日本人には土着の源氏が多いから、その末裔の女性は、今でも、その伝統精神によって、夫を「奴」として扱い、給料袋ごと巻き上げるのを、当然のように考えている女性もいるらしい。

 旧幕時代、新田義頁貞で名高い、今の群馬あたりの男どもは、あまりにも苛められて、逃亡奴隷として、旅烏になり、生きては戻る所もないから、喧嘩の特は死ぬ気で暴れ「上州長脇差」の評判を高からしめた。つまり国乱れて忠臣が現われ、家が貧しくして孝子現われ、女強くして男が苛められ、そこでやむなく敢死になるゆえんである。

 

 さて、なんといっても女というものは、いつの次元においても、谷ろことが好からしく、山繭を集めさせて、それを男どもに、機(はた)で織らせ、衣多(えた)たらん事を願って「八のはた神」つまり、<八幡」をもって、その氏神にした。

 そして氏子である頼朝は、旗上げに際して、

 (東方に光ありと唱える……東光薬師寺系)

 (東北の白山を懐しかむ……白山神社系)

 (えびす大黒、七福神 ……蘇民将来系)

 

 つまり国川内二千有余の別所の、多神教の原住民の末梢の一第団結を企てた。

 そして、この氏族解放の戦いが成功すると、みなもとの「大棟梁」として君臨したが、勿論、実権は、政子夫人の政所(まんどころ)が押えていた。

 いかに彼女の権勢が凄まじいものだったか、という例は、それまで女性の象徴を呼ぶのに、男どもは、別所に「お」の敬語をつけて尊称していたものだが、このあと、東国武士は、頼朝夫人の御名をもって当てたということである。

 ところが、この女性王国に対して、弓をつがえ男性革命を企てた不逞な輩が現われた。

 その男は、河越重頼の娘を妻に持ちながら、静御前という愛人か別にこしらえた。

 ……これぞ「九郎判官義経」そのひとなのである。

 これは「八」の部族にとっては破天荒のことだったらしい。明治期に入って南方族が江戸へ入ってきて、「△権妻(ごんさい)」とよぶ蓄妾制度を流行させ、東京になってからは、おおっぴらに、目かけ、手かけを作って、江戸人の度肝をぬいたが、「八」の男は清潔を旨として訓育され、浮気は、神明の「かげま」ぐらいで、妻以外の女性にふれることは、信仰上許されなかった。それなのに、その男は重婚をした。

 「男の分際にて、よろめくとは、なんたる不所存か」

 政子夫人は烈火のごとく怒った。こんな悪弊が広まったら、女王蜂の権威は失墜するから

である。そして男の浮気は「八」の女どもへの冒涜(ぼうとく)であり、これは部族への反逆罪である。頼朝や、他の家人も、庇(かば)ってやりたかったが、そうすれば、自分たちの「男の貞操」を疑われる。そうなると妻の君に苛められるのは、目にみえている。だから一緒に憤った。

 表向きの咎は、九月十八日に従五位下の官位を勝手に受けたことだが、現代なら、郵便局長を勤め上げた方でも、その上の「正五位」は貰っている。

 だから、話の当初は、ダブル結婚だったようである。これが原因で、義経は「稀代の好色漢」とされた。今日に到る「壇ノ浦合戦」などと言う艶本の主人公にされ、彼は文字通り冤罪を蒙っている。

 「至急、ひっとらえ、仕置きするよう」もう悪いことをせぬよう、その部分だけでも切断するぐらいのつもりで、十月九日に土佐房を鎌倉から、六条油小路の義経の許へやったところ、そこ(男性自身)を切られては男が立たぬと、あべこべに土佐房らを六条河原へ曝し、十八日には、頼朝追討の宣旨を、義経は受けてしまった。

 だが十年前に吉次が変か所へかどわかして行ったりしたから、何処へ今度も潜入したものか、杳(よう)として行方が判らない。そこで源頼朝は[総追捕使」という現今なら検察庁のようなものを設け、その総長になるや、各地に検俳局や警察署を設ける代りに、費用削減の意味もあって、全国二千有余の別所に対して逮捕権を委ねてしまった。三等郵便局というのがあるが、これも同じ形式の三等検事局や三等警察署だった。

 さて別所は何処もかしこも、実権は女である。そして女のひとは、一度手にしたものは、死んでも手離さない本能がある。

 だから、この十二世紀の文治元年(1185)十月に、各地の別所衆へ委任してしまった警察権は、その後、ずっと、七百年もそのままで、取り返したのは、和製ベトコンの永遠の敵である山方民族の薩長の明治新政府だった。だから、菅茶山の『福山志料』にも、

 「三吉村の北に、源氏とよぶ部落あり。ここの者は、すべて「三の八」とよぶ。これは領主水野侯が、備後福山へ入国のみぎり、三河より「八」の頭分を伴って来たから、「三河の八」が縮まって、「三八」になったので、領内の召し取り、牢獄、拷問か司っているものである」

 と誌されてあるし、『雲州鉢屋由来記』によると、

「当地方は、茶せん、長吏、番太、河原者などとも云うが、頭分は文明十八年(1486)正月、爪子伊子守経久を援けた蜂星掃部(かもんべ)の末にて、現在、賀麻(かも)、蒲生(かも)の二家に別かれ、各郡一ケ所の郡牢を設け、この司を「郡廻り鉢屋」とよび、下に「村受鉢屋」があって、数村を監督して、区域内の住民の非違を糺す」とあり、

 「文化四年(1807)の松平出羽家書上げ書」にも、

「鉢屋者は牢番、召捕りにあたるため、一定地に聚楽居住、当時、剣道、柔術、棒術を修練し、武芸巧者として、著名なるものも多く、別に竹細工をなす者は、「茶筅」とよび、茶湯指南などをなすも、他族とは通婚同火は一切固くこれをせず」

 と出ている。但し同火は、その文字通りで、拝火教徒の末の源氏族は、他族の火を忌み、これと一つにしなかった。だから今日でも博徒は煙草の火を、直には貨さないし、パチンコ屋や競馬場などでは、

 「つきが落ちる」といって、火の貨借りを忌み嫌うのも、このためなのである。

 

 さて公儀お膝許の御府内では、牢の方は、関屋隅田別所出の石出帯刀が、世襲で、その別所出の与力同心を使って収監に当たり、刑の方は、桜田別所、室町別所を明け渡して、山谷から川向うを囲い内にしていた弾左衛門が、彼の奴隷である、黒身分のから転落してきて非人となったのを使って、せっせと鈴ケ森や小塚原で首を斬っていた。そして、首斬り浅右衛門も山田姓だったが、弾家の四人の手代(用人職)もやはり「ヤ姓」で代々世襲であったし、弾左衛門も幕末の当主は矢野とヤ姓になる。尚、「弾左衛門」というのは個人名ではなく、司法警察の「弾正台」を司る官名の軟化したものだから、江戸だけでなく各地にも弾左衛門や弾正は居たのである。

 

 さて、なにしろ捕縛する権利と処罰する方か、彼らが握っていたのだから、警察は殆んどデッチアゲに終始していたらしく、捕えても、源氏の白旗の同族だと判ると、すぐさま、「……白だ」と直ちに放免してしまい、その身代りに、白でない部族、つまり墨染めの衣をまとう宗派の者を探してきて、「こいつは、黒だ」と、あっさり罪名を被せ、否応なしに、首を刎ねたので、それに抗議することを「黒白を争う」などといった。

 吉次のおかけで、この七百年間に、無実の罪で処刑された者は夥しい数であろう。そして現代では明治以降国家体制が反対になったので、黒の検察官が、白を苛めることもあるのだが、口癖になってしまったか「白か黒か」は同じように用いている。

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源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著 五月五日は石くらべ

2024年07月25日 18時13分57秒 | 歴史さんぽ

源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著

 

五月五日は石くらべ

 

京は五条の橋の上で、ピイピイ笛を次いでいた牛若丸を、遠く陸奥の国へ伴っていったのは、「金売り吉次」ということになっている。

 いまの感覚でゆくと、<金売り>ときけば「売るほど金をもっている男」つまり、金融資本の大財閥のように、勘違いしたくなる。

 だが、これは吉次の名の現われる出典が、当時の関西出版。京の六道の辻にたむろしていた当時の文筆業者によって、京を中心に視点を当てたから<金売り>であって、陸奥の国からみれば、吉次は金仕入れ業、金の奴売りである。

 なぜかというと吉次は、人問の多い京からそれをもってゆき、東北からは引換えに金を需要ありそうな京へもってきていたからである。

 それに、ことさら金の文字を使ったのも、現代の人には可笑しいだろうが、これは当時まだ装飾用などに僅かしか使われなかった金という鉱物のPRだったのである。

<六道>は京へ入る六つの街道のことで、六地蔵の党とも呼ばわれ、税関のかたわら諸国の珍しい話も耳に入ってきたから、『義経記』をはじめ、今日伝わっている謡曲の原本は、みな、これらの徒によって執筆された。

 だが、書いていたばかりではなく、一条関白兼良の『尺素(せきそ)往来』などには、

 「六地藏之党、例のごとく印地を企て、喧嘩を招き侯は、洛中鼓騒に及ぶべしと、侍所より、警固のため人数を派出す」と出ているように、印地打ちつまり投石をして、当時の機動隊を出勤させるぐらいデモってもいた。つまり、『義経記」などといった物は、関を守っている彼らがゲバ活動をしてない時には、退屈しのぎに、「これこれ何んぞ珍しい話はないかや」と旅人から地方の話を聞き出し、それを現代でいえばニュース源にして、筆でかきとめ、「何んぞ面白い話があったら教えて下され、これから諸国へ参りますのに、話の種を何んぞ仕入れて行かんことには、人集めするのに困りまする」

 と、この時代の歩き巫女、鉦たたきといった唱門師の者が、銭を貰いに旅興行にゆく時には、この関所へよって、若干の銭を払って話を聞いていったり、書きとめたものを買っていたのが、その原形であるらしい。

 もちろん『義経記』などは、のちに謡曲となってゆくが、そうした説話によって銭貰いしていた者たちは、「でろれん祭文」「ちょぼくれ」[辻講釈の売講子(師)」[軽口」といった形態で千年後には、浪花節、講談、落語といったタレントに昇華したし、ニュース専門にかき集めて報道していた方は、これまた今では、

 「時事解説者」といった風にも変ってきている。

 

 しかし、これは十世紀前の源平時代の話。

 とても竿一本の原稿料では介してゆけないから、関所番をしていた。つまり洛北白河に、院地があって、そこの者が六道衆で、筆もとったが、当時の飛び道具の投石である礫うちもした。

 「印地を企てる」とか「院地うち」というのは投石のことだが、「印形を結ぶ」とか「院形をつける」とは後年の、忍術の形式にもなる。

 だからこれは余談だが、今でも三何の岡崎城へ行くと、三層の壁に、幼い家康が背負われ安倍川原で、石合戦を観戦してる街場面が掲げてあり、

 「いつの頃より始まりしや、謂われは知らざれど、年中行事の石合戦を御覧あって、人数すくなき方を指さし(彼方こそ勝ため)と仰せあり、やがて、その通りになる。神君いまだ幼少なりと雖も、その深慮にみな感嘆す」

 と、とぼけた説明が貼ってあるが、家康こそ、この部族のエリートだし、風采で院地者は一目黙然だから、プロの方が、人数に関係なく、勝味のある事は誰でも判る筈である。

 さて、この院地打ちの発端は、義経にあるとされている。それは、『義経記』にも、土佐房が堀川を襲撃の時、

「白河のいんじ五十人を案内となし……」

 と出ているが、その後、彼の死が伝わると、判官贔屓の者が、口惜しがって肛をたて、

「おのれ、憎っくきはいんじの者共……」

という事になって白河口へ押しよせ、石を投げこんだから、それに応戦するため院地の者達も投げつけあって石合戦が始まったと謂うのである。

 そもそも、院地というのは

「やまとの国は、女ならでは夜もあけぬ国」

といわれるように、

「邪馬台国の卑弥呼女王陛下」

のごとく、或いは天照大神のごとく、女神を崇び、女帝を立てていた原住民族を、大陸からの男作女卑の人種が、次第に侵略してきた事がら始まる。

 八世紀の頃になると、紀ノコサミ将軍の五万の兵を、秋田のアクマロ夫人の指揮する和製ベトコンの女兵が、ゲリラ戦によって捕捉全滅させるごとく双方とも激化した。そしてその当時はまだ首を獲る風習がなかったから、人体に露出した部分を切断してこれに換えた・

 そこで箱根の山をこえ進撃してくる女軍に、戦慄した進駐政権の男どもは、山背の国の嶮、長岡京へ都を移し、海外に救援をもとめた。

 当時まだアメリカはなかった。そこで延暦十年(791 一月十八日。朝鮮の百済王俊哲が国連軍司令官として、唐やシャムロ(現在のベトナムから秦国)の聯合軍をひきい進駐したが、イソドネシアの女共産党員がしたみたいに、体の部分切断されるのを恐れ、彼らは、巡察に当っては露出を警戒し布で防護した。

 よって、この軍用布は「禅」と呼ばれ、和製漢字の第一号である。

 そして、この進駐軍はシャムロ人が多かったらしく、今でも北海道のアイヌ族は、内地人は「シャムロ」と呼んでいる。なお、この時、彼らが食用に持ちこんできた軍用鳥が、後年、闘鶏用に飼われている軍鶏(シャモ)である。当時の彼らの根拠地が、今の川内なので、同地では現在でも「シヤモのかけあい」つまり闘鶏が盛んである。尚、紙幣の藤原鎌足や聖徳太子がもっているのが「シャク」で、これに文字をかきこんだので「杓文字」といわれ、戦地では飯盛りに使ったからこれが今の[シャモジ」の語源という話もある。

 またその大小から後年の[爵位」は発祥する。

 

 さて、進駐軍の武力によって原住民の巾の尖鋭分子を柿兇、国内二千有余の山間僻地の捕虜収容所へ送りこんだものの、また反乱されて、陽物を切り取られては難儀するから、占領政権は、和製ベトコン人民に対して、初めは食料衣服を提供した。これは、「延喜式」の中に詳細に記録が残っている。後は、年貢課役免除をもって、懐柔策をとった。

 だから、比較的生活の楽な彼らは、蛋白質の補給に、隔港川外壕に鯉などを飼った。

 だから五月五日になると、嫉んでいる外来系の者は、長柄、薙刀、竹槍をもって襲撃したが、女たちに礫(つぶて)打ちで撃退された。そこで対抗上、外来系に考案されたのが、笹の葉や苧殻(おがら)をまきつけ、ぶんぶん振回して放りこむ擲(てき)弾である。これを「千巻き石」とよぶのである。

 さて、院地を襲って勝ったとなると、戦利品として、壕の鯉を捕えて、竹竿につきたて、自分の家の前に立て「鯉のぼり」といった。そして「勝負の祝い」に酒もりをした。

 応安二年(1369)の『後愚昧記(ぐくまいき)』にも、

「雑人ら晩頭(ゆうがた)に及び、一条大路に出て、合戦をなす。これを伊宇地(いえじ)と称す」

 と足利時代になると、北白川口の今出川か一条あたりで市街戦までやったらしい。

 『源平盛衰記』の二二に、

 「京童(わらべ)の向い礫、河原印地のようなり」

 と出ている光景は、後白河法皇の勅になる「年中行事絵巻』の五月五日の条に、百余人の石合戦の有様が画かれているが、当日が雨だと、

 「凧の手の礫のように打ち散らす、雨こそ今目の、そら印地なれ 左衛門督藤原義景」

 といった具合に失望するファンも多かったようで、これは『古今夷曲集』の中にある。

「信長公も若い頃は、五月五日の院地打ちを毎年なされたり」

 と「雨窓閑話』にも記録されている程である。

 義経の死後、信長、家康の頃までは、五月五日は背くらべではなく、石投げくらべで江戸期に入っても、山谷や、浪花の釜ケ綺では、時たま石合戦があったようである。

 勝負の文字が「尚武」になり、粽(ちまき)が餅、鰹は吹き流しと変わっても、まだあいかわらず権力ヘ反抗する徒の子孫が、夏になると夕涼みに、今でも礫うちの印地をやるから、山谷あたりはマンモス交番などが、出来ているのである。

 なぜ五月五日と、昔から決まっているかというと、この日が、各国別にたてられている国府営の大祭の当日だからである。この五月五日という日は、京より国々へ派遣されていた国司が「天神地祇」の神々を勧請して朝から、「江美州静謐(えびすせいひつ)」を祈願したから、当日一目限り、エビスの末裔である院地に対し、外水系やそれに奴隷化させられた庶民が、石投げにゆくのを、四声が黙認したのである。

つまり院地で頑張っている連中は「ノータックス」で「ノー勤労奉仕」なのに、外来系や、それに隷属したものには、年貢とか課役があったので、その「うっぷんはらし」をさせたものらしい。云い換えれば祖先が陽物を切られ、性転換させられた復讐か黙許した事になる。

ところが昨今の世相では、手術代を払ってまで、男から女へと切断を希望する者も多いから、今日では尾張の一宮などでは国府宮の「喧嘩祭」として、その名残を、とどめているにすぎない。

 

 さて捕虜収容所を京では院地、東海は院内、他は、別所、山(散)所というが、捕虜として捉まって女将と一紙に男衆として山中へ追われた彼らは、仕事が見つからないから耕作地確保の為に穴を掘った。

 地中からまず鉄をみつけた。そこで赤松の炭で刀を鍛えた。

 美濃の関、鎌倉の雪の下、備的もみな別所である。刀の他に、鉄と革で鎧も生産された。

 甘味をとるため山蜂を追っているうちに、蜂の習性をまねたのか、その辺は解らないが、一妻多夫になった。なにしろ男は単数では連続使用がむりだから、複数のハンサムだけが側近になり、残りは働き好の<奴>になった。そして、今日でもこの後裔は「男衆」などと男をよんで総長するような習性がある。

 さて、そこで当時の里人は、彼ら別所者を「はち、や」とよんで、八弥、好景、鉢景の字を当てた。

 彼らが、山から上げる合図の煙を「煙火」といい、彼らの決起を「蜂起」とよんで怖れた。

 そのうち、山中や河床で彼らは黄色い光る物を見つけた。金である。といってもまだ装飾品など流行する以前なので、金をカネにするのに苦労した。そこで既に里へ進出している同族の者が、その金の売れ口を見つけてやるため、六道衆なども、著作の中で、今でいうCMしたものらしい。

 なにしろ、義経が吉次に伴われて平泉へ行った時より、たった二十一年前の仁平三年(一一五三)の『台記』の七月十門日の条に、

 「陸奥国、五ケ荘の年貢につき、久安七年、廐(うまや)の舎人、長勝延貞を使となし、奥州へ下向せしめ先年、奥州高倉座の年貢を増やすべき由、禅閤(ぜんこう 関白藤原忠通)より基衡(もとひら)に、金五十両よりも、布千役馬三匹に換えるようと仰せられるも、基衡(もとひら)肯(がえん)ぜず」という記載さえある。

 つまり関白が「藤原氏の名のりも与えていることだし、高倉庄の分も入れて、土産の金より、布地干反と馬三匹といったように値打ちがあって、もっと役に立つ物を上納しろ」と使を出したのに対して、秀術の父の基衡は「黄金なら掘れば出てくるが布や馬は、そうはゆかん、此方が欲しいぐらいだ」と拒絶しているのである。

 さて附記するなら、この時代の一領というのは、まだ後世の秀古時代から始まった一両の単価ではなく、別所族の製革術と冶金術によって出来上る軍用鎧一領分の等価のことである。

 

悲しき金と尊い銀

 

 なにしろ余歯も金指輪も、まして金時計もなかった時代だった。売行きのよくない「憐れな金」を背負った藤原鉱業会社商品開発課の吉次は、

 「へえ、金は、どうだっしゃろ]

と汗を拭きつつ、刀の鎧鼠、目ぬき屋といった、京のアクセサリー店を、セールスしていたのだ。

 変な話だが柔くて伸ばせばいくらでも伸びる金は、まだ文化の開けぬ時代には、あまり価値がなかったのである。

 なにしろ、この後の三百年もたった『応仁記』でさえ、

 「近頃は、きがねも、次第に価が貴くなりで」と、ようやく現われ、金が銀の十倍に昇格したのは、その十六世紀に入った、明応七年の「公文所勘定書」や、文亀二年の「春日神社文書大和中条目」くらいからである。

 それでも、七十年たった天正十年(一五八二)のクーデターの時でさえ、信長の死後、安土城へ入った明智光秀は、金には目をくれず、銀だけ持ちだして、禁中へ五百枚、五山や大徳寺に百枚宛寄進している。

 後年のごとく金と銀で十倍も違うものなら、金か運んだ方が良いと想うのは、現代的な感覚で、まだ実用本位の時代では、装節用にしか用途のないような、人に喜ばれない物を、何も持ち出すことはないからである。

 だから十五日に、知らずに織田三介信雄が安土城へ火をかけ、あわれに残っていた金を、これことごとく燃やして熔かしてしまった。つまりまだ当時は、「しろがねも、くがねも、たまも何せむに」の、「くがね」は金ではなく、やはり硬度が高く細工物や鎧などにもなった利用度の多い黄銅のほうだったのである。

 だが、これは日本だけでなく、神聖ローマ帝国以来、ヨーロッパでも、金を有難がったのは、有色人種の肌に冴える点からアフリカやエジプトの低開発国の一部だけであって、ジャンバルジャンが忍びこんだ司祭の官だって、銀の食器や燭台しか無かったのである。

 のちに硝石が発見され、金は鉄なみに吸いつくのに、銀だけは作用しない、といった点からも、植民地政策上黄金が俄かに必要になって、急ごしらえの錬金術に、うつつを技かす以前のヨーロッパでは、今と追違って銀は、金よりも尊ばれていたから、雄弁官キケロスが、

「諸君も、吾輩のように活発に喋り給え」

 と啓蒙運動するため、せっかく、

「沈黙は金。なれど、雄弁は銀」

 と名句をぶってくれたのに、モの後まったく、金銀の価値が反対に倒錯したものだから、

「そうか………黙っている方が値うちがあるか」

 と雄弁家の主張なのに遂に解釈され、そのまま日本へも輸入されていろ。

 モのため日本人は筒口を美徳と心得ているから、今日、海外のサービス業者から、日本人観光客は、見目で取扱いやすいなどと文句をいわぬ点を激賞されてるそうだ。

 こうした価値倒錯の例といえば、文政三年の『諸国見聞録』にも、越後の国の話として、

 「泉水湧出多く、諸氏の難渋、憐れなり」

 と出てしる。今ならニ一リットル何十円の石油も、当時は迷惑な汚濁水だったらしい。

 

さて、出向社員の吉次が、あまり有能ではなかったから、平泉の藤原鉱業は、さきに平氏と業務協定を結びかけて駄目。寿永二年(一一八三)に延暦寺へ入った木曾義仲にもやはり企業合併を働きかけたが、これも失敗してしまった。

 その点、伊豆開発鉱業の方は、伊東の北条の令嬢政子の督励によって、売れない金を売りまくり、伊立の山々から掘り出した黄金によって、ついに頼朝の「文治革命」を、成功させてしまったのであるから、これは当時としては偉業である。

 だから、金を有難く考えた別所出身の武将は、その後、十九世紀に到るまで、馬印に、みな金色の御幣や瓢を、つけて戦い歩いた。

 これは「史籍雑纂」第三巻の(元文二年八月五日づけ山本伊左より爪印弥次兵衛宛)の手簡末尾に、はっきりと、

「馬印金の幣と申すことに御座候はば、別所同意と存じ奉り候」と明記されたのが残っている。

 

身売りは男性専科

 

吉次の頃は物々交換の時代だが、輸送力に欠けていた。いまのように馬が余って、めんこい仔馬がハムにされる世の中ではなく、南部駒、三春駒の産地でさえ「馬三頭も税金にとられては困る」と、平泉の基衡が拒むほど斟かったし、船は、もっと不足していた。

 だから、アラビアの隊商は駱駝の行列で、月の沙漠をキャラバンしても、運送用の馬のすくないこの国では、ずっと、連雀板を一人ずつ背につけ、それで輸送をしていた。だから百人の隊商を組んで、一人四十キロ背負わせても、四トン車一台分の輸送しかできない有様だった。

 そこでもっとも便利な面目皿というのは、オートマチックに自分で動いてくれる商品である。

 吉次らのような行商人は、羊飼いみたいに鞭をふるって、ひとりで歩く商品の集団を、テクテク歩ませ、輸送して行ったのである。つまり、この当時の、極めの商品は奴隷で、アフリカの黄金沿岸から輸出していたのが黒人であるのと同じことである。ということは他に目ぼしい産物がなかったということにもなる。

 

 さて「奴」というと『大日古本書文書』第一巻に天平勝宝二年(七五〇)五月十七日附けの、大宅郷より東大寺へ寄進された『正倉院文事』が伝わっているから、その、「奴三十八人、婢二十三人」の記録で、男女混合に誤解されがちだが、吉次らのような、別所廻りの奴隷商人は、けっして女を商品として扱わなかったようである。

 といって、吉次がフェミニストだったわけではなく、需要がなく売れなかったからである。

(美しい女を裸にして)奴隷市場へ並べるのは、残念ながら、男が威張っていた、遠いアラビアンナイトのハレムの物語である。ところが、そうした男尊女卑のお国柄と追って、女性優位のこの女将王国の日本列島の彼らの住んでいた地方では、いくら前面に男を出していても、別所系統は女天下だから、愛玩用の可愛いのや、働き蜂にする強そうな、男の子しか購入しなかった。つまり「女が女は買わない」という鉄則の為である。

 だから幕末まで、こうした人身売買業やブローカーのことを、「源氏」とか「源氏屋」とはいったが、女を扱う者は別扱いして、上に、わざわざ「ぜ」の字を冠を「ぜげんじ」とか略して「ぜげん」といったもので「ぜ」は贋の訛りである。

 まだ貨幣経済でなく物々勘定の時代だから吉次は、藤原鉱業の本社へ、売上金の決済用に、かねて集めて置いた男蛮を、毎年春になると、引率して行ったが、承安四年(一一七四)の奴隷少年隊の中に、一人の異分子か混っていた。その少年は十六歳だったが、成人したのち(反りっ歯の小男)だったそうだから、現今の小学生より貧弱な体格だったろう。

 それに鞍馬寺か、とんずらしてきた家出少年だから、多分、吉次に初めて拾われた時は、銭もなく、腹をへらした、薄汚ない身なりの、野良犬みたいな恰好だったと想える。

 まさか十年後に、この少年が「一の谷」やに「屋島」で、一躍スターになるとは、千里眼でなくては、見通せなかったろう。だから、もし、少年に同行した大人が、そのとき居たとしたら、それは、もとをかけずに仕入れようと、吉次が、しきりと、

 「まあ、行ってみなはれ。良ろしゅうおっせ」

 と、陸奥の国の観光ガイドをしてるのを、脇で聴いていたやはりあてなしの浮浪者だったと思われる。まともな大人が、すすんで自分から奴隷に加わってゆくとは、考えられないからである。それに吉次が、商売不熱心だった一例は、鏡の宿で夜盗に契われたとき、牛若を初め奴隷たちを放りだして、まず自分だけ逃げている。

 どうも、あまり、みた錢を払わずに誘拐してきた商品ばかりのようにも、逃げ様からは想顛できる。いくらか銭が掛かっていれば、先ず打刀をぬいて守るのが商売であり人情である。

 それにスキーのなかった当時、十六歳の少年が東北へ行きたがる心理的要素は、何もない。家出して温かい土地へ行くなら判るが、寒い所へ、白分から行きたがる筈などありえない。

 つまり吉次という男は、あまり金が売れないから、代金決済に困り、甘言をもって牛若や多くの少年、そして大人までかどわかしていた常習誘拐犯人であると考えられる。

 この例をもってしても判るが、奴隷商人としてそれを陸奥の国へもって行かねば黄金と引換えられない大切な商売のもとを……東北で欲しがっている布地とか他の交換材料が入手できず、それでとはいえ、放りだして逃げるという手はないだろう。

 また義経少年にしても、「蛇は寸にして人を呑む」というのは講談であって、自分から進んで、つまり自己意志をもって見ず知らずの陸奥の国へ行きたがる要素というのは、何もない。結果論からして、まるで藤原泰衡という男に頼って行くように、話は今となっては創作されているが、未来とか将来というものは、そんな前もって、見通しのきくものではない。まして混沌たる時代においては、常識では計りしれない。

 もし、このとき、いまわしい吉次に逢っていなかったら、少年の運命は、もうすこし別個のものになっていた筈である。あんな悲惨な終末を迎えなくとも、少年は、もっと勇ましく華やかに、自由に生きられたかも知れない。

 というのは、鞍馬の山から、牛若丸が出てきたといっても、その時代の平家には、山国荘の花背別所から鞍馬道をぬけて京へ入るのには、御曾呂口(えぞろぐち)。東海東山道へは、後年、大石内蔵助が潜伏した山科別所口。宇治から奈良への伏見口は、当時狼谷。淀へは鳥羽口。山陽道へは桂口。丹波路の胡麻別所へは、常盤口と関所がある。

 これは、延宝二年に刊行された『山城国四季物語』に詳しく述べられているが、だから、無理して、遠い東北へ行かなくとも、十六歳の少年の一人ぐらい、楽に身を隠して潜伏できる、治外法権みたいな、ハチの部落、つまり特殊地帯の別所が、その京への入り口には、白河の他にも沢山あったのである。

 そして、その六道の辻を固めたいたのが、これが名高い六地蔵の党である。

 「我々さえ、もう少し見張りを厳重にしておれば、みすみす、平泉へなど誘拐させなかったものを」と後年になって彼らは、自責の念にかられたのか、挽歌として『義経記』を書き、謡曲『鞍馬天狗』を著作した。

 そして、鎌倉から単騎できた土佐房昌俊から、彼ら別所者の部族の頭である頼朝の命令といわれて、院地者五十騎を、道案内に出したばかりに、後には、義経の敵のごとく扱われ、五月五日になると投石されるのに、やはり腹をたて、「義経が殺されて、しゃくにさわっているのは、此方も、同様だ」と、負けずに礫うちつけ、双方の石合戦を、ずっと続けたものだから、現代に到るまで、この五月五日は和菓子屋さんの「ちまき販売デー」になってしまったのである。

 つまり吉次さえ現われなければ、少年は、六道の辻のどこかの番所で、しかるべき、手近な別所へ送りこまれていた筈である。そして、もし、そうだったら事態は一変していた。

 黄瀬川へ馳けつけて、初めて兄の頼朝と対面した時でも、近くの別所からなら、すくなくも数百の軍勢は、連れてゆけた筈である。

 そうすれば頼朝も、姿に対して肩身が広く、義経自身も、梶原らの家人に対しては、もうすこし恰好が良かったろう。

 ところが奥州からなので、僅かに五六人しか連れて行かなかったため、馬鹿にされた。そして、最初からなめられてしまったから、その後、義経が、いくら手柄をたてても、実力以下に見られてしまうのである。

 「ものは最初が肝心だ」というが、その振り出しを吉次のために、誤らされたのである。

 義経はその後、頼朝の妻にも睨まれ、仲違いになってからも、腰越あたりで謹慎しなくとも済んだのである。なにしろ関東の別所は頼朝に組織化されていたが、関西は佐々木四郎高綱が近江の日野別所や箕作別所の者を率い「蜂起し」の白旗をたて(高机真一著『旗指物』にその図版あり)蜂起していた以外は、まだ末組織状態だったから、義経にオルグ的要素があれば、幾つもの身のふり方はあり、近くの別所に足場さえ持っていたら、いくらでも逃げこむアジトはあり、味方する者も沢山いたわけで、なにも行先が無いといって、遠い奥州まで、行かずともすんだ。つまり揚合によっては西国の別所を統合して、鎌倉幕府に対抗する新政権を樹立する、という生き方も、あったであろう。

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略人傳 巻の一 中江藤樹 附 蕃山氏

2024年07月19日 08時26分37秒 | 歴史さんぽ

略人傳 巻の一 中江藤樹 附 蕃山氏

 

藤樹中江氏、諱原、宇惟命、通名与右衛門、西近江高島郡小川村人なり。藤樹下に産まれ、後藤樹下に学を講じるをもて、門人此号を称す。又夢中人ありて、光嘿軒(こうもくけん)の号を授くるとみて、光の宇を謙遜し、省て嘿行と称す。僻地(かたいなか)に生るといへども、児として野鄙(やひ)のならひに染(そま)ず。九歳の時、祖父吉長嗣(よしながし)とせんと請て、その在所伯耆に伴ふ。祖父、手毎に拙(つなたき)を悔て、つとめて此子に学ばしむるに、其書人おどろくばかりなりき。十歳の時、伯耆の大守加藤侯、伊予大洲に転封せらるゝゆゑに、彼所にうつりぬ。十三歳の時、祖父賊をうつことあるに、少も恐るゝ気色なく、祖父の命をうけて賊をとらへんとす。志気幼して既にかくのごとし。

はた一物の遺愛も甚謹て羞悪(はずる)のこゝろ深く、一食を喫しても君父の恩を思惟す。十七歳のとき、京より禅僧来て論語を講ず。その地の士風、武を専にし、文学の某を弱とし、敢てきくものなし。唯先生一人往て聴受す。論語上篇を終て僧京にかへりし後、又師とすべき人のなきを憂て、四書大全を購(買い)得て熟読す。然れども他の俳論をはばかり、昼は終目語士と応接(まじわり)し、毎夜深更に及び二十枚を見るを業とす。已後も師なくして、困学年を経、ひとへに聖学をもて己が任とす。然るに其母氏老て故郷に独りあるをかなしび、再回暇を乞て帰省し、ただちに是を伴いて伊予に帰らんとせしに、はるけき波濤をしのぎ他国にうつることを欲せず。故に致仕して帰らんと乞い、且つ二君に仕へ出身の意あるにあらざることを天に誓ひけれども、其の才徳を惜しみて許されず。二十七歳の冬十月終に逃さる。その時、今年の禄米ことごとく倉に積み置き、さきに友人に仮貸し米穀あるをば器物を売て是を償ふ。江陽に至るとき銀わずか三百銭行有るとの過半なるを痛み、敢て請(うく)る志なく、只従て艱難を共にせんといへども、先生強て与えてかへせり。此後かの誓のごとく終身出仕へず、其志を高尚にす。はじめ僕に与し残の銀百銭をもて酒を買い、また農家へ売てその息をもて母氏を養う。後又刀をうりて銀十枚を得て、是をもて米を買、農家に借す。息をとること世人より其故ずる故にや、其價をせめずして皆是をかへす。三十にて初めて娶る、格法に泥(なづ)む故とて、その女容貌括醜ければ、母氏憂て出さんと欲(ほり)すれども、先生固く辞す。此婦容貌醜しといへども、性質甚窓明にして、心を用ること直し。つねに諸門入会して、夜半或は五更に及べども、終に先生に光達ていねず。居常(つねに)小事ルといへども、命をうけざればおこなはず。先生従朱子学を尊信し、門人に示すに小学の法をもてす。故に門入格套(かくとう)に落在し、拘攣(かゝはること)口々に長じ、気象潮暫く迫りて、圭角(けいかく)を持す。先生三十餘、王陽明書を見しより、その非をさとりて、門人に示て曰く、格套を受用するの志は、名利を求るの志と日を同じうして語るべからずといへども、真性活発(いきいき)の体を失ふことは均し。只吾人拘孌の心を放去し、自の本心を信じて、其跡に泥むことなかれと。門人大に触発興起す。又語て曰く、予嘗て山田氏に贈るに、三綱領の解をもてす。其至言の解曰く、事善にして心善ならざるものは至善にあらず、この時にして事善ならざるものもまた至善にあらずと。この時、子いまだ支離(はなればなれ)の病を免れず。故に誤りて如此解すと。門人問ていはく、この解、甚親切明当なるをおぼゆ、如く何ぞ支離とす。先生云、心事元是一也。故に事善にして心不善なるものいまだあらず、心善にして事不善ものもまた未之有、門人曰く、狂者のごときは其心高大なれども、其事破綻あることを免れず。郷原(きょうげん)のごときは、事は君子ににて、其心汚(かがれ)る。見分明に心と事と二つなるにあらずや。先生曰く、狂者未入る精微中庸、(狂者未ダ精微中庸ニ入りラズ、)故にかくのごとし。郷原は世に媚許容(こびいれらるゝこと)を求るの穢賜(けがれしこころ)より顕るゝ事為なれば、もとより善とすべからず。跡の似たるをもて言とするは功利の意也、然るに或は曰く、大哉この道、盗人も亦元を得ざれば功をなすことあたはず。入ることを先とするは勇なり、出る時後るゝは義也、分つこと均しきは仁也。この三つを得ざれば大盗を成こと不に能などいふ説は、笑ふべし、悲むべきものなり、といへり。又近年専を孝経を説明し、つねに愛敬の二字を掲出し、心体を体忍せしむ。曰く、心の本体原本愛敬的、なお水の湿(うるおい)に従ひ、火の燥(かわく)に付るがごとし。只吾人種々の回心習気に凝滞書を見しより、その非をさとりて、門人に示て曰く、格套を受用するの志は、名利を求るの志と日を同じうして語るべからずといへども、真性活発(いきいき)の体を失ふことは均し。只吾人拘攣(こうれん)の心を故去し、自の本心を信じて、武跡に泥むことなかれと。門人大に触発願起す。また語て曰く、予嘗て山田氏に贈るに、三綱領の解をもてす。その至善の解曰く、事善にして心善ならざるものは至善にあらず、心善にして事善ならざるものもまた至善にあらずと。此時、予いまだ支離(はなればなれ)の病を免れず。故に誤て顛覧に解すと。門人間ていはく、此所、甚親切明当なるをおぼゆ、如何ぞ支離とす。先生云、心事元見一也。故に事善にして心不善なるものいまだあらず、心善にして事不善ものもまた未之有。門人曰く、狂者のごときはその心高大なれども、その事破綻あることを免れず。郷原(きょうげん)のごときは、事は君子ににて、武心汚る。見分明に心と事と二つなるにあらずや。先生曰く、狂者未入精微中庸(狂者未ダ精微中庸ニ入ラズ、)故にかくのごとし。郷原は世に媚許容を求るの穢腸(けがれこころ)より顕るゝ事為(しわざ)なれば、もとより善とすべからず。跡の似たるをもて善とするは功利の意也、然るに或は曰く、大なる故この道、盗人も亦是を得ざれば功をなすことあたはず。入ることを先とするは勇なり、出る時後るゝは義也、分つこと均しきは仁也。此三つを得ざれば大盗を成すこと不能などいふ説は、笑ふべし、悲かべきものなり、といへり。又近年専ら孝経を説明し、つねに愛敬の二字を掲(かゝげ)出し、心体を体忍せしむ。曰く、心の本体原本愛敬的、猶水の湿(うるおい)に従ひ、火の燥(くぁく)に付るがごとし。只吾人種々の皆心習気に凝滞

らざものは、その勉(つとめ)の験(しるし)知べしと。小医南針、神方奇術等は、山田、森村雨医生のために著す処とぞ。その書伝るや否、未に知。先生四十一歳にして、慶安元年戊子八月廿五日病て卒す。

その旧居の講堂、今尚残れども、その学をつぐものなく、荒廃につくといふ。をしむべし。先生三子有、備前侯に仕ふ。熊沢氏の故を以てなり。長は宣伯、通名太右衛門、よく父の徳を嗣て、明敏豪傑、しかも温厚也。病によりて仕を返し、家にて卒す。惜しまざるものなしとぞ。仲は藤之丞、又致仕、京師に病死す。洛東黒谷に葬る。季、弥三郎、先生歿するとしに生る。是はた、侯時めかしたまひしかども、病をもて辞て江西にかへる。後又京師に寓居し、改名江西文内(えにしぶんない)といふ。病て死す。故郷にかへし葬る。常省(じょうせい)先生と諡(おくりな)す。

 

○藤樹先生の門人、備前に召るゝ者五六輩に及ぶ。熊沢翁は共魁也。翁は平安の人、本氏は野尻、通名次郎八といひしかども、外祖父公子として熊沢助衛門と名のらしむ。諱は伯継、致仕の後、了芥(りょうかい)と称し、息遊(そくゆう)と号す。氏も亦後に蕃山(しげやま)と称せしは、備前にして、その領地寺内といひし所を蕃山と号(なづけ)て、暫こゝに隠居す。

   筑波山葉やましげ山しげけれどおもひいるにはさはらざりけり、

といふ古歌のこゝろによれるとぞ。その後京に帰り、故ありて播磨の明石侯のもとにあり。侯封をうつさるゝに従ひ、下総古河に至り、そこにて終る。時に歳七十三。元禄四年八月十七日也。その学は、藤樹に出るといへども、見所また一家をなして、ことに経済に長ず。時処位の三つをしるをもて要とし、琴柱に膠(にかは)する書生の説に異なり。其の著書、『集義和書』、『同外書』に見えたり。世に伝ふる所、この人備前にして仏寺を破壊すといへり。予其の事実をよく聞正せるに、然らず。此挙は翁致仕の後にして、しかも侯に上書してこれを諌むとなん。されどもその著す書に、仏教を謗ること大過せれば、その漸をなすとはいふべし。京にしては神縉家(しんしんけ)、関東にしては諸侯の間、名ある諸君に門人多かりしとなん。

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