中村幸雄氏 『甲斐の鳥たち』
この作品の表題にみられる甲斐とは、今日の山梨県のことである。かつて東海道が十五ヵ所に分けられていた時代にその一国として甲斐国と称せられた地方で、東に武蔵国と相模国、南に駿河国、西と北を信濃国に囲まれた山国である。
著者、中村幸雄氏は、この甲斐図示生んだ偉大なナチュラリストで、大正末期から昭和中期にかけて、わが国の野外鳥類学の進歩に不滅の足跡を残した。日本野鳥の会の創始者として名高い中西恒常氏は、昭和十七年一月号の「文芸春秋」誌上で「野鳥を追う達識」と題した寄稿の中に、中村幸雄氏を当時の野外鳥類研究の四天王の一人に数えた。他の三人は川口孫治郎氏(本全集第二十一巻『飛騨の鳥』の著者)と榎本佐樹氏(同第十六巻『野の鳥の思い出』の著者)と仁部富之助氏である。仁部氏の著作はこの全集に収録できなかったが、代表作『野の鳥の生態』(大作館書店復刻)がある。野外鳥類学の巨人中西氏が四天王と折り紙をつけただけあって、中西氏を含むこれら五人の当時の精力的なフィールドワークは今日でもそれをしのぐ後読者を見つけるのがむずかしい。この五人の傑出した人物には共通の特徴がいくつかある。とりあえず二つの特徴をあげるなら、
第一にこれらの人々は学閥から自由な立場で、大自然に師事し、自然という師の快から知識と哲学を生涯にわたって汲みとりつづけたこと。
第二にその得た成果を自由な様式で発表するとともに、社会活動を通じてその成果か二般に還元し、社会は又、その影響を大きく受けたことである。
中村氏には鳥類および野生生物に関する報文、寄稿等が百編近くあるが、単行本としての成書はまとめる機会がなく晩年に至った。これは中村氏のフィールドワークと社会話動があまりにも多忙であったためと思われるが、中村が八十歳に近くなった昭和四十二年に叙勲記念祝賀会が聞かれたことがあった。その折、中村氏の業績を単行本化して後世に伝えようという話が有志の間でおこった。そして甲府市立北中学校の依田正直教諭が編集の労を引き受け、中村氏の談話をテープにとり、テープ記録の文章化作業を進め、ようやく一冊の本ができあがった。それがこの『甲斐の鳥たち』である。原著は三部から成り、そのうちの第一部と第二部がここに収録された。原著の第三部は中村氏をよく知る人びとによる中村氏の思い出の記と、中村氏の活動歴を編年体で記したもので、中村氏の国内と国外におけるフィールド調査歴と学会への貢献、寄稿執筆歴、放送、講演歴、皇室関係者への進講罷、表彰受章歴等が詳細に記されている。また巻順には中河吾堂氏の六頁におよぶ中村氏の紹介寄稿も収められている。したがって、中村幸雄氏のナチュラリストとしての全貌をくわしく知りたいという方には、図書館でこの作品の原著に当たることをすすめたい。
ここでは、以上の資料と、御子息で山梨大学教育学部生物学教室教授として活躍中の中村司博士から与えられた資料をもとに、中村幸雄氏のナチュラリストとしての活動歴の概要を紹介してみることにしたい。
中村幸雄氏は何よりもまず自然とて坪化した本格派のナチュラリストであった。このことを雄弁に立証する出来事として司氏は父幸雄氏と晩年に山中湖畔へでかけた時の思い出を次のように語る。
晩年に病を得て体が不自由になった中村幸雄氏は、ある時、息子の司氏と前記の依田教諭といっしょに、山中湖畔の広場へ野鳥の観察にでかけた。鳥の生態写真をとるために同氏と依田氏はハイド(ブラインドともいい、人間が身を隠す囲いやテント式のもの)作りを始めた。幸雄氏は体が不自由だったので、ハイドができるまでの間、水場のそばに座っていた。するとマヒワが多数飛んできたので司氏たちは急いで物陰にかくれたが、鳥たちは幸雄氏のまわりを自由に飛び交い、水を飲んだり、水浴びをしたり、なかには幸雄氏の肩にとまるものさえあった。このことは依田氏も『甲斐の鳥たち』の原著で編集後記の中に記している。山野で人間が,木に化けて鳥や獣を身近に遊ばせることは必ずしも不可能なことではないが、これには最低二つの条仲が必要とされる。
一つは絶対不動であること。もう一つは鳥獣に対する敵意を心に抱かぬことで、中村幸雄氏には、その時、この二つの条件が完備したものと思われる。だが、じっさいに山野へでてこの二つの条件を実現して試してみるとわかることだが、この条件がそろったからといって鳥や獣がすぐ身近に寄ってくるものではない。むしろダメな場合のほうが多いものだが、自然にとけこむ一種の呼吸を全身で把握していると、不可能が可能になることがある。中村幸雄氏はその呼吸を体得していたものと思われるが、これはナチュラリストとしてよほど達人の域に達していないとむりなことだ。
中村氏がこの域に達するまでには若い時代から野に伏し山に寝る生活が長かったことが、作品『甲斐の鳥たち』や、中村氏を知る人たちの思い出品の中に多い。
中村氏の事実追求能力が高く評価された一例はブョポウソウと鳴く鳥がコノハズクであることを確認した事例である。
これは当時、国語の教科書にも中村氏の文章がのったほど有名なできごとで、わが国の野外鳥類学が千年の闇を破って目覚める画期的な出来事であった。それがどんな経緯で達成されたかが、この『甲斐の鳥たち』にくわしく記されている。又、地方のかくれたナチュラリストが、どのようにして鳥学界の脚光を浴びる活動家として雄飛するにいたったかが黒田長禮(ながみち)博士(本全集第十二巻『鳥獣魚』の著者)との出会いのところに述べられている。
黒田博士との接触から農林省の鳥獣調査員となった中村氏は全国各地の県庁、営林局等の依嘱を受けて、北海道、伊豆七島、琉球諸島、九州、四国、アルプス地方などの僻地を調査し、さらにフィリピン、七レベス、サイパン、パラオ、テュヤン諸島、中国北部中部など海外にも調査の足をのばした。このうち海外調査についての体験が、この作品の第二部に述べられているが、調査行が戦時中にかかった時期もあり、中村氏の調査は文字通り命がけだった。また太平洋戦争終了後、中村氏はアメリカの占鎖軍司令部天然資源局の嘱託として鳥獣調査とカスミ網使用の実態調査などにたずさわった。
中村氏はこれらの調査行の中で鳥、獣、昆虫、植物などの新種を多数発見し、又、新分布地を確認するなど、その種類は四十種に近い。中村氏の調査結果は自分自身が自然とじかに接して得た一次情報であるため、事実としての不動の重みがあり、時代をこえて読者を魅了するものがある。
モズの早にえが貯試食であることを立証するエピソードや、モズがセミの鴫声をまねて寄ってきたセミを捕らえて食う例、キバシリが本の上からストンと落ちてくる話など、野外観察者でなければ記録し得ない珍しい事実が多く記録されている。
中村氏のナチュラリストとしての活動の中に社会教育者として自然教育にたずさわった一面があるが、五百回以上におよぶ講演と二百敷十回に達するラジオやテレビ出演、天皇、皇后その他の皇族に対する進講十六回などは、いずれも自然保護や鳥類保護、森林保護にかかわるものが多く、又、中村氏は自身のフィールドでの体験を人々に語った。その話術の巧みさについては定評があり、この作品にも三人で講演にでかけて、中村氏の話のほうが面白いと、他の二人が降りてしまったので中村氏が三人分の講演をしたという話が書かれている。
『甲斐の鳥たち』は開巻第一頁から研究用に鳥を射殺する話がでてきたり、食性研究用に鳥を殺す話が所々にあって、これは今日のナチュラリストにとって抵抗を覚える記述かもしれない。
たしかに、今日では鳥の食性研究手法も、できるだけ鳥を殺さないで調べる方向へむかっている。だが、中村氏が生きた時代は、研究用でなくても鳥など殺してあたり前という時代であったことを考えると、中村氏の研究者としての殺しへの節度はまことにりっぱなものであった。とくに『小鳥の裁判』のエピソードや、宮古島でサシバを殺す青年達を集めてさとす話、ムクドリがうるさいという人に害虫駆除に働くムクドリの話をして人々を説得した例など、鳥の生命尊皇への中村氏の自覚はまさにパイオュアの萌があった。
中村幸雄氏は明治二十二年(一八八九年)二月十三日、山梨県の生まれで、数々の華々しい業績や活動歴にもかかわらず、生涯、地元では,『小鳥のおじさん』として人々に親まれ、晩年、脳軟化症で事実上社会活動ができなくなるまで、人々の求めに応じて各地へでかけて講演し、又、自然探求をつづけた。職歴としては、山梨県庁の山林課、社公教育課、観光企画室などを径て農林省鳥獣調査室、文部省資源科学研究所、山梨県林業試験場、北海道庁などの嘱託を歴任し、一時、大連民政署で巡査を勤めたこともあった。また、日本鳥類保護連盟参与、国立公園協会専門委員、日本生物同好会評議員、山梨県鳥獣審議會委員もつとめ、六十数年におよぶ各方面への貢献と活動に対してつぎに列挙する十の叙勲、表彰等を受けた。
昭和二十六年、国立公園協会より感謝状、
昭和二十九年、日本島学会より表形状と山梨県知事より県政功労者表彰、 および宮内庁より感謝状。
昭和三十年、日本放送協会より感謝状。
昭和三十一年、山梨県観光連盟より表彰。
昭和三十五年、厚生大臣表彰と山梨県文化功労賞。
昭和四十二年、勲五等双光旭日章。
昭和四十四年、永年の鳥類研究の功績に対して常陸宮より表彰。
そしてこの年、『甲斐の島たち』が山梨日日新聞社より刊行され、このあと五年たって、昭和四十九年(一九七四年)二月五日に、満八十五歳まあと八日を残して永遠の地へ旅立った。
亡くなる寸前まで病床から窓外の野鳥の声に異常なほどの関心を示したという中村氏は、さいごまで真のナチュラリストとしての生涯を貢いた人といえよう。