『日本百名山』深田久弥著より 一部加筆
東京から山の国甲斐を貫いて信州に行く中央線。私たち山岳宗徒にとって最も親しみ深いこの線路は、一たん甲府盆地に.馳せ下った後、今度は釜無川の谷を左手に見おろしながら、信州の方へ喘ぎながら上って行く。さっきまで遠かった南アルブスが、今やすぐ車窓の外に迫ってくる。
甲斐駒ケ岳の金字塔が、怪異な岩峰摩利支天を片翼にして、私たちの眼をおどろかすのもその時である。汽車旅行でこれほど私たちに肉薄してくる山もないだろう。釜無川を隔てて仰ぐその山は、河床から一気に二千数百メートルも突きあげているのである。
日本アルプスで一番代表的なピラミッドは、と問われたら、私は真っ先にこの駒ヶ岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧ヶ峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨峰群が重畳している中に、この端正た三角錐はその仲間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値する威と品をそなえた山容である。
日本アルプスで一番奇麗な頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望の豊かなことは言うまでもないとして、花崗岩の白砂を敷きつめた頂上の美しさを推したいのである。
信州ではこの山を白崩山と呼んでいたが、その名の通り、遠くからは白砂の峰に見えるのである。
私が最初にこの略に立った時は、信州側の北沢小屋から仙水峠を経、駒津峰を越えて行った。六方石と称する大きな山石の傍を過ぎると、甲斐駒の広大な胸にとりつくが、一面に裏白な砂礫で目映いくらいであった。九月下旬のことでその純白のカーペットの上に、所どころ真紅に紅葉したクマコケモモが色彩をほどこしていて、さらに美しさを添えていた。ザクザクと白い砂を踏んで、頂上と摩利支天の鞍部へ通じる道を登って行くのだが、あまりにその白砂が奇麗なので、踏むのがもったいないくらいであった。南アルプス中で、花崗岩の砂礫で美しいのは、この甲斐駒とお隣の鳳凰山だけである。
頂上に花崗石の玉垣をめぐらした両のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰のあつかった山であることが察しられる。祭神は大己貴命で、昔は白衣の信者が登山道に続いたものだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ケ原あるいは柳沢から登るもので、両登山口はそれぞれ駒ヶ岳神社がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に、鳥居や仏像や石碑が点綴されている。
日本アルプスで一番つらい登りは、この甲斐駒ケ岳の表参道かもしれない。何しろ600メートルくらいの山麓から、3000メートルに近い頂上まで、殆んど登りづくめである。わが国の山で、その足許からてっぺんまで2400メートルの高度差を持っているのは、富士山以外にはあるまい。木曽駒ヶ岳は、木曽からも伊那側からも、それに近い高度差を持っているが、登山道は緩く長くつけられている。甲斐駒ほど一途に頂上を目がけてはいない。
甲斐駒の表参道は、途中の黒戸山あたりの弛みを除けば、あとは急坂の連続である。上へ行くにつれて傾斜は激しくなり、険しくなり、梯子や鉄の鎖や針金などが次々とあらわれる。山麓から一日で頂上へ達するのは普通不可能であって、五合目あるいは七合目の小屋で一泊しなければならない。
わが国には駒ヶ岳と名のつく山が多いが、その筆頭は甲斐駒であろう。西にある木曽駒ヶ岳と区別するために、以前は東駒ヶ岳と呼ばれたが、今は甲斐駒で通っている。山名の由来は、甲州に巨摩郡、駒城村などの地名のあるところから推しても、かつて山麓地方に馬を産する牧場が多かったので、それに因んだものと思われる。
甲斐駒ケ岳は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私ほこの山を落さないだろう。苦から言い伝えられ崇められてきたのも当然である。この山を讃えた古い漢詩を一つ最後にあげておこう。「駒ヶ岳ヲ望ム」と超し、僧海量の作である。
甲峡ニ連綿トシテ丘壑重ナル
雲間独リ秀ズ鉄驪ノ峰
五月雪消エテ絶頂ヲ窺へバ
青天ニ削出ス碧芙蓉
言うまでもなく鉄驪ノ峰とは甲斐駒のことである。これは甲州側から映じたのだが、信州側からすれば、碧芙蓉でなく白英蓉ということになろうか。