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東電を庇護する経産省の責任 原発めぐる鉄のトライアングル

2023年09月02日 00時32分21秒 | 災害の記憶

東電を庇護する経産省の責任

原発めぐる鉄のトライアングル

 

アラエ臨時増刊号NO15 2011・4・10号

東日本大震災 AERA 臨時増刊号

一部加筆 山口素堂資料室

 

経済産業省の事務方トップが杜撰な原発耐震指針にかかわっていた。

どさくさに紛れて官邸を牛耳った経産官僚は原発推進派だ。未曽有の大事故をもたらした経産省の罪は重い。

 経済産業省の事務方トップである松永和夫事務次官(59)は、東京電力の福島第一原子力発電所が津波に弱かったことに責任がある。なぜならば松永氏は2002年7月から05年9月まで原手力安全・保安院の次長、院長として、原子力安全委員会とともに、原発の「耐震設計審査指針」の改訂作業にかかわったからである。省内にはいま「松永さんが津波に弱い耐震基準をつくった」という話が静かに広がっている。松永氏離任後の06年9月にまとめられた新しい耐震設計審査指針は、阪神火貫乳を教訓に地震の揺れに対する施設の強度を強めるものとなったが、全15ページのうち津波への言及はわずか3行にとどまった。津波からの防災という視点が甘い。日本の原発は、軒並み海沿いにあるにもかかわらず、である。

 

津波に甘い耐震指針

 

連日の記者会見で原発事故の状況を報告している経産省の西山英彦審議官は3月23日の会見で、「津波については、耐震設計審査指針に詳しく書かれていませんでした」と認めた。津波の相定は、過去の経験を踏まえつつ、「土木学会の調査報告書に盛り込んであるもの」を参考に各発電所が予想される高さを想定したという。

 松永氏は経産省広報室長を通じて、自身の責任について「当時は国際的にも高い水準で想定しており、決して津波の影響を軽視したわけではありません」

と弁明した。東大卒のエリート官僚たちが想定以上の規模の津波の襲来を予想できなかったのは、そう予想したくなかったからだろう。

経産省のある中堅官僚のこんな解説は、わかりやすい。

 「高い津波がやってくると相定したら、日本に原発は造れないのです。全部海沿いにあるからアウトになってしまいます」そのうえで、こう続けた。「そもそも経産省は電力業界と『ずぶずぶ』の関係にあるので、電力会社がいやがることをできるわけがありません」

 

若手官僚と夜の勉強会

津波に甘い耐震指針

 

 連日の記者会見で原発事故の状況を報告している経産省の西山英彦審議官は3月23目の会見で、「津波については、耐震設計審査指針に詳しく書かれていませんでした」と認めた。津波の想定は、過去の経験を踏まえつつ、「土木学会の調査報告書に盛り込んであるもの」を参考に各発電所が予想される高さを想定したという。

 東電の福島第一原発の場合、こうした方法で想定した津波の高さは約5メートルだった。しかし、実際に襲った津波は14メートルだったと推定されている。予想の3倍に近い。それによって電源が失われ、原子炉を冷やす機能を喪失した。行き着いたのは、原発の相次ぐ爆発だった。チェルノブイリ原発事故に次ぐ惨事である。

 松永氏は経産省広報室長を通じて、自身の責任について「当時は国際的にも高い水準で相定しており、決して津波の影響を軽視したわけではありません」と弁明した。

 東大卒のエリート官僚たちが相次疋以上の規模の津波の襲来を予想できなかったのは、そう予想したくなかったからだろう。経産省のある中堅官僚のこんな解説は、わかりやすい。

 「高い津波がやってくると相定したら、日本に原発は造れないのです。全部海沿いにあるからアウトになってしまいます」そのうえで、こう続けた。

 「そもそも経産省は電力業界と『ずぶずぶ』の関係にあるので、電力会社がいやがることをできるわけがありません」

 

若手官僚と夜の勉強会

 

 日本の産業界の意向をしばしば代弁する経産省だが、自動車や電機といった他の業界と比して電力業界とは、はるかにつながりが深い。国家公務員倫理が2000年に施行される以前は、東電による料亭での接待や接待ゴルフは当たり前のように繰り広げられてきた。東電の企画部門には、経産省をロビイングする渉外担当幹部……昔の大手都銀の旧大蔵省担当(MOF担)に相当……を複数配置し、旧通産省や資源エネルギー庁を日参し、将来を嘱望される若手官僚たちを勉強会名目で誘い出した。

 「会場は、東電の人しか使わないという歌舞伎座近くの銀座の割烹でした。東電側は副社長や東電は若いうちから唾をつけていたのだ。

 課長補佐から課長へ、そして局長や長官、次官へ。いちど作られた「夜の勉強会」は途切れることなく続いてゆく。東電側、旧通産側それぞれ数人ずつが出席し、東電の用意した接待所や料亭で舌鼓を打つ。「宴会代は東電持ちと思ったら、グループ会社や下請け会社に回しているようでした」

 経産省側のメンバーは言う。やがて発電所の見学会に誘われ、ついでゴルフに行きましょうと囁かれる。こうした「ずぶずぶ」の関係は、公務員倫理法施行以前の世代……いまの局長級以上が中心で、平成人省組はここまでの深い関係はないという。しかし、いまの若手が襟を正そうにも、幹部連中がひいきにすれば、政策はどうしても業界に甘くなる。

 電源開発(Jパワー)の株を英国系投資ファンドの「ザ・チルドレンズ・インベストメント・マスターファンド」(TCI)が買い増そうとした08年には、経産省は財務省とともに外為法上の外資規制を発動し、TCIに株の買い増しの中止を命じた。電発は、両省によほど恩義を感じたのか、その年の役員人事で、経産省の天下り役員の藤冨正晴氏(61)をヒラ取締役から常務に昇格させるとともに、旧大蔵省出身者の新たな天下りを受け入れた。今は常任監査役になった藤原隆氏(62)である。

電力11社に13人天下り 電力業界は、経産省にとっておいしい天下り先である。つい先日まで電力業界を所管していた石田徹・元資源エネルギー庁長官(58)は、退官してわずか4ヵ月後の今年1月1日付で、東電の顧問に天下りした。いずれ副社長に就くと予想されている。

民主党政権は天下り斡旋を禁止してきたのに、石田氏のケースは、経産省の大臣官房などの事務方がOB人事の押し込みを組織的に斡旋したのではなく、来電が石田氏本人に再就職を要請して本人が自発的に受諾したので、「斡旋にはあたらない」という珍妙な理屈を持ち出し、経産省は正当化した。

 このほか、関西電力は商務流通審議官を務めた迎陽一氏(59)を常務に迎え、中部電力は旧通産省生活産業局長だった水谷四郎氏(66)を副社長に遇した(現在は顧問)。電力11社に判明しているだけで経産省出身者が13人も天下っている。四国電力や電発は原子力安全・保安院の経験者を迎えており、取り締まる側が取り締まられる側に平然と転じる露骨さである。迎え入れる東電は「国家のお金で育てられた逸材を受け入れることのどこが悪い」(勝俣恒久会長)と言ってのける。

 電力業界は、経産OBたちの天下りだけでなく、経産省幹部の子女も受け入れている。来電には、現職の局長級や部長級、有力OBの子どもが入社している。来電の対経産省ロビイング担当者の中には、そんな有力OBの息子もいる。もちろん情実入社ではなく、本人の実力で採用試験をくぐり抜けたのかもしれない。しかし、父親が経産省幹部であると東電の面接官が気づけば、阿吽の呼吸だろう。

 「そういう関係だからといって、ふだんから私たちが東電に手心を加えるなんてことはありませんよ。そんなことしていたら、省内で『あいつおかしいぞ』と睨まれてしまいますよ」

 そう同省の中堅は言う。「でも」と彼は続けた。「危急存亡のときに、私たちがどちらに一匙を入れるか、どちらにコインを入れるかは、言うまでもないですよね」

 

経産省の官邸ジャック

 

今回の原発事故で経産省は電力庇護モードに入っている。危機対応のどさくさに紛れて、経産省は柳瀬唯夫大臣官房総務課長(49)を官邸5階に送り込んだ。菅直人首相や枝野幸男官房長官の執務室があるフロアである。

1984年入省の彼はエネ庁で原子力政策課長を務めた後、麻生太郎首相の総理秘書官として働いた経験がある。 原手力に明るいうえ、権力中枢である官邸を動かす術を知っている。次官コースに乗る省内の「スーパーエリート」と言われる人物を、菅政権の舞台回し役にしつらえることに成功したのだ。節電啓発担当相に抜擢された蓮筋氏にはエネ庁の省エネルギー対策課長を配し、官邸と経産省の「連絡将校」役にはエネ庁の政策課長をおくなど、官邸には4、5人の官僚を配置している。

 まるで官邸を経産省がジャックしたかのようである。財務省支配が長らく続き、官邸の中枢から遠ざけられがちだった経産省にとって、千載一遇のチャンスが訪れたのだ。

 

【電力業界への主な天下り】

 

および各社への聞き取りによる。東北電力は個人情報保護という名目で氏名や履歴は開示できないとしている)。青色は経度省(旧通産省)のOB 柳瀬氏が原手刀政策課長時代の06年にまとめたのが、「原子力立国計画」だ。核燃料サイク

ルの着実な推進や高速増殖炉の商業ベース化、海外への原発輸出など、国策として原発産業を育成することを盛り込んだ。民主党政権に交代しても、その原発推進の政策は変わらない。

 

「事故」でなく「事象」

 

民主党の最大の支持基盤である連合は、電力会社の労組でつくる電力総速の存在感が大きい。内閣特別顧問として菅首相のアドバイザー役である笹森清・元連合会長は東電労組委員長、電力総速会長の経験者である。原発メーカーの日立製作所や東芝の労組は、やはり連合を構成する有力産別である電機連合に加わる。日本経団連の中核企業は、その労組が連合の有力単組なのである。官民一体となってベトナムなど海外への原発輸出にいそしむ背景だ。

 原手力立国計画には、老朽原発を廃炉させずに、「高経年化対策」という言い回しで延命させることも謳われている。71年に営業運転を始めた福島第一原発1号機や74年開始の同2号機など古い原発をだまし、だまし延命させてきたのは、こうした国策とも関連している。

 福島原発の大惨事で国民世論は脱原発に舵を切りそうだ。そうした大合唱に対して経産省はいまは音無しの構えだが、やがて原発擁護、東電擁護に舵を切っていくだろう。電力需要が高まる夏あたりが潮目の変化のタイミングである。すでに、そんな前兆はある。「枝野官房長官の記者会見の言い回しを注意深く聞いてごらん。『事故』や『爆発』と言わずに『事象』と言うなど、表現を弱めているよ。役人の作る言葉だ」経産省のベテラン官僚はそう観察した。 危急存亡のときに最後の一匙をどちらに入れるか、もう決まっている。

Asahi ShimbUnWeekly AERA 2011.4.10 38

 

電力会社への主な天下り

四国電力

中村進取締役(土木建築部担任) 1976年通産省入省 2001年原子力安全・保安院首席 統括安全審査官 2003年電力中央研究所研究参事

中国電力

佐藤正夫常勤監査役 1975年警察庁入庁2007年関東管区警察局長

平野正樹執行役員(経営企画部門部長)1979年通産省入省2006年通商政策局通商交渉官

九州電力

掛林誠海外事業部長 1977年通産省人省 2004年通商政策局通商交渉官

沖縄電力

遠藤正利取締役(東京支社長) 1972年通産省入省 1998年資源エネルギー庁海洋開発室長 2003年日本エルピーガス連合会専務理事

北海道電力

山田範保常務(札幌支店長) 1973年通産省入省 2000年通産省経済協力部長

2001年環境省大臣官房審議官

野崎幸雄監査役 1993年名古屋高裁長官

東北電力

非公表顧問 元通産官僚

北陸電力

荒井行雄常務 1972年通産省入省 1998年国土庁長官官房審議官

東京電力

石田徹 顧問 1975年通産省入省 2008年資源エネルギー庁長官

中部電力 

水谷四郎 顧問 1968年通産省λ省 2002年特許庁長官

藤冨正晴 常務 1973年通産省人省 2001年原子力安全・保安院審議官

2003年日本エネルギー経済研究所 常務理事

電源開発

藤原隆 常任監査役 1972年大蔵省入省 2002年金融庁総務企画局長

2006年ジヤスダック証券取引所 代表執行役会長

1997年通産省生活産業局長

関西電力

迎陽一 常務(燃料室担当) 1975年通産省入省 2004年経産省商務流通審議官2006年商工中金理事

土肥孝治 社外監査役 1996年検事総長

 


日本の社会  1938年 学生狩りと勤労奉仕

2023年09月01日 20時05分39秒 | 災害の記憶

日本の社会  1938年 学生狩りと勤労奉仕

 

『週刊20世紀』昭和13年(1938) 朝日新聞

「歴史をあるく」 

   一部加筆 山梨県 山口素堂資料室

 

 非常時局下、2月15日から3日間、警視庁は東京の盛り場で不良学生の一斉検挙をした結果、総数7373人(うち女子341人)に達した。銀座、浅草、新宿、上野、神田などで、マージャン荘、映画館、玉突き場、カフェ、公園などに網を張り、摘発した。

 

上野署管内の喫茶店では15人の客が引き出されたが、その大部分が未成年の学生で、一晩留置後、「今度見つけたら許さぬ」と説諭されて釈放になった。新宿では、月100円の送金を受けながら1年間に1日も出席せずカフェやバーに入り浸っていた学生や、4年間の落第を親に知らせず毎月送金をさせてネオン街へ通っていた学生もいた。

 荒木貞夫文相は6月7日の師範学校長会議の席上、「教育の貧困の結果だ」と断じ、事変下の教育者の奮起を促すとともに学生に警告を与えた。(2月16192128日、6月8日付重星朝日新聞)

 文部省は、中等学校から大学までの学生、生徒に、夏休みの前後などに3~5日間の集団勤労作業をさせることを決めて5月の各学校長会議で指示した。ナチス・ドイツの労働奉仕を見習い、戦時下の精神教育実践を旗印に、作業期間中は校舎や寄宿舎、テントなどで全員寝食を共にして規律・節制ある生活を体験させた。勤労作業は6月下旬から始まった。

男子は河川敷などの開墾や植林、道路工事、神社寺院や公園の清掃、防空貯水槽建設といった作業。

女子は軍服、襟章、肩章や戦傷軍人白衣の裁縫、入院軍人の慰問、応召軍人遺家族の農作業や家事の手伝いなどにあたった。(5月25日、6月1822日、7月5、1418日付同紙)

 警察当局による……学生狩りは、その後も全国的に繰り返された。一方、学生の集団勤労作業は、戦力増強のため軍需工場への本格的動員へと進んでいく。


強制連行 朝鮮人の受難 朴慶植氏著 一部加筆

2023年09月01日 20時03分42秒 | 災害の記憶

強制連行 朝鮮人の受難
朴慶植氏著 一部加筆

日本の中国侵略、太平洋戦争には多数の朝鮮人が強制的に動員され、戦時労働力として、あるいは軍人・
軍属として多くの犠牲を出した。一九三八年の国家総動員法による国民徴用今は朝鮮人にも適用され(一九三九・七)、集団的な強制連行が開始された。
その結果一九三九~四五年八月に朝鮮内で四八〇万人が動員され、日本に一五〇万人、中国に数十万人
が連行され、きびしい強制労働が強いられたのである。
 
日本に強制連行されたものは炭鉱に六十万人、金属鉱山に十五万人、土建に三十万人、港湾に五万人、
軍事工場その他に四十万人となっている。かれらはその大部分が行先も知らされずに連行され、もっとも危険な箇所においての長時間労働、民族的差別による低賃金などのひどい労働条件、きびしい労務管理のもとで働かされ、多くの死傷者を出している。日本内における死傷者は推計数十万に上り、そのうち死亡者は六万を超えると言われる。また事業場の待遇や労務監督のひどいやり方に対し少しでも不平不満をもち、抗議したりした場合、容赦のない取り締まりをうけ、警察に引っぱられ処罰をうけたものも多く出た。
  
一九四三年から四五年八月まで山口県労務報国会下関支部で「朝鮮人狩り」「慰安婦狩り」の動員部長であった吉田清治はかれ自身の告発の書で朝鮮人強制連行に関して次のように述べている。
 「吉田は下関・宇部・小野田の労務報国会支部の労務主事らとともに、大邱警察署の護送車二台と朝鮮人雇員、巡査らをつれて、慶尚北道永川郡へ百人あまりの『朝鮮人狩り』にでかけた。
 ある朝鮮人部落では林と山田に道路の右側を受け持たせ、吉田は高山雇員と右側の家を『狩り出す』ことにした。中村主事は老巡査と護送車で先行して、小川の橋の手前で部落民が逃げ出さないように交通を
遮断してもらうことにした。……
 表に出ると、向かい側の家で山田のどなり声がして、中年の男が二人何かわめきながら外へ突き出されてきた。山田が一人の顔を平手打ちすると二人は静かになった。林が吉田に手をあげて笑うと、ステッキで二人の男の尻をかるくたたいて、牛を追うような恰好で次の家に向かった。……
 吉田は皆の朝解語のやりとりに腹がたち、木剣をにぎりしめて二人の男に近づいて行った。高山雇員が吉田の前に立ちふさがり、大声で男たちを追いたてた。二人の男は路地を小走りに出て行った。護送車のそばに立っていた山田が二人を見て手で招いた。
男の一人が山田の前で手ぶりをまじえて何かしゃべりだした。山田は笑いながら木剣で片手払いに、男の横面を軽く薙いだ。男が耳を押えて大げさにわめくと、山田は憎しみをこめてこんどは力を入れて木剣を振った。肩を打たれて男は絶叫して地面へうずくまった。高山雇員が朝解語でしゃべりながら男をだきかかえるようにして護送車へつれて行った。もう一人の男は吉田が木剣でつきだすとあわててほろの中へはい上がった」
(吉田清治『朝鮮人慰安婦と日本人』)
 
手錠をかけられて九州筑豊の豊州炭鉱に連行された金大植(慶尚北連青松郡出身)は次のように語っている。
「わたしは七回も徴用令状を受けたが、そのつど逃げていた。しかし一九四三年二月、八回目の令状
で寝ているところを警官一名と面事務所(村役場)の吏員につかまり、郡の集結地まで手錠をはめら  
れ、そして日本に連行された。このときわたしと同じように捕まった郡の同胞は一二五名であるが、
このうち八十名はふだん着ている朝鮮服のままで連行された。日本に送られる途中の警戒はひじょう
にきびしく、車中で使所にゆくにも労務係が七人もつきまとっていた。わたくしたちは雪のふるなか
を福岡県の田川後藤寺駅についた。国防婦人会や会社の労務係、そしてさきに連行されてきている同
胞たちが数百名迎えにきていた。あとでよく考えてみると、それは迎えというよりも逃亡を防ぐため
の動員であった」(拙著『朝鮮人強制連行の記録』)


伊江島土地を守る会 阿波根昌鴻      『歴史地理教育』 臨時増刊号 №199

2023年09月01日 20時00分35秒 | 災害の記憶

伊江島土地を守る会 阿波根昌鴻

 

   『歴史地理教育』 臨時増刊号 №199

   沖縄県伊江島のたたかい

   歴史教育者協議会編集 

    一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 伊江島は、沖縄本島の北端にある人口八千人、一千五百戸という小さな島です。それでも、一戸平均一町歩(沖縄では平均一戸当り六反歩といわれる)の土地をもち、農作物は、米以外なら、落花生、イモ、野菜、サトーキビ(砂糖黍)など、なんでもとれる豊かな島で、昔から自給自足ができたものでした。

 この豊かな、美しい伊江島に、土足でふみこんだ米軍は島の六三%にあたる土地を奪って軍用地とし、三ヵ所に米軍の飛行場をつくり、二亘戸近くの農家と土地をとりあげてしまったのです。

 

■ いつわりのサイン

 一九五四年七月。米軍の宣撫班のようなものが伊江島にやってきて、四軒の農家に「立ちのいてくれないか」と親しげに話しかけてきました。当時農民たちは、アメリカはリンカーンの国、民主主義の国として信頼しきっていました。移転後の保障はする、心配はいらないという言葉を信用して、こころよくこれに協力して立ち退きました。

 すると、こんどは七軒の農家に、測量に協力してほしいといってきました。このときもみんなこころよくひきうけましたが、仕事が終って帰ろうとすると、「あなたたちの働いた日当を支払うのに、確かに働いたという証明が必要だから、サインを」といって、米兵から英文の用紙をだされ、日当までくれるなら、といって署名しました。

ところがあとでわかったのですが、それは「立ちのき承諾書」だったのです。

「だまされた“」と気がついたときはもう遅かった。

  さらにまたこれに追いうちをかけるようにして、同じ年の 十月頃になると、こんどは百五十二軒の農家に強引な立ちのきを要求してきたのです。

たびかさなる卑劣なだましうちに村民の怒りは爆発しました。こうして伊江島八千の農民の十二年にわたるたたかいが始まりました。

 私たちは「土地をとられたら生きていけない」といっては何度も陳情にいきました。すると、米軍と琉球政府は、「いや立ちのかなくてもいいし、農耕もそのままつづけてよろしい」とこたえて村民を喜ばせておき、一ヵ月ぐらいたつとまた立ちのけといってきました。また抗議にいくと、「いや立ちのかなくてもよろしい」とこたえる。こんなことが一九五四年暮から翌年春までくりかえされました。

 彼らは、陳情をあきらめるのを待っていたのです。だが私たちはひるみませんでした。ついに米軍のたてた「米軍人以外の者立入禁止」の立札のすぐそばに、「土地は農民のものだ、地主以外の立入禁止」という立札をたて、米軍が金網を張ればそれを取り払い、遂に米軍の基地だという所に二百戸の家を建てました。村民の命をかけたこの戦いは、今もなお守りぬかれています。

 

■これが!!強盗の論理!!だ

 一九五五年三月のことです。

 突如三百人以上の完全武装をした米兵がピストルや催涙ガスをちらつかせ、ブルドーザーやジープ、救急車まで動員して、伊江島の海岸に、上陸してきました。びっくりした村民は、「第三次大戦でも始まったのか?」と、一時は半信半疑でしたが、じつはこの工作部隊は、武力で私たちの土地をとりあげにきたのです。

 それを知った村民は鐘を乱打して集まり、米兵たちの前に土下座して」「土地をとりあげてくれるな」「土地をとりあげるとママもベビーも飢え死にしてしまう」と嘆願しました。

 このとき工作隊の隊長ガイディア中佐は「アメリカ合衆国軍隊は平和的軍隊にして、かつ友好的軍隊である。アメリカ軍に協力するものは多大な利益が与えられる。もし反対したものは、その利益を失ったうえに、大きい不幸のくることを承知しなければいけない」と通告文を読みあげ、「この島はアメリカがぶんどった島であるから、アメリカの自由である」と、イエスでもノーでも立ちのけといい放ち、そしてちょうど畑に土下座して手まね、足まねで必死に嘆願していた

 並里清二さん(当時六十歳で、村民からは最も勇気ある人と尊敬されていた)にいきなり米兵たちがとびかかり、皆の前でなぐるけるの暴行を加え、半殺しにしたうえ、荒縄でくくり、毛布でくるんで、用意してきた金アミのオリにぶちこんでしまいました。そのとき、他の農民も散人、私もふくめて逮捕され暴行されたうえ、土下座して訴えた私たちに、煽動、暴行、公務執行妨害という三つの罪をきせたのです。

 こうして「平和的軍隊」は、農家に火をつけて焼きはらい家をつぶし、ブルドーザーで作物や防風林をひきつぶし、土をかぶせて焼けあとをつぶし、百五十坪の土地に鉄条網や金アミをはるという影参加かぎりをつくしたのです。

 そのときいらい、琉球政府や警察は手をひいてしまいました。

 私たちの代表が、このことを訴えに、当時のジョソソン主席民政客と会見したときです。彼はこういいました。

 「今の話は聞くにたえません。あなた方は可愛想です。なんとかして助けてあげたいが、不幸にして沖縄には、あなた方を助ける方法がない。土地をとりあげるという法はあるが、土地をとられた人びとの保障をするという方法がない。その予算がない。また保障したという例もない。だから助けることはできない。しかしアメリカは、沖縄で多くの土地はとりあげたが、一人も死んだということをきいたことがない。だからあなた方も、死にはしないかと心配することはない」と、強盗の理論をひれきしたものでした。

 

■娘を売って恥ずかしくないか

 

 また四年前です。本土からきたある国会議員が、私たちに向って「あなた方はウソはいわない方がいい。常識でも考えられないことだ。アメリカ人は文明人だ、そんな野蛮人ではない」というのです。そこで私たちはいいました。

 「あなたは、私たちがアメリカ軍隊から苦しめられているという考え方をおもちか。そうではない。じつはあなた方が弱いために、日本の政府が無責任のために、私たちはアメリカ軍に苦しめられているのであって、あなた方が苦しめているのと同じなのだ。

今日本は″沖縄はドルのかせぎ場″とか、″日本は工業国だ″″日本は独立国だ″といって威張っているが私たち農民の考えからすれば、それは無責任な考え方だ。それは彩でが美しい沖縄という娘を赤線地帯に売り、その金できれいな家や、りっぱな服をつくっているのと同じではないか。これで独立したといえるだろうか。これは同じ日本人としても、また世界にたいしても、最も恥ずきことではないか」と。

 また、昨年沖縄にきた佐藤首相にも陳情したし、沖縄全島にも訴えてまいりました。その間、島では、土地を奪われた農民たちは、食うため生きるために、弾丸の降ってくるなかを、鉄条網や金網を切り、軍用犬や米兵のピストルに追い回されながら、奪われた畑から芋や落花生とってきては飢えをしのぐ生活がっづきました。

そのために多くの犠牲者もだしてきました。土地を奪われたショックやすい弱で婦人二人、青年四人が死亡し、米軍の不発弾の解体中に爆死した二人、さらに草刈りしていた 二十歳の青年が米軍に射殺されています。その他、右腕をもぎとられ、太腿部の貫通銃創など重軽傷者三十数人、逮捕投獄されたものは百人をこえています。

 これほどの大きな犠牲をだしながらも私たちは実力で土地をうばいかえして農耕を続けるかたわら、各方面への訴えを続けていきました。

 

■痛感した学習不足

 陳情書を書き、プテカードーつ書くにも、字や法律を知っている学校の先生や、役所の人たちに協力してもらっていました。ところが、これを知った米軍や琉球政府は、この人たちに圧力をかけ、先生方が農民に協力するなら、学校を建ててやらないとか、役人がこれに協力するなら、銀行から金の援助をさせないとかいって、さまざまな害を加えてきました。

 私たちは、あらゆる手段をつかって勝たなければなりません。このような弾圧と妨害のなかで、私たち自身が学習しななりました。

 学習の必要を痛感したわけはもう一つあります。

 私たちが陳情にいって島を空けておくと、米軍や役人たちが村民を買収したり、分裂させようと策動するので、すぐまた島に帰るといった弱さがありました。

 あるいは新聞に私たちのたたかいをのせると、アメリカはその反対の記事をのせます。例えば、軍用地の使用料は十八万二百円なのに、新聞は九百万円も払っているとウソを報道します。よくしらべてみたら、今まで伊江島に投じたアメリカの費用が九百万円だったというふうに、どっちが真実か、わからないようにしてしまうのです。あるいは、彼らは農民には「十五時間の農耕時間を与えている」と宣伝しています。ところがこの十五時間とは、演習の終る夕方五時から翌朝八時までのことなのす。

 私たちは、こうしたゴマカシや圧迫をはねのけ、宣伝をひめるために、自らの力で学習をはじめました。

 当時立法院議員であった前川守仁という人が、東京の中央労働学院を出たことがわかり、さっそく「人材養成有志会」をつくり、皆の苦しい生活の中から金をだしあって、中央労働学院に毎年代表を送り、今では六人の卒業生を生むことができました。

 最初に卒業した浦辺正良さんは、すぐ村会議員に当選しましました。当時の村会では、科学といえば湯川博士がやるもの、哲学といえば、自殺することだくらいにしか考えていませんでした。この村会に浦辺さんが、「あなた方は科学を否定するものだ」とか、「ものの見方が形而上学だ」とか「観念論」だとかいう専門語を使いはじめたので、村長以下、何のことやら意味がわからず、これや勉強しないと天変だということになり、国民百科辞典を買って、はじめて議会でも週一回学習するようになりました。今では沖縄の市町村会議員が定期的に開く研修会には、伊江島の議員が講師になるくらいになりました。

 

■先頭に立つ六人の卒業生

 

米軍が伊江島を奪うまでは、農民たちは、とくに学習を必要としませんでした。ただ牛を飼い、野菜をつくり、肥料の使い方さえ知っておればよかったのです。だが米軍との戦い、日本政府の白々しい裏切りの数かずの中で、私たちが土地を守り、そして生きていくためには、野蛮人のようなアメリカ人を説得できるくらいの学習と、また戦い抜けるりっぱな人間になることだといって、死にものぐるいになって勉強をはじめたのです。

 昨年のことです。米軍は、この島にミサイルの基地をつくろうとして、とつぜん三菱の舟艇に器材をつみ、請負い人夫までのせて上陸してきました。このとき、ついに一本の器材も降させずに追いかえしたことがありますが、その先頭に立ったのは、この六人の青年たちでした。

「あなた方は、誰の許可をうけてここへきたのか。ここは私たちの島、目本の島、日本の国土です。あなた方の国はアメリカではないか。自分の国があるなら帰りなさい。ここは狭い国です。あなた方は、こんなところまでこなくてもメシが食えるだろうが、私たちが土地を失うと生きていけないのだ。もしあなた方が食っていけないというのなら、喜んで土地を分けてあげましょう。私たちにはミサイルなんかいらない。二度と戦争はしたくない。

 私たちのいうことをきけば、アメリカは永久に栄えるんだ。もしウソだと思うなら、もっと勉強しなさい。自分の国の歴史を勉強しなさい。自分の国と他の国と見さかいがつかないようではアメリカ人として恥ずかしいことではないか。

かつて日本を占領した司令官マッカサーは、日本人の精神年令は十二歳だといったが、今のあなた方は、私たちからくらべれば○歳だよ」と、アメリカ兵をさとし、堂々と教育をはじめたのです。米兵たちは、これになんの反論もできませんでした。

 

■身につけた二つの学習方法

 

 このことだけでもわかるように、私たちの学習は二つの方法をとりていました。一つは、沖縄には昔から、儒教の影響が根深く残っていますが、この昔からのいいつたえの教えをつかっての説得です。例えば儒教のことばに「非理法権天」というのがあります。悪いことは良いことに負け、良いことでも法に負ける。その法も権力には負けるが、権力も天の教えにはかなわない。この天こそ私たち農民であり、私たちをうちまかすものはいないということです。

 今一つは、ペトナム人民が、アメリカ兵から奪った兵器で自らを武装し、侵略者を打破っているように、私たちも、アメリカの歴史、独立戦争やリンカーソなどの教えを学び、アメリカの民主主義の伝統をアメリカ兵に教育してきました。

あるいはアメリカがハワイ島を植民地として奪いとった歴史を研究し、アメリカの土地とりあげのしかたを学びました。

そしてたたかい方としては、あくまで味方の中に敵をつくらないで統一し、団結すること、遂に敵の中に味方をつくっていくのです。ですから琉球政府や警察がきても、「お前たちは関係ない、よけいな手出しはしないで帰りなさい」といって帰してしまい、米軍当局とは徹底的にたたかいます。

 今では、アメリカ兵の方で私たちの「話しあい」を恐れて逃げまわるしまつです。

 

■私は笑うことができる

 

 私は、いま中央労働学院を卒業するにあたって、学習の大切さを骨のズイまで感じとっています。

 私は今まで良心さえあれば、神の力でよくすることができると考えていました。しかし、この学校にきて、ヒューマニズムにも二つあること。資本家と労働者という二つの相対立する階級のあること。アメリカは帝国主義国であること。帝国主義の下では、労働者や農民は永久に自由になれないこと。労働者階級の立場に立ってはじめて社会を変え、アメリカ帝国主義や独占資本もうちたおすことができる。労働者階級とともにたちあがってはじめて、沖縄を真に解放することができるということを学びました。

 また、私は若いときから、ときにはキューバや。ペルー、ハワイなどにもいき、学習と金をためるために苦しい労働をしてきましたが、その苦しみのなかで、笑うことを忘れた人間になっていました。しかし動物は泣くことはできても笑うことはできません。私は動物と同じ一生を歩んでいたことにきずきました。今、私は大いに笑うことができます。

 

『学習の友』一九六七年五月号より転載


原爆投下を世界の人々はどう見たか    『歴史地理教育』1968・№395 3月臨時増刊号   歴史教育ハンドブック

2023年09月01日 19時58分26秒 | 災害の記憶

原爆投下を世界の人々はどう見たか

  

『歴史地理教育』1968・№395 3月臨時増刊号

  歴史教育ハンドブック

  教室の常識を問う日本史5050

高嶋伸欣氏著

 

一部加筆 山口素堂資料室

 

  原爆投下に関する記述とそれをめぐる論議

 

小学校六年生用社会科教科書六点とも、歴史的分野と政治的分野で広島・長崎への原爆投下に触れている。もちろん中学校と高校の歴史教科書でも記述している。とくに小学校六年生用の場合は年表で太平洋戦争の開戦と降伏(終戦)の二項目の間に原爆投下の件を記入しただけのものが大半であり、太平洋戦争についての学習では原爆投下を重視しようとしていることが読みとれる。

 それはまた、被爆体験記を引用した読み物ページなどでくり返して原爆に触れていることと相通じている。

 そうした原爆重視の傾向はこれまでにもあったが、1986年度版の小学校用教科書ではそれが一層顕著になっている。そうした変化の背景には、数年来の教科書「偏向」批判の動きのなかで文部省が「原爆の図」を口絵から削除させたことに対する、執筆者・編集者たちの抵抗の姿勢があるように見える。

 その意味で今回の全面改訂によってより詳細になった原爆関係の記述はそれだけでも充分に教材としての高い価値を含んでいる。とくに被爆被害の具体的な描写は、アニメや劇画などで戦争のかっこよさや見せかけのロマンに目を奪われがちな子どもたちに戦争の本質を知る素材となるという点でも、小学校用教科書には必須のものといえる。

 

別技篤彦著『戦争の教え方』の扱い

 

ところで、教科書記述を諸外国のものと比較検討した結果が最近次々と発表されている。そのなかに、戦争記述について詳しく紹介や分析をしたものもある。とくに別校篤彦氏は「ヒロシマ」の書き方の比較をしている。同氏は日本の教科書の記述の例を引用しながら

「原爆の被害の実態など何ひとつ記述しておらず、まるで他人ごとのような書き方に終始している。」

「それはまったくの″骨ぐみ″だけであり、具体的記述によって生徒の感情に訴え、知的関心を刺激する″血と肉″とが欠けている」

し、

「日本の教科書としての自主性はない」と指摘している。

 

しかし、この別技氏の著書をよく見ると、

そこで同氏が日本の教科書記述の例として引用してあるのは「高校日本史」二点分にすぎず、小学校用教科書の詳細な記述を見落していると思われる。確かにくり返して原爆被害を具体的に学習する意味はあるが、中学・高校と進むにつれて生徒はそこに至る経過や背景など全体像の把握の方に関心を強める傾向にあることからすれば、必ずしも不当とは言えない。

 一方、別校氏のこの著書は、こうした限界を承知のうえで見ていくと、諸外国の人々が原爆投下をどう受けとめているかを知るのにはよい手掛かりとなる。国により、年代により異なる様子がわかる。

 また、これまで原爆投下を正当化する一つの根拠とされていた本土決戦での米軍兵士100万人の犠牲回避説がまやかしであったことを暴いた研究も明らかにされている。