歴史文学さんぽ よんぽ

歴史文学 社会の動き 邪馬台国卑弥呼
文学作者 各種作家 戦国武将

森鴎外 「夢がたり」の妖しさ 萩原朔太郎 著

2024年08月25日 19時54分10秒 | 文学さんぽ

森鴎外 「夢がたり」の妖しさ

 

萩原朔太郎 著

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

森鴎外の『うた日記』は、日露戦争に第二軍軍医部長として従軍(明治三十七年四月から三十九

年一月まで)した鴎外の、従事中たえず制作していた詩や歌を集めて成った詩歌集である。

それ鴎外の陣中の動静ならびに感懐をつぶさに知りうる機会詩として面白い。同時に鴎外の内奥にひそんでいた詩的想像力の、ある種の異様な発現、展開の記録としても、それは注目すべき面白

さをもっている。

 『うた日記』(明治四十年元月刊)の価値について世間の蒙を啓いた第一の功労者は、いうまでもなく、『陣中の竪琴』(昭和元年三月号「文藝」、のち単行本として修正加筆して刊行、『佐藤有夫全集』第十巻所収)を書いた佐藤春夫である。「森林太郎が うた日記 に現れた日露戦争」と副題にあるように、これは『うた日記』の作品に即して岡外の詩作品の価値を顕彰すると同時に、作品を通して日露戦争の戦況の働きをも遠望しようとしたものである。もっとも、佐藤春夫自身認めているように、戦史的な知識の乏しさから、日露戦争そのものの包括的展望にまで深く及んでいるとは言い難く、その真価はやはり、詩人としての森鴎外を、その陣中作品の懇切な紹介、鑑賞を通じてひろく世に知らしめようとした点にあった。そしてその点では、この諭は所期の目的をほぼ充分に果している。

佐藤春夫はもともと批評家としてのすぐれた触覚と見識をもった詩人だが、『陣中の竪琴』は、師と仰ぐ鴎外の詩歌に対する世評がともすると低いことに、義憤のようなものを感じつつ、その不当なゆえんを、鴎外の実作によって実証しようとしたものだから、おのずとそこには情熱的な詩人倫が展開された。鴎外論として欠くべからざる重要な価値をもつ著作『森鴎外』を書いた石川淳も、詩人としての鴎外を諭じるに当って、主に「我百首」(明治四十二年五月「昴」第五号)をとりあげ、『うた日記』に関しては、佐藤春夫に敬意を表して、深くは触れていない。もう一人の鴎外倫の筆者である詩人、日夏耿之介の場合、局外の詩歌は散文に比して何といっても二流のもののように考えられていたことは、同氏の『鴎外文学』中の詩歌論を読めばわかる通りである。

 

 『うた日記』に関しては他に学者の精細な論があるかもしれないと思うが、今のところ管見に入らない。いずれにしても、『うた日記』に関する重要な著作として佐藤春夫のそれをあげることは間違ったことではあるまい。

 

 しかるにここに、どういうわけか佐藤氏の『陣中の竪琴』ではまるで顧みられていない興味ある鴎外詩歌の一群が『うた日記』にはあって、少なくとも私には、きわめて意味深い作品群と考えられるのである。その一群とは? 幸いにそれらは、ひとつの章にまとめられている。「夢がたり」の章である。

『うた日記』はもともと五つの章に大別され、集中の大部分は、まさに日記体をとって克明に記されている。

「うた日記」の章で占められる。佐藤氏が主として諭じたのもこの章であった。次いで、レーナウ、プラーテン、メーリケ、リリエソクローンその他ドイツ詩人の戦争詩の訳を集めた「隕石(ほしいし)」の章が来、続いて「夢がたり」「あふさきるさ」「無名草(ななしぐさ)」の各章が来る。いずれも、冒頭の「うた目記」の章にくらべれば著しく短い。そして、「うた日記」の諸作が具体的に制作年月日および制作地の記入をともない、明確に機会詩的性格をもった陣中の身辺即事詩であるのに対し、「夢がたり」の諸作は、日付をもたず、かつ身辺即事的な性格を持ちながらも、そこには濃密内面的秘密の影がさし、しばしばデモーニッシュな狂気の泡立ちさえ感じさせることがあり(その点で、かの有名な「我百首」や、「舞扇」「潮の音」などの短歌作品に若干共通するところがあり)、後に鴎外が『沙羅の木』(大正四年)所収の、市井日常の事象に取材した平淡な口調の写生風の詩で新生面を開いたのとは対照的に、詩人鴎外の最もわかりにくい部分を、多分に含有しているのである。

 

 このわかりにくさ、これがはなはだ魅力的だ。わかりにくさというものは、しばしば詩の重大な能力の源泉になるものであるが、鴎外の揚合、人一倍そういう感じがある。そこには、何か一筋縄ではゆかぬもの、ある端倪(たんげい)すべからざるもの、ある種の怪奇趣味と緊密に結びついた、暗い飢渇か感じさせる憧れ心のゆらめきがある。そのゆらめきは、時には鬼火のように不気味に燃える炎の舌にさえなる。悟性の人森鴎外の秘められた一面がそこにうかがわれる。

そこには、彼の小説や評論の中では出介うことのできないある種の内的な渇望の、詩的形象にあやうく包まれて

いるが内実は妖気たちのぼるような表現さえ見出せそうに思われる。

しれじれし夢みるひとのゆめがたり中に悲劇のいとどふさはぬ

「夢がたり」の章はこの序歌ではじまる。鴎外の『うた日記』の各章は、すべて同種の序歌によって始まっていて、中でも冒頭「うた日記」の章の、

こちたくな判者とがめそ日記のうたみながらよくばわれ歌の聖

は、それに続く「自題」という詩とともに、よく知られているといってよい。ついでに言えば、「自題」は『うた目記』全篇をみずから人々に紹介し、あわせて自分の抱懐する詩観を披露した詩で、近代詩集に数多い序詩、序歌のたぐいのうちの秀逸のひとつであろう。

 さて、この「しれじれし」の歌、一見何の問題もないようにみえる。だが、私にはどうも気にかかる歌である。やや誇張していえば、「序歌からしてすでに妖しげな……」というほどのものである。なぜか?

 歌をもう一度読んで頂きたい。

「愚かなことよ、夢みる男の夢語りなどというものは。まるで悲劇など似つかわしくないじゃないか」

というほどの意であろうが、何といっても奇妙なのは、「しれじれし(痴れ痴れし)」の初句で一旦切れ、「夢みるひとのゆめがたり」と二、三句がこれを受けたあとに、なぜ唐突に、悲劇などは似つかわしくないよ、という自嘲的ともとれる述懐が続いているのか、それがよくわからないという点である。悲劇などはまるでふさわしくない、という言い交わしは、上三句とは必ずしも自然につながらない。鴎外はこの下二句を付けるとき、かなり意識的に「悲劇」という語をここに持ち出している。つまり悲劇などはまるでふさわしくない、という述懐の、真意は、むしろアイロニカルに裏側にかくされているのではないか、というのが私の感じる疑問なのである。鴎外はこの言葉とは裏腹に、内密な「悲劇」の存在をこのとき自らの内部に自覚していたのではなかろうか。そういうことをふと考えさせるような皮肉なものがこの歌には感じられる。鴎外はその「悲劇」の自覚を率直に表現することに対して自らブレーキをかけ、むしろそれに愚かしい夢物語という外貌を与えて、全体をアイロニカルな微笑の中に包みこんでしまったのではなかろうか……鴎外は「夢がたり」という形で、ある内的な秘めごとをおぼろめかして表白し、しかもそれを「痴れごと」としてアイロニカルに否定してみせているのではなかろうか……

 

このような見方は、限外を評うるも甚だしいとされるかもしれない。だが、作者というものは、ときどき一見荒唐無稽な夢物語の形で、最も大切に保ちつづけてきた秘密をもらすこともあるのだ。

 少なくとも、『うた日記』を通読してみれば誰の眼にも明らかな事実は、「石田治作」や「乃木将軍」のような作品によって代表される、従軍叙事詩人的な鴎外、すなわち具体的、客観的で冷静沈着な歌いぶりにおいて近代詩の作老中屈指の人たった鴎外と並んで、内面に混沌たる暗部をもち、そこから噴きあげる曖昧なものを、象徴的な歌いぶりによって包みこみつつ、主観的な「夢がたり」の造形に熱中しているもう一人の鴎外がいるということである。

 大体「夢」に関心をもつということ自体が、すでにそういう心的傾向のひとつのあらわれであって、鴎外の「夢がたり」詩篇は、のちの「我百首」などとともに、近代詩の中での、数少いその種の意識的試みの一つとして読むことができるのある。

 

  わが夢の    嚝野には

  汝いかで    いでて見ん  

  阿古屋貝    蔵せる珠 

  汝が夢の    楽園に

  ともすれば   われゆかん 

  清冷の     淵なる魚

 

  やさしき汝が  夢のかぎり

  われ問わずしてしる

  草を縫ふ    谷間の清水

  樋にこもる   小琴のさや音

  忌ゝしきわが  夢のきはみ

  汝は問はずもあれ

  鳥落つる    高根鳴沢

  檝絶ゆる        荒海渦潮

 

 「夢がたり」の章の殼初におかれた作品である。ついでにしるしておけば、「夢がたり」の章はこのあと、

「蟋蟀(きりぎりす)」(詩)、「風と水と」(同)、短歌十三首、「わが墓」(詩)、「花園」(同)、短歌十九首、「笑(えみ)」(詩)、短歌十一首という構成になっていて、全体としても大して長い章ではない。

 さて、この「夢」という作品、大凡のところ、次のような意味のものであろうか。

 

 〈私の夢はさながら嚝野である。そんなところへ、どうしてあなたが出てくることがあるだろうか。

あなたの夢の楽園は、まさにあこや貝がかくしている真珠だ

(この部分の解にはやや不安をおぼえるが今はしばらくそのままとする)。

その楽園に、ともすれば私は泳ぎ寄ってゆく、清冷の淵に住む魚のように。

やさしいあなたのみる夢の一切、それを私は、あなたに問わずとも知っている。

  それは草を縫う谷間の清水、樋にこもる小琴さながらの清らかな水の音なのだ。

それに反して、私の夢の何と忌々しいことだろう。

あなたはそんなものについてあえて問う必要もないのだ。

私の夢は、鳥もそこまで飛べば墜ちてしまうような高嶺であり、鳴る沢である。

また舟ならば、楫も絶えるほどの荒海であり、渦潮なのだ。〉

 

鴎外がここで「汝」と呼びかけている優しい夢の女性は、だれなのだろう。常識はこの女性をただちに、東京に残してきたしげ子夫人だとするだろう。この美貌をもって知られる二人目の妻と鴎外は、明治三十四年十二月に結婚し、鴎外出征の一年ほど前に、長女茉利(まつり)が生れたばかりであった。結婚当時、鴎外は数え歳で四十一歳(ただし実際には三十九歳だったという)、しげ子は二十三歳、そして先妻登志子との間に生れた長男の於菟はすでに十二歳になっていた。鴎外の小倉時代後半は、人形のようなしげ子夫人との幸福な蜜月時代であったようだが、帰京後の鴎外は、彼を奪い合う母堂峰子と妻しげ子との確執の間にたって苦悩しなければならなかった。そして彼の出征後、夫人は茉莉を連れて芝同舟町の実家の近くにある、実家の持家に別居するにいたる。

これらの事情は、森於菟氏の「鴎外の母」や「院外と女性」(いずれも『森鴎外』所収)その他に語られて、すでに広く知られているところだ。


・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間 やつし……法政大学教授……益田勝美著

2024年08月12日 01時00分34秒 | 文学さんぽ

・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間

 

やつし

 

十世紀の二つの家集、『海人手子良(あめのてこら)集』と『とよかげ』とは、貴人が、<下衆の集>をよそおってわが集を編んだ、という志向性を共有している。後撰から拾遺の間の和歌史のできごととして、

わたしには見過ごしにくいものがある。

 海人(あま)の磯良ならぬ手子良を自称したのは、桃園大納言師氏。大蔵の史生倉橋の豊蔭と名乗るは、一条摂政伊尹(これまさ)。九条敲師輔の弟と長子。叔姪の間柄になる。

春(十首)・夏(十首)・秋(九首)・冬(十首)、逢わぬ恋(十首)・逢ひての恋(九首)、

わかれ(七首)・無常(九首)・いのり(九首)、年・月・日など物の名を詠みこんだ五首と、

「春の花に鶯むつる」「夏ほたる汀に火をともす」など昇凧絵の歌らしい仕立ての六首。

九十四首の即興自撰の小歌集と見られるものを、師氏が海人の詠草と見たてた理由を、永らく測りかねていた。だが、内容的には海人とかかわることのないこの歌集が、師氏の宇治川のほとりの別荘滞在中に編まれたのではないか、と思い至るにおよんで、彼の風流のやつしのしくみがややわかってきたような気がする。

 師氏の別荘は、『蜻蛉日記』の作者の夫兼家の宇治の院と、河を隔てて相対するところにあり、日記上巻の終りに近いところに、師氏と道綱の母らとの宇治での交渉が物語られている。

安和二(九六九)年、道綱の母が、初瀬詣での帰途、思いがけなくそこまで出迎えにきてくれた兼家と対面する。そのころ、権大納言 師氏は氷魚(ひお)の網代漁にきていて、そのことを聞き伝え、兼家の宇治の院へ雉子と氷魚(ひお)を届けてくれた。兼家は伊尹の弟で、やはり師氏には甥にあたる。その年、中納言に進んでいた。日記中巻に、翌々天禄二年、ふたたび初瀬を志す道綱の母は、師氏の宇治の別荘に立ち寄った、とある。師氏がなくなって一周忌近いころだった。

 

   逢坂の泡沫(うたかた)は陸奥のさらに勿来(なこそ)をなづくるかもし

   君しいなばいな/\社(こそ)は信濃なる浅間が山と成や果なむ

 

 宇治の河漁師にみずからを擬して編んだ『海人手子良集』の歌は、懸詞のレトリックによりかかっての抒情のうたが多い。虚構仮託の題名をもちながら、集中の歌にはそれが影響するようすはない。作者の風流のやつしは、そのあたりで止まっている。

 

 以前から『大鏡』の記事で存在が知られていた伊尹の『とよかげ』は、近代になってようやく再発見されたが、それは、『一条摂政御生』のなかに包摂された形だった。後人が伊尹のうたを蒐め、『とよかけ』の後に加えている。三上琢弥・清水好子ら平安文学輪読会の人たちの手になる『一条摂政徴集注釈』(一九六七)の解題は、集全体の成立を正暦三(九九二)年を少し下るころ、集中の『とよかげ』の方を、天保元(九七〇)年ごろから伊尹のなくなる同三年まで、もし、それが伊尹の自撰でない場合、「九七〇年頃から九九〇年頃までの間」とする、用心深い見方だが、自撰を疑う必要はないように思う。

 

    おほくらのしさうくらはしのとよかげ、わかかりけるとき、

女のもとにいひやりけることどもをかきあつめたるなり。

    おほやけごとさわがしうて、をかしとおもひけることどもありけれど、

わすれなどしてのちにみれば、ことにもあらずありける。

    いひかはしけるほどの人は、とよかげにことならぬ女なりけれど、

としつきをへて、かへりごとをせざりければ、まけじとおもひていひける

   あはれともいふべき人はおもほえでみのいたづらになりぬべきかな

    女からうじてこたみぞ

たにごともおもひしらずはあるべきをまたはあはれとたれかいふべき

    はやうの人はかうやうにぞあるべき(ありける)。

いまやうのわかい人は、さしもあらで上ずめきてやみなんかし。

 

 『とよかげ』が『海人手子良集』とちがうのは、歌物語の手法を貫こうとしている点である。物語の叙述法は明らかに『伊勢物語』にならい、その情熱的な恋への没頭を襲おうとするところもそうである。だが、その伊勢的な傾斜が、ことさらに下衆の男女の.愛の物語としての虚構をとって保障されうるとする点において、かえって伊勢とちがう。伊尹自撰集『とよかげ』は、大蔵の史生倉橋豊蔭の歌物語としての風流のやつしをしているが、内容において自作歌集成をふみはずさず、想像の物語、想像のうたの贈答をまじえない。そのため、歌物語の伝承的要素を再生しえないで、私家集にとどまっている。やつしのいとなみを、うたとうたをめぐる物語の創造へはみ出させなかった。

 

ふたつのエロチシズム

 

伊尹は、奔騰する愛の思いに身をゆだねる主人公豊蔭を、「上ずめきて」やむ、上品ぶった中途半端な愛への献身にとどまる、集中の女たちに対置する。しかし、大蔵の史生の物語であるから、后がねの深窓の女性に求愛し、その愛をかちとりながらも、大きな力に仲をひき裂かれていく、『伊勢物語』の<冒し>、社会的制約との愛のたたかいがない。やつしの自己束縛である。

 冒頭の段で、以前からの間柄を復活しようとした豊蔭は、もろくも相手にうたで突きはなされている。「あはれともいふべき人はおもほえで」の歌いかけの秀逸さにもかかわらず、うたの功徳というべき、うたの力は相手を動かさない。恋の負け犬のかたちの物語の出発である。伊勢の初冠の段のうたを女へ贈りそめる、という歌による元服の上昇性がなく、不成就の求愛歌で出発するかたちは同じでも、内実がちがうのである。第二段では、

 

   みやづかへする人にやありけん、とよかげ、ものいはむとて、

しもにこよひはあれと、いひおきてくらすほどに、

あめいみじうふりければ、そのことしりたりける人の、

うへになめりと、いひければ、

とよかげをやみせぬなみだのあめにあまぐもののぼらばいとどわびしかるべし

   なさけなしとやおもひけん。

 

と豊蔭は、女のつらいしうちを甘受しなければならない。もろもろの制約とたたかい、愛する女性を情熟とうたの力とで屈服させ、現実に肉体の愛をひとつひとつ成就していく、歌物語伊勢のエロチシズム、疾風怒濤を衡いて猛進し、愛の抱擁に歓喜し、裂かれて号泣する強烈さが欠けている。この段の「みやづかへする

人」は、第三段では、結局、豊蔭の求愛に応じるのだが、それはこう語られる。

 

   おなじ女に、いかなるをりにかありけむ

   からごろもそでに人めはつつめどもこぼるるものはなみだなりけり

     女かへし

   つつむべきそでだにきみはありけるをわれはなみだにながれはてにき

    としをへて、上ずめきける人のかういへりけるに、

   いかばかりあはれとおもひけん。

   これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ。

    をんなのおやききて、いとかしこういふとききて、

   とよかげ、まだしきさまのふみをかきてやる

   ひとしれぬみはいそげどもとしをへてなどこえがたきあふさかのせき

   これを、おやに、このことしれる人のみせければ、

   おもひなほりてかへりごとかかせけれ。

   はは、女にはらへをさへなむせさせける

    あづまぢにゆきかふ人にあらぬみのいつかはこえんあふさかのせき

   心やましなにとしもへたまへ、とかかす。女、かたはらいたかりけんかし。人のおやのあはれなることよ

 

 豊蔭は、ついに手にした、女の愛を受けいれてくれるという返歌を、無上にいとおしく思い、「これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ」と感無量のことばを吐く。だが、ふたりが寝たこと、遂に逢ったふたりの愛のかたちについては語ろうとしない。

 伊尹は、自分の分身豊蔭の贈歌と女の返歌のからみあいのおもしろさ、そのあとの事件での自分たちの小狡猾の謳歌に心を奪われている。豊蔭のまだ逢わぬ恋をよそおっての求愛の歌に、娘が心をゆさぶられることを怖れて、親は恋の虫封じの祓いをうけさせ、思うままの拒絶の返歌を書かせる。

わたくしがあなたと逢う逢坂の関をこえる日なんてありますまい、何年でも坂の手まえの山科で滞留していなさったら、などと小気味よい書き方。

 ジョルジュ・バタイユは、肉体のエロチシズム・心のエロチシズム・神聖なエロチシズムと、エロチシズムの三形態を指摘している(『エロチシズム』室淳介訳)。もう遥かすぎる昔、「豊蔭の作者」(『日本文学史研究』二〇号、一九五三年五月)を書いた頃のわたしは、そういう三分類など思いおよばなかったが、<好邑者>と<いろごのみ>の区別に熱中していた。「肉体的交渉を持たない男女交際が『すき』であり」 (吉沢義則『源語釈泉』)というような、平安朝の<すき>の中世的把握に抵抗したがって、性愛ぬきの<すき>はないという一方で、<すきと><いろごのみ>の峻別をこわだかにしやべっていた。バタイユの肉体のエロチシズムにあたるものが<いろごのみ>で、うたによる風流を精力的に注入して、<いろごのみ>が<好色者>に昇華される。心のエロチシズムになりうる。そういう考え方に固執する傾向は、いまも変らない。

 わたしは、『伊勢物語』の文学的達成を<好色者>憧憬の結晶、心のエロチシズムの高い到達とし、歌物語の主人公としての昔男…平仲…豊蔭を、<好色者>の下降の系譜としてみてきた。

 『とよかげ』を歌物語の末裔としながら、歌の風流に重占をおき、<すき>のなかの<いろごのみ>の要素が稀薄化したものと慨嘆する点で、いまも同じような見方に低迷している。

 『とよかげ』に関して、わたしにそういう見方をさせるのは、『とよかげ』の豊蔭よりも、伊尹その人の<いろごのみ>の姿が印象深いせいもある。

 

仰云、世尊寺ハー条摂政家也九条殿。件ノ人、見目イミジク吉御坐シケリ。

細殿敗局ニ行シテ朝ボラケニ出給トテ、冠押入テ出給ケル、

実(まこと)ニ吉御坐シケリ。

随身切音(きりごえ)ニサキヲハセテ令帰結、メデタカリケリ。…… (『富家語』)

 

 語り手は、保元の乱後幽閉中の富家(ふけ)関白忠実。伊尹の弟、関白兼家の五代の孫。

この談話をのちの『続古事談』は弘徴殿の細殿の局として書きかえているが、宮廷のどこかの細殿の局の女房のもとへ忍び、あさぼらけ忍び出るとする原語の方が味わい深い。

「冠押入テ出結ケル」容姿にはエロチシズムが漂っている。その人がたちまちかたちを整え、随身にキリリとした声で先を追わせ、堂々と退出していく。その姿をかいまみて、くっきりと眼底に焼きつけていたのは、どこぞの女房か。宿直(とのい)に名をかる他の蕩児か。それにしても、それは北家の氏の長者たる人が語り伝えるような伝承になっていた.

 

  多武峯の入道高光少将は、

兄の一条の摂政の事にふれつつあやまり多くおはしけるを見給ひて、

「世にあるは恥がましき事にこそ」とて、是より心を発し給ひけるとなむ。(『発心集』第五)

 

 弟高光の出家を、『多武峯少将物語』は、前年父師輔が世を去り、かねての出家入道の素志をさえぎるものがなくなったためとし、『栄華物語』は、姉安子中宮の死に触発されてとする。後者は時間的錯誤をはらむ説である。「あやまり多くおはしける」の内容は遊蕩とばかりにしぼりにくいかもしれないが、それを含まないはずはあるまい。

 伝承の伊尹像は、 <いろごのみ>……肉体のエロチシズム本位で、伊尹の『とよかげ』に滑りこませたようなうたの風流をほとんど無視している。伊尹自身のやつしの自画像豊蔭は、うたの風流に偏りすぎた<好色者>になっていて、肉体のエロチシズムの稀薄化しすぎた心のエロチシズムということになろうか。歌物語の后がねさえ奪いとる上流貴族社会の主人公は去り、下衆の下級官僚の<すき>を空想する伊尹の企ては後継者がえられず、雨夜の品定めに啓発された若い一世の源氏の君が、宮廷や上層貴族社会に背を向け、中居の家に隠れた理想の女性たちに好奇の眼を向けるような物語作者の想像が、はぐくまれていく。

                 ……法政大学教授……益田勝美著


愛と創作主体 小町*「心の花」の発見   山口 博(やまぐち・ひろし)著

2024年08月11日 06時55分59秒 | 文学さんぽ

愛と創作主体 小町*「心の花」の発見

 

山口 博(やまぐち・ひろし)著

   一

 古今序以前の唯一の歌論書である『歌経表式』の歌論の方法は、和歌の本質論・様式論等である。嘉祥二年仁明天皇四十宝算賀の興福寺大法師の長歌についての『続日本後記』の編者の論評も、ほぼ同質である。それらに比して、古今序の著しい特色は、歌人の優劣を論じている事と、歌人相互の影響関係を跡づけようとする源流論のみられる事である。前者が六歌仙の論であり、後者は「小野小町之歌、古衣通姫之流也」「大友黒主歌、古猿丸大夫之次也」である。

 古今序以前にはみられないこの作品・歌人の優劣論、源放論を、古今撰者は何に学んだのか。想起されるのは、中国梁朝の鐘嶸の『詩品』である。鐘嶸は、魏文帝曹丕の「典論論文」以下晋の陸機の「文賦」を経て宋の顔延之の「論文」に至る先行の多くの文学評論が、文学の様式論・本質論のみを論じ、詩人の優劣を論じなかった事への批判として『詩品』を著した。そこにおいて鐘嶸のとった方法が、この優劣論と源流説である。

 『詩品』は既に万葉歌人の書架にあり、古今序もその影響下にある。六歌仙評がこの『詩品』のスタイルの模倣である事は確実である。

 『詩品』の序は、五言詩の創始を漢の李陵に求め、その後百年間、詩は衰え辞賦のみ隆盛し、詩人は李陵と班婕妤だけ、という。詩の百年間の衰退と傑出する閨秀詩人一人。古今序にいう平城朝より百年間の和歌の衰亡とその間の唯一の女流歌人小野小町、両序の発想の類似は偶然ではあるまい。

 その班姥奸班婕妤は、「楚臣去境。漢妾辞宮」(詩品序)、「羈臣寡婦之所歎」(欧陽修「梅聖兪詩集序」)などが一例であるように、楚臣屈原と並ぶ重要な詩人的位置が与えられている。班詩

は、欧陽修のいう寡婦之歎で、典型的な閔怨詩であった。

 このように古今序と海彼の文学を読み比べるなら、和歌退潮の百年間において艶然と開花した小町の歌が、班詩に比擬されている事は認められるのではないか。

 班婕妤が「怨歌」という閑怨詩の作者であり、閑怨詩のヒロインであったように、古今撰者にとって小町は閨怨詩的な歌の人であったのである。

 

    二

小町の歌の多くが、不毛の愛の嘆である事は指摘されている。

このモチーフが閨怨詩的であるだけではなく、その表現方法に閨怨詩の影響を受けている事を、私は既に拙著で述べた事がある。詳細はそれに譲るが、例えば、

   花の色は移りにけりないたづらに我身池に径るな、かめせしまに

が、落花を見て花顔の衰えを嘆く閔怨詩の典型的な手法、

   わびぬれば身を浮草の根を絶えて訪ふ水あらは往なむとぞ思ふ

が、男に頼っての生き方をせざるをえぬはかない女の象徴を、浮草にみる閨怨詩の伝統の上に作られているという事などである。身近な例を挙げるなら、次のような詩がある。

   玉顔盛有時。 秀包随年衰。(中略) 

浮萍無根本。 非水将何依。 (『玉台新詠』巻二・傳玄「明月篇一)

 「人の心」という表現にも中国持の影響があると思う。

   包みえで移ろふものは世中の人の心の花にぞありける

 『古今集』には「人の心」という語句は一三首ある。その意味では当時の類同的発想に依拠しているといえるのだが、『後撰集』には二二首(内「人心」四首)、『拾遺集』には一二首(「人心」一首)とみてくると、小町の「人の心」は古今で類同的であるだけではなく、三代集の中に全く埋没する。

 ところが『万葉集』には、平安朝的センスを早くも内蔵している大伴家持に一首、巻一一に一首あるだけである。万葉歌人にとって恋愛歌は、対象との合体を希求する声であり、欲望の実現を計る心の響きである。「吾が心」・「妹が心」という類の、個別的な対象を明確化した表現をとるのもその現れである。古今恋歌はそうではない。「世中の人の心」と、恋の心の状況を客観的に観察し普遍化、人生論にまで高めている。

 「人の心」という表現の万葉と古今以後の落差をこう考えるのであるが、万葉歌人のほとんど知らないこの表現も、中国六朝詩には既にみられるものであった。『玉台新詠』には「人心」として六例あるが、その一つ、

  街悲攬俤別心知。桃花季飽託風吹。本知人心不樹。何意人別似花離。 

(巻九・善子顕「春別」)

は、人心が桃花季飽の移り変り易きに等しき事を詠う。作者は、一度は「人心は樹に似ざる」と思っていたが、今は似ていると認識したという。似ていないが実は似ている、この発想が小町の歌では、「色みえで」という点では花と人心は似ていないが、移ろうという点では実は似ている、となる。

 人心は花に似たりとするこの蕭子顕の詩は、『芸文類聚』閔特

高に採録されている。菅原迫真が「落花」と題する詩で、

  花心不人心。一落応再尋。(『菅家文草』巻五)

とするのも、彼の主張する断章取義的方法による蕭子顕の詩の依拠であろう。「人心は花に似たり」のモチーフは平安人の心に確実に根付いているのである。小町の「人の心」もこの系譜の上にあると考えられるではないか。

 嵯峨・淳和州という漢風の時代を通る事により、和歌は著しく漢風に傾く。小町個人をとっても、文人である阿倍清行や文星康秀との交友があり、彼らは漢風の歌を作っている。小町の歌に閨怨詩的傾向があり、それを古今撰者が認めていた事は、当然ではないか。

 

   三

 このような閑怨詩的歌を作る小町は、どのような人であったのか。彼女の周囲の男はいずれも五位・六位程度であるから、小町も高い身分とは考えられず、後宮において職事官であれば古今作者名の表記にそれが表われるであろうに、それがなく、「小野」の姓を伴って表記されている事、などから、散事官の氏女説をかつて立てた。彼女が後宮の一員であれば必ずどのような身分かに想定せねばならず、これ以外の合理的公約数は考えられないからである。

 氏女と想定すると、小町には次のような条件を課さなければならない。端正な女で、三十歳以上四十歳以下、夫なき事とする大同元年の太政官符の規定である。この条件を小町及び彼女の歌に照射すると、彼女の美女伝説も老残説話も、歌が年寄りじみている事も、不毛の愛を託っている事も、従来小町及び小町の歌についていわれてきた事がそのまま説明できるのである。

 氏女説の難点は、氏女の実態が十分把握できない事である。資料から推測できる実態は拙著に譲るが、恋歌と関係をもつと思われる、夫なき事という条件だけは再説しておく。配偶者を持つと氏女は解任される、したがって公然の情交関係は避けたであろうが、秘やかな関係はあり得ただろうと考えるのが、当時の風俗からみて自然だろうと思う。人目を忍ばねばならない微妙な愛のあり方が、彼女の歌の枠取りになっていると考えるのである。

 男の愛の得がたき悲哀や焦燥、それは愛を失って悲嘆する閨怨の女の嘆とほとんど同質である。氏女であることの実体験が、ほぼストレートに閨怨詩的な歌という彼女の作品に繋がってくるのである。表現の単なる模倣ではなかったのである。

 

    四

 従来の小町論の多くは、古今の小町の歌を分析する事により小町の実像を求める方法をとる。結果として、表現と創作主体が直接結び付くのは当然の事である。歌から像にアプローチするのもかなり困難で、「やむごとなき人の忍び結ふに」 「四の皇子の失せ給へる」(小町集)の局辺を揺曳するぐらいである。遂に、歌以外の資料から小町像を求めた論もあるが、それらは、彼女の歌の著しい特性との回路をほとんど考慮しないで終る。

 私は、和歌から小町へという方法を避けたのであるが、それを取ったのが田中喜美春氏である。歌を分析し再構築した結果は、小町は小野貞樹を愛していたが、嘉祥二、三年(八四九~五〇)頃失恋し、康秀に言い寄られたが心痛いやされなかった、という事である。俗っぽくいうなら、思う人には思われず、思わぬ人に思われるという構図である。

 古今歌のみを対象とするなら、小町の局辺の男は貞樹・康秀・清行だけで役者は限定されているのであるから、結論は当然そうなる。私たちが知りたいのは、三人の男に囲まれた小町が何であったか、それが歌とどのような回路を持つかである。例えば後宮との関係についても、田中氏は更衣説から始めて氏女説まで否定する。資料なしとして投げだすのであるが、否定するからには仮説を提示するのが研究ではないか。田中説もまた、小町について何も語っていないのである。

 田中説の構図は成り立つであろうか。真樹との破局の嘉祥三年(八五〇)に三河様康秀を登場させる。任三何様の実例を求めると、外従五位下か正六位上である。康秀は元慶三年(八七九)に任縫殿助であるが、縫殿助も従五位下か正六位上が実例である。

三河様も縫殿前も、六位で任ぜられても叙爵への距離は近いのである。康秀は叙爵されていないから、田中説によると嘉祥三年から元慶三年まで、少く見積っても三〇年間六位にあった事になる。こんな事があり得るだろうか。諸国の様に任ぜられた者は、任官後一五年程の後には叙爵している。藤原元真の二五年後の叙爵が飛びぬけて長いのである。嘉祥三年三河掾であるなら、真観年中に叙爵しているはずである。康秀がいつ三河様であったかわからない。『古今集目録』が貞観年中にそれを置くのも、私が元慶初年に置くのも、以上のような事を考慮したからである。元慶初年三河掾から縫殿掾になり、叙爵を目前にして没したと考えられるであろう。

 元慶初年康秀と交友のあった小町が、その時若年であるなら、嘉祥三年ごろ真樹との恋は年齢的にあり得ない。嘉祥三年ごろ真樹と恋をする小町であるなら、元慶初年の康秀との話は、成り立たないか、成り立っても、真実の恋ではないだろう。田中説の構図は無理であろう。

 真樹こそ小町の愛人とする田中説は「題しらず」の六三五・八二二の小町の歌をも、それこそ何の確証もないのに、真樹との愛の枠中に収める。真樹との間を語るのは僅か一首で、それも詠歌事情を全く伝えていない。康秀よりも流行よりも、貞樹の影は茫昧としているのではないか。

 

   五

 私は歌を避けて小町を考え、その小町から歌を眺めてみた。氏女小町と閨怨詩的歌は実に対応し、彼女の実人生がそのまま作品に照射されている事を知った。

 ただ私が逡巡しているのは、彼女の歌のすべてがそうなのか、虚構の、想念の歌がないのか、という事である。愛の許されない氏女であれば、かえって愛欲に対しては鋭敏な異常な神経と豊かな空想力を持つようになり、それが古今の歌を生んだとも考えられるのである。「人の心の花」という透徹した観念などもそれであるかもしれない。

 しかし、それが想念の歌であっても、そのような想念の歌を作らせた情念が、氏女であることにより育まれたのであるなら、その意味で、彼女の体験と歌とは密接な回路で結ばれている事になるのである。

 

【注】 拙著『閑怨の詩人小野小町』 (昭和五四年・三省堂)を参照くだされば幸いである。

田中氏の論は「小町時雨」(『岐阜 大学国語国文学』一四号・昭和五五年二月)。

閨怨詩と小町の歌との影響関係を論じた論文に、後藤祥子氏「小野小町試論」

(『日本女子大学紀要』文学部二七号・昭和五三年)がある。                 

……富山大学教授……


枕草子と現代女性  『雞肋雑記』昭和63年8月10日  著者  柳町菊次郎氏

2024年08月10日 17時32分13秒 | 文学さんぽ

枕草子と現代女性

 『雞肋雑記』昭和63年8月10日

 著者  柳町菊次郎氏

 発行者 柳町勝也氏

 一部加筆 山口素堂資料室

 

三巻本枕草子第二十二段は次のような文章である。

 

生ひ先なくまめやかにえせざいはひなど見てゐたらむ人は、

いぶせくあなづらはしく思ひやられて、

なほされぬべからむ人のむすめなどは、

さしまじらはせ、

世のありさまも見せならはさまほしう。

内侍のすけなどにてしばしもあらせばやとこそおぼゆれ。

官仕する人をばあはあはしうわるきこといひ、

思ひたる男などこそいとにくけれ。

げに、そもまたさることぞかし。

かけまくもかしき御前をはじめ奉りて、

上達郎・殿上人・五位・四位はさらにもいはず。

見ぬ人はすくなくこそあらめ。

女房の従者ずさ、その里より来る者、

長女かさめ、御厠人みかわようどの従者、たびしかはらといふまで、

いつかはそれを恥ぢ隠れたりし。

殿ばらなどはいとさしもやあらざらむ。

それもある限りはしかさぞあらむ。

それもあるかぎりは、しかぞあらむ。

うへなどいひてかしづきすゑたらむに、

心にくからずおぼえむ。

ことわりなれどことわりなれど

また内裏の内侍のすけなどいひて、

をりをり内裏へまゐり、

祭の使など出でたるも面だたしからずやはある。

さてこもりゐぬるは、まいてめでたし。

受領ずりょうの五節出だすをりなど、いとひなび、

いひ知らぬことなど人に問ひ聞きなどはせしかし。

心にくきものなり。

 

これを口語訳すると次の如くになる。

従来の諸注の解とは、大いに異なるところがあるから注意せられたい。

将来性も乏しく、地味に、几々たる家庭生活に満足しているような女性は(私からみると)いかにも退屈で阿呆くさくてならないものだから、やっぱりチャンとした家の娘さんなんかは、宮柱で人中にも出させ、世間というものを見させもし慣れさせもしたし、(できることなら)典侍などになってほんの暫くでもいさせてやりたいものだと、こう思われることですよ。

宮仕えする女性を、ガサツで怪しからぬもののように言ったり、思いこんでいる男たちこそ、実に腹の立つことだ。全く私が憤慨するのもまた、当り前なんですよ。

(宮仕する女性なら)口にするのもおそれ多い御上を始めとさせていただいて、公卿、御上人、五位や四位の人はいうまでもなく、顔を合わさぬ人は、ほとんどないことでしょうよ。

(それどころか)女房の供人や女房の実家から来る使いの者、田舎から来ている下仕えの老女や掃除女などの供の者(もっと)人数に入らぬ下賤のものまで(宮仕する女性なら)いつ、そんなものたちと顔を合わせることを恥ずかしがって隠れたりなんかしたでしょうか。

(そりゃあ)殿方なんかは、ほんとに私たちほどにはね、御上とでも誰とでも顔を合わせるということもないでしょうよ。(でも)殿方だって、殿上勤めの間はその通り、私たちと同じことですわね。奥方などといって(お人形みたいに)床の間に飾っておいたような場合に(宮仕えの経験のある女性を)あまり奥ゆかしくは感じないかもしれない。

それももっともだけれど、一面では、内裏の典侍などというわけで時々宮中にお伺いしたり、八十島祭の使に立ったりするのも、(夫にとって)何で名誉でないことがあるものですか。そうした数々の経験を積んだうえで家庭に落ち着いているのは、格別結構なものだ。

 (夫たるのも)受領として五節の舞姫を出す時なんかに、すっかり田舎くさくて、わけのわからぬことを、他人に尋ねまわるような見っともない振舞は(奥方がすっかり宮中のことを公得ているお蔭で)しないことでしょうよ。(そういうのが本当の意味で)奥ゆかしいものです。

 

これ程明確に、女性就職の意義を規定した意見はめずらしい。あれほど宮仕えを不本意なものと考え、常に表面に出ることを避けていた紫式部でさえ、中宮彰子方の上藹女房が、まるでねんねのお嬢さんばかりで、人と応対することをしりごみし、碌な口上も言えず、公用で中宮に申し上げたいことがあって訪ねて来た公卿たちをも失望させて、「中宮方は沈滞し切っている」と世間で評判されるようになったことを残念がっているのである。(紫式部日記)

要するに清少納言の問題にした女性の宮仕えというものは、天皇に直接奉仕する内裏の女房のことであって、さらに拡大解釈しても、上皇や女院に仕える院の女房、中宮や親王、内親王に仕える宮の女房、摂関大臣家に仕える家の女房の範囲内であって、その当時といえども存在した、農山漁村、商工業者の社会に於ける女性労務者のような庶民の世界を含むものではない。

また官僚貴族の社会に於いても采女や雑仕のような下級女官ではなく、すくなくとも女蔵人以上の女房階級、貴族の子女の働き場所としての、高級女官の世界についてのことではあるが、今日の民主的社会に於て教育・職業の自由がすべての女性に認められている時代においては、すくなくとも四年制大学を卒業した女性は、平安朝に於ける貴族の子女と同等に考えてもよく、その職業意識を論じるのに、清少納言の女性宮仕え論を、ひき合いに出すことは、強ち不当ではないと思われる。

そういう点ていえば、いたずらに、無責任なカッコよさにあこがれる現代女性よりはもちろん、結婚前の自由満喫的腰掛主義の現代女性よりも、また、夫と死別後の生活力を身につけておきたいという社会保障型の女性よりも、一層、徹底した職業観を清少納言は把握していたようである。

 

すなわち、勤務する官庁のセクトの伜さいに縛られている男子の宮人よりも、宮廷に二十四時間の生活を持つ女房の方が、官僚社会のあらゆる階層のものと接触することによって、より幅広く、奥行きのある人間的成長をなしとげ得るものであって、男子の宮人も蔵人職として宮廷内に生活する時にのみ、女房と同等の経験を積み得るであろうと、その点に於ける女性上位の職業論を、堂々と展開しているのである。多くの男性が、自分の思うままの色に染め得る、無知初心の女性を妻として欲していることを、一応感覚的には認めながら、それでも内裏の典侍にまで昇進して、宮廷生活の裏表を知りつくした女性を妻とした場合の真の奥床しさというものを、男性に教えようとしているのである。

 大学を出て、一応就職することを当然のように観念づけられている現代女性といえども、その職業体験が、単なる婚前の自由享受や結婚費用の蓄積、夫に対する経済的発言権の確保死別もしくは離婚後の生活保障といった低次元のものではなく、真の人間的完成を目ざして豊富な経験を積むためのものであることを認識している人は少ないであろうし、まして、男性に対する女性の真の魅力が、いわれなき羞恥心や未経験の無知に根ざす生理学的なものでなく、男性との間に、相互信頼の関係を確立し得るような人間的魅力、即ち実力のある奥床しさにあるということを認識して、それを職業体験の最終目標として、しっかり把握しているのは、案外にすくないのではあるまいか。清少納言の職業観は、その点に於いて、今日の個人主義の時代に於いても、十分指導理念となし得るものであるといえよう。


貞門時代の芭蕉の句はすぐれているのか 母利司朗 氏著 『国文学』解釈と教材の研究  第36巻13号 11月号 学燈社

2024年08月10日 06時53分35秒 | 文学さんぽ

貞門時代の芭蕉の句はすぐれているのか 母利司朗 氏著

『国文学』解釈と教材の研究 

第36巻13号 11月号 学燈社

 

今日芭蕉の句として伝わるもののうち、真偽の確認されたものは、およそ九百八十余句ほどである(『芭蕉講座』第二巻 昭和五十七年刊)。そのなかで、いわゆる貞門の時代につくられた句は、人によりその範囲をどこまでに置くかによるちがいはあるものの、せいぜい六十句にもみたない。

芭蕉が、まだ「桃青」でも「芭蕉」でもなく、「宗房」と名乗っていたころの句である。

これら数十句の出拠を厳密に考証し、貞門時代の作であることを確定したのは、穎原退蔵の「芭蕉俳句年代考」(『潮音』昭和三年、四年)にはじまり『新訂芭蕉俳句集』(昭和十五年刊 岩波文庫)、『芭蕉俳句新譜』(昭和二十二年まで諸誌に連載)におわる一連の業績であったが、以後、戦後に著された芭蕉発句の

注解は、同じ穎原の次の言葉を暗黙の了解としてひきつぐこととなった。

 貞門時代に於ける作家論の如きは、それゆえ極言すれば無意味と言っても宜い。当時の作品には時代としての特質は存しても、作家としての特色は見られないのである。強いて云えば、言葉の組方の巧緻と粗筆との差が諭されているくらいであろう。稀には言葉の技巧によれず、内容の滑稽を主とした作がないでもないが、それだけで特色をなしたというような作家は殆どない。要するに寛文初年頃における芭蕉発句の特色を概説するという如きは、最初から問題とならないのである。

   (「蕉風の展開」『芭蕉講座』発句篇・中 昭和十九年刊)

 しいて、それら注解書における芭蕉の貞門時代の句への評価のちがいを求めるならば、一方に、「見立て」の多用、本歌本説取りの多用などに、時代の新流行を懸命に造いかけようとする芭蕉の姿を、あたうかぎり客観的によみとろうとする(すくなくともこれらの句を切り捨ててしまわない、という意味では)好意的な俳諧史研究としての見方があったのにたいし、その裏返しとして、結局それ以上のものではないのだからはなから考察の対象外としてしまう、という、芭蕉句のいわゆる詩性を重視する見方があったにすぎない。それは、「俳諧少年」としての修行時代の作であるこれら数十句に、当時の貞門俳諧の枠をこえるような芭蕉の個性の発揮をみとめないという見方の、いわば二面性にほかならない。

 これにたいし、昭和五十年代のはじめに発表された、

(一)広田二郎氏「貞門風作品と古典-『古今集』詩学の把握を中心としてー」(『芭蕉-その詩における伝統と創造-』昭和五十二年刊)、

(二)山下一海氏「『統山井』の芭蕉…元禄文学への一つの出発-」(『日本文学』昭和五十二年九月号。後に同氏著昭和六十年刊『芭蕉の世界』に所収)は、従来の研究史における評価を大筋として認めたうえで、なお厳密に見れば、この「宗房」時代の何のなかにも、後の芭蕉の作風につながるなんらかの個性があらわれているはずである、という視点から、芭蕉の貞門時代の何によみとれる、詩人としての個性を論じられたものである。

(二)は、現存する芭蕉のもっとも古い句「春や来し年や行けん小晦日」などの解釈を中心に、芭蕉の『古今集』『源氏物語』にたいするかかわり、理解が貞一般を超えていることを論じている。

(二)は、一見たしかに言語遊戯の何としか読み取れない『続山井』の何にも、芭蕉の感情が、主観語や新鮮かつ素直な表現ではしなくもあらわれることがある、と論じたものである。その意味で、より直接には、この何の載っている『続山井』には、芭蕉の発句が二十八句、付句が三句入っているが、心境的な句は一句もない。ないのが当然で、後年のような心境的な、自己の内心のものを盛るような何は、当時の貞門俳諧の何風ではなく、また二十二、三歳の若い芭蕉のよくするところでもなかった。

  (鑑賞日本古典文学28『芭蕉』本文鑑賞 井本農一氏担当)

という見方に、もう一度検討をくわえ、芭蕉初期の何の再評価をこころみようとしたものであるといえよう。これらはともに、ややもすれば、言語遊戯を宗とした貞門時代の俳諧に個性など発揮されるはずがない、という先入観で評価されがちな「宗房」号句に、芭蕉の成長を考えるうえに資する、このような読み方もできるのではないかという可能性の問題を提起した論なのである。以後、それは、たとえば「寛文期の芭蕉発句は全体として当時の貞門俳諧の枠を出ないものであるが、言葉続きがなめらかで、句にリズムとスピード感の存すること、そこに芭蕉の才能の萌芽が見られることも事実である」(『芭蕉講座』第二巻 永野仁氏執筆)というような、折衷的な見方に取りこまれていくこととなる。

 

 あたえられた課題にかかわる研究史は、ざっと以上のようにまとめられよう。しかし、私には、はやく穎原によりまとめられた定説と、それを大枠では認めながらより芭蕉の個性をよみとる方向への修正を求める二論との間に、しっくりかみあっていないものを感じてならない。従来、課題そのものは、原則として、まず当時の俳諧のなかで芭蕉の句はどのようによむことができるかという検証ののち、これらの句が芭蕉後年の俳諧にどのようにつながっていくのかいかないのか、という問いを深めていく、という手続きで、解かれてきたように思われる。しかし厄介なことに、この過程には、すぐれて恣意的な、芭蕉への思い入れとでもいうべき感情の、往々にしてはいりこみやすいところが随所にあり、それが、貞門時代の俳諧のなかから芭蕉の句をただしく選別し、正確にその特徴を指摘することをしばしば妨げることにつながっていく危険性をはらんでいるのである。それは、論の性格上、とりわけ芭蕉の個性をひきだしたいとする後者の立場をとる論にあらわれやすい性向であろう。

 一口に貞門の俳諧と較べるといったところが、芭蕉は、この時代にわずか五十余句をのこしたにすぎない。貞門時代の俳諧の大勢は、発想としての見立てを根幹に、縁語や言いかけを主とした秀句仕立ての技法でもってつくられた、機知的な言語遊戯の俳諧であるが、その懐は、意外と広いものであったはずである。その懐は、以外と広いものであったはずで、連歌をたしなむ連中の、なかば連歌の尾ををひきずったような句は勿論、

    山の頭を照らす稲妻

かりまたやめっきをさしてわたるらん

          (寛永十四年熱田万句・甲 一一七)

という『守武千句』のパロディーに象徴される室町俳諧へのあこがれなど、いわば前代から当代の類似文芸にひろく影響され、あらゆる俳諧をそこにひっくるめて存在したのが、当時の俳諧であったはずである。任意に一つの撰集を通読しても、そこに様々な俳諧のバリエーションが容易にみとめられよう。

とすれば、よしんば五十余句のなかに「芭蕉の個性」というものを探し出したように思えたとしても、はたしてそれが、この幅広い、何万句とある貞門俳諧の範噴からはみだした「個性」であると確言するのは、至難の技であるとは言い難い。その峻別は、意外なほどの難行ではあるまいか。

 たとえば、『続山井』(潮音撰 寛文七年刊)ひとつだけ例にとり、そのことを説いてみよう。

 

    初瀬にて人々花見けるに

  うかれける人や初瀬の山桜  (続山井)

 

 諸注指摘するように、これは、

「うかりける人を初瀬の山颪よはげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣」

(千載集・恋二・七〇七、百人一首)のもじりである。わずかに、「うかりける」と一文字を変えただけで、「憂」から「浮」への意想外な句意の転換が図られた、まずまずの出来の句とよみとれる。前者の見方にたつ『鑑賞』(井本氏)は、この句の類型、等類を具体的には示さないまま、これに、「一応手のこんだ技巧を弄してはいるか、また、ただそれだけの句でもある……まだ若い芭蕉は貞門俳諧の潮流のままに流されていたのであって、この時代の芭蕉にとくに独創的なものを求めるのは無理である」という、評価をあたえた。一方、後者の見解を示された山下氏は、これが俊頼の歌のもじりであることをみとめつつ、「憂」から「浮」への意想外な句意の転換を、芭蕉の「大らかさ」と見て、「古歌のもじりにとどまらない素直な表出感を読みとることができる」として、芭蕉の個性にまで結びつけられた。しかし、この句が、実は、

 

 1 いかりける人ぞ初瀬の花の番  重賢 (埋草・大和順礼)

   いかりける人よ初瀬の花の番  高故 (時勢粧)

   しかりける人や初瀬の花の番  詩友 (蛙井集)

 2 うかれける人や初瀬の花見酒  重利 (伊勢正直集二

   うかしけり人を初瀬の花見酒  光次 (境海草・大和順礼)

   うかしけり人を初瀬の花見酒  三保 (後撰犬筑波)

 3 うたひける人や初瀬の花見酒  政尚 (続大和順礼)

 4 うたれける人や初瀬の花に幕  以仙 (大海集・松葉俳林)

   うたれける人や初瀬の花の滝  良弘 (続大和順礼)

 5 うらみける人や初瀬の花の風  良綱 (続大和順礼)

 6 ぬかりけるものや初瀬の遅桜  芳心 (埋草・大和順礼)

   ぬかりける人や初瀬の花の跡  信之 

                    (風俗草*詞林金玉集による)

 7 うつかりと人や初瀬の花ざかり 立静 

                    (時勢粧・都草・たはぶれ草)

   8 たかりける人は初瀬の花見哉  治元 (大和順礼)

   9 ひかりける火とは初瀬に飛ぶ蛍 宗賢 (大和順礼)

     ひかりける火とは初潮の蛍哉  知乙

                  (砂金袋後集*詞林金玉集による)

   10 鵜飼ける人や初潮の川遊び   正次 (大和順礼)

 

という、この同じ古歌をもじる貞門俳諧の類型のなかで、もっともありふれた2のパターンのなかにふくまれるものであることをみたとき、そのような芭蕉の個性と結びつけた見方がもはや成り立ちえないことはあきらかであろう。

 わずかに一例だけをとりあげたにすぎないが、同様のことは、ほかの「宗房」号句についてもあてはまるのではなかろうか。

 当時の芭蕉句(すなわち「宗房」号句)を、貞門俳諧一般となんら変わるところがないとみるのか、それとも、後年の芭蕉句に通じる個性をすでに内に含んでいたと積極的に評価するのか、そのいずれの見方をとるにしても、その唯一の判断材料である貞門俳諧のよみそのものが、従来、どう贔屓目にみても立ち遅れていたことは、誰の目にもあきらかであろう。定説化した穎原の見解に、三十年ぶりに修正を求めた後者の論は、たしかに魅力的ではある。しかし、そのような視点に納得を得るためには、結局、貞門俳諧の正確なよみそのものがなによりも問われているのではなかろうか。もちろん、前者の見方に立つ論にも、これとまったく同じ手続きが必要とされることは、いうまでもない。実情は、「芭蕉」以前のところでしばらく足踏

みしている、ということであろう。ともかくも、土俵の整備こそが急務なのである。

・……岐阜大学助教授・……