森鴎外 「夢がたり」の妖しさ
萩原朔太郎 著
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
森鴎外の『うた日記』は、日露戦争に第二軍軍医部長として従軍(明治三十七年四月から三十九
年一月まで)した鴎外の、従事中たえず制作していた詩や歌を集めて成った詩歌集である。
それ鴎外の陣中の動静ならびに感懐をつぶさに知りうる機会詩として面白い。同時に鴎外の内奥にひそんでいた詩的想像力の、ある種の異様な発現、展開の記録としても、それは注目すべき面白
さをもっている。
『うた日記』(明治四十年元月刊)の価値について世間の蒙を啓いた第一の功労者は、いうまでもなく、『陣中の竪琴』(昭和元年三月号「文藝」、のち単行本として修正加筆して刊行、『佐藤有夫全集』第十巻所収)を書いた佐藤春夫である。「森林太郎が うた日記 に現れた日露戦争」と副題にあるように、これは『うた日記』の作品に即して岡外の詩作品の価値を顕彰すると同時に、作品を通して日露戦争の戦況の働きをも遠望しようとしたものである。もっとも、佐藤春夫自身認めているように、戦史的な知識の乏しさから、日露戦争そのものの包括的展望にまで深く及んでいるとは言い難く、その真価はやはり、詩人としての森鴎外を、その陣中作品の懇切な紹介、鑑賞を通じてひろく世に知らしめようとした点にあった。そしてその点では、この諭は所期の目的をほぼ充分に果している。
佐藤春夫はもともと批評家としてのすぐれた触覚と見識をもった詩人だが、『陣中の竪琴』は、師と仰ぐ鴎外の詩歌に対する世評がともすると低いことに、義憤のようなものを感じつつ、その不当なゆえんを、鴎外の実作によって実証しようとしたものだから、おのずとそこには情熱的な詩人倫が展開された。鴎外論として欠くべからざる重要な価値をもつ著作『森鴎外』を書いた石川淳も、詩人としての鴎外を諭じるに当って、主に「我百首」(明治四十二年五月「昴」第五号)をとりあげ、『うた日記』に関しては、佐藤春夫に敬意を表して、深くは触れていない。もう一人の鴎外倫の筆者である詩人、日夏耿之介の場合、局外の詩歌は散文に比して何といっても二流のもののように考えられていたことは、同氏の『鴎外文学』中の詩歌論を読めばわかる通りである。
『うた日記』に関しては他に学者の精細な論があるかもしれないと思うが、今のところ管見に入らない。いずれにしても、『うた日記』に関する重要な著作として佐藤春夫のそれをあげることは間違ったことではあるまい。
しかるにここに、どういうわけか佐藤氏の『陣中の竪琴』ではまるで顧みられていない興味ある鴎外詩歌の一群が『うた日記』にはあって、少なくとも私には、きわめて意味深い作品群と考えられるのである。その一群とは? 幸いにそれらは、ひとつの章にまとめられている。「夢がたり」の章である。
『うた日記』はもともと五つの章に大別され、集中の大部分は、まさに日記体をとって克明に記されている。
「うた日記」の章で占められる。佐藤氏が主として諭じたのもこの章であった。次いで、レーナウ、プラーテン、メーリケ、リリエソクローンその他ドイツ詩人の戦争詩の訳を集めた「隕石(ほしいし)」の章が来、続いて「夢がたり」「あふさきるさ」「無名草(ななしぐさ)」の各章が来る。いずれも、冒頭の「うた目記」の章にくらべれば著しく短い。そして、「うた日記」の諸作が具体的に制作年月日および制作地の記入をともない、明確に機会詩的性格をもった陣中の身辺即事詩であるのに対し、「夢がたり」の諸作は、日付をもたず、かつ身辺即事的な性格を持ちながらも、そこには濃密内面的秘密の影がさし、しばしばデモーニッシュな狂気の泡立ちさえ感じさせることがあり(その点で、かの有名な「我百首」や、「舞扇」「潮の音」などの短歌作品に若干共通するところがあり)、後に鴎外が『沙羅の木』(大正四年)所収の、市井日常の事象に取材した平淡な口調の写生風の詩で新生面を開いたのとは対照的に、詩人鴎外の最もわかりにくい部分を、多分に含有しているのである。
このわかりにくさ、これがはなはだ魅力的だ。わかりにくさというものは、しばしば詩の重大な能力の源泉になるものであるが、鴎外の揚合、人一倍そういう感じがある。そこには、何か一筋縄ではゆかぬもの、ある端倪(たんげい)すべからざるもの、ある種の怪奇趣味と緊密に結びついた、暗い飢渇か感じさせる憧れ心のゆらめきがある。そのゆらめきは、時には鬼火のように不気味に燃える炎の舌にさえなる。悟性の人森鴎外の秘められた一面がそこにうかがわれる。
そこには、彼の小説や評論の中では出介うことのできないある種の内的な渇望の、詩的形象にあやうく包まれて
いるが内実は妖気たちのぼるような表現さえ見出せそうに思われる。
しれじれし夢みるひとのゆめがたり中に悲劇のいとどふさはぬ
「夢がたり」の章はこの序歌ではじまる。鴎外の『うた日記』の各章は、すべて同種の序歌によって始まっていて、中でも冒頭「うた日記」の章の、
こちたくな判者とがめそ日記のうたみながらよくばわれ歌の聖
は、それに続く「自題」という詩とともに、よく知られているといってよい。ついでに言えば、「自題」は『うた目記』全篇をみずから人々に紹介し、あわせて自分の抱懐する詩観を披露した詩で、近代詩集に数多い序詩、序歌のたぐいのうちの秀逸のひとつであろう。
さて、この「しれじれし」の歌、一見何の問題もないようにみえる。だが、私にはどうも気にかかる歌である。やや誇張していえば、「序歌からしてすでに妖しげな……」というほどのものである。なぜか?
歌をもう一度読んで頂きたい。
「愚かなことよ、夢みる男の夢語りなどというものは。まるで悲劇など似つかわしくないじゃないか」
というほどの意であろうが、何といっても奇妙なのは、「しれじれし(痴れ痴れし)」の初句で一旦切れ、「夢みるひとのゆめがたり」と二、三句がこれを受けたあとに、なぜ唐突に、悲劇などは似つかわしくないよ、という自嘲的ともとれる述懐が続いているのか、それがよくわからないという点である。悲劇などはまるでふさわしくない、という言い交わしは、上三句とは必ずしも自然につながらない。鴎外はこの下二句を付けるとき、かなり意識的に「悲劇」という語をここに持ち出している。つまり悲劇などはまるでふさわしくない、という述懐の、真意は、むしろアイロニカルに裏側にかくされているのではないか、というのが私の感じる疑問なのである。鴎外はこの言葉とは裏腹に、内密な「悲劇」の存在をこのとき自らの内部に自覚していたのではなかろうか。そういうことをふと考えさせるような皮肉なものがこの歌には感じられる。鴎外はその「悲劇」の自覚を率直に表現することに対して自らブレーキをかけ、むしろそれに愚かしい夢物語という外貌を与えて、全体をアイロニカルな微笑の中に包みこんでしまったのではなかろうか……鴎外は「夢がたり」という形で、ある内的な秘めごとをおぼろめかして表白し、しかもそれを「痴れごと」としてアイロニカルに否定してみせているのではなかろうか……
このような見方は、限外を評うるも甚だしいとされるかもしれない。だが、作者というものは、ときどき一見荒唐無稽な夢物語の形で、最も大切に保ちつづけてきた秘密をもらすこともあるのだ。
少なくとも、『うた日記』を通読してみれば誰の眼にも明らかな事実は、「石田治作」や「乃木将軍」のような作品によって代表される、従軍叙事詩人的な鴎外、すなわち具体的、客観的で冷静沈着な歌いぶりにおいて近代詩の作老中屈指の人たった鴎外と並んで、内面に混沌たる暗部をもち、そこから噴きあげる曖昧なものを、象徴的な歌いぶりによって包みこみつつ、主観的な「夢がたり」の造形に熱中しているもう一人の鴎外がいるということである。
大体「夢」に関心をもつということ自体が、すでにそういう心的傾向のひとつのあらわれであって、鴎外の「夢がたり」詩篇は、のちの「我百首」などとともに、近代詩の中での、数少いその種の意識的試みの一つとして読むことができるのある。
わが夢の 嚝野には
汝いかで いでて見ん
阿古屋貝 蔵せる珠
汝が夢の 楽園に
ともすれば われゆかん
清冷の 淵なる魚
やさしき汝が 夢のかぎり
われ問わずしてしる
草を縫ふ 谷間の清水
樋にこもる 小琴のさや音
忌ゝしきわが 夢のきはみ
汝は問はずもあれ
鳥落つる 高根鳴沢
檝絶ゆる 荒海渦潮
「夢がたり」の章の殼初におかれた作品である。ついでにしるしておけば、「夢がたり」の章はこのあと、
「蟋蟀(きりぎりす)」(詩)、「風と水と」(同)、短歌十三首、「わが墓」(詩)、「花園」(同)、短歌十九首、「笑(えみ)」(詩)、短歌十一首という構成になっていて、全体としても大して長い章ではない。
さて、この「夢」という作品、大凡のところ、次のような意味のものであろうか。
〈私の夢はさながら嚝野である。そんなところへ、どうしてあなたが出てくることがあるだろうか。
あなたの夢の楽園は、まさにあこや貝がかくしている真珠だ
(この部分の解にはやや不安をおぼえるが今はしばらくそのままとする)。
その楽園に、ともすれば私は泳ぎ寄ってゆく、清冷の淵に住む魚のように。
やさしいあなたのみる夢の一切、それを私は、あなたに問わずとも知っている。
それは草を縫う谷間の清水、樋にこもる小琴さながらの清らかな水の音なのだ。
それに反して、私の夢の何と忌々しいことだろう。
あなたはそんなものについてあえて問う必要もないのだ。
私の夢は、鳥もそこまで飛べば墜ちてしまうような高嶺であり、鳴る沢である。
また舟ならば、楫も絶えるほどの荒海であり、渦潮なのだ。〉
鴎外がここで「汝」と呼びかけている優しい夢の女性は、だれなのだろう。常識はこの女性をただちに、東京に残してきたしげ子夫人だとするだろう。この美貌をもって知られる二人目の妻と鴎外は、明治三十四年十二月に結婚し、鴎外出征の一年ほど前に、長女茉利(まつり)が生れたばかりであった。結婚当時、鴎外は数え歳で四十一歳(ただし実際には三十九歳だったという)、しげ子は二十三歳、そして先妻登志子との間に生れた長男の於菟はすでに十二歳になっていた。鴎外の小倉時代後半は、人形のようなしげ子夫人との幸福な蜜月時代であったようだが、帰京後の鴎外は、彼を奪い合う母堂峰子と妻しげ子との確執の間にたって苦悩しなければならなかった。そして彼の出征後、夫人は茉莉を連れて芝同舟町の実家の近くにある、実家の持家に別居するにいたる。
これらの事情は、森於菟氏の「鴎外の母」や「院外と女性」(いずれも『森鴎外』所収)その他に語られて、すでに広く知られているところだ。