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粗銅の晩年 身近で世話をした 子光 素堂句集 序文(漢文)子光

2024年08月14日 14時18分33秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

素堂句集 序文(漢文)子光

夫レ人ニ生有レバ必ズ殂落スル也。

唯ダ言語有リテ文辞ヲ紙上ニ載ストイヘドモ千歳ハ久シ難シ。

猶其人ノ面ニ接スルニ奥有ル也。

粤有隠逸山口素堂信章ハ、

盧ヲ江城ノ東北浅草川(隅田川)両国橋ノ傍ラ、

下総ノ国葛飾ノ郡ノ内ニ結ビ、歳月ヲ経テ久シ。 

良性(生まれながら)野(朴質う志シ多ク、

固トョリ貨財(金銭)ヲ以ッテ世事ヲ経ズ、

心偏ラズ雪月花ノ風流ヲ弄ブ。弱冠自リ四方(諸方各地)ニ遊ビ、

名山勝水或イハ絶レタル神社、或イハ古跡ノ仏閣ト歴覧セザルハ無シ。

亦タ数適ノ師ナリ。

詩歌ヲ好ミ猿楽ヲ嗜ム、和文俳句及ビ茶道ニ長ズル也。

其ノ作「蓑虫記」ハ風俗文選ニ載セ、俳句ヲ載す。

于(ココ)俳諧糸屑シテ行ク世ナリ。

天質疏通(天性さわりなくとおり)強(彊)記(物覚えが良く)往ク所ノ詩歌和文等ハ、

咸(スベテ)胸中ニ於テ之レヲ暗誦シ、

人卜紙硯ヲソナヘテ之ヲ請ヘバ則書シテ其ノ筆書ヲ与ウ也。

左ノ如キ草稿ハ貴顕之レヲ召シ、好事ノ者ハ最モ鐘愛ス。

従ツテ他ノ人ノ寓ニ招カレテトヾマルコト或ハ三日四日、或ハ十日、

然ルニ阿邑(思いへつらい分け隔てる)ノ意モ無ク、

与人ニ非ズ対話シ、則ク黙シテハ泥塑ノ如シ、

人ニ其ノ説ク話シハ固ヨリ多言ニアラズ也。

其ノ庵中ニ所蔵スル書ハ数巻、

及ビ茶器ニ爨炊(煮炊き)ノ鍋釜、面シテ又タ己レニハー力肋有リ、薪水ノ労ナリ。

予、幸イ親灸シテ既ニ十有余年を得ル。

其ノ和文詩歌発句等数十帋(紙)ヲ悉ク匣(箱)底ニ蔵ス、

然ルニ其レハ蟲害ヲ患ラフ、旦ニ好欲ノ者使スル(費ヤス)頗(偏)ヨツタ蒐輯ハ冤ニシテ、

以テ写シ別ニ楮(こうぞ・紙)ヲ積ミテ一帙(一冊)ト成スナリ。

恨ムラクハ其ノ他ノ文詞ハ人ノ手ニ在リテ得ズ。

矚省ニ亦タ多クノ許シヲ焉(エン)嗟嘆此ノ人コレ謂ユル善キ隠逸者ナルベシ、

享年七十有余ニシテ病ヲ嬰ジ、享保元丙申歳八月十五夜遂ニ世ヲ謝スナリ。

武江城ノ北東隅ノ谷中感応寺中随音院内に於テ埋葬ス。

為ニ号シテ広山院秋厳素堂居士ト為ス。

享保六年辛巳年辛巳氷荘中旬(八月中旬) 子光詩

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芭蕉の人間的討究(2) 斎藤清衛 著

2024年08月12日 19時51分42秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉の人間的討究(2) 斎藤清衛 著

 その頃は談林の全盛時代で、芭蕉も桃青の号を用いて宗因一派の俳席にも出た。

延宝時代(三十歳~三十七歳)の発句は八十句足らず残されているが、大凡談林調になっている。

   見るに我も折れるばかりぞ女郎花  (績建珠)

   猫のつま広の崩れよと巡ひけり   (六百番歌合)

   あウ何と屯なやきのふは過ぎて河豚汁(江戸三吟) 河豚汁=ふぐとじる

貞門の得意とした語戯れを離れて、内容上の奇抜な可笑し味を求めたのである。

芭蕉はこゝで俳諧本来の特質である通俗性を十分に拡充し、時代の俳人として立場をはっきり打ち出したのである。然し彼は談林の安易な通俗性に満足したわけではなかった。その中には手法は談林的であっても、しみ/\゛とした寂寥の漂っているものが見られる。老荘の寓言めいた句も少しずつ現れているし、後世の芭蕉を思わせるような閑寂味の句も僅かではあるが試みられている。

例えば「東日記」を見ると、

   愚にくらく棘(いばら)をつかむ螢かな

枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮

夜密かに竊(ひそ)かに虫は月下の栗を穿つ

     富家喰肌肉丈夫喫ス菜根予乏し

雪の朝ひとり干鮭(からざけ)を噛み得たり

 

延宝時代に、芭蕉は、

「十八番発句合」(延宝六年跋)

「田舎の句合」 (延宝八年板)

「常盤屋の句合」(延宝八年板)

などの判詞を書いている。それを見ると、「貝おほひ」の場合とは違って、中古風の雅文を用い、老荘、列子、山海経などが引用されている。その頃芭蕉は蘇東坡・杜子美・黄山谷の詩集を愛読していたようで、このように漢籍に興味をもったことが、談林風から離れる一つの切掛けなったのである。幽玄といふ事が重んぜられたようであるが、その幽玄というのは、一見意味が不明で、謎のような

思想を掊屈な言い回しで表現するのが、幽玄体と考えられたのである。

「常盤屋の句合」の芭蕉の跋文を見ると、

「句々たをやかに作新しく、見るに幽なり、思ふに玄也。是を今の風体といはんか」

と賞めているが、彼が勝句としてあげた句は

「茶僧月を見るに梅干の影のごとくに來り」

「だいくを蜜柑と金柑と笑て曰」

というような、寓言めいた謎のような句が多い。こういう幽玄体の句は天和時代に入っても盛んであったのである。

 

三 芭蕉が芭蕉らしくなったのは、

 

芭蕉庵に入庵してからである。入庵当時の俳諧には、尚延宝時代の名残があった。

「俳諧次韻」(天和元年 1681)から芭煎の句を引き出して見ると、

「白キ親仁紅葉村に送婿ヲ」

「禅小僧豆腐に月の詩刻む」

というような漢語調の謎のような句が少くない。

天和時代(三十八歳~四十歳)は芭蕉の寓言時代である。

老荘や禅の思想を殊更ら尊重するといふ風があった。談林調には満足できないで、新風を開こうとするともがきが明かに看取される。藷術上の苦悶時代であった。

 天和二年(1682)三月に「武蔵曲 むさしぶり」が出、翌年五月には、[虚栗 みなしぐり]が出たが、この二書は「次韻」とともに、延宝の談林から、貞享以後の蕉風に移る過渡期を代表する作品であった。新風を開こうとする芭蕉一派の歩みが、漸く顕著著になってきたのである。「武蔵曲」

屯「虚栗」も大体同じ調子で、表現は掊屈でぎこちなく、何か寓意めいた内容をもっている。談林の滑稽の行き詰りを感じた人々が、新たな歌意を出そうとする苦悶の現れとも見られ、悲鳴のように聞える。然しこういう苦悶は蕉風をきり開く上によい結果を資した。穏健平板な調子で始まると、安易に流れ卑俗になり易い。桔屈難渋な表現も、蕉風を大成する上には、当然踏まねばならぬ径路であった。然し乱雑といっても、談林の場合とは大分趣を異にしている。わざと異様な表現をして人を驚かそうというのではない。内にあるものをいかに表現すべきかといふ苦悶の現れであった。そしてぎこちない表現の中にも、穏健平明な句が既に現れているのである。

 

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな  (武蔵曲) 盥=たらい

   櫓の卑波をうつて腸氷る夜やなみだ (同)

   朝顔に我は飯食ふ男かな      (虚栗)

   髭風を吠いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ (同)

   世にふるもさらに宗祗のやどりかな (同)

 

四 天和二年~

 

 天和二年(1682)冬芭蕉庵が火災に遇ってから、一方では無住所の心をおこし、他方では西行や宗祗の先蹤を踏もうという気持が起きていた。

そして貞享元年(1684)秋八月には、門千里とともに関西旅行に出た。その紀行文が「甲子吟行」(野ざらし紀行)であって、その出発に際して、芭蕉はこのような句を詠んだ。

   野ざらしを心に風のしむ身裁(甲子吟行)

彼は悲壮な思いをいだいて旅に出た。この旅の間に、どうしても貞門・談林から離れ、俳諧の新風を樹立しなければならぬ、死を賭しても俳諧の実体をつかまなければならないという強い覚悟があった。その決意が旅の門出にあたって、このような悲壮な句を産みみ出したのである。

 甲子吟行の句にも、

「みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」

  「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

のやうな、字余りのぎこちない調子がまだ残っている。然し次の句などには既に完成された蕉風の姿が見られる。

   蔦植ゑて竹四五本のあらしかな

   秋風や薮も畑も不破の關

   海暮れて鴨の聲ほのかに白し

  春なれや名もなき山の朝霞

   山路来て何やらゆかしすみれ草

 

悲壮の決意を以て門出をした旅の成果は、こゝに十分に現れたのである。これ等の句は貞門や談林でもなく、漢語調や漢詩趣味のものでも恚ない。

目に触れ心に感じた情景を、そのまゝ素直に表現しているのである。

 「甲子吟行」の句も、貞享元年と貞享二年では大分違っている。

元年の句には桔屈な険しい感じがあるが、二年になると大分句境が落着いている。旅が芭蕉を大きく育てたのである。一方では若い頃出奔した故郷を訪れて、心に潤いを與えられたということもあろう。それよりも最も大きな理由は、尾張の俳人達と[冬の日]の歌仙五巻を巻いて、俳諧の道に新しい希望を見出したという安心があったためではないか。

 「冬の日」は七部集の第一に数えられる書である。貞享元年冬の作であるために、趣向が勝っていて、しみ/\゛とした閑寂味に乏しいうらみはある。表現は力強く、派手ではあるが、その境地は庇に蕉風のものになっている。「甲子吟行」と「冬の日」によって、蕉風は先づ確立したと見てよいのである。

 貞享三年には、やはり尾張蕉門の手によって「春の日」(貞享三年八月刊)が刊行された。その中に、

  古池や蛙飛びこむ水の音

の句が収められている。この句は「古池や蛙飛だる水の音」の形で、すでに「庵櫻」にはいっていて、恐らくこれが初案である。

 「飛だる」には天和の響きがある。句調にはずみがあり、興に乗って表現しようとする態度が見られる。「飛びこむ」と改めたことによって、そこに著しい句境の進化が示されたのである。勿論其角の進言のように、[古池や]を「山吹や」に替えては、ただ傍観的な句になってしまう。この句は単なる寫生の句ではなく、叙景の句でもない。古池にひろがる閑寂の餘響を、しみ/\゛と味わおうとした句である。古池は心の田地ともいえるだろう。明鏡止水の心裡に灯された刹那の音に、永遠の閑寂の姿を追ひ求めた句である。

 兎も角「春の日」になると、詩句も屯連句も談林調から抜け出ている。「冬の日」にはぎごちない調子があり、感情も強く張り出ているが、それに比べると、「春の日」はいかにもおだやかで、のび/\としている。なお貞享三年(1686)には「初懐紙」が出ている。貞享四年八月には鹿島に旅行して、「鹿島紀行」の作を残した。

 

五  貞享四年十月(四十四歳)、芭蕉は「笈の小文」の旅に。

 

その門出にかういふ句をよんでいる。

旅人と我が名呼ばれん初時雨

この句と「野ざらし紀行」の門出の句

野ざらしを心に風のしむ身かな

と比べて見ると、心境が大分違っている。自己を客観視して、それを喜ぶ風情が見られる。旅に勇み立つ浮かれた気持が見られる。野ざらしの旅に出る時には、まだ確乎不動の信念ができていなかった。かすかな曙光は見えていたが、しっかりと體得されたものではなかった。今度の旅では、彼は既に風雅道に十分の信念を持っていた。野ざらしの旅に於ける自然との接触や、草庵の閑寂な生活を通して、自分の姿すら客親し得るようなゆとりができていたのである。

 

 「百骸九竅の中に物有り、かりに名付けて風羅坊といふ」といふ文章ではじまるこの紀行の冒頭の一節は、芭蕉の俳諧に対する根本観念を力強く表現したものである。風雅道を確立するまでの様々の心の苦悩を述べ、次に和歌・連歌・繪畫・茶道を貫く精神が同一であることを力説し、更に風雅に於ては、息意私情を去り、夷狄鳥獣の心を克服して、造化に随い造化に帰るべきことを説いたのである。そういう心境から眺めると、どういう卑俗卑近なものからも、芸術美は感得されるといふのである。「笈の小文」には、そういう髄順の心境を述べた句が多く見られる。

 

寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

春立ちてまだ九日の野山かな

草臥れて宿かる頃や酋の花

ほろほろと山吹散るか滝の音

 

芭蕉は実践の人であって、理論家ではなかった。あくまで実践によって俳諧の神髄をつかみ取ろうとした。風雅感を徹底させるためには、更に大きな旅の計画をしなければならなかった。その頃は既に芭蕉の俳壇に於ける地位は固まっていた。然し彼は世間的な聲望に満足する気にはなれなかった。安易な道をさけて、険難な道を選ぼうとするのも、藝術に生きる者に取っては宿命的な悲劇であった。  このようにして芭蕉は元禄二年(1689)三月、江戸を出発して、「奥の細道」の旅に上った。同年九月のはじめ大垣に入るまで、日數百五十日、旅程六百里に及ぶ大旅行が、芭蕉の藝術を深め育てる上に大きな役割を果たしたことはいうまでもない。

「閑さや岩にしみ入る蝉の腸」

「荒海や佐渡によこたふ天の川」

などの敷々の秀吟を残したのである。

 元禄三年(1690)の春は琵琶湖のほとりで迎へ、四月には石山の奥なる幻住庵に入り、こゝで「幻住庵の記」を草した。元禄四年の四月には去来の別墅落柿舎に入り、「嵯峨日記」を書いた。その頃去来・凡兆の手によって、「猿蓑」撰集の計画が勧められた。「猿蓑」は蕉風俳諧の円熟期を代表する撰集である。芭蕉俳諧の根本理念ともいうべき、さび・しをり・細みが、その完成された姿で示されているのである。発句

病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」

から鮭名空也の痩も寒の中」

などの佳吟が多く収められている。

 元禄四年十一月の朔日に、「奥の細道」の旅に出てから三年ぶりで江戸に戻った。

   ともかくもならでや雪の枯尾花 (北の山)

 

長い旅を終わって江戸に辿り着いた感懐を雪中の枯尾花に託した句である。

元禄五年五月には新庵が成って、そこへ移つたが、その生活にも様々な煩はしいことがあった。そこで彼はその年の秋(元禄五年説と六年説とがある。)「閉關の辞」を雪いて、外部との交渉を絶とうとした。その頃芭蕉庵の内部には複雑な事情があった。壽貞・桃印・まさ・おふうなどがその庵に同居して居たようである。それに俳諧の方面で名、いろ/\芭蕉を悩ます問題がおこっていた。「わび」「さび」の話術は必ずしも名門人どもに深く理解されてはいなかった。その晩年の文章や発句から、俳諧に失望したかのような口吻さへ感ぜられるのである。芭蕉の閉關には、このような複雑な心境が動いていたのである。

 然し結局、芭蕉は完全に門戸を閉じることはできなかった。門人の出入が絶えず、その間に「深川集」が成り、「炭俵」撰集の計画が進められた。芭蕉晩年の「軽み」は、この「深川集」や「炭俵」、「別座敷」(元禄七年板)や「続猿蓑」(元禄十一年板)によって窺われる。これ等の集には、淡白な客観趣味を喜ぶ傾向が現れて居り、意味もわかり易く、附方名平易になっている。

変化や緩急に乏しく、一體に調子が低い。これは元禄五年六年の内省生活から生れたもので、芭蕉としては極自然な歩みであった。「閉關の辞」を書いて門を閉じても、世俗から遁れることはできない。それで俗中におって俗を去るべき一段の工夫が必要と

された。そういう反省から生れたのが軽みの俳諧であるといえるであろう。

 芭蕉は、今度は珍らしく三年近く江戸にとどまっていたけれども、無所住無所着の決意がにぶったわけではなかった。宗祗や西行の系譜に従って、旅に生き旅に死のうという願いは衰えなかった。風雅道のためには現実的な、ほだしもたち切らなければならないと思っていた。

そして元禄七年夏には西国行脚を思い立ち、今度は遠く筑紫の果までも見極めようとしたのである。

 人々は品川まで見送って別離を惜しんだが芭蕉も、もう五十一歳で、ふだん頑健でもない身体は既に衰えを見せていた。再び生きて江戸に戻ろうとは思っていなかった。人々から句を乞われるまゝに、

   麦の穂を力にたのむ別れかな (陸奥衛)

といふ別離の句をよんだ。再會計り難い旅である。芭蕉の胸にも流石に別離の情がこみあげて来て、姿の程をたよりにつかむばかりであった。

 尾張を経て五月の末には故郷の伊賀に着いた。暫くそこに滞留して、それから京都・湖南に遊び、去来・丈草・木節・惟然・支考などと風交を重ねた。

その頃芭蕉庵に病を養っていた壽貞の訃報に接し、

数ならぬ身とか思ひそ魂祭 (有磯海)

という句をよんだ。七月には再び伊賀に帰り、兄半左衛門が彼のために新築した無名庵に二ケ月ほど滞在した。九月のはじめに伊賀を立って奈良に向い、九日のタ方大阪の西堂の家に着いた。大阪でもあちこちの俳席に招かれたりしたが、気分がすぐれなかった。

九月二十九日の夜から泄痢にかゝり、病勢は日増しに進んでいった。

十月五日には花屋仁右衛門の裏の貸座敷に病床を移したが、

十日の暮から病状は悪化して、十二日の申の刻に永遠の眠りりについたのである。

  秋近き心の寄るや四疊半   (鳥の逍)

  菊の香や奈良には古き俤たち (笈日記)

  此の這や行く人なしに秋の暮 (同)

  此の秋は何で年よる雲に鳥  (同)

  秋深き隣は何をする人ぞ   (同)

  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(同)

 

これ等の句には芭蕉終焉の年の心境がしみ/\゛と託せられている。殊に「旅に病んで」の句は、風雅に痩せ、旅に痩せた芭蕉の最後の吟として、深い感慨を覚えさせるのである。

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芭蕉『貝おほひ』寛文十二年正月廿五日 伊賀上野松尾氏 宗房 釣月軒にしてみづから序す   松尾氏宗房撰

2024年08月12日 10時29分03秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉 『貝おほひ』 寛文一二年 

小六ついたる竹の杖ふしぶし多き小歌にすがり、
あるははやり言葉のひとくせあるを種として、
いひ捨られし句どもをあつめ、右と左にわかちて、
つれふしにうたはしめ、其のかたはらにみづからは、
みぢかき筆の辛気ばらしに、清濁高下を記して、
三十番の登発句を思ひ太刀、
折紙の式作法もあるべけれど、
我まゝ気まゝに書ちらしたれば、
世に披露せんとにはあらず。
名を『貝おほひ』といふめるは。
合せて勝負を見るものなれは也。
又神楽の発句を巻軸に置ぬるは、
歌にやはらぐ神心といへば、
小うたにも予が心ざす所の誠を
てらし見給ふらん事をあふぎて、
當所あまみつおほん神の
みやしろのたむけぐさとなしぬ

寛文十二年正月廿五日
伊賀上野松尾氏 宗房
釣月軒にしてみづから序す
  松尾氏宗房撰

一 番
左  勝
にほひある色や伽羅ぶしうたひ初   三木

春の歌やふとく出申すうたひぞめ   義正

 左の句は匂ひも高き伽羅ぶしの、
うどんけよりもめづらかに覚侍る。
右も又春の歌はふとく大きにと云ふより
まことに大昔のほどもしられ侍れども、
一聲二ふしともいへば猶、
匂ひある聲に心ときめき侍りて、仍左を爲勝

二 番
左  勝
紅梅のつぼみやあかいこんぶくろ   此男子

見分に梅をたのむや児ざくら     蛇足

 左の赤いこんぶくろは、
大阪にはやる丸の菅笠と、
うたふ小歌なればなるべし。
右梅を兄分にたのむ児桜は、
尤たのもしき気ざしにて侍れども、
打まかせては梅の発句と聞えず、
児桜発句と聞こえ侍るは、
今こそあれ、われも昔は衆道ずきのひが耳にや。
とかく左のこん袋は、
趣向もよき分別袋と見えたれば、
右の衆道のうはき沙汰は、
先思ひとまりて左を以為勝

三 番
左 なく聲やけに伽羅のはし匂ひ鳥    露節
右  勝
 薮にすむうぐひすのうたやお竹ぶし   哉也

 左、伽羅の橋をかきょいのとあるを、
匂ひ鳥のはしに取なされたるは、
げによくさへづられたる口ばしなれども、
右のおたけぶし藪にすむといふより、
言葉の茂りも深く、いくふしも籠りて、
是も百姓の納米のくだけたる所もなく、
上々蟲いらずとかや申侍らん

四 番
左 さかる猫は気の毒たんとまたゝびや  信乗母
右  勝   
  妻戀のおもひや猫のらうさいけ    和正

 猫にまたゝびを取つけられたる左の句、
法珍らしきふしを見出られたるは、
言葉の花がつをともいふべけれども、
きのどくと云言葉、
さのみいらぬ事なれば少し難、
これ有てきのどくに侍る
 右、また猫のらうさいと云小歌を、
つま戀に取合されたるは、
よい作にやきんにやうにや。
かの柏木のいにしへねうねうとなきし、
わすれがたみ叉源氏の宮を、
木丁のすき垣に見しも、
いづれも猫の引綱の思ひ捨がたけれど、
右の句さしたる難もなければ為勝

五 番
左 持
牛馬の糞ふみわけて雪間かな     貞好

消残る雪間や諸足ふんこんだ     一友

左の句、雪間をふみわけしつめたさは、
うきうきどつこい、
うき世に住めばうさこそまされと、
うたふはしかあるべし。
太山(みやま)かけ道へ引き出されたる
牛馬の糞のふんこつげに珍重に覚え侍る。
 
右の句、雪にもろあしまでふみ込んだるは、
草履のうらもたまゐまじく、
足もとしらすの鹿相ものと見え侍れども、
一足とんだら作意もをかしく、
また雪に立しためしもなきにあらねば、
持とさだめぬ。

六 番
左 勝
  きやん伽羅の香ににほへかし犬桜   正之
右                                                                                                  
  見にゆかんとつと山家のやまざくら  意見

 左の句、伽羅の香に句へとは、
一句もやさしく、
手ざはりもむくむくと
むく犬の尾もしろき作意なるに、
右の句さのみ言葉のたくみも見えず、
とつと山家のいよ古狸とうたふ小歌なれば、
秀逸物の犬楼に狸は喰ひふせられ侍らん

七 番
左 持
たぐりよせんから糸ならばいと桜   簾尼
右       
  春風になれそなられそ江戸楼     信乗母
 
唐糸の句は、
長太郎ぶしと聞えよくいひかなへられて、
此世のものとも覚えぬは。
から糸なればなるべし
 右、またこむろぶしの江戸衆になれそといふを、
春風になれそと作り立られしは、
花を惜む心ふかくいづれも捨がたく特に定侍りき

八 番
左  勝
うたへるや晩鐘寺ぶしの暮の花    鋤道

 種ならばまかせておけろ花ばたけ   指盞子

左は山寺の春の夕暮も思ひ出られ、
晩鐘寺の花の作意げにおよびなき所なり。
 右の句、花の種をまかせが定なら、
といてロ説てかたりて聞せ侍らん種を、
まかるゝと優に聞ゆれど、
浮世五十年一寸もまだのびぬ、
花の枝咲きまでの間遠なれば、
先づ目の前の晩鐘寺の、
けふの花見こそたふとけれ仍左を爲勝

九 番
左 勝
鎌できる音やちよいちょい花の技   露節
 右
きても見よ甚べが羽折花ごろも    宗房(芭蕉)

 左、花の枝ちょいちょいとほめたる作意は、
誠に誹諧の親々ともいはまほしきに、
右の甚兵衛が羽折はきて見て、
我おりやと云心なれど、
一句の仕立もわろく染出す
こと葉の色もよろしからず
みゆるは愚意の手づゝとも申べし。
其上左の鎌のはがねも堅さうなれば、
甚べがあたまもあぶなくてまけに定侍りき

十 番
左 持
啼さわげにほんつゝみの無常鳥    政定

ゆかしきや山の尾常はなきやらもの  和久

 左は、
日本堤の無常の畑も立のびたる句の姿は、
子規のとりなりもよく見え侍るに
 右の句は、
窓なきさうなおつねの顔も、
ずんといやな気なれども、
左にひつびけうんのめと、
うたふ小歌なれば、
お常のしやくも捨がたくて、
 いづれのかちまけをも
えさだめ侍らぬはこゝろき判者なめり。

十一番
左 勝
  郭公谷から峯からこんゑをせい    吉之

鶯の玉子じやとおしやるかほとゝぎす 一意 
 
左は木鑓の音頭と聞えて、
くどく言葉の中のつな扨も
見事によう揃うた。
右の句、鶯のかひこの中の郭公と
云心をふくみ脈のふしをあらせて、
賢者に見すれば玉子じゃとおしゃるといふ
小歌をかり加へられ侍る。
伊勢のおたまが事に出れば、
玉の句といはんに、
難なかるべけれど、
左の谷から峯から
こゝはちつくりこざかしくいひ出されし
大持に心はひかれ侍り

十二番
左 勝
小六方の木さしや菖蒲かたなの身   義子
右 菖蒲刀中や檜の木のあらけづり    雫軒

 これさ爰許へ小六方と
ほざけだいたるで
つちはうるしいこんではあるでぱあるぞ
 右の刀は源五兵衛をとこの長脇差のさやは
三文下緒は二文しめて
五文の銭うしなひのやすものと見え侍る。
右の六方はいかさまロ舌を
菖蒲刀のよきものにて侍れば、
檜の木のあら削り太刀打にも及べからず
                                     
十三番
左 
蚊やり火にわれも木管が娘かな    辿窓
右 勝
  ふすべられたはん半夜の蚊遣かな   義正

左の句、木売りがむすめとは、ふすべられたまと云を、
残したるてにをは一句の立ちすがたも
しほらしく山家のものとも見えねど
 
宍右の句、たはんはと云ふもを言葉にことわられたるは、
かやの木どくに思ひよられたり。
其上木売りむすめにふすべられて、
われもむかひ火つくらんもむづかしけければ、
ただ右の半夜のけぶり立まさり侍らんかし
   
十四番

左 持
かゞぱやな小舞あふぎの織との絵

扉もや折ふし風が吹て来た

 左はかの孫三郎が織手をこめし織ぎぬの
いとしほらしき舞振也

右の句析節かぜが吹てきたと云小歌、
扇にいひ叶へられたれば、
あなたの方へはからころびやう、
こなたの方へはからころびよつと、
勝まけを定めか一ねしは
摸陵の手をはなさぬ扇のかなめも、
 むくの葉、木賊のみがき骨とも云べければ
扇角力のかちまけなく特に物さだめし侍る

十五番

左 持
すだれごしの月やいよ此おもしろい  貞好
  右
  半夜させやあ此宵の月のかけ     指盞子

 左は、いよこのとうたふを伊豫にとりなされたるは、
すだれのあみ目をおどろかし。
何よりもつておもしろい
 
右もまた、ゐやひ踊の拍子と見えて、
やあ此さいた太刀をぬきんでたる作意は、
さやロのきいたる所侍るまゝよき
持と定めまいらせたり

十六番

左  勝
  月の舟や今宵はどこがお泊じや    信乗母

月の雲よひよひなんど出つ入つ    三竿

 右の句、はりまの國の書寫むしや
寺がおとまりになれば御法のふねにうたがひなく、
月の光をはなつこと光明遍照十方世界
のまん中とは此発句をや申べき
 
 右もまたよいよいなんどと、
踊るうちこそ佛なれとうたふ故にや、
句作り殊勝に侍りて、有がたき作意なれど、
地ごく踊の小歌なれば、
精霊のおばゞを祭る盆の折からかりにも
鬼の沙汰を嫌ひて、憎さけなるつらつき抹香くさく
織面つくり批判して以左為勝

十七番

左 
ちよいと乗りたがるやたれも駒哨むかへ 吉之
右 勝
むかふ駒の足をはぬるやひんこひん   雫軒

 左、伊勢のお玉は、あふみかくらかといへる小歌なれば、
たれも乗りたがるはことわりなるべし
 右。ひんこひんとはね廻るは、
まことにあら馬と見え侍れども、
人くらひ馬にもあひロとかやにて、
右の馬に思ひ付侍る。
左の誰も乗りたがる馬は
ちとかんよわのうち気ものとしられ侍れば
 ふみ馬御免のあしもとをば早く引てのがれ候へかし

十八番                    

左 勝    
  ほの上も大たばに出よ稲の束     適意

  かぶけるは稲のほのじそ京女蕩    城吹
   
左の句、大束と云を稲の束にゆひまはされし事、
かなたこなたをかり集めて、鎌のえならぬ
 句作りにはわらの出べきやうもなし
  
又右の京女郎、にほのじはたれもすきくはの、
かねがね望む事なれど稲のとのを持たれば
我妻ならぬつまなりと先づ此戀はさしおくて、
田のひつぢばえは其の儘にて左を勝とさだめ田

十九番

左 持
  鼻息もむせてくんのむ新酒かな    此男子

温のめとあたゝめかゆる新酒かな   哉也
 
左右の新酒味ひ、いづれかときいてみるに
鼻息もむせてくんのむ新酒はからロとみえて
誠にあまけの去りたる句作り也
 
右の句、温のめと云ことばを下にて
あたゝためかゆるとことわられし事
風味のよきはさらにて實あすをもしらぬ身なれば、
よき亭主ぶりもうれしくて、
いづれの勝負けをもえさだめ侍らぬは
判者もひとつなるロにや

二十番
  
左 勝
  鹿をしもうたはや小野が手鉄砲     政輝
 右
  女夫度や毛に毛が揃うて毛むづかし   宗房(芭蕉)
 
左の発句、小野と云より鹿とつゞけられ侍るは、
かの紫のしなものひかるお源の物語にも
小野に鹿のけしきを書つらね侍りしより、
尤よくとり合されたるなるべし、
其上おのがてつぱうと云を、
取なされたる鉄砲の寸のロかしこく打出されたる
玉の句とも云ふべければ、
火縄のひでんを打べきやうもなし
 
 右の女鹿委しく論をせんも、
けむづかもければ
あぶなき筒先あしばやに包のき侍りぬ

二十一番

左 
土佐男鹿の妻の名もいとし萩の花    鼻毛
右 勝
  みそ萩やほそけれど長いほんのもの   石ロ

左、萩を鹿の妻といへるを、
をかしくうたひなされ侍れば、
みそ萩のほそけれど長いと云處を
 能考へて心のおくをついて見るに、
ほそ長き故にや一句もすらりと立のびてなれ合たり。
左の発句には、
はるかにこえたやつさ大いかい物とや申さん

二十二番

左 勝
とりやけばゞが右の手なりの紅葉かな  三木

 もみちぬと来て見よがしの枝の露    蚊足
 
左の句、紅葉のきめうの作意也
 右の句、よくいひ叶へらね侍れども、
もみぢぬかしを好まるゝは、
異風なろ物数奇にて、色にふけらぬ人ならべし。
左の婆々が右の手の赤くなるは、
いかさま戀をすきものゝ言葉の品も
大むすこも雲泥萬里のたがひあれば、
かゝるめでたき折節を
来てみよがしの木刀ならば
一本かたげて、のがれ候へ 

二十三番

左 勝
  しつぽとやぬれかけ道者北時雨    餘淋

しぐる昔やさつさやりたし簑と笠   政當

 左のぬれかけ道者はぼつとりものゝしなものゝ、
袖にしぐれの通りものとや申さん
 右の句さつさやりれしなんしゆんさまとうたへば、
あつたものぢやないはさてと、
いいはまほしけれど、
とてもぬれよならなまなかしぐれはいやよ、
君がなみだの雨にしつぽと
ぬれかけ道者を例のかちとや定めむ

二十四番   

左 持                                     
洒の酢やすちりもちりの千鳥足

から臼の代のちんどり足をふめ

左の洒の酔いは、まことに一盃過たると見えて
足もとはよろくと弱く侍れども、
一句たしかにいひ立られて下戸ならぬこそ、
男はよけれともいへば、おもしろく侍るに、
右のちんどり足とほとほと踏み鳴らすから臼は、
天の原をふみとどろかす
神鳴の挟み箱もちの器量にもすぐれて、
骨ぐみつよく足の筋骨もたくましければ、
作者のちからも強さうにて、
いづれも千鳥のあしき所なければ、為持

二十五番

左 
しやうことかたまらぬものはみぞれかな 鼻毛
右 勝
みぞれ酒元来水ぢやとおぼしめせ

左の句、しやうことかたまらぬどいはれしは、
みぞれの古句ども見えず。
われも面白てたまらぬに、
右は元来水ぢやと云小歌をみぞれ酒に作られたるは
桶の底意深くいひ立てられ
樽のかがみともなるべき句なれば、
かん鍋のふた目とも見ずかちのかちとさだめぬ。
されど判者もひとつ過て耳熟し
目もちろちろりのみぞれ酒のみこみ違ひも有やせん。
かやうにはほむるともさのみに勿體付きすな  

二十六番

左 持
わろ言はかんからめける氷かな     勝言

そこでさせ氷のしたの月のかげ     城次

左の句、こがねのはしはかんからめくにと云
小歌を割つくどいつ云立られたれば、
氷のはり骨にて、自慢せらるゝもことわりなるべし
 右又、居合踊のそこでさせと云を
氷にとぢあはされたるはげによく思ひ
月影のひかつた句作とも申べけれぱ、
勝まけのわいだめをさだめんこと
おろかなろざえのおぼつかなく、
深き淵に臨むがごとくうすき氷をふんでとりて、
持ときはめ世の人のそしりを、
けふよりしてのちわれまぬかれんぬるかな

二十七番


越後布か松の葉はんの雪のいろ
右 持
降つもる雪やしら藤こふじ山

 雪の色を越後布に見立られたる左の句は
けにも手きゝのしわざにて
あさ糸のよりもよくかゝりたるにや、
わらはれぬ作意なれども松の葉はんと云事、
小歌のふしは尤ながら、一句のはたらき見え侍らず
 右は、しら藤こふじを、
富士に取なされ候ことまことに
名高き不二にはいかでか肩をならべ侍らんと、
左の越後布を安うりにまけさぜたるは、
さぞもとねになりかねや侍らん

二十八番

左 持
炭の荷や付てうるしいこんだ馬     吉勝

炭頭けぶるやすんといやな木ぢや    善勝

 左、炭をうると云かけられたるは、
げにうるしいこんだ馬のあしき處なく、
一句もよくいひ立がみの、けおされぬ作者也
 右の句、ずんといやなきとはあれど、
気のどくたんといひ叶られたれば
今更けし炭となさんともおぼえず、
勝負に世話をやく炭がまの
口々いづれも捨がたくて持と定め侍りき

二十九番

左 勝
掃除して瓢箪たゝきや炭ほこり
右 
  炭焼やおのが先祖はよくしつた

左、炭とりべうたんをたゝきて掃除したるは、
手もまめなる處あらはれて奇麗なる我句也
右は、野郎ざふとく出申な、
おのが先組はよく知つたと云ふを、
小野炭に取なされたる事、
尤炭頭をかたふけて感じ入侍れども、
先祖をよくしられん事わきまへがたく、
只左のへうたんの軽口にまかせて、
勝と定めたるはをかしき判とゆふがほの、
ひょんな事にやあらんかし

三十番

左 勝
  犬の鈴やきくびしやだんの神々祭    此男子

舞衣やをかみの出立御察神子      一友

左の犬の鈴の句、まことに人作の及ぶ所にあらねば、
いきくび社壇もうごき、
御社のおやぢさまも御感心浅からす。
末社のほこらのこやくまでも、
いきくびごたいをかたぶけられん事
うたがひなくおほえられ侍る

 右のをかみの舞衣、ひとへに聞えて、
手うすき作意なれば、まけの上のまけたるべし。
とかく息災延命の神楽歌を舞のきにのき給へとぞ。
 
 附貝於保飛跋
松尾氏宗房稚仲為予断金之友、
其性嗜滑稽潜心於詼諧者幾換伏臘矣、
今茲春正月閑暇之日以童謡俚近之語作狂句者
総若于釆而輯之分是於左右以判断
其可否誠錦心ロ撃節嘆賞焉瑶後序
鯫生素以切偲之情不忍袖手旁、
文雖漸羊豹僣一言以続于後云
      寛文壬子孟春日
 
  伊陽被下横月漫跋

 貝おほひ 俳諧大辞典
 かいおおい

❖俳諧発句合。
❖松尾宗房(芭蕉)著。自序。横月跋。
❖寛交十二年(1672)
❖一名、「三十番俳諧合」という如く、芭蕉が郷里伊賀上野の諸俳士の発句に自句をも交え、これを左右につがえて三十番の句合とし、更に自ら判詞を記して、勝負を定めたもの。
❖書名は遊戯「貝おほひ」の「合せて勝負を見る」ところに由来したものであろう。
❖序に「寛文十二年正月二十五日、伊賀上野松尾氏宗房、釣月軒にしてみづから序す」とある通り、出京して数年間、季吟門に遊んだ若き日の芭蕉が、上野に帰郷してこの書を編し、折から菅公七百七十年の忌日に産土の天神に奉納したものと思われる。
❖板本は久しく行方を失していたが、昭和十年の秋出現して、現在天理図書館納屋文庫に収められている。❖他に、東大付属図書館蔵の旧洒竹文庫本に、柳亭種彦自筆自注書入本と、横本の校本とがある。前者は本書中の小唄や流行詞に、種彦が出典を示したりした略註がついている。
❖後者は版元に「芝三田二丁目、中野半兵衛、同庄次郎開板」と記されていて、現存の納屋文庫本と別板本の存在した事が知られる。
❖本文は、仏兮・湖中の『俳諧一葉集』以下、芭蕉の全集順に多く収められている。本書は芭蕉二十九歳の時の処女著作であると共に、芭蕉が生前、署名して自著として出版した唯一の書である。
❖その内容は、ことにその判詞において、芭蕉は当時遊里などに流行の小唄や六方詞などを自由自在に駆使して、軽妙洒脱に洒落のめしており、その澗達で奔放な気分は、談林俳諧の先駆と称して過言でない。❖談林俳諧がその旗幟を天下に鮮明にしたのが延宝二年とすると、本書はそれに三年も先立っており、いかに芭蕉が時代の息吹に敏感であったかを実証する。
即ち、芭蕉の判詞は 合せた発句よりはるかに遊蕩気分の横溢したもので、後年の清僧の如き翁からは想像もしがたい底のものである。
その点、芭蕉生涯における思想・作風の変遷を跡づける重要な資料と目される。

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八月十八日芭蕉 萩原井泉水 氏著 昭和七年刊 俳人読本 下巻 春秋社 版

2024年08月10日 10時53分32秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

八月十八日

萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

鹿島根本寺にて 芭 蕉

 

 月くまたくはれけるまゝに、夜舟さしくだして鹿島にいたる。晝より雨しきりにふりて、月見るべくもあらす。麓に根本寺のさきの和尚いまは世をのがれて、このところにおはしけるといふをきゝて、たづね入りてふしぬ。すこぶる人をして深省(しんせい)をはつせしむと吟じけむ。しばらく清浄の心をうるに似たり。あかつきの窓いさゝか晴れ間ありけるを和尚おこし驚し侍れば、人々おきいでぬ。月の光、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことのはもなし。はる/\〃(ばる)と月見にきたるかひなきこそ本意なわざなれ、かの何がしの女(むすめ)すら、ほとゝぎすのうたえよまでかへりわづらひしも、我がためにはよき荷擔(かたん)の人ならむかし。

 

おり/\にかはらぬ空の月かげも 

ちゞの眺めは雲のまに/\    和 尚

   月はやしこずゑはあめを持ながら   芭 蕉    

寺に寝てまこと顔なる月見哉     同

あめにねて竹起かへる月みかな    ソ ラ

つきさびし堂の軒端の雨雫      宗 波

 

神 前

   この松のみばへせし代や神の秋    桃 青

   ぬぐはゞや石のおましの苔の露    宗 波

   ひざからやかしこまり啼く鹿のこゑ  曽 良  (鹿島紀行)

 

 【註】石のおましは石の御座で、太古、鹿島の神の御座であつたといふ石がある。

 

越後にて  太 笻

 

油わく山はあれども雨の月

   あふ罪歟別る々科か荻をふく

   この簑のあるじもどり露寒き

   佐渡山の日和を見せる紫苑哉

   雨は風を打て秋へる山家哉      (寂砂子集)

 

身にしむ   芭 蕉

八月十九日

萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

千里に旅立てみち粮をつゝまず、三更月下無何に入りと云けむ、

むかしの人の杖にすがりて、貞享のきのえね秋八月、

江上の破屋を出るほど、風のこゑそゞろ塞げなり。 

   野ざらしをこゝろに風のしむみかな

   秋十とせ却て江戸をさす故郷

  聞こゆる日は終日雨降て、山はみな雲にかくれたり。

   霧しぐれふじをみぬ日ぞむもしろき

  何がしちりと云けるは、此たびみちのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。

常に莫逆の交深く、我にまこと有哉、この人。

深川やはせをふじに預けゆく   ちり (野ざらし紀行)

 

秋ところどころ 桃隣

   三日月やはや乎に障る山の露

   稲妻や二兎山の根なし雲

   名月や曉近き霧の色

山畑に猪の子来たり今日の月

   名月や舟虫走る石の上

   きり/\″す鳴くや最上の下り舟

   栗稗は苅られて古きかゞし哉

 

【註】貞享きのえねの年は貞享元年、芭蕉四十一歳。彼が江戸に出たのは廿九歳の時で(その間

に一度帰省した亊があるらしいが)十余年ぶりでの故郷を指して旅立ったのであるが、十

年も住めば、江戸こそ却て故郷の感があるというである。

    ちりは千里、大和竹内の人、彼も故郷に帰る用があって、芭蕉と旅立つたのである。

    桃隣は天野藤太夫、伊賀上野の人、芭蕉の親戚である。

後、江戸に住み太白堂と称した。芭蕉の奥の細道の跡を尋ね歩き「陸奥千鳥」の著がある。

 

稲の香   青蘿

 

  天明らかなる年にあたるといへども、巳午五ツ六ツ未の春に至れる迄、

風雨のいくたびか人のこゝろを驚し、五穀も是が埓に実をむすぶ色うすく、

高きいやしきに及べるもいと譁(かまび)すしく、

すでに下れる世となりなんとせしに、久方の雨の恵み、夏夕立に秋草して、

殊に月見る夜ごろは田毎の三ふし草みのりて、いとめでたきけしきにめでて、

玄駒、洗洲あるは東田、淇笏、愚寒かいわたこゝろを船につみて、

あら井川のながれの上に今宵のかげを待ゐたり。

予も淡路の法師を携へて此船の客となりぬ。

   稲の香の満るを今宵月の雲      (青蘿発句句集)

 

八日二十日

良夜草庵の記 小西来山

 

  ことし此夏今宮といふ所に、提てものくべきほどの休み所をもとめてし。

よはき足には道のほど、すこし隔りたれど、心のむもむきにまかせ、むりく竹杖を嘶す。

こよひはさらにとて、ひとりふたりさそひつれて、まだ日高きよりうかれ行。

西は海近くして地よりも浪高く、その前は民屋所々にたちつづきたり。

入日をあらふ沖津しら波、とよみし名古の浦は今の木妻村とかや。

時と代とうつりかはるもあはれたりや。住宮浦の夕ばえ、中々えもいはれす。

漸として其所に膝行あがりつゝ蒲のむしろ、藺(りん)の枕、寐ながらの遠見、

東宮は雲をこすって山林、野村一目にたらず。つゐ手の届くく茶臼山、

一心寺の入相は常にもしたふものから、月待暮はひとしほ待久し。

安井の聖廟、木の間に森々として、茶臼山のかけ造りあけはなちて心よし。

新清次の欄干には乱舞糸竹の昔こそ聞えね。家々酔賞の最中ならんと詠やるもものめかし。

下寺町の藪疊もいっしかに白壁になりかはりて、門々高く続きて樓々崔々たり。

まして市中の繁榮、心ある人に見せばやな。それでも老は昔なつかし。

 

 【註】小西來山は大阪の人。芭蕉一派とは別の立場に在り、鬼實及び江戸の其角と共鳴すると

ころがあった。今宮に隠栖して、一個の女人形を溺愛していたという話は名高く

(「女人形記」……上巻一四一頁)。其今宮の庵の跡は今日も残つている。

享保元年十月三日歿、年六十三。[一心寺の入相は常にしたふものから……」

とあるその一心寺に「湛々翁墓」として葬られている。

名月や耳の山かせ日の曇  (俳諧いまみや草)

 

柴の戸 芭蕉

 

柴の庵ときけばいやしき名なれどもよにこのもしき物にぞ有ける。 

 

この哥は東山に住ける僧を尋ねて、西行のよませ給ふよし、山家集にのせられたり。

いかなる住居にやと、先その坊なつかしければ

柴の戸の月や其まゝあみだ坊

 

八月二十一日

 

富士川 芭蕉

 

富士川のほとりを行に、三つなる捨子の哀気に泣有。

この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待つまと捨て置けむ、

小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、

あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに

    猿を聞く人捨子に秋の風いかに

  いかにぞや、汝ちゝ悪まれたる歟、母にうとまれたるか、ちゝは汝を悪むにあらじ、

母は汝をうとむにあらじ、唯これ天にして汝が性のつたなきを哭け。

  (野ざらし紀行)

 

 

田 家 樗堂

 

    無造作たるものは田家

さむしろや飯喰ふ上の天の川

秋の風人ほど死ぬものはあらじ

     老後薬なしといへど、無何有の郷のあなたにはまたありとやらも聞ぬ。

秋風や鏡の翁我を見る

我庵の朝がほ今朝もまた白し

木枯や日の出見に行園城寺   (萍窓集)

 

鳩  洒堂

 

人に似て猿も手を組む秋の風

   鳩吹くや澁柿原の蕎麦畑

高土手に昌の鳴く日や雲ちぎれ     (続猿蓑)

   名月や誰れ吹起す森の鳩

   とうきびにかげろふ軒や玉まつり

   碪(きぬた)ひとりよき染物の匂ひかな (炭俵集) 

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芭蕉雑談智識字行  正岡子規   引用資料『甲府だより』   伊藤良氏著

2024年08月07日 18時19分49秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉雑談智識字行  正岡子規

                           

引用資料『甲府だより』   伊藤良氏著

 

平民的の事業必ずしも貴重ならず、多数の信仰必ずしも眞成の価値を表する者に非ずと錐も、いやしくも万人の崇拝を受け百歳の名誉を残す所以の者を尋ぬれば、凡俗に異なり尋常に超ゆるの技能無くんばあらざるなり。況んや多数の信仰はあながちに匹夫匹婦愚痴蒙昧の群衆に非ずして其の間幾何(イクバク)の大人君子を包含するをや。顔子の徳、子貢の智、子路の男、皆他人の企てに及ばざる所なり

。然れども三人を一門下に集めて能く之を薫陶し之を啓発し之を叱宅し緯々(シャクシャク ゆるやか)として余裕ある者は孔仲尼其の人ならずや。

蕉門に英俊の弟子多きも一○哲、七二子の孔門に於けるが如し。其角、嵐雪の豪放、杉風、去来の老樸、許六、支考の剛愎、野坡、丈草の敏才、能く此等の異臭味を包含して元禄俳諧の牛耳を執りたる者は、芭蕉が智徳兼備の一大偉人たるを證するに余りあり。

此の人々もとより無学無識の凡俗にあらねは、芭蕉の簀(サク)を易うると同時に各々旗幟を樹て門戸を張って互に合下らざるの勢を成せり。

其角は江戸座を創め、嵐雪は雪中庵を起こし、支考は美濃派を開き、各々之に応じて起こる者亦少からず。その他門流多からずと雖も、暗に一地方に俳権を握る者江戸に杉風、桃隣あり、伊勢に涼菟、乙由あり、上国に去来、丈草ありて相頡せり。後世に及びては門派の軋櫟愈々甚だしく、甲派は乙派を罵り丙流は丁流を排し、各白家の改組を称揚し他家の開祀を擠し、以て白ら高うせんとのみ勉めたり。

然れどもその芭蕉を推して唯一の本尊と為すに至りては衆口一聲に出づるが如く、浄上と法華と互に仇敵視するに拘わらず、猶本尊釈迦牟尼佛の神聖は少しも毫之を汚損せざるに異ならず。是れその徳の博きこと天日の無偏無私なるが如く、その量の大なること大海の能容能函なるが如きによらずんばあらざるなり。 

許六の剛腹不遜なる、同門の弟子を見ること猶三尺の児童の如し。然れども蕉風の神髄は我之を得たりと誇言して猶芭蕉に尊敬を表したり。文考の巧才衡智なる、書を著わし、説を述べ以て能く堅白同異の辯を為し以て能く博覧強記の能を示すに足る。然れども共の説く所一言一句と雖も、之を芭蕉の遺教に帰せざるはなし。甚だしきは芭蕉の教えなりと称して幾多の文章を偽作し、譏(そし)りを後世に取る事甚だ謭陋の所為たるを免れずと雖も、翻って其の裏面を見れば盡く是れ芭蕉の学才と性行とに対する名誉の表彰ならずんばあらず。

 

悪 句

 

芭蕉の一大偉人なることは右に述べたるが如き事実より推し測りても推し測り得べきものなれども、それは俳諸宗の開祖としての芭蕉にして文学者としての芭蕉に非ず。文学者としての芭蕉を知らんと欲せば、その著作せる俳諧を取って之を吟味せざるべからず。然るに俳諧宗の信者は句々神聖にして妄りに思議すべからずとなすを以て、終始一言一句の悪口非難を発したる者あらざるなり。寺を建て廟を興し石碑を樹て宴会一を催し連俳を一廻らし連座を興行すること、古より信者としてはその宋旨に対して盡すべき相当の義務なるべし。されど文学者としての義務は毫も之を盡さざるなり。余輩固より芭蕉宗の信者にあらねば其の二○○年忌に逢うたりとて嬉しくもあらず、悲しくもあらず、頭を痛ましむる事も無き代りには懐を煖(あたた)める手段もつかず。只々為す事もなく机に向かい楽書などしいる徒然のいたずらについ思いつきたる芭蕉の評論知る人ぞ知らん、怒る人は怒るべし。

余は劈頭に一断案を下さんとす。曰く、芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗りと称すべき者は共何十分の一たる少数に過きず。否、僅かに可なる者を求むるも寥々晨星の如しと。

芭蕉作る所の俳句一、○○○余首にして僅かに可なるものは一○○余首に過ぎずとせば、比例率は僅かに五分の一に当たれり。度々晨星の如しという亦宜ならずや。然れども単にその句の数のみ検すれば、一人にして二○○の多きに及ぶ者古来稀なる所にして、芭蕉亦一大文学者たるを失わず。その比例率の殊に少なき所以の者は他に原因の在って存するなり。

 

芭蕉の文学は古えを模倣せしにあらずして自ら発明せしなり。貞門、檀休の俳誌を改良せりと謂わんよりは寧ろ蕉風の俳諧を創開せりと謂うの妥当なるを覚ゆるなり。而してその自流を開きたるはわずかに歿時を去る一○午の前にして、詩想愈々神に入りたる者は三、四年の前なるべし。此の創業の人に向かって僅々一○年間に二○○以上の好句を作出せよと望む。亦無理ならずや。

普通の文学者の著作が後世に伝わる者はその著作の霊妙活動せる所あればなるべし。然るに芭魚はその著作を信ぜらるるよりは、寧ろ共の性行を欣慕せられしを以て、その著作といえば悪句駄句の差別なく尽く収拾して句集の紙数を増加する事となれり。基だしきはあらぬ者迄芭蕉の作として諸種の家集に採録したる者多し。此の瓦石混滑の集中より選びし好句の数五分の一に過ぎざるも亦無理ならぬ訳なり。

 

芭蕉の俳句蓋く金科玉條なりと目せらるる中にも一際秀でたるが如く世に暗称せらるものは大略左の如し。

 

古池や蛙とび込む水の古

道のべの木樽は馬にくわれけり

物いえば唇寒し秋の風

あかあかと口はつれなくも秋の風

辛崎の松は花よりおぼろにて

春もややけしきととのう月と梅

年々や猿に着せたる猿の面  

風流のはジめや奥の田植歌

白菊の目に立てて見る塵もなし

枯枝に烏のとまりけり秋のくれ

梅の木に猶やどり木や梅の花

 

此の外にも多少人に称せられたる者なきにあらねど、俗受けする句のみを挙げたるなり。以上の句は其の句の巧妙なるが為に世に知られたるよりは多く『曰く付き』なるを以て人口に膾炙せられたるなりとおぼし。彼れ白ら見識も無き批評眼も無き俗宗匠輩は自己の標準なきを以て単に古人の所説にすがり、彼の句は芭翁白ら誉めたる句なり。此の句は門弟某、宗匠某の推奨したる所なりといえば只々その句が自ら有難味を生じ来る者にて、扨こそ『曰く付き』の曰くとは即ち

古池の句、はいうまでもなく蕉風の本尊とあがめられたるものにして、芭蕉の悟入の句とも称せられたり。後世にかくいうのみらず、芭蕉白ら己に明言せるなり。

 

木樺の句も稍々古池同様に並び称せられ烏の両翼、車の両輪に象れり。

 

唇寒しの句は座右の銘と題して端書に『人の短をいう事なかれ、己が長を説く事なかれ』と記せり。世の諷誨に関するを以て名古同し。

 

あかあかの句は芭蕉北国にての吟なり。始め結句を『秋の山』として北枝に談ぜしに北枚『秋の風』と改めたきよしいえり。而して恰も芭蕉の意にかなえるなりと。此の『曰く』最も力あり。

 

辛崎の句は『にて留り』に就きて諸門弟の議論ありしが為なり。

 

春もややの句は別段曰く無きか。

 

年々やの句 芭蕉魚自ら仕そこなえりという。却ってそれが為に名高くなりしか。

 

風流の句は奥州行脚の時白河関にて詠ぜし者なり。風流行脚の序開きの句なれば人に知られしならん。

 

白菊の句は死去少し前に園女亨にて園女を賞めたる句にして

大井川浪に塵なし夏の月

といえる旧作と相侵す恐れあれば大井川の句をや取り消さんかと自ら言いし事あり。

 

枯れ枝の句は古池、木樺などと共にもてはやされて蕉風の神髄、幽玄の極と称せられたり。はじめは、

枯枝に烏のとまりたりけり秋のくれ

とせしを後に改めしとかや。

 

梅の木の句は人の子息に逢いてそをほめたるなり。

以上『曰く付き』の句は『曰く』こそあれ余の意見は以上の人と甚だ異なれり。次に之を説かん。

 

各句批評

 

古池や蛙飛びこむ水の音

 

此の句は芭蕉深川の草庵に任みし時の吟なりとかや、

蛙合(カワズアワセ)の巻首に出で春の日集中にも載せられたり。天下の人毫も俳論の何たるを知らざる者さえ猶、古池の一句を誦せぬはなく、発句といえば立ちどころに古池を想い起こすが如き、夷に此の一句程最も広く知られたる詩歌は他にあらざるべし。

而してその句の意義を問えば俳人則ち曰く、神秘あり、口に言い難しと。俗人は則ち曰く、到頭解すべからずと。而して近時西洋流の学者は則ち曰く、古池波平らかに一蛙踊って水に入るの音を聞く、句面一閑静の字を著けずして閑静の意言外に溢る、四隣闃寂として車馬の紛擾、人後屐聲の喧囂に遠きを知るべし、是れ美辞学に所謂筆を省きて感情を強くするの法に叶えりと。果たして神秘あるか、我之を知らず。果たして解くべからざるか、我可否に関せず巧拙を顧りみず、心を虚にし懐(オモイ)を平らかにし、佳句を得んと執着すること皿{くして姶め

て仕句を得ベし。古池の一句は此の如くして得たる第一句にして、恰始めて佳句を得べし。

古池の一句はこの如くして得たる第一句にして、恰も参禅日あり一朝頓悟せし古と共の間髪を容れざるなり。而して彼の雀はちゅうちゅう、鴉はかあかあ、柳は緑化は紅というもの禅家の真理にして却って蕉風の骨髄なり。古池の句は夫にそのありの儘を詠ぜり。否ありのままが句となりたるならん。眼に由りて観来たる者は常に複雑に、耳に由りて聞き得る者は多く簡単なり。

古池の句は単に聴官より感じ来れる知覚神経の報告に過ぎずして、其の間享もn家の主観的思想、形態的通動を雑(マジ)えざるのみならず、而も此の知覚の作用は一瞬時一刹那に止どまりしを以て、此の句は殆ど空間の延長をも時間の継続をも有せざるなり。是れ此の句の最も簡単なる所以にして却って模倣し難き所以なり。

或は云う、芭蕉巳に『蛙飛び込む水の音』の句を得て初五文字を得ず、之を其角に謀る。其角『山吹や』と置くべしという。芭蕉は従わず、終に『古池や』と冠せりと。何ぞや。芭蕉の意は、下二句にて巳に盡せり、而して更に山吹を以て之に加うるは、巧を求め実を曲げ蛇足を画き鳬脚(フキャク)を長くすると一般、終に自然に非ず。その『古池や』といえる者は特に下二句の為に場所を指定せる者のみ。

 

此の句の来歴は兎も角も此の句の価値に就きては世人の常に明言を難(カタ)んずる所なり。俳論宗の信者は一般に神聖なりとし、其の他は解すべからずとするを以て其の価値に及ぶ者なし。余は断じて曰く、此の句善悪の外に独立し是非の間を離れたるを以て善悪の標準にあてはめ難き者なり。故に此の句を以て無類最上の

句となす人あるも、余聞(モト)より之を咎めず。はた此の句を以て平々淡々香りも無き臭も無き尋常の一句となす人あるも亦之を怪まざるなり。此の両説反対せるが如くにしてその実反対せるに非ず、善にも非ず、悪にも非ざる者は則ち此の一説の外に出でざるなり。要するに此の句は俳諧の歴史上最も必要なる者に相違なけれども、文学上にはそれ程の必要を見ざるなり。見よ、芭蕉集中此の如く善恐巧拙を離れたる句他にこれありや。余は一句もこれ無きを信ずるなり。蓋し芭蕉の蕉風に悟入したるは此の句なれども、文学なる者は常に此の如き平淡なる者のみを許さずして多少の工夫と施彩とを要するなり。されば後年虚々実々の説起りたるも亦故なきに非ず。

補 古池ノ句ニ春季ノ感情ナシ(自註)

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