泉昌彦 『伝説と怪談』
一部加筆 白州町 山梨県山口素堂資料室
「まあじいさまや、また土産詣でかい」
「うんだ。甲州では四十の恥かきっ子といって、四十才にもなって子を産めば笑われるがの、わしは、七十三、ばばさは六十四になってもまだまだのぞみは捨てましねえだ」
いまの韮崎市(正 北杜市長坂町)大八田に住む百姓次郎兵衛は世間じゅうから「子宝きちがい」とかげ口を言われていた。
二十三歳のとき十四のおさくを嫁にとっていらい三十年たったが女房にはいっこうこどもがうまれるけはいがなかった。しかしじいさまはあきらめなかった。あくまで神の奇せきを信じて信心をおこたらず、子宝にめぐまれるとき
けば、どんなに遠方へでもおまいりにいき、神さまと名のつくものなら石コロ一つそまつにはしなかった。
ここでじいさまの生きていた天和年間(いまから二九〇年まえ)甲州でごりやくのあったと伝えられ神さまはどこにあったかを、気ながに甲州中さがしまわったけっか左の石神がもっともおおく信仰されていた。
一、北巨摩郡須玉町若神子の田のなかに現存する大陰石が筆頭にあげられる。この陰石の所有者は同町内藤彦太郎さんで、持主のゆるしをえて土にうもれていたものを期りおこして撮影したが、そのおりに古い言伝えどおり、真あたらしい陽もじ(腰まき)が進ぜてあり、百円玉もいくつか賽銭にあがっていた。してみると世のおお方の女性がこどものはじまらない苦心をしている反面、真剣に子宝をもとめて神に祈っている女性もいるわけだ。
女性器にそっくり
この陰石は甲斐国志にも女性のうつわにそっくりであるとしるされている。土にうもれていた石を剖りおこしてみると、まんなかに割れ目があり、内部にいたっては女性器の図解通りさまざまのふくざつなデコボコになっている。自然のイタヅラにしてはあまりにもリアルである。
世間では「三年ほどまえに田のどまん中にあってじゃまだから片づけたら病人がたえないので又もとどおりにした」とうわさしているが、「そんなばかな」と、現代っ子のむすこさんはいきおいよく石神さんを掘り出してくれたが、土の中からでるわでるはじつにみごとの金玉を二つつるし、キーンとはりきった男根がいく組となく出てきた。
要するに子宝のほしい女性は、腰巻をそなえ、そこに進ぜてある石の男根をかりうけていって祈願をこめた上で夫と床入りすると、必ず子宝をうる。子宝をえたうえは借り受けて来た男根以上に立派なものを刻んでぢざんで一つ余計に供える。というしきたりであった。
「昔、この近くにある城山にいた姫さまが、子供をほしくてこの石神さんに祈ったら玉のような男子をえた。いらい霊験あらたかな石神として信仰されるようになった」といわれている、
その日比どおり、ちかくには城あとがある。また陰石のちかくには古墳時代の堅穴式の古墳があって、「穴見堂」があった.。しかしこの穴見堂は「花ミゾ」がナマったものではないか(内藤さん)但し穴見堂が正しい。
男根石は、原始国家の時代、各部族が権威の象徴として大きな「石剣」を部落の入口に立てたのがはじまりという説もあるが、「石神」と「石剣」はまったく別のものである。
男根や女陰をかたどった自然石や、きざんだものをセックス信仰の偶像としていたことは、石地蔵などよりもっと古い原始国家の時代からとかんがえられる。
長坂町渋沢の男根、女陰石
これも霊験あらたかなものだったが、筆者が一日中さがしまわった結果どこかへうもれてしまって姿は失せていた。二・六メートルが男根石、高さ一・九メートルが女陰石で、ともにみごとな性器であったとしるされている。
岩手のコンマ石
山梨市岩手へいって、この石のありかたずねればこどもでもよく知っている。ただしたずねるときには、永年すなおによびならしている呼称にもとずいて本文をサカサマに読んでたずねられたい。巨大な岩がそのまま女陰そっくりである。庭先に奇妙な岩が鎮座している農家の主人は「これで藤の花が咲くと、さながら陰毛まで生えているようで生き生きしてくる」と語っている。この岩をみていると、いみじくも、興奮にかりたてられるというみごとのものである。
霊験あらたかすぎる男根石
こいつもう、手でナデナデしていてテカテカピカピカに光りかがやいている。山梨市の観光小冊子でも紹介されたものだ。国道沿いの「赤坂義」さん宅の庭にちん坐しているが、もとは国道沿いにあって道ゆく女性のかおを赤くしたといわれる。それだけに雪どけに湯気をしきりにあげているところはみごとだ。子宝のほしい昔の女性がいっしょうけんめいなでなでして祈ったが、霊験の方もいちじるしく、遠方からききつけてお参りしたとしるされているが、それも夜人目につかない丑三つ時でないと御利益がないとつたえられている。
南野呂の太陰石
一宮町南野呂に、子宝をさずかる石神としてもっとも信仰されかつそのごりやくが期待されたというものだが、役場へいってたずねても、古老にたずねてもその存在さえ忘られているが、実にみごとのものだったと記されている。
以上は手間ひまかけてありかをたずねたけっか、甲斐国志ほかに記録されたものでも現存しているものは、須玉町のものだけだ。この点原始時代におこったセックス信仰のシンボルとしては貴重のものだ。
さて前記の次郎兵衛夫婦もまたこの石神さまに湯もじを進ぜて熱心にお百度まいりをしていた。ある日、ばあさんが妙なことを言いだした。
「じいさまや、おらあこのごろ何を食ってもあげっぽいんじゃがのう、ツワリではねえかのう」
「あんだと、それはそれみごもったしるしではねえけ、てっへっ、こいつはてっきり子宝じゃ」
さあ大変、じいさまは気でも狂ったように家をとび出すとさっそく子どもをとりあげるばばさをひっぱってくるやら、村中かけまわって、「おらがのばばさが子をはらんだぞ」と触れ歩いたのである。いかにその喜びが純粋でかつ大きかったかはかりしれない。
「いくらじいさまが子をはらんだというてものう、あたりまえならとっくにあの世からおむかえのきてよい歳じゃ、あほらしくてはなしにもならん」
幾百人となく赤ン坊をとりあげてきた村のとりあげばあさんも、六十三のウメぼしばばあが、娘のように子をはらますはずはないとまったくとりあわない。
そんなところへ、うわさを聞きつけた村人がぞろぞろお祝いをのべにきた。といえばきこえはいいが、実のはらは、七十三のじいさまが、ほんとうに六十三のばあさんに
ガキをつくったとしたら、これはまた天地開闢いらいの大珍事、とうてい家の中でムシロなどおっているどころではない。それいけとばかり集ってきたのである。
「おめえも産婆を幾十年やっとるんじゃ、あげっぽいといやあ子宝にきまっとる」
じいさまは絶対に信じて疑わない。
「じゃあきくがよ、おめえこんなウメぼしばばあをみてホンガルのけい」(ホンガルとは甲州弁で勃起の意)、この質問には、かけつけた村の衆も一瞬息をひそめて、じいさまの返事やいかんと耳をそばたてた。七十三にもなって、しわくちゃばあさんをみて「われ欲情す」とは、奇怪千万であるからだ。あにはからん、
「あたりめえよ、おらがのせがれがホンガランでどうなるかよ」
「てへっ、あの歳仕って恐入ったのう」
じいさまの返事いかんとかたずをのんでいた村の衆は、そこで「どっ」とおいた。ともかくこのような直接やりとりこそ山家の山家たるゆえんである。
「じゃあもう一つきくが、三月ほどまえにもたしかにホンガったな」
「いかにもよう。おらたちやあいつも田圃や山へいくたびに青大将、スジナメラ、マムシ、ゲェールッチョ(蛙)をとってきてはその生肝をのんで精をつけていたんじや」
▽ふ~ん、この村にゲールッチョもアオデーショもさっぱりいなくなったのはそのせいだな」
さて、こんなやりとりがあったあと、まもなくばあさまは懐娠したことがあきらかとなった。山家の人たちにとってこれほどの大ニュースがあろうはずがない。二十世紀後半の月面到着のニュース以上の奇跡として、このうわさたちまち甲州中へひろがり、甲府城のお役人方の耳へも伝えられた。
とつき十日ばあさんは玉のような男子をうんだ。「姥生 ばふ」とはいらいこの家のことをよぶようになった(姥が子を生むという意味からである)。なお子孫もいまにつづいている。
江戸時代の検地張にもたしかに「姥生」とある。したがってこの世界にも類例のない老婆の出産は、甲斐国志もわずかながらその要点をかいつまんで奇異な事実として記してある。
さて、東道雑記という江戸時代の見聞集はまことに合理的なものの見方をした異色の書だが、同記も男根、女陰石の神郷についてしるしている。
岩手県渋谷村付近にある金勢宮(男根を主神に祀る)について次のようにある、「その神体と称するものは図の如き男根の形と陰門の形なり。むかし女帝の御時、この二つの神体を奉納ありて神にあがめしとありしゆえに、金勢宮となづけしといいぬ。男根は鉄をもって製せしものにて、千歳もたちしように、至って古くみえて、長さ六寸六分、横三寸とすこし余、奇石と称すべし、京極天皇奉納なりしという」と、天皇が性器を神体に祀ったいわくをのべたあと、「……埓もなきようにて往古はかかる神体も国ぐにに多かりしとくだらん信仰
だと大胆だ。
武威国(いまの足立区舎人町)にも毛長明神の神体(男根)女陰の毛なりしといえり、神代の風俗ならんか笑うべきにはあらず。ある人のいう加茂岩本の神体金勢明神という固体なるや。右の二つ錦の袋の中に入れてあり、この外木を以って製せし男根の形あまたにして、大なるは長さ二尺もあり、その古く見ゆることいわん方なし、大雅物にて人びとほしきことにおもいしならん云々と
フつく、以上からみても日本の神代(古代)からセックス信仰が存在したことは明白で、石剣とはことなるものだ。