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日本の奇跡 七十三歳で初産 性の神様

2023年09月03日 09時16分34秒 | 偉人・賢人・知識人

泉昌彦 『伝説と怪談』

 一部加筆 白州町 山梨県山口素堂資料室

 

 「まあじいさまや、また土産詣でかい」

 「うんだ。甲州では四十の恥かきっ子といって、四十才にもなって子を産めば笑われるがの、わしは、七十三、ばばさは六十四になってもまだまだのぞみは捨てましねえだ」

 いまの韮崎市(正 北杜市長坂町)大八田に住む百姓次郎兵衛は世間じゅうから「子宝きちがい」とかげ口を言われていた。

 二十三歳のとき十四のおさくを嫁にとっていらい三十年たったが女房にはいっこうこどもがうまれるけはいがなかった。しかしじいさまはあきらめなかった。あくまで神の奇せきを信じて信心をおこたらず、子宝にめぐまれるとき

けば、どんなに遠方へでもおまいりにいき、神さまと名のつくものなら石コロ一つそまつにはしなかった。

 ここでじいさまの生きていた天和年間(いまから二九〇年まえ)甲州でごりやくのあったと伝えられ神さまはどこにあったかを、気ながに甲州中さがしまわったけっか左の石神がもっともおおく信仰されていた。

 

一、北巨摩郡須玉町若神子の田のなかに現存する大陰石が筆頭にあげられる。この陰石の所有者は同町内藤彦太郎さんで、持主のゆるしをえて土にうもれていたものを期りおこして撮影したが、そのおりに古い言伝えどおり、真あたらしい陽もじ(腰まき)が進ぜてあり、百円玉もいくつか賽銭にあがっていた。してみると世のおお方の女性がこどものはじまらない苦心をしている反面、真剣に子宝をもとめて神に祈っている女性もいるわけだ。

 

女性器にそっくり  

 

この陰石は甲斐国志にも女性のうつわにそっくりであるとしるされている。土にうもれていた石を剖りおこしてみると、まんなかに割れ目があり、内部にいたっては女性器の図解通りさまざまのふくざつなデコボコになっている。自然のイタヅラにしてはあまりにもリアルである。

 世間では「三年ほどまえに田のどまん中にあってじゃまだから片づけたら病人がたえないので又もとどおりにした」とうわさしているが、「そんなばかな」と、現代っ子のむすこさんはいきおいよく石神さんを掘り出してくれたが、土の中からでるわでるはじつにみごとの金玉を二つつるし、キーンとはりきった男根がいく組となく出てきた。

 要するに子宝のほしい女性は、腰巻をそなえ、そこに進ぜてある石の男根をかりうけていって祈願をこめた上で夫と床入りすると、必ず子宝をうる。子宝をえたうえは借り受けて来た男根以上に立派なものを刻んでぢざんで一つ余計に供える。というしきたりであった。

 「昔、この近くにある城山にいた姫さまが、子供をほしくてこの石神さんに祈ったら玉のような男子をえた。いらい霊験あらたかな石神として信仰されるようになった」といわれている、

 その日比どおり、ちかくには城あとがある。また陰石のちかくには古墳時代の堅穴式の古墳があって、「穴見堂」があった.。しかしこの穴見堂は「花ミゾ」がナマったものではないか(内藤さん)但し穴見堂が正しい。

 男根石は、原始国家の時代、各部族が権威の象徴として大きな「石剣」を部落の入口に立てたのがはじまりという説もあるが、「石神」と「石剣」はまったく別のものである。

 

 男根や女陰をかたどった自然石や、きざんだものをセックス信仰の偶像としていたことは、石地蔵などよりもっと古い原始国家の時代からとかんがえられる。

 

長坂町渋沢の男根、女陰石

 

 これも霊験あらたかなものだったが、筆者が一日中さがしまわった結果どこかへうもれてしまって姿は失せていた。二・六メートルが男根石、高さ一・九メートルが女陰石で、ともにみごとな性器であったとしるされている。

 

 岩手のコンマ石  

 

山梨市岩手へいって、この石のありかたずねればこどもでもよく知っている。ただしたずねるときには、永年すなおによびならしている呼称にもとずいて本文をサカサマに読んでたずねられたい。巨大な岩がそのまま女陰そっくりである。庭先に奇妙な岩が鎮座している農家の主人は「これで藤の花が咲くと、さながら陰毛まで生えているようで生き生きしてくる」と語っている。この岩をみていると、いみじくも、興奮にかりたてられるというみごとのものである。

 

 霊験あらたかすぎる男根石 

 

こいつもう、手でナデナデしていてテカテカピカピカに光りかがやいている。山梨市の観光小冊子でも紹介されたものだ。国道沿いの「赤坂義」さん宅の庭にちん坐しているが、もとは国道沿いにあって道ゆく女性のかおを赤くしたといわれる。それだけに雪どけに湯気をしきりにあげているところはみごとだ。子宝のほしい昔の女性がいっしょうけんめいなでなでして祈ったが、霊験の方もいちじるしく、遠方からききつけてお参りしたとしるされているが、それも夜人目につかない丑三つ時でないと御利益がないとつたえられている。

 

南野呂の太陰石 

 

 一宮町南野呂に、子宝をさずかる石神としてもっとも信仰されかつそのごりやくが期待されたというものだが、役場へいってたずねても、古老にたずねてもその存在さえ忘られているが、実にみごとのものだったと記されている。

 

以上は手間ひまかけてありかをたずねたけっか、甲斐国志ほかに記録されたものでも現存しているものは、須玉町のものだけだ。この点原始時代におこったセックス信仰のシンボルとしては貴重のものだ。

 さて前記の次郎兵衛夫婦もまたこの石神さまに湯もじを進ぜて熱心にお百度まいりをしていた。ある日、ばあさんが妙なことを言いだした。

 「じいさまや、おらあこのごろ何を食ってもあげっぽいんじゃがのう、ツワリではねえかのう」

 「あんだと、それはそれみごもったしるしではねえけ、てっへっ、こいつはてっきり子宝じゃ」

 さあ大変、じいさまは気でも狂ったように家をとび出すとさっそく子どもをとりあげるばばさをひっぱってくるやら、村中かけまわって、「おらがのばばさが子をはらんだぞ」と触れ歩いたのである。いかにその喜びが純粋でかつ大きかったかはかりしれない。

 「いくらじいさまが子をはらんだというてものう、あたりまえならとっくにあの世からおむかえのきてよい歳じゃ、あほらしくてはなしにもならん」

 幾百人となく赤ン坊をとりあげてきた村のとりあげばあさんも、六十三のウメぼしばばあが、娘のように子をはらますはずはないとまったくとりあわない。

 そんなところへ、うわさを聞きつけた村人がぞろぞろお祝いをのべにきた。といえばきこえはいいが、実のはらは、七十三のじいさまが、ほんとうに六十三のばあさんに

ガキをつくったとしたら、これはまた天地開闢いらいの大珍事、とうてい家の中でムシロなどおっているどころではない。それいけとばかり集ってきたのである。

 「おめえも産婆を幾十年やっとるんじゃ、あげっぽいといやあ子宝にきまっとる」

 じいさまは絶対に信じて疑わない。

 「じゃあきくがよ、おめえこんなウメぼしばばあをみてホンガルのけい」(ホンガルとは甲州弁で勃起の意)、この質問には、かけつけた村の衆も一瞬息をひそめて、じいさまの返事やいかんと耳をそばたてた。七十三にもなって、しわくちゃばあさんをみて「われ欲情す」とは、奇怪千万であるからだ。あにはからん、

 「あたりめえよ、おらがのせがれがホンガランでどうなるかよ」

 「てへっ、あの歳仕って恐入ったのう」

 じいさまの返事いかんとかたずをのんでいた村の衆は、そこで「どっ」とおいた。ともかくこのような直接やりとりこそ山家の山家たるゆえんである。

 「じゃあもう一つきくが、三月ほどまえにもたしかにホンガったな」

 「いかにもよう。おらたちやあいつも田圃や山へいくたびに青大将、スジナメラ、マムシ、ゲェールッチョ(蛙)をとってきてはその生肝をのんで精をつけていたんじや」

 ▽ふ~ん、この村にゲールッチョもアオデーショもさっぱりいなくなったのはそのせいだな」

 さて、こんなやりとりがあったあと、まもなくばあさまは懐娠したことがあきらかとなった。山家の人たちにとってこれほどの大ニュースがあろうはずがない。二十世紀後半の月面到着のニュース以上の奇跡として、このうわさたちまち甲州中へひろがり、甲府城のお役人方の耳へも伝えられた。

 とつき十日ばあさんは玉のような男子をうんだ。「姥生 ばふ」とはいらいこの家のことをよぶようになった(姥が子を生むという意味からである)。なお子孫もいまにつづいている。

江戸時代の検地張にもたしかに「姥生」とある。したがってこの世界にも類例のない老婆の出産は、甲斐国志もわずかながらその要点をかいつまんで奇異な事実として記してある。

 

 さて、東道雑記という江戸時代の見聞集はまことに合理的なものの見方をした異色の書だが、同記も男根、女陰石の神郷についてしるしている。

岩手県渋谷村付近にある金勢宮(男根を主神に祀る)について次のようにある、「その神体と称するものは図の如き男根の形と陰門の形なり。むかし女帝の御時、この二つの神体を奉納ありて神にあがめしとありしゆえに、金勢宮となづけしといいぬ。男根は鉄をもって製せしものにて、千歳もたちしように、至って古くみえて、長さ六寸六分、横三寸とすこし余、奇石と称すべし、京極天皇奉納なりしという」と、天皇が性器を神体に祀ったいわくをのべたあと、「……埓もなきようにて往古はかかる神体も国ぐにに多かりしとくだらん信仰

だと大胆だ。

武威国(いまの足立区舎人町)にも毛長明神の神体(男根)女陰の毛なりしといえり、神代の風俗ならんか笑うべきにはあらず。ある人のいう加茂岩本の神体金勢明神という固体なるや。右の二つ錦の袋の中に入れてあり、この外木を以って製せし男根の形あまたにして、大なるは長さ二尺もあり、その古く見ゆることいわん方なし、大雅物にて人びとほしきことにおもいしならん云々と

フつく、以上からみても日本の神代(古代)からセックス信仰が存在したことは明白で、石剣とはことなるものだ。


**芭蕉『貝おほひ』かいおおい 俳諧発句合。蕉風周辺の人々と動向

2023年09月03日 06時24分08秒 | 偉人・賢人・知識人

**芭蕉『貝おほひ』かいおおい 俳諧発句合。

松尾宗房(芭蕉)著。自序。横月跋。覚文十二年(1672)刊。江戸、中野半兵衛板。一冬「三十番俳諧合」という如く、芭蕉が郷里伊賀上野の諸俳士の発句に自句をも交え、これを左右につがえて三十番の句合とし、更に自ら判詞を記して、勝負を定めたもの。名は遊戯「貝おほひ」の「合せて勝負を見る」ところに由来したものであろう。序に「寛文十二年正月二十五日、伊賀上野松尾

氏宗房、釣月軒にしてみづから序す」とある通り、出京して数年間、季吟門に遊んだ若き日の芭蕉が、上野に帰郷してこの書を編、折から菅公七百七十年の忌日に産土(うぶすな)神に奉納したものと患われる。板木は久しく行方を失していたが、昭和十年の秋出現して、現在天理図書館綿屋文庫に収められている。他に、東大付属図書館蔵の旧酒竹文庫本に、柳亭種彦自筆自注書入本と、横本の校本とがある。前者は本書中の小唄や流行詞に、種彦が出典を示したりした略注がついている。後者は版元に「芝三田二丁目、中野半兵

衛、同正次郎開板」と記されていて、現存の綿屋文庫本と別板木の存在した事が知られる。

本文は、仏兮・湖中の『俳諧一葉集』以下、芭蕉の全集類に多く

収められている。表書は芭蕉二十九歳の時の処女著作であると共に、芭蕉が生前、署名して自著として出版した唯一の書である。そ

の内容は、ことにその判詞において、芭蕉は当時遊里などに流行の小唄や六方詞などを自由自在に駆使して、軽妙洒脱に酒落のめしており、その闊達で奔放な気分は、談林俳諧の先駆と称して過言でない。談林俳諧がその旗幟を天下に鮮明にしたのが延宝三年とすると、本書はそれに三年も先立っており、いかに芭蕉が時代の息吹に敏感であったかを実証する。即ち、芭蕉の判詞は、合せた発句よりはるかに遊蕩気分の横溢したもので、後年の清僧の如き翁からは想像もしがたい底のものである。その点、芭蕉生涯における思想・作風の変遷を跡づける重要な資料と目される。(以下略)

蕉風周辺の人々と動向

**素堂 寛永十九年五月五日(一説に一月四日)、寛文七年(26才)、加友撰『伊勢踊』に「江戸山口氏信章」として五句入集。

**曾良 慶安二年、信濃国上諏訪に高野七兵衛の長子として出生。幼くして母の生家河西家に養育され、その後岩波氏を嗣宅万治三年、望月八日養父、六月五日養母没。間もなく伊勢長嶋の大智院

秀精法師のもとに引きとられる。寛文八年、(20才)のころ長嶋藩松平家に出仕。 (この項『俳文学大辞典』角川書店)

**路通 慶安二年、筑紫に出生(如水日記・笈日記)。神職の家柄という(夜の聖)。少年時代、京都賀茂神社の南可、寂源らに歌学を学ぶ。

**宗因 慶安元年、宗因、大坂天満宮連歌所宗匠となる。

このころから俳諧を嗜む(津山紀行)。

**去来 慶安四年、肥前長崎後興善町に長崎聖堂の祭酒向井元升の

二男として出生。兄元瑞は慶安二年、弟魯町は明暦二年、同じく牡

年は万治元年生まれ。万治元年、八才十一月二十一日一家は上洛。元升は医術を行なう(去来先生事実、旅寝論)。寛文六年、(一六才)このころ以後西下、福岡の叔父のもとで武芸に励む(旋寝論他)。

**嵐雪 承応三年、江戸豊島郡湯島に下級武士服部喜大夫高治の一子として出生。寛文八年、(一五才)このころ父高治に従い常州麻生藩主新庄家に仕える(風の上)。

**許六 明暦二年、八月十四日(東海道)彦根藩士森川与治右衛門の嗣子として出生。

**越人 明暦二年、北越に出生(鉄声宛越人書簡・鵠尾冠)。

**土芳 明暦三年、伊賀上野の木津孫次郎保何の末子(八番目)として出生(蓑虫庵小集・西蓮寺過去帳・木津家旧記・木津家系)。万治二年、(三才)十一月二十日実父没(庵集他)。乳呑子のころから十余歳に至るまで母方の祖母の家に預けられ、その後藤堂藩士服部平左衛門の養嗣子となり、芭蕉を知ったか(庵集・芭蕉翁全)。

**其角 寛文元年、七月十七日江戸堀江町に膳所藩主本多下野守の侍医竹下東順の長子として出生(一伝録・みゝな草)。はじめ母方の姓榎本氏を名乗る。寛文十年、(十才)大円寺に入学。円覚寺大巌和尚にも就学か。

**丈草 寛文二年、尾張犬山藩士内藤源左衛門本守の長子として

生。寛文四年、(三才)八月十四日母没(位牌)。寛文七年、(六歳)このころ父再婚。寛文十年、(八歳)このころから俳諧に親しみ出す(籠ケ岡)。寛文十二年、(十一才)このころ穂積元庵に詩文を学んだか。霹川とも面識をもったらしい。

**野坡 寛文二年、一月三日越前福井に斎藤庄三郎の一子として出生(野翁行状記)。寛文年間、父について江戸移住(三日の庵)。

**支考 寛文五年、美濃山県郡北野に出生(阿誰話・俳詰袋)。父

は村瀬氏か。寛文十年、6一月三日父没。後、母再嫁。

**酒堂 寛文八年、このころ近江膳所で出生か(野披吟草)。浜田

氏。以下、仮にこの年出生として年齢を算出する

 

**その他

承応二年、十一月十五日、貞徳没(八十三)。

万治元年、この頃大和・河内・堺地方に前句付起こる。

寛文九年、九月晦日立圃投(七十五)。

寛文十一年、新風の擡頭の兆し


寛文 九年(一六六九)☆素堂、28才 芭蕉、26才~寛文十二年

2023年09月03日 06時16分30秒 | 偉人・賢人・知識人

 

▽素堂、「一本草」集 石田未琢編 信章で入集。(未見)

 

未琢は未得の長男で神田錦町に居住していた。未得はこの年七月に没した。

▼芭蕉、荻野安静編『如意宝珠』に発句入集。

 

かつら男すまずなりけり雨の月

波の花と雪もや水に返り花 

花にあかぬ嘆きやこちの歌袋

 

〔註〕如意宝珠 にょいほうじゅ 俳諧撰集。荻田似空軒安静編。似船序。延宝二年刊。長尾平兵衛板。本集は、寛文五年に発企、同九年宗に成り、上梓のはずだったが、安静がその年十月九日五十余歳で没したため果さなかったので、五年後、門人似船が清書して出板した。四季発句・付句三千余を収め、作者四百九十人。貞徳・季吟らを始め、坤吟・松尾宗房六句も入り、五十一箇国に及ぶ。巻八は「打出の小槌」で、安静の俳論を述べて詳細、貞門を代表するものの一つである。上野図書館蔵。巻五(冬)は未見。なお、本書には、安静は荻田氏とするが、多くは蔵野氏と伝える。

           (この項は『俳諧大辞典』明治書院)

寛文 九年(一六六九)**『俳文学大辞典』角川書店**

秋、三千風、剃髪し、仙台に赴き一五年間居住。

〔註〕三千風は、甲斐にも来ている。(後述)

この年、惟中、宗因に入門か。

書『狂遊集』『筑紫紀行』『百五十番誹諧発句合』

歿・未得八十三才・立圃七十五才。

『あだ花千句』『河舟付徳万歳』『休息歌仙』『言葉よせ』

『集配戒』『武蔵野千句』)

参この年、宇都宮遜庵『日本古今人物史』刊、古代より貞徳にい

たる人物評伝。

この年、貞室、『五条之百句』で貞門俳家を論評。

『大和順礼』刊、大和俳家撰集の嚆矢。

書『寛伍集』『続境海草』『天水抄(令徳編)』『誹諧詞友集』

『俳諧洗濯物・洗濯砧』『物名誹諧千句』『立圃追悼集』

参七月、下河辺長流『林葉累塵集』刊。

一〇月、林鷲峰『本朝通鑑』成。

 

◎寛文 十年(一六七〇)☆素堂、29才 芭蕉、27才

 

▼芭蕉、岡村正辰編『大和順礼』に発句二句入集

 

寛文 十年(一六七〇)**『俳文学大辞典』角川書店**

 この年、貞室、『五条之百句』で貞門俳家を論評。

 『大和巡礼』刊。大和俳家撰集の嚆矢。

 書『寛伍集』『続境海草』『天水抄(令徳編)』『誹諧詞友集』『俳諧洗濯物・洗濯砧』『物名誹諧千句』『立圃追悼集』

参七月、下河辺長流『林葉累塵集』刊。

一〇月、林鷲峰『本朝通鑑』成。

 

◎寛文十一年(一六七一)☆素堂、30才 芭蕉、28才

 

▼芭蕉、吉田友次編『籔番物』に発句一句入集。

 

寛文十一年(一六七一)**『俳文学大辞典』角川書店**

二月、元隣『宝蔵』刊、俳文集の嚆矢。

春、未琢『ひともと革』刊、江戸俳壇を網羅する撰集の嚆矢。

四月、大阪天満宮恒例千句興行。

書『蛙井集』『神出山庄記』『新独吟集』『新百人一句』

『難波草』『誹諧藤堂佐渡守二テ季吟』『誹諧薮香物』

『青野山独案内』『落花集』『聯句初心紗』

参四月、幕府、伊達騒動裁定。

七月、河村瑞賢、東廻り航路開設。

このころ、菱川師宣、画作活動を開始。

 

◎寛文十二年(一六七二)☆素堂31才 芭蕉、29才

芭蕉消息

▼宗房判の三十番発句合『貝おほひ』成る。自序に「伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」と見える。伊賀上野の菅原社に奉納、後に江戸の中野半兵衛方から板行された。

▼寛文年間の芭蕉の句

二年   春やこし年や行けん小晦日

四年   姥桜さくや老後の思ひ出

     月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿

十二年  雲と隔つ友かゆ雁の生き別れ

寛文十二年(一六七二)**『俳文学大辞典』角川書店**

一月、芭蕉、『貝おほひ』を伊賀国上野天神社に奉納。

このころ、竹翁『空嘯集』刊、九州俳壇撰集の嚆矢。

書『時勢粧』『奥州名所百番発句合』『季吟十会集』

『牛刀毎公編』『諸国独吟集』『新板誹諧浜荻』『続詞友誹詩』『続大和順礼』『大海集』『塵塚(成之編)』『手繰舟』

『俳諧塵塚』『誹諧発句名所集』『晴小袖』『備後表』

『八代名所集』『山下水』

参この年、瑞賢、西廻り航路を開設。