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<中部・近畿>北陸本線・高山本線とその周辺

2024年08月30日 15時41分14秒 | 歴史探訪

中部・近畿=文学の旅

(新潟・長野・山梨・静岡県を除く)

<中部・近畿>北陸本線・高山本線とその周辺

  • 北陸本線に沿って

 

北陸路への入口である米原駅で下車すると駅の西側左には琵琶湖がみえる。

駅前から旧中山道に出てすぐ国道人号に入ると行く手に天野川がある。

この川の手前を琵琶湖に向かって進む。

米原町朝妻筑摩には「伊勢物語」にみえる鍋冠り万知られる筑摩神社がある。鳥居を入る左手に、

「近江ならつくまのまつりとくせなむ」

の歌碑が建っている。

 米原から坂田・田村を経て至る長浜は「浜ちりめん」で有名な琵琶湖北岸の商工業地であるが、古くは水上勉の「湖笛」に描かれる水軍の根拠地でもかった。ここから湖上遊覧や竹生島巡りもあり、海津・大崎への最短コースでもあるため人出の多い町となっている。

江戸期の人で、遠州流茶道の祖小堀遠州は、更にここより東八キロの市浅升郡浅井町の生まれである。ここへは長浜より一つ目虎姫駅下車が近い。清楚な庭園をもって茶道の神髄に迫ると説いた。

 永浜の東北を流れるのは姉川で元亀元年(一五七〇)浅井長政・朝倉義景連合軍が信長と対陣したところである。

 長政・享政・久政の菩提寺は長試駅の南一キロの平方町生駒の興福山徳勝寺で、ここには父子三人の墓もある。小谷城址は小谷山上にあるがこの小谷山は谷崎潤一郎の「盲目物語」(一九三二)の舞台でもある。

 左に琵琶湖を眺めながら木之本につく。ここに北国街道の渓口集落でもある。雪の深いここは家並みも構造も独特なものがあるが、驛の西にみえる賤ケ岳の新雪は江琵琶湖八景の一つでもある。

賤ケ岳には駅からバスで六分の大音からリフトが頂上近くまである。歩いても頂上へは四○分である。

ここ賤ケ岳は柴田勝次と秀吉とが戦った古戦場で、秀吉麾下の加藤虎之肋清正が活躍した七本槍三振太刀の譚は今に伝えられている。

頂上に立つと北に「万葉集」の歌枕、余呉(よご)湖が見下ろされる。

琵琶湖北端の塩津浜から余村・疋田を通り山中に延びる塩津街道はその名の如くに敦賀湾から京・大和へ塩を運んだ生活の要路であった。

 敦賀へ入る。

昔と変わった海港らしい雰囲気の中を敦賀湾に向かうと途中曙町に越前一ノ宮気比神宮がある。戦国末期に信長に

よって火をかけられたこともある。

気比神宮境内には「奥の細道」に因んだ芭蕉の句碑

「なみだしくや遊行のもてる砂の露」

が建てられている。この句は「奥の細道」の句とは異なるものだがこの句碑の方が初案の句という。

本膳寺の句碑は「奥の細道」にもみえるように

「等栽に筆をとらせて寺に残した」ものを刻んだものである。

敦賀は西鶴も興味をもっていたが、その影響著しいのは近松で、「傾城反魂香」はここを舞台にしている。

ケ崎より福井に至る敦賀街道を海岸沿いに北上するこの湾曲には「万葉集」で、

気比の浦(人麿)・田結(たい)の浦(金村)・五幡(いつはた 家持)などの歌枕が続いている。

この海岸を歩きながら、かつて琵琶湖を越えて北陸へ入った万葉歌人が、三方(みかた)五湖で代表される女性的な敦賀の海を川の当たりにして、京を偲んだ感慨が味わえる。

 武生(たけふ)駅から東に延びる私鉄南越線で行く五分市駅一帯は、

万葉の歌枕の味真野で、世阿弥の謡曲「花がたみ」の中で、大跡辺皇子(継体天皇)と照日との悲恋物語の舞台として登場する所でもある。駅の目元〇〇メートルの高瀬町の芳春寺は紫式部が住んだ所と伝えられるが、これに因んで紫式部歌碑が建っている。

 

 鯖江駅から鯖浦線一〇分で西田中駅につく。駅の北西の丹生郡朝日町には平安時代の盲目歌人蝉丸の墓がある。蝉丸の遺言に従ってこの地に埋葬したと伝えられている。

 米原から急行八○分で福井に出られる。谷崎潤一郎の「盲目物語」の舞台でもある福井は城下町として発展した。駅から西え一○分で行かれる福井城跡は、今は県庁として利用されているが、かつては足利高経以来秀康、松平氏一七代の居城であった。天守閣跡にはこの福井の地名の起こりである「福の井」がある。市内を流れる足羽川にかかる幸橋を渡ると右側の左内町は、安政の大獄で刑死した橋本左内の生地で左内の宅跡は春山町二にあるが左内公園には左内の墓がある。

 足羽(あすわ)山公園の裏の足羽山の中腹には新田義貞ほか新田一旋四名を祀った藤島神社がある。南北朝時代にはここ足羽山は南朝方の北陸地方の拠点となった所であり、後年は北陸に振るった前田氏を抑えるために徳川親藩の桧平氏が本拠とし、城下町として一段と発展した町である。

越前松平氏の祖は家康の二男結城秀康だが、その長子忠直の史伝に沿い生活模様を描いたのが菊池寛の「忠直郷行状記」(一九一八)である。忠直卿の居城である福井城がその舞台の中心となっている。

 

 福井駅の機関区を克明に描いた中野重治の「汽車の焚き」(一九三七)がある。重治は坂井郡京椋村一本田(今の丸岡町一本田)の生まれである。また、江戸末期の歌人で「ひとりごち」や「草径(そうけい)集」の大隅言道や近世の万葉調歌人橘曙(あけみ)もこの福井の生まれである。曙覧の歌碑は足羽山の歴史館前と市内照手町の旧定跡や、更に九頭竜川と目野川の合流する同市田谷町の大安寺に建てられている。

 

 福井駅より東に延びる美濃街道に沿う越美北線で一乗谷に着き、越前守護斯波氏から朝倉氏五代義景までの住居朝倉氏館跡は、一見して映画のセットにも似た場所にあるが、館跡の正面の四脚門は文明三年(一四七一)このものだが桃山様式の優雅さがあり、北国の武威の一端をみる思いのする構築である。

 

 福井駅から京福電鉄三〇分で永平寺につく。永平寺は吉田郡永平寺町にある曹洞宗大本山で、寛元二年(一二四四)に道元禅師を開基とし、完全な禅宗式の姿をとどめており、現在でなお百余名の衆憎が修業を行なっている寺院である。吉井勇の「人間経」(一九三四)や山口誓子の「福井行」(一九六一)はいずれ永平寺を訪れた時の歌句であるが、ここを舞台とした作品以外に少ない。なお永平寺には一度に千人を泊める宿坊もある。

 

 北陸線金津から西に三田線で行く芦原駅は温泉地で有名だが、駅の北にある北潟湖は井上靖「蘆」の舞台で、景勝の地である。ここから更に円本海岸の終点三国港駅は九頭竜川の河口に当たるが、駅前から沿岸沿に北上する三国町米ケ崎は、三好建治が「砂の砦]を詠んだ場所である。達治は一九四四年から五年間ここ米ケ﨑に隠棲していた。また米ケ崎から一キロの沿岸が福井県の観光の白眉である東尋坊である。義経も奥州への途次平泉寺からここに立ち寄り、山伏姿に身を変えて安宅の関へ向かったという。

また、三国町に生まれの高見順の「おれは荒磯の生れ」の詩碑が建治や虚子子の碑とともにここに建っている。探勝の海岸に立って寄せる波を眺めていると、山東京伝の「三国小女郎物語」の人魚を食った八百比丘尼伝説や東尋坊の名の起こりの伝説がまざまざと思い出される。

 東員訪から再び金津に戻り石川県に入る。

 加賀市は山代・片山津などの温泉街を偕行北陸随一の温泉町でもある。

田山花袋の紀行文「温泉めぐり」(一九一三)や泉鏡花の「鷭狩」(一九二三)にはこれらの温泉街がよく描かれている。片山岸温泉の西にある柴山潟の西方の老松茂る丘陵は、

芭蕉が「あなむざん甲の下のきりぎりす」と詠んだ梶原の古戦場跡である。

 

木曽義仲に追われた平維盛はここに陣をはり義仲に向かったがこの攻防戦は義仲の勝利であった。

斎藤別当実盛が白髪を染めて義仲と戦ったことは謡曲「実盛」にみえる。

芭蕉は多大神社を訪れてこの宝物を見、先程の句を吟じたものである。同社の拝殿横には自然石にこの句が刻まれている。

 

 小松駅より西ヘバスで十五分程行くと梯(かけはし)川がある。この川口の左岸の小高い砂丘には世阿弥の謡曲「安宅」で知られる安宅の関跡がある。古来北陸の重要な関であったここは「勧進帳」によっても周知のところである。この関所で関守富樫左衛門尉泰親にとがめられた弁慶が白紙の勧進帳を披露するという歌舞伎十八番の一つの舞台である。今もこの譚によって富樫・弁慶の銅像が松林の中に建っている。その横には與謝野晶子の歌碑がみえる。

 小松市から北上して松任(まっとう)で下車する。ここは江戸中期の女流俳人、加賀千代女の生没の地である。千代女の遺稿や愛用の手文庫はここ石川郡松任町の聖興寺に保存されている。

また同寺境内には千代女の辞世の句「月みてもわれはこの世をかしくかな」を刻んだ句碑がある。

 

 米原より急行三時間三〇分で加賀百万石の城下町金沢につく。

金沢は前田別家がこの地に移ってから一層発展した町で、今でも町の家並みにその城下町の悌を偲ぶことができる。城下町ばかりではなく九谷焼加賀友禅などの美術工芸も盛んな町である。金

沢は、北を流れる浅野川の北岸の卯訳出の丘陵と、南を流れる犀川の南岸の野田山の丘陵に囲まれた街である。自然の環境の良さは多くの文学者を生んでいる。泉鏡花をはじめ徳田秋声、室生犀星などはこの町に生まれた。鏡花は下新町二三で生まれ、生活に困り食わんがために小説を書き師とした紅葉の許に送った。これが「義血侠血」 (一八九四、翌年「滝の白糸」と改む)である。

今も浅野川大橋の挟から南に行き坂道を右に折れた所にその生家の碑「泉鏡花先生出生之地」がある。「滝の白糸」の碑は卯辰山に向かって浅野川にかかる天神橋の袂の左側の松並本の下に小説の舞台に因んで四角い一メートル程の碑に「滝の白糸碑」と刻んで建ててある。

「滝の白糸」の他、金沢を舞台にした作品には「照葉狂言」(一八九六)・「由縁の女」(一九一九、後「櫛笥集」

と改む)「竜胆と撫子」(一九二一)などがある。

秋声は今も生家路の残っている同市横山町二に生まれ鏡花と同じく紅葉を師としたが、立場の異なった作家であった。自然主義の代表的な短編小説といわれる「町の踊り場」(一九三三)をはじめ「灰皿」(一九三八)などで下新町を中心とする金沢の風俗を描いている。彼の小説にしばしば登場する卯辰山の頂上には白塀を背にした松林

の中に「書を読まざること三日……」の筆跡を刻んだ文学碑が建っている。同じ塀の左下には犀星の碑文もある。犀星は彼の処女作集「抒情小面集」(一九一八)で犀川を愛し詠じているが、この犀川べりの裏、千日町に生まれた後、近くの室生真乗の養子となって真乗の住む雨宝院に住んでいた。

この雨宝院は犀川大橋の袂にある。犀星の雨宝院と反対側の大橋の袂には芭蕉の句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」がある。元禄二年「奥の細道」の途中の吟という。芭蕉はこの大橋に近い片町通りの左側にある宮竹屋敷に一晩を過ごしたのである。井上靖の「あすなろう」(一九五〇)にもこの犀川が登場する。

 兼六公園はほぼ市の中央にある。雁行橋やことじ燈籠は有名で、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本三名画の一つで、古くは蓮池亭といわれた代表的な回遊式の庭園である。

園内には美術館もある。兼六園の北には三十三間長屋と石川門が美しい金沢城址がある。かつて尾山城と称した城で鉛葺きの瓦や真白い海鼠(なまこ)壁は四季を通じて優雅さをみせている。この城を金沢城と称した前田利家公の墓は夫人とともに駅の南東の野田山の麓にある。

 犀川の川口の金石港には江戸川の廻船問屋で知られる銭屋五兵衛一族処刑の跡やその屋敷跡があり、今は、銭五会館として一般に公開している。

 

 金沢駅から石川線で三五分の加賀一の宮には、全国の白山神社の総本社である武内社白山比咩(ひめ)神社がある。ここは「万葉集」や 「古今集」の歌枕でもある。

 宇の気から更に北上し凡そ金沢から九〇分で「三千路から直越え来れば羽咋の海」と「万葉集]で家持が詠んだ羽咋(はくい)に着く。邑知(おうち)潟から流れて来る羽咋川の川口の街で歴史の古い街である。

駅から約二〇〇メートルの羽咩神社境内にある羽咩古墳と称する前方後円の大塚は垂仁天皇皇子石衝別命の茎と伝えられている。

 国鉄七尾線の七尾は泉鏡花の「山海評判記」(一九二九)に登場する和倉温泉も近く混在では石川県随一の港町でもある。登戸国分寺は今では国分町に僅かに塔の礎石と土壇を残すのみだが、ここから南一帯古城町にかけては上杉謙言と畠山義隆とが争った七尾の古戦場(一五七七)址である。この合戦の勢いで上杉氏が能登へ進出することになるのである。七尾城の落ちるのをみて謙信は[霜は軍営に満ちて秋気清し」を賦したのである。七尾から七尾湾に出る。前方に浮かぶ島は能登島で、周囲七二キロの島で、万葉集に詠まれた歌枕の島でもある。ここへは七尾から能登島の港佐波へ二五分で行かれるフェリーの便がある。島の中央には武内社、伊夜比咩神社があり、毎年七月三一日の夜に催される火祭りは能登島の火祭りとして全国に知られている。

 米原より急行で凡そ三時間程で列車はくりから隧道に入る。トンネルを出て国道八号と交差する時右手前方にみえる山が礪波(となみ)山で、この山の峠道は木曽義仲が平家追討のため京へ上る途次、平清盛を破った「平家物語」にみえる倶利伽羅峠である。峠の頂上には惧利伽羅不動尊がある。この峠へは石動か、礪波からが近い。

家持が「万葉集」に「焼太刀を礪波の関にあすよりは」と詠んだ礪波関歌碑は麓の小矢部市石坂に建てられている。芭蕉もこの峠を七月一五日に越えて加賀に入ったのである。

 井上靖の「七夕の町」(一九四六)は北陸本線高岡が行事の七夕で賑わう場面をもって終わる作品だが、同市の関野神社の祭礼に全町を御車山(やま)がくり出すように豪華なイメージの街でもある。

 

文学関係では、鏡花が「取舵」(一八九五)で描き、また堀田善衛が「奇妙な青春」(一九五六)で舞台としている伏木港は駅から近い。善衛の「鶴のいた庭」(一九五七)は彼の自伝的小説であるがこれにはこの市の風情が詳しく描かれている。

 駅の北西にみえる二上山の山頂には家持の銅像が建てられている。この銅像は一九五三年に高岡駅頭に建てられたものだが、六二年に家持縁りの二上山に移されたものである。この二上山一帯を現在万葉ラインとよんでいる。

 同市の定塚町にある古城公園は第二代金沢藩主前田利長の築城した高岡城址である。古城公園には射水(いみず)火祭りで知られる射水神社がある。祭神は二上神で、古くから越中の総鎮護として二上山に鎮座されていたものであった。公園の南側には銅器の都高岡らしく日本三大仏の一つ高さ一六メートル余の高岡大仏がある。高岡市内から冨山湾寄りの氷見市に出ると雨晴(あめはらし)海岸家持の歌「渋谷の崎荒磯に寄する波」にみる渋谷の崎である。この東隣りの入江に歌枕氷見の江である。また「新古今」の「わが恋は有機の海の」(伊勢)と詠まれた有磯の海は氷見の江から富山湾を望んだもので、今も地元ではこの一帯を有機の海と呼んでいる。この海岸は

英遠(あお)の浦(阿尾)や宇奈比川(宇波)など「万葉集」の歌枕が多く、万葉の旅を楽しむ絶好の場所である。

 

 米原から急行で三時間二〇分の富山は、高山本線と交わる交通の要所でもあり、古くから薬の町として全国に知られている。

 「三等重役」の源氏鶏太はこの市の泉町五七の生まれである。井伏鱒二は広島県の生まれだが、冨山港線の終点岩瀬浜を出帆した長者丸を中心として「漂民宇三郎」(一九三八)を書いている。

富山から滑川へは海岸沿いに行くのもよい。滑川より北へ四キロの魚津昭の山手で国道人号を横切ると天神橋に出る。この橋上に立ち下を流れる行員川の伝説を叙事詩的長歌に詠んだのが長塚節の「橋」(一九〇一)である。

 黒部峡谷へは魚津から正一郎鉄道が通じている。黒部を越えると信濃大町や、松本または糸魚川へも容易に通ずることができる。

 泊驛よりバスで下新川郡朝日町小川元湯につく。泉鏡花の「女の魂」(一九〇〇)はこの小川温泉の湯女の神秘的な哀話を描いた作品である。泊駅をすぎると越後へ入ることになる。

芭蕉の「奥の細道」とはコースが逆で、市振で曽良は「翁気色不勝、暑極て甚し」と記したが、今は市振駅から真っすぐ青海町市振の長内寺に詣でる。ここの境内の杉の木立ちの下には、芭蕉の「一つ家に遊女もねた萩と月」の句碑が糸魚川を郷里とする川馬御風の揮毫で建てられている。市銀から親不知へ出るが、途中の海岸沿いに進むうち前方を遮る岸をのぼってしばらく行くと眼下に親不知がみられる。ここは「源平盛衰記」や「承久軍記物語」の舞台となっている天下の険路であった所である。ここから謡曲「山姥」の舞台糸魚川へは一〇分たらずで到着する。

 

  • 高山本線とその周辺

 

名古屋から岐阜・高山・富山・米原を経由して名古屋に戻る高山本線経由北陸本線循環があるので、これから先へはこのルートを利用するのがよい。

 名古屋駅を出た急行は一五分程で愛知県と岐阜県の境を流れる木曽川の鉄橋を渡る。岐阜駅より市電またはバスで長良橋でおりると、毎年五月一〇日から二〇月一五日まで鵜飼の催される長良川である。謡曲「鵜飼」にも登場する鮎は香魚(こうぎょ)とも書くがこれを素材とした「香魚鮓」(あゆずし)の話は平治の乱に源頼朝が自明という鵜匠にたべさせられたことに始まるという。丹羽文雄の「鮎」の一舞台でもある長良川に芭蕉も遊び、「あたり目に見ゆるものは皆涼し」(一六八八)と詠んだ句碑が湊町十八楼に建っている。

 

河畔の山は金華山で、頂上には織田信長の築威になる岐阜城(稲葉城)がある。

森旧草平が「稲葉の山はここから見ても矢張り美しい」と「輪廻」(一九二三)でのべている。

 

戦国時代の武将、斎藤道三父子がこの目前の長良川を挟んで戦ったが、これをテーマにして中山義秀は「戦国史記」(一九五七)を書き好評を得た。父子の戦いは道三の敗北となり遺体を葬った道三塚が今は県営グランドの北側にその供養碑と共にある。

森田草平の「煤煙」(一九〇九)には「昼なほ暗い藪の中に塚がある」と記されているが今、周囲はきれいに整地されている。草平は鷺山町の生まれで、漱石の門下生の一人だが、今日彼の生家の跡には文学碑が建てられている。

信長・信忠父子の廟は斎藤利定か明応四年(一四九五)に自分の館を寺院とした長良福光町の崇福寺にある。  

 

「続猿蓑」の撰者であり「笈日記」の各務支考は河畔の北野で没したが、支考を中心として美濃派が全国的に広がるのであるが、支考が常住した獅子庵は、かつては北野西陣の町中にあったが、天保一四年(一八四三)には現在の地に移築された。瓦葺きの平屋である。

 

岐阜より二〇分損で右手の平野の中に小高い山が二つみえてくる。手前の山は犬山で、この頂上には現存する日本最古の天守閣(国宝)をもつ犬山城がある。山下の流れは木曾川である。ここより一〇分で美濃太田につく。ここから越美南線に乗り換えると打刃物の町関市へ行かれる。関の市内には至る所に刀工の菩提寺があるが、同市長谷寺町にある新長谷寺は地元では吉田観音と称され、貞応元年(一二二一)に大和長谷寺観音のお告げで建立されたもので、後堀川天皇よりの賜号寺である。本堂・七堂伽藍も整っており本尊の阿弥陀立像は寄せ木遣りで快慶の作という。

千足町植野蓮華寺の境内には宇治川の合戦で敗死した源三位頼政の首塚がある。

 関市から八分、美濃紙で名高い美濃市につく。駅に近い大矢田楓谷には、

支考の句「飛ぶ鳥の羽うち焦す紅葉かな」の楓谷の紅葉で知られる小倉山公園や霊鳥、仏法僧の棲息する州原神社の杜がある。粥川(かゆがわ)うなぎの槌意地苅安沢を過ぎて二〇分で、郡上踊りで知られる郡上八幡につく。ここより更に北上し白鳥駅で降りる。白鳥町には「美濃神名帳」にもみえる白鳥伝説の発祥の古社白鳥神社が県道沿いにある。ここから先に行き、越美南緯の終点北濃より国鉄バスで、合掌造りで知られる白川村鳩ケ谷につく。

 

再び点出緯美濃太田駅に戻る。この太田市を流れる日本ラインの景勝は江戸の儒者斎藤拙堂の「岐蘇川舟行」 (一八三七)や、幸田露伴の「掌中山水」(一九一九)によって全国に紹介されたが、吉田松陰も嘉永六年(一八五三)にここに歩を運んでいる。

 美濃太田駅から南に延びる太田線にて陶磁器で名高い多治見につく。同市新町一には鎌倉幕府打倒の口火を切った「太平記」にみえる多治見国長の邸跡が、今では市街化のために幅四メートル程の小祠として残っている。また長瀬町には、勅願寺であった夢窓国師開創の臨済宗鹿渓山永保寺があり、この付近一帯は夢窓国師が中国廬山の虎渓に似ていることによって命名したといわれる虎渓公園もある。多治見からは中央本線で恵那峡や付知峡の入口恵那・中津川を経て木曽路に出ることができる。

 高山線の上麻生(あそ)から白川口に至る一二キロは車窓からみても絶景の地で、東海の耶馬渓といわれる紅葉の美しい所だが、更に北上する飛評金山から益田川沿いの下呂に至る二八キロは長谷川伸の「中山七里」の舞台となっている中山七里である。温泉の町下呂には円空上人で知られる円空窟が駅より南寄りの下呂町深谷の国道から五〇〇メートルの山腹にある。下呂から七分程の右側に国鉄線より一〇〇メートルの所にみえる寺院は臨済宗妙心寺沢の天下十刹古禅林の一つ禅昌寺である。南北朝の復円融天皇(北朝)の勅願寺であった寺だが庭が美しい。

 御岳山の登山口、小坂をすぎ日本の分水嶺宮峠を越えるとすぐ左手奥にみえる四角の山が歌枕の位山である。飛騨一宮駅より一〇キロ西にある。一宮駅の東一キロには飛騏一市三郡の総社であった式内社「水無神社」がある。位山はこの神社の神領であった。この一宮は藤村の小説「夜明け前」の中にも登場する。神社境内には左甚五郎作の神馬がある。

 名古屋より急行で三時間二〇分、高山につく。高山は流水が美しい町である。田中冬二はこれを「飛騨高山」の詩に詠んでいる。高山は井上靖の「氷壁」(一九五六)の舞台穂高への登山口でもある。

歴史の古い高山祭は毎年四月一日、五日、一〇月九、一〇日に市中をあげて催され、その時には飛騨の匠が腕を振るった集合美の山車(だし 屋台)二三台が井然とした町並みに曳き出される。

駅より五分の国分寺通りの入口には飛騨国分寺がある。現存の本堂は室町期の再建になるものだが、本堂には行草作の司郎如来座像と平安期の春日作の観世音菩薩立像が安置してある。境内には銀杏の巨木と三重塔がある。飛騨の国府は高山より北の国府村にその址がある。

 市中を流れている神通川の上流である宮川には今でも種々の鯉が泳いでいる。宮川にかかる鍛冶橋を渡ると正面には京都の東山に因んで名づけただけあって、寺院が数多く並んでいる。「無限抱擁」の作者滝井米作は同市馬場町の生まれである。

 東山の一角にある高山別院(東本願寺別院)を右に折れると高山城址に至る道である。高山城は秀吉の命によって越前大野の城主金森長近がこの趙に入り築城したものであり、今は本丸や一の丸などの石垣にその悌を偲ぶのみだが、城址公園内には白川郷より移築された後鳥羽天皇皇子嘉念訪善悛の創建になる照蓮寺や詩人福田夕咲・松日常憲などの句碑がある。千利休の長子千道安を開祖とする宗和流茶道はこの城において発祥したという。

徳川幕府直轄の天領であった陣屋跡には今も表門が残されており、代官梅村速水(はやみ)の時の米騒動、梅村騒動の根拠地もここであった。この騒動を江馬修は「山の民」(一九三八~四〇)において小説化している。

 市内上一之町には郷土館や屋台会館があり、訪問者に便利な資料館となっている。

本居宣長の高弟、「竹取物語解」の田中大秀は上一之町の薬種商に生まれたが今は何も残っていない。ただ城山の

裏手の江名子町の松宮岡に多少の資料が残っている。駅の裏手の中山を越えた川上川の沿岸下林町や赤保木町は飛騨春慶塗発祥の地でもあり、川上川の下流の三枝(みえだ)地区は古事記にもみえる歌枕でもある。

 高山駅から万葉集の歌枕丹生川を経て小八賀川沿いに平湯峠を上れば、夏は乗鞍岳へもまた上高地へも出られる観光ルートでもある。山本茂実の「あゝ野麦峠」で知られる野麦峠へは高山から漆垣内町を経て高根村より車で容易に行くことができる。乗鞍への国道一五八号の途中、丹生川下保(しもぼ)で下車する千光寺山腹には古義真言宗派の袈裟山千光寺がある。ここには立木仁王像や円空像が多く保存されている他、平城天皇の廃太子高岳親王(真如上人)ともいかれる伝説上の人物両面宿直儺の立像がある。

 再び高山に戻り奇祭の起こし太鼓の古川町につく。町の百数キロは泉鏡花の「高野聖」の舞台天生(あもう)峠への入口でもある。天生峠を越せばすぐ白川郷である。古川から東に入ると神岡鉱山へ通ずるが、神岡鉱山への近道は猪谷駅から神岡線で入るのがよい。猪谷を過ぎると岐阜県から富山県に入ることになる。越中八尾で下車すると駅の左の婦負(ねい)郡八尾町は吉井勇が第二次大戦中疎開をしていた所でその時の詠歌は「流離抄」や「寒行」に入っている。八尾をすぎると、万葉歌人大伴家持特の任地本越中へと通ずる。

                    (中田武司 著)


森鴎外 「夢がたり」の妖しさ 萩原朔太郎 著

2024年08月25日 19時54分10秒 | 文学さんぽ

森鴎外 「夢がたり」の妖しさ

 

萩原朔太郎 著

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

森鴎外の『うた日記』は、日露戦争に第二軍軍医部長として従軍(明治三十七年四月から三十九

年一月まで)した鴎外の、従事中たえず制作していた詩や歌を集めて成った詩歌集である。

それ鴎外の陣中の動静ならびに感懐をつぶさに知りうる機会詩として面白い。同時に鴎外の内奥にひそんでいた詩的想像力の、ある種の異様な発現、展開の記録としても、それは注目すべき面白

さをもっている。

 『うた日記』(明治四十年元月刊)の価値について世間の蒙を啓いた第一の功労者は、いうまでもなく、『陣中の竪琴』(昭和元年三月号「文藝」、のち単行本として修正加筆して刊行、『佐藤有夫全集』第十巻所収)を書いた佐藤春夫である。「森林太郎が うた日記 に現れた日露戦争」と副題にあるように、これは『うた日記』の作品に即して岡外の詩作品の価値を顕彰すると同時に、作品を通して日露戦争の戦況の働きをも遠望しようとしたものである。もっとも、佐藤春夫自身認めているように、戦史的な知識の乏しさから、日露戦争そのものの包括的展望にまで深く及んでいるとは言い難く、その真価はやはり、詩人としての森鴎外を、その陣中作品の懇切な紹介、鑑賞を通じてひろく世に知らしめようとした点にあった。そしてその点では、この諭は所期の目的をほぼ充分に果している。

佐藤春夫はもともと批評家としてのすぐれた触覚と見識をもった詩人だが、『陣中の竪琴』は、師と仰ぐ鴎外の詩歌に対する世評がともすると低いことに、義憤のようなものを感じつつ、その不当なゆえんを、鴎外の実作によって実証しようとしたものだから、おのずとそこには情熱的な詩人倫が展開された。鴎外論として欠くべからざる重要な価値をもつ著作『森鴎外』を書いた石川淳も、詩人としての鴎外を諭じるに当って、主に「我百首」(明治四十二年五月「昴」第五号)をとりあげ、『うた日記』に関しては、佐藤春夫に敬意を表して、深くは触れていない。もう一人の鴎外倫の筆者である詩人、日夏耿之介の場合、局外の詩歌は散文に比して何といっても二流のもののように考えられていたことは、同氏の『鴎外文学』中の詩歌論を読めばわかる通りである。

 

 『うた日記』に関しては他に学者の精細な論があるかもしれないと思うが、今のところ管見に入らない。いずれにしても、『うた日記』に関する重要な著作として佐藤春夫のそれをあげることは間違ったことではあるまい。

 

 しかるにここに、どういうわけか佐藤氏の『陣中の竪琴』ではまるで顧みられていない興味ある鴎外詩歌の一群が『うた日記』にはあって、少なくとも私には、きわめて意味深い作品群と考えられるのである。その一群とは? 幸いにそれらは、ひとつの章にまとめられている。「夢がたり」の章である。

『うた日記』はもともと五つの章に大別され、集中の大部分は、まさに日記体をとって克明に記されている。

「うた日記」の章で占められる。佐藤氏が主として諭じたのもこの章であった。次いで、レーナウ、プラーテン、メーリケ、リリエソクローンその他ドイツ詩人の戦争詩の訳を集めた「隕石(ほしいし)」の章が来、続いて「夢がたり」「あふさきるさ」「無名草(ななしぐさ)」の各章が来る。いずれも、冒頭の「うた目記」の章にくらべれば著しく短い。そして、「うた日記」の諸作が具体的に制作年月日および制作地の記入をともない、明確に機会詩的性格をもった陣中の身辺即事詩であるのに対し、「夢がたり」の諸作は、日付をもたず、かつ身辺即事的な性格を持ちながらも、そこには濃密内面的秘密の影がさし、しばしばデモーニッシュな狂気の泡立ちさえ感じさせることがあり(その点で、かの有名な「我百首」や、「舞扇」「潮の音」などの短歌作品に若干共通するところがあり)、後に鴎外が『沙羅の木』(大正四年)所収の、市井日常の事象に取材した平淡な口調の写生風の詩で新生面を開いたのとは対照的に、詩人鴎外の最もわかりにくい部分を、多分に含有しているのである。

 

 このわかりにくさ、これがはなはだ魅力的だ。わかりにくさというものは、しばしば詩の重大な能力の源泉になるものであるが、鴎外の揚合、人一倍そういう感じがある。そこには、何か一筋縄ではゆかぬもの、ある端倪(たんげい)すべからざるもの、ある種の怪奇趣味と緊密に結びついた、暗い飢渇か感じさせる憧れ心のゆらめきがある。そのゆらめきは、時には鬼火のように不気味に燃える炎の舌にさえなる。悟性の人森鴎外の秘められた一面がそこにうかがわれる。

そこには、彼の小説や評論の中では出介うことのできないある種の内的な渇望の、詩的形象にあやうく包まれて

いるが内実は妖気たちのぼるような表現さえ見出せそうに思われる。

しれじれし夢みるひとのゆめがたり中に悲劇のいとどふさはぬ

「夢がたり」の章はこの序歌ではじまる。鴎外の『うた日記』の各章は、すべて同種の序歌によって始まっていて、中でも冒頭「うた日記」の章の、

こちたくな判者とがめそ日記のうたみながらよくばわれ歌の聖

は、それに続く「自題」という詩とともに、よく知られているといってよい。ついでに言えば、「自題」は『うた目記』全篇をみずから人々に紹介し、あわせて自分の抱懐する詩観を披露した詩で、近代詩集に数多い序詩、序歌のたぐいのうちの秀逸のひとつであろう。

 さて、この「しれじれし」の歌、一見何の問題もないようにみえる。だが、私にはどうも気にかかる歌である。やや誇張していえば、「序歌からしてすでに妖しげな……」というほどのものである。なぜか?

 歌をもう一度読んで頂きたい。

「愚かなことよ、夢みる男の夢語りなどというものは。まるで悲劇など似つかわしくないじゃないか」

というほどの意であろうが、何といっても奇妙なのは、「しれじれし(痴れ痴れし)」の初句で一旦切れ、「夢みるひとのゆめがたり」と二、三句がこれを受けたあとに、なぜ唐突に、悲劇などは似つかわしくないよ、という自嘲的ともとれる述懐が続いているのか、それがよくわからないという点である。悲劇などはまるでふさわしくない、という言い交わしは、上三句とは必ずしも自然につながらない。鴎外はこの下二句を付けるとき、かなり意識的に「悲劇」という語をここに持ち出している。つまり悲劇などはまるでふさわしくない、という述懐の、真意は、むしろアイロニカルに裏側にかくされているのではないか、というのが私の感じる疑問なのである。鴎外はこの言葉とは裏腹に、内密な「悲劇」の存在をこのとき自らの内部に自覚していたのではなかろうか。そういうことをふと考えさせるような皮肉なものがこの歌には感じられる。鴎外はその「悲劇」の自覚を率直に表現することに対して自らブレーキをかけ、むしろそれに愚かしい夢物語という外貌を与えて、全体をアイロニカルな微笑の中に包みこんでしまったのではなかろうか……鴎外は「夢がたり」という形で、ある内的な秘めごとをおぼろめかして表白し、しかもそれを「痴れごと」としてアイロニカルに否定してみせているのではなかろうか……

 

このような見方は、限外を評うるも甚だしいとされるかもしれない。だが、作者というものは、ときどき一見荒唐無稽な夢物語の形で、最も大切に保ちつづけてきた秘密をもらすこともあるのだ。

 少なくとも、『うた日記』を通読してみれば誰の眼にも明らかな事実は、「石田治作」や「乃木将軍」のような作品によって代表される、従軍叙事詩人的な鴎外、すなわち具体的、客観的で冷静沈着な歌いぶりにおいて近代詩の作老中屈指の人たった鴎外と並んで、内面に混沌たる暗部をもち、そこから噴きあげる曖昧なものを、象徴的な歌いぶりによって包みこみつつ、主観的な「夢がたり」の造形に熱中しているもう一人の鴎外がいるということである。

 大体「夢」に関心をもつということ自体が、すでにそういう心的傾向のひとつのあらわれであって、鴎外の「夢がたり」詩篇は、のちの「我百首」などとともに、近代詩の中での、数少いその種の意識的試みの一つとして読むことができるのある。

 

  わが夢の    嚝野には

  汝いかで    いでて見ん  

  阿古屋貝    蔵せる珠 

  汝が夢の    楽園に

  ともすれば   われゆかん 

  清冷の     淵なる魚

 

  やさしき汝が  夢のかぎり

  われ問わずしてしる

  草を縫ふ    谷間の清水

  樋にこもる   小琴のさや音

  忌ゝしきわが  夢のきはみ

  汝は問はずもあれ

  鳥落つる    高根鳴沢

  檝絶ゆる        荒海渦潮

 

 「夢がたり」の章の殼初におかれた作品である。ついでにしるしておけば、「夢がたり」の章はこのあと、

「蟋蟀(きりぎりす)」(詩)、「風と水と」(同)、短歌十三首、「わが墓」(詩)、「花園」(同)、短歌十九首、「笑(えみ)」(詩)、短歌十一首という構成になっていて、全体としても大して長い章ではない。

 さて、この「夢」という作品、大凡のところ、次のような意味のものであろうか。

 

 〈私の夢はさながら嚝野である。そんなところへ、どうしてあなたが出てくることがあるだろうか。

あなたの夢の楽園は、まさにあこや貝がかくしている真珠だ

(この部分の解にはやや不安をおぼえるが今はしばらくそのままとする)。

その楽園に、ともすれば私は泳ぎ寄ってゆく、清冷の淵に住む魚のように。

やさしいあなたのみる夢の一切、それを私は、あなたに問わずとも知っている。

  それは草を縫う谷間の清水、樋にこもる小琴さながらの清らかな水の音なのだ。

それに反して、私の夢の何と忌々しいことだろう。

あなたはそんなものについてあえて問う必要もないのだ。

私の夢は、鳥もそこまで飛べば墜ちてしまうような高嶺であり、鳴る沢である。

また舟ならば、楫も絶えるほどの荒海であり、渦潮なのだ。〉

 

鴎外がここで「汝」と呼びかけている優しい夢の女性は、だれなのだろう。常識はこの女性をただちに、東京に残してきたしげ子夫人だとするだろう。この美貌をもって知られる二人目の妻と鴎外は、明治三十四年十二月に結婚し、鴎外出征の一年ほど前に、長女茉利(まつり)が生れたばかりであった。結婚当時、鴎外は数え歳で四十一歳(ただし実際には三十九歳だったという)、しげ子は二十三歳、そして先妻登志子との間に生れた長男の於菟はすでに十二歳になっていた。鴎外の小倉時代後半は、人形のようなしげ子夫人との幸福な蜜月時代であったようだが、帰京後の鴎外は、彼を奪い合う母堂峰子と妻しげ子との確執の間にたって苦悩しなければならなかった。そして彼の出征後、夫人は茉莉を連れて芝同舟町の実家の近くにある、実家の持家に別居するにいたる。

これらの事情は、森於菟氏の「鴎外の母」や「院外と女性」(いずれも『森鴎外』所収)その他に語られて、すでに広く知られているところだ。


粗銅の晩年 身近で世話をした 子光 素堂句集 序文(漢文)子光

2024年08月14日 14時18分33秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

素堂句集 序文(漢文)子光

夫レ人ニ生有レバ必ズ殂落スル也。

唯ダ言語有リテ文辞ヲ紙上ニ載ストイヘドモ千歳ハ久シ難シ。

猶其人ノ面ニ接スルニ奥有ル也。

粤有隠逸山口素堂信章ハ、

盧ヲ江城ノ東北浅草川(隅田川)両国橋ノ傍ラ、

下総ノ国葛飾ノ郡ノ内ニ結ビ、歳月ヲ経テ久シ。 

良性(生まれながら)野(朴質う志シ多ク、

固トョリ貨財(金銭)ヲ以ッテ世事ヲ経ズ、

心偏ラズ雪月花ノ風流ヲ弄ブ。弱冠自リ四方(諸方各地)ニ遊ビ、

名山勝水或イハ絶レタル神社、或イハ古跡ノ仏閣ト歴覧セザルハ無シ。

亦タ数適ノ師ナリ。

詩歌ヲ好ミ猿楽ヲ嗜ム、和文俳句及ビ茶道ニ長ズル也。

其ノ作「蓑虫記」ハ風俗文選ニ載セ、俳句ヲ載す。

于(ココ)俳諧糸屑シテ行ク世ナリ。

天質疏通(天性さわりなくとおり)強(彊)記(物覚えが良く)往ク所ノ詩歌和文等ハ、

咸(スベテ)胸中ニ於テ之レヲ暗誦シ、

人卜紙硯ヲソナヘテ之ヲ請ヘバ則書シテ其ノ筆書ヲ与ウ也。

左ノ如キ草稿ハ貴顕之レヲ召シ、好事ノ者ハ最モ鐘愛ス。

従ツテ他ノ人ノ寓ニ招カレテトヾマルコト或ハ三日四日、或ハ十日、

然ルニ阿邑(思いへつらい分け隔てる)ノ意モ無ク、

与人ニ非ズ対話シ、則ク黙シテハ泥塑ノ如シ、

人ニ其ノ説ク話シハ固ヨリ多言ニアラズ也。

其ノ庵中ニ所蔵スル書ハ数巻、

及ビ茶器ニ爨炊(煮炊き)ノ鍋釜、面シテ又タ己レニハー力肋有リ、薪水ノ労ナリ。

予、幸イ親灸シテ既ニ十有余年を得ル。

其ノ和文詩歌発句等数十帋(紙)ヲ悉ク匣(箱)底ニ蔵ス、

然ルニ其レハ蟲害ヲ患ラフ、旦ニ好欲ノ者使スル(費ヤス)頗(偏)ヨツタ蒐輯ハ冤ニシテ、

以テ写シ別ニ楮(こうぞ・紙)ヲ積ミテ一帙(一冊)ト成スナリ。

恨ムラクハ其ノ他ノ文詞ハ人ノ手ニ在リテ得ズ。

矚省ニ亦タ多クノ許シヲ焉(エン)嗟嘆此ノ人コレ謂ユル善キ隠逸者ナルベシ、

享年七十有余ニシテ病ヲ嬰ジ、享保元丙申歳八月十五夜遂ニ世ヲ謝スナリ。

武江城ノ北東隅ノ谷中感応寺中随音院内に於テ埋葬ス。

為ニ号シテ広山院秋厳素堂居士ト為ス。

享保六年辛巳年辛巳氷荘中旬(八月中旬) 子光詩


芭蕉の人間的討究(2) 斎藤清衛 著

2024年08月12日 19時51分42秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉の人間的討究(2) 斎藤清衛 著

 その頃は談林の全盛時代で、芭蕉も桃青の号を用いて宗因一派の俳席にも出た。

延宝時代(三十歳~三十七歳)の発句は八十句足らず残されているが、大凡談林調になっている。

   見るに我も折れるばかりぞ女郎花  (績建珠)

   猫のつま広の崩れよと巡ひけり   (六百番歌合)

   あウ何と屯なやきのふは過ぎて河豚汁(江戸三吟) 河豚汁=ふぐとじる

貞門の得意とした語戯れを離れて、内容上の奇抜な可笑し味を求めたのである。

芭蕉はこゝで俳諧本来の特質である通俗性を十分に拡充し、時代の俳人として立場をはっきり打ち出したのである。然し彼は談林の安易な通俗性に満足したわけではなかった。その中には手法は談林的であっても、しみ/\゛とした寂寥の漂っているものが見られる。老荘の寓言めいた句も少しずつ現れているし、後世の芭蕉を思わせるような閑寂味の句も僅かではあるが試みられている。

例えば「東日記」を見ると、

   愚にくらく棘(いばら)をつかむ螢かな

枯枝に鳥のとまりたるや秋の暮

夜密かに竊(ひそ)かに虫は月下の栗を穿つ

     富家喰肌肉丈夫喫ス菜根予乏し

雪の朝ひとり干鮭(からざけ)を噛み得たり

 

延宝時代に、芭蕉は、

「十八番発句合」(延宝六年跋)

「田舎の句合」 (延宝八年板)

「常盤屋の句合」(延宝八年板)

などの判詞を書いている。それを見ると、「貝おほひ」の場合とは違って、中古風の雅文を用い、老荘、列子、山海経などが引用されている。その頃芭蕉は蘇東坡・杜子美・黄山谷の詩集を愛読していたようで、このように漢籍に興味をもったことが、談林風から離れる一つの切掛けなったのである。幽玄といふ事が重んぜられたようであるが、その幽玄というのは、一見意味が不明で、謎のような

思想を掊屈な言い回しで表現するのが、幽玄体と考えられたのである。

「常盤屋の句合」の芭蕉の跋文を見ると、

「句々たをやかに作新しく、見るに幽なり、思ふに玄也。是を今の風体といはんか」

と賞めているが、彼が勝句としてあげた句は

「茶僧月を見るに梅干の影のごとくに來り」

「だいくを蜜柑と金柑と笑て曰」

というような、寓言めいた謎のような句が多い。こういう幽玄体の句は天和時代に入っても盛んであったのである。

 

三 芭蕉が芭蕉らしくなったのは、

 

芭蕉庵に入庵してからである。入庵当時の俳諧には、尚延宝時代の名残があった。

「俳諧次韻」(天和元年 1681)から芭煎の句を引き出して見ると、

「白キ親仁紅葉村に送婿ヲ」

「禅小僧豆腐に月の詩刻む」

というような漢語調の謎のような句が少くない。

天和時代(三十八歳~四十歳)は芭蕉の寓言時代である。

老荘や禅の思想を殊更ら尊重するといふ風があった。談林調には満足できないで、新風を開こうとするともがきが明かに看取される。藷術上の苦悶時代であった。

 天和二年(1682)三月に「武蔵曲 むさしぶり」が出、翌年五月には、[虚栗 みなしぐり]が出たが、この二書は「次韻」とともに、延宝の談林から、貞享以後の蕉風に移る過渡期を代表する作品であった。新風を開こうとする芭蕉一派の歩みが、漸く顕著著になってきたのである。「武蔵曲」

屯「虚栗」も大体同じ調子で、表現は掊屈でぎこちなく、何か寓意めいた内容をもっている。談林の滑稽の行き詰りを感じた人々が、新たな歌意を出そうとする苦悶の現れとも見られ、悲鳴のように聞える。然しこういう苦悶は蕉風をきり開く上によい結果を資した。穏健平板な調子で始まると、安易に流れ卑俗になり易い。桔屈難渋な表現も、蕉風を大成する上には、当然踏まねばならぬ径路であった。然し乱雑といっても、談林の場合とは大分趣を異にしている。わざと異様な表現をして人を驚かそうというのではない。内にあるものをいかに表現すべきかといふ苦悶の現れであった。そしてぎこちない表現の中にも、穏健平明な句が既に現れているのである。

 

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな  (武蔵曲) 盥=たらい

   櫓の卑波をうつて腸氷る夜やなみだ (同)

   朝顔に我は飯食ふ男かな      (虚栗)

   髭風を吠いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ (同)

   世にふるもさらに宗祗のやどりかな (同)

 

四 天和二年~

 

 天和二年(1682)冬芭蕉庵が火災に遇ってから、一方では無住所の心をおこし、他方では西行や宗祗の先蹤を踏もうという気持が起きていた。

そして貞享元年(1684)秋八月には、門千里とともに関西旅行に出た。その紀行文が「甲子吟行」(野ざらし紀行)であって、その出発に際して、芭蕉はこのような句を詠んだ。

   野ざらしを心に風のしむ身裁(甲子吟行)

彼は悲壮な思いをいだいて旅に出た。この旅の間に、どうしても貞門・談林から離れ、俳諧の新風を樹立しなければならぬ、死を賭しても俳諧の実体をつかまなければならないという強い覚悟があった。その決意が旅の門出にあたって、このような悲壮な句を産みみ出したのである。

 甲子吟行の句にも、

「みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」

  「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

のやうな、字余りのぎこちない調子がまだ残っている。然し次の句などには既に完成された蕉風の姿が見られる。

   蔦植ゑて竹四五本のあらしかな

   秋風や薮も畑も不破の關

   海暮れて鴨の聲ほのかに白し

  春なれや名もなき山の朝霞

   山路来て何やらゆかしすみれ草

 

悲壮の決意を以て門出をした旅の成果は、こゝに十分に現れたのである。これ等の句は貞門や談林でもなく、漢語調や漢詩趣味のものでも恚ない。

目に触れ心に感じた情景を、そのまゝ素直に表現しているのである。

 「甲子吟行」の句も、貞享元年と貞享二年では大分違っている。

元年の句には桔屈な険しい感じがあるが、二年になると大分句境が落着いている。旅が芭蕉を大きく育てたのである。一方では若い頃出奔した故郷を訪れて、心に潤いを與えられたということもあろう。それよりも最も大きな理由は、尾張の俳人達と[冬の日]の歌仙五巻を巻いて、俳諧の道に新しい希望を見出したという安心があったためではないか。

 「冬の日」は七部集の第一に数えられる書である。貞享元年冬の作であるために、趣向が勝っていて、しみ/\゛とした閑寂味に乏しいうらみはある。表現は力強く、派手ではあるが、その境地は庇に蕉風のものになっている。「甲子吟行」と「冬の日」によって、蕉風は先づ確立したと見てよいのである。

 貞享三年には、やはり尾張蕉門の手によって「春の日」(貞享三年八月刊)が刊行された。その中に、

  古池や蛙飛びこむ水の音

の句が収められている。この句は「古池や蛙飛だる水の音」の形で、すでに「庵櫻」にはいっていて、恐らくこれが初案である。

 「飛だる」には天和の響きがある。句調にはずみがあり、興に乗って表現しようとする態度が見られる。「飛びこむ」と改めたことによって、そこに著しい句境の進化が示されたのである。勿論其角の進言のように、[古池や]を「山吹や」に替えては、ただ傍観的な句になってしまう。この句は単なる寫生の句ではなく、叙景の句でもない。古池にひろがる閑寂の餘響を、しみ/\゛と味わおうとした句である。古池は心の田地ともいえるだろう。明鏡止水の心裡に灯された刹那の音に、永遠の閑寂の姿を追ひ求めた句である。

 兎も角「春の日」になると、詩句も屯連句も談林調から抜け出ている。「冬の日」にはぎごちない調子があり、感情も強く張り出ているが、それに比べると、「春の日」はいかにもおだやかで、のび/\としている。なお貞享三年(1686)には「初懐紙」が出ている。貞享四年八月には鹿島に旅行して、「鹿島紀行」の作を残した。

 

五  貞享四年十月(四十四歳)、芭蕉は「笈の小文」の旅に。

 

その門出にかういふ句をよんでいる。

旅人と我が名呼ばれん初時雨

この句と「野ざらし紀行」の門出の句

野ざらしを心に風のしむ身かな

と比べて見ると、心境が大分違っている。自己を客観視して、それを喜ぶ風情が見られる。旅に勇み立つ浮かれた気持が見られる。野ざらしの旅に出る時には、まだ確乎不動の信念ができていなかった。かすかな曙光は見えていたが、しっかりと體得されたものではなかった。今度の旅では、彼は既に風雅道に十分の信念を持っていた。野ざらしの旅に於ける自然との接触や、草庵の閑寂な生活を通して、自分の姿すら客親し得るようなゆとりができていたのである。

 

 「百骸九竅の中に物有り、かりに名付けて風羅坊といふ」といふ文章ではじまるこの紀行の冒頭の一節は、芭蕉の俳諧に対する根本観念を力強く表現したものである。風雅道を確立するまでの様々の心の苦悩を述べ、次に和歌・連歌・繪畫・茶道を貫く精神が同一であることを力説し、更に風雅に於ては、息意私情を去り、夷狄鳥獣の心を克服して、造化に随い造化に帰るべきことを説いたのである。そういう心境から眺めると、どういう卑俗卑近なものからも、芸術美は感得されるといふのである。「笈の小文」には、そういう髄順の心境を述べた句が多く見られる。

 

寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき

春立ちてまだ九日の野山かな

草臥れて宿かる頃や酋の花

ほろほろと山吹散るか滝の音

 

芭蕉は実践の人であって、理論家ではなかった。あくまで実践によって俳諧の神髄をつかみ取ろうとした。風雅感を徹底させるためには、更に大きな旅の計画をしなければならなかった。その頃は既に芭蕉の俳壇に於ける地位は固まっていた。然し彼は世間的な聲望に満足する気にはなれなかった。安易な道をさけて、険難な道を選ぼうとするのも、藝術に生きる者に取っては宿命的な悲劇であった。  このようにして芭蕉は元禄二年(1689)三月、江戸を出発して、「奥の細道」の旅に上った。同年九月のはじめ大垣に入るまで、日數百五十日、旅程六百里に及ぶ大旅行が、芭蕉の藝術を深め育てる上に大きな役割を果たしたことはいうまでもない。

「閑さや岩にしみ入る蝉の腸」

「荒海や佐渡によこたふ天の川」

などの敷々の秀吟を残したのである。

 元禄三年(1690)の春は琵琶湖のほとりで迎へ、四月には石山の奥なる幻住庵に入り、こゝで「幻住庵の記」を草した。元禄四年の四月には去来の別墅落柿舎に入り、「嵯峨日記」を書いた。その頃去来・凡兆の手によって、「猿蓑」撰集の計画が勧められた。「猿蓑」は蕉風俳諧の円熟期を代表する撰集である。芭蕉俳諧の根本理念ともいうべき、さび・しをり・細みが、その完成された姿で示されているのである。発句

病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」

から鮭名空也の痩も寒の中」

などの佳吟が多く収められている。

 元禄四年十一月の朔日に、「奥の細道」の旅に出てから三年ぶりで江戸に戻った。

   ともかくもならでや雪の枯尾花 (北の山)

 

長い旅を終わって江戸に辿り着いた感懐を雪中の枯尾花に託した句である。

元禄五年五月には新庵が成って、そこへ移つたが、その生活にも様々な煩はしいことがあった。そこで彼はその年の秋(元禄五年説と六年説とがある。)「閉關の辞」を雪いて、外部との交渉を絶とうとした。その頃芭蕉庵の内部には複雑な事情があった。壽貞・桃印・まさ・おふうなどがその庵に同居して居たようである。それに俳諧の方面で名、いろ/\芭蕉を悩ます問題がおこっていた。「わび」「さび」の話術は必ずしも名門人どもに深く理解されてはいなかった。その晩年の文章や発句から、俳諧に失望したかのような口吻さへ感ぜられるのである。芭蕉の閉關には、このような複雑な心境が動いていたのである。

 然し結局、芭蕉は完全に門戸を閉じることはできなかった。門人の出入が絶えず、その間に「深川集」が成り、「炭俵」撰集の計画が進められた。芭蕉晩年の「軽み」は、この「深川集」や「炭俵」、「別座敷」(元禄七年板)や「続猿蓑」(元禄十一年板)によって窺われる。これ等の集には、淡白な客観趣味を喜ぶ傾向が現れて居り、意味もわかり易く、附方名平易になっている。

変化や緩急に乏しく、一體に調子が低い。これは元禄五年六年の内省生活から生れたもので、芭蕉としては極自然な歩みであった。「閉關の辞」を書いて門を閉じても、世俗から遁れることはできない。それで俗中におって俗を去るべき一段の工夫が必要と

された。そういう反省から生れたのが軽みの俳諧であるといえるであろう。

 芭蕉は、今度は珍らしく三年近く江戸にとどまっていたけれども、無所住無所着の決意がにぶったわけではなかった。宗祗や西行の系譜に従って、旅に生き旅に死のうという願いは衰えなかった。風雅道のためには現実的な、ほだしもたち切らなければならないと思っていた。

そして元禄七年夏には西国行脚を思い立ち、今度は遠く筑紫の果までも見極めようとしたのである。

 人々は品川まで見送って別離を惜しんだが芭蕉も、もう五十一歳で、ふだん頑健でもない身体は既に衰えを見せていた。再び生きて江戸に戻ろうとは思っていなかった。人々から句を乞われるまゝに、

   麦の穂を力にたのむ別れかな (陸奥衛)

といふ別離の句をよんだ。再會計り難い旅である。芭蕉の胸にも流石に別離の情がこみあげて来て、姿の程をたよりにつかむばかりであった。

 尾張を経て五月の末には故郷の伊賀に着いた。暫くそこに滞留して、それから京都・湖南に遊び、去来・丈草・木節・惟然・支考などと風交を重ねた。

その頃芭蕉庵に病を養っていた壽貞の訃報に接し、

数ならぬ身とか思ひそ魂祭 (有磯海)

という句をよんだ。七月には再び伊賀に帰り、兄半左衛門が彼のために新築した無名庵に二ケ月ほど滞在した。九月のはじめに伊賀を立って奈良に向い、九日のタ方大阪の西堂の家に着いた。大阪でもあちこちの俳席に招かれたりしたが、気分がすぐれなかった。

九月二十九日の夜から泄痢にかゝり、病勢は日増しに進んでいった。

十月五日には花屋仁右衛門の裏の貸座敷に病床を移したが、

十日の暮から病状は悪化して、十二日の申の刻に永遠の眠りりについたのである。

  秋近き心の寄るや四疊半   (鳥の逍)

  菊の香や奈良には古き俤たち (笈日記)

  此の這や行く人なしに秋の暮 (同)

  此の秋は何で年よる雲に鳥  (同)

  秋深き隣は何をする人ぞ   (同)

  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(同)

 

これ等の句には芭蕉終焉の年の心境がしみ/\゛と託せられている。殊に「旅に病んで」の句は、風雅に痩せ、旅に痩せた芭蕉の最後の吟として、深い感慨を覚えさせるのである。


芭蕉『貝おほひ』寛文十二年正月廿五日 伊賀上野松尾氏 宗房 釣月軒にしてみづから序す   松尾氏宗房撰

2024年08月12日 10時29分03秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

芭蕉 『貝おほひ』 寛文一二年 

小六ついたる竹の杖ふしぶし多き小歌にすがり、
あるははやり言葉のひとくせあるを種として、
いひ捨られし句どもをあつめ、右と左にわかちて、
つれふしにうたはしめ、其のかたはらにみづからは、
みぢかき筆の辛気ばらしに、清濁高下を記して、
三十番の登発句を思ひ太刀、
折紙の式作法もあるべけれど、
我まゝ気まゝに書ちらしたれば、
世に披露せんとにはあらず。
名を『貝おほひ』といふめるは。
合せて勝負を見るものなれは也。
又神楽の発句を巻軸に置ぬるは、
歌にやはらぐ神心といへば、
小うたにも予が心ざす所の誠を
てらし見給ふらん事をあふぎて、
當所あまみつおほん神の
みやしろのたむけぐさとなしぬ

寛文十二年正月廿五日
伊賀上野松尾氏 宗房
釣月軒にしてみづから序す
  松尾氏宗房撰

一 番
左  勝
にほひある色や伽羅ぶしうたひ初   三木

春の歌やふとく出申すうたひぞめ   義正

 左の句は匂ひも高き伽羅ぶしの、
うどんけよりもめづらかに覚侍る。
右も又春の歌はふとく大きにと云ふより
まことに大昔のほどもしられ侍れども、
一聲二ふしともいへば猶、
匂ひある聲に心ときめき侍りて、仍左を爲勝

二 番
左  勝
紅梅のつぼみやあかいこんぶくろ   此男子

見分に梅をたのむや児ざくら     蛇足

 左の赤いこんぶくろは、
大阪にはやる丸の菅笠と、
うたふ小歌なればなるべし。
右梅を兄分にたのむ児桜は、
尤たのもしき気ざしにて侍れども、
打まかせては梅の発句と聞えず、
児桜発句と聞こえ侍るは、
今こそあれ、われも昔は衆道ずきのひが耳にや。
とかく左のこん袋は、
趣向もよき分別袋と見えたれば、
右の衆道のうはき沙汰は、
先思ひとまりて左を以為勝

三 番
左 なく聲やけに伽羅のはし匂ひ鳥    露節
右  勝
 薮にすむうぐひすのうたやお竹ぶし   哉也

 左、伽羅の橋をかきょいのとあるを、
匂ひ鳥のはしに取なされたるは、
げによくさへづられたる口ばしなれども、
右のおたけぶし藪にすむといふより、
言葉の茂りも深く、いくふしも籠りて、
是も百姓の納米のくだけたる所もなく、
上々蟲いらずとかや申侍らん

四 番
左 さかる猫は気の毒たんとまたゝびや  信乗母
右  勝   
  妻戀のおもひや猫のらうさいけ    和正

 猫にまたゝびを取つけられたる左の句、
法珍らしきふしを見出られたるは、
言葉の花がつをともいふべけれども、
きのどくと云言葉、
さのみいらぬ事なれば少し難、
これ有てきのどくに侍る
 右、また猫のらうさいと云小歌を、
つま戀に取合されたるは、
よい作にやきんにやうにや。
かの柏木のいにしへねうねうとなきし、
わすれがたみ叉源氏の宮を、
木丁のすき垣に見しも、
いづれも猫の引綱の思ひ捨がたけれど、
右の句さしたる難もなければ為勝

五 番
左 持
牛馬の糞ふみわけて雪間かな     貞好

消残る雪間や諸足ふんこんだ     一友

左の句、雪間をふみわけしつめたさは、
うきうきどつこい、
うき世に住めばうさこそまされと、
うたふはしかあるべし。
太山(みやま)かけ道へ引き出されたる
牛馬の糞のふんこつげに珍重に覚え侍る。
 
右の句、雪にもろあしまでふみ込んだるは、
草履のうらもたまゐまじく、
足もとしらすの鹿相ものと見え侍れども、
一足とんだら作意もをかしく、
また雪に立しためしもなきにあらねば、
持とさだめぬ。

六 番
左 勝
  きやん伽羅の香ににほへかし犬桜   正之
右                                                                                                  
  見にゆかんとつと山家のやまざくら  意見

 左の句、伽羅の香に句へとは、
一句もやさしく、
手ざはりもむくむくと
むく犬の尾もしろき作意なるに、
右の句さのみ言葉のたくみも見えず、
とつと山家のいよ古狸とうたふ小歌なれば、
秀逸物の犬楼に狸は喰ひふせられ侍らん

七 番
左 持
たぐりよせんから糸ならばいと桜   簾尼
右       
  春風になれそなられそ江戸楼     信乗母
 
唐糸の句は、
長太郎ぶしと聞えよくいひかなへられて、
此世のものとも覚えぬは。
から糸なればなるべし
 右、またこむろぶしの江戸衆になれそといふを、
春風になれそと作り立られしは、
花を惜む心ふかくいづれも捨がたく特に定侍りき

八 番
左  勝
うたへるや晩鐘寺ぶしの暮の花    鋤道

 種ならばまかせておけろ花ばたけ   指盞子

左は山寺の春の夕暮も思ひ出られ、
晩鐘寺の花の作意げにおよびなき所なり。
 右の句、花の種をまかせが定なら、
といてロ説てかたりて聞せ侍らん種を、
まかるゝと優に聞ゆれど、
浮世五十年一寸もまだのびぬ、
花の枝咲きまでの間遠なれば、
先づ目の前の晩鐘寺の、
けふの花見こそたふとけれ仍左を爲勝

九 番
左 勝
鎌できる音やちよいちょい花の技   露節
 右
きても見よ甚べが羽折花ごろも    宗房(芭蕉)

 左、花の枝ちょいちょいとほめたる作意は、
誠に誹諧の親々ともいはまほしきに、
右の甚兵衛が羽折はきて見て、
我おりやと云心なれど、
一句の仕立もわろく染出す
こと葉の色もよろしからず
みゆるは愚意の手づゝとも申べし。
其上左の鎌のはがねも堅さうなれば、
甚べがあたまもあぶなくてまけに定侍りき

十 番
左 持
啼さわげにほんつゝみの無常鳥    政定

ゆかしきや山の尾常はなきやらもの  和久

 左は、
日本堤の無常の畑も立のびたる句の姿は、
子規のとりなりもよく見え侍るに
 右の句は、
窓なきさうなおつねの顔も、
ずんといやな気なれども、
左にひつびけうんのめと、
うたふ小歌なれば、
お常のしやくも捨がたくて、
 いづれのかちまけをも
えさだめ侍らぬはこゝろき判者なめり。

十一番
左 勝
  郭公谷から峯からこんゑをせい    吉之

鶯の玉子じやとおしやるかほとゝぎす 一意 
 
左は木鑓の音頭と聞えて、
くどく言葉の中のつな扨も
見事によう揃うた。
右の句、鶯のかひこの中の郭公と
云心をふくみ脈のふしをあらせて、
賢者に見すれば玉子じゃとおしゃるといふ
小歌をかり加へられ侍る。
伊勢のおたまが事に出れば、
玉の句といはんに、
難なかるべけれど、
左の谷から峯から
こゝはちつくりこざかしくいひ出されし
大持に心はひかれ侍り

十二番
左 勝
小六方の木さしや菖蒲かたなの身   義子
右 菖蒲刀中や檜の木のあらけづり    雫軒

 これさ爰許へ小六方と
ほざけだいたるで
つちはうるしいこんではあるでぱあるぞ
 右の刀は源五兵衛をとこの長脇差のさやは
三文下緒は二文しめて
五文の銭うしなひのやすものと見え侍る。
右の六方はいかさまロ舌を
菖蒲刀のよきものにて侍れば、
檜の木のあら削り太刀打にも及べからず
                                     
十三番
左 
蚊やり火にわれも木管が娘かな    辿窓
右 勝
  ふすべられたはん半夜の蚊遣かな   義正

左の句、木売りがむすめとは、ふすべられたまと云を、
残したるてにをは一句の立ちすがたも
しほらしく山家のものとも見えねど
 
宍右の句、たはんはと云ふもを言葉にことわられたるは、
かやの木どくに思ひよられたり。
其上木売りむすめにふすべられて、
われもむかひ火つくらんもむづかしけければ、
ただ右の半夜のけぶり立まさり侍らんかし
   
十四番

左 持
かゞぱやな小舞あふぎの織との絵

扉もや折ふし風が吹て来た

 左はかの孫三郎が織手をこめし織ぎぬの
いとしほらしき舞振也

右の句析節かぜが吹てきたと云小歌、
扇にいひ叶へられたれば、
あなたの方へはからころびやう、
こなたの方へはからころびよつと、
勝まけを定めか一ねしは
摸陵の手をはなさぬ扇のかなめも、
 むくの葉、木賊のみがき骨とも云べければ
扇角力のかちまけなく特に物さだめし侍る

十五番

左 持
すだれごしの月やいよ此おもしろい  貞好
  右
  半夜させやあ此宵の月のかけ     指盞子

 左は、いよこのとうたふを伊豫にとりなされたるは、
すだれのあみ目をおどろかし。
何よりもつておもしろい
 
右もまた、ゐやひ踊の拍子と見えて、
やあ此さいた太刀をぬきんでたる作意は、
さやロのきいたる所侍るまゝよき
持と定めまいらせたり

十六番

左  勝
  月の舟や今宵はどこがお泊じや    信乗母

月の雲よひよひなんど出つ入つ    三竿

 右の句、はりまの國の書寫むしや
寺がおとまりになれば御法のふねにうたがひなく、
月の光をはなつこと光明遍照十方世界
のまん中とは此発句をや申べき
 
 右もまたよいよいなんどと、
踊るうちこそ佛なれとうたふ故にや、
句作り殊勝に侍りて、有がたき作意なれど、
地ごく踊の小歌なれば、
精霊のおばゞを祭る盆の折からかりにも
鬼の沙汰を嫌ひて、憎さけなるつらつき抹香くさく
織面つくり批判して以左為勝

十七番

左 
ちよいと乗りたがるやたれも駒哨むかへ 吉之
右 勝
むかふ駒の足をはぬるやひんこひん   雫軒

 左、伊勢のお玉は、あふみかくらかといへる小歌なれば、
たれも乗りたがるはことわりなるべし
 右。ひんこひんとはね廻るは、
まことにあら馬と見え侍れども、
人くらひ馬にもあひロとかやにて、
右の馬に思ひ付侍る。
左の誰も乗りたがる馬は
ちとかんよわのうち気ものとしられ侍れば
 ふみ馬御免のあしもとをば早く引てのがれ候へかし

十八番                    

左 勝    
  ほの上も大たばに出よ稲の束     適意

  かぶけるは稲のほのじそ京女蕩    城吹
   
左の句、大束と云を稲の束にゆひまはされし事、
かなたこなたをかり集めて、鎌のえならぬ
 句作りにはわらの出べきやうもなし
  
又右の京女郎、にほのじはたれもすきくはの、
かねがね望む事なれど稲のとのを持たれば
我妻ならぬつまなりと先づ此戀はさしおくて、
田のひつぢばえは其の儘にて左を勝とさだめ田

十九番

左 持
  鼻息もむせてくんのむ新酒かな    此男子

温のめとあたゝめかゆる新酒かな   哉也
 
左右の新酒味ひ、いづれかときいてみるに
鼻息もむせてくんのむ新酒はからロとみえて
誠にあまけの去りたる句作り也
 
右の句、温のめと云ことばを下にて
あたゝためかゆるとことわられし事
風味のよきはさらにて實あすをもしらぬ身なれば、
よき亭主ぶりもうれしくて、
いづれの勝負けをもえさだめ侍らぬは
判者もひとつなるロにや

二十番
  
左 勝
  鹿をしもうたはや小野が手鉄砲     政輝
 右
  女夫度や毛に毛が揃うて毛むづかし   宗房(芭蕉)
 
左の発句、小野と云より鹿とつゞけられ侍るは、
かの紫のしなものひかるお源の物語にも
小野に鹿のけしきを書つらね侍りしより、
尤よくとり合されたるなるべし、
其上おのがてつぱうと云を、
取なされたる鉄砲の寸のロかしこく打出されたる
玉の句とも云ふべければ、
火縄のひでんを打べきやうもなし
 
 右の女鹿委しく論をせんも、
けむづかもければ
あぶなき筒先あしばやに包のき侍りぬ

二十一番

左 
土佐男鹿の妻の名もいとし萩の花    鼻毛
右 勝
  みそ萩やほそけれど長いほんのもの   石ロ

左、萩を鹿の妻といへるを、
をかしくうたひなされ侍れば、
みそ萩のほそけれど長いと云處を
 能考へて心のおくをついて見るに、
ほそ長き故にや一句もすらりと立のびてなれ合たり。
左の発句には、
はるかにこえたやつさ大いかい物とや申さん

二十二番

左 勝
とりやけばゞが右の手なりの紅葉かな  三木

 もみちぬと来て見よがしの枝の露    蚊足
 
左の句、紅葉のきめうの作意也
 右の句、よくいひ叶へらね侍れども、
もみぢぬかしを好まるゝは、
異風なろ物数奇にて、色にふけらぬ人ならべし。
左の婆々が右の手の赤くなるは、
いかさま戀をすきものゝ言葉の品も
大むすこも雲泥萬里のたがひあれば、
かゝるめでたき折節を
来てみよがしの木刀ならば
一本かたげて、のがれ候へ 

二十三番

左 勝
  しつぽとやぬれかけ道者北時雨    餘淋

しぐる昔やさつさやりたし簑と笠   政當

 左のぬれかけ道者はぼつとりものゝしなものゝ、
袖にしぐれの通りものとや申さん
 右の句さつさやりれしなんしゆんさまとうたへば、
あつたものぢやないはさてと、
いいはまほしけれど、
とてもぬれよならなまなかしぐれはいやよ、
君がなみだの雨にしつぽと
ぬれかけ道者を例のかちとや定めむ

二十四番   

左 持                                     
洒の酢やすちりもちりの千鳥足

から臼の代のちんどり足をふめ

左の洒の酔いは、まことに一盃過たると見えて
足もとはよろくと弱く侍れども、
一句たしかにいひ立られて下戸ならぬこそ、
男はよけれともいへば、おもしろく侍るに、
右のちんどり足とほとほと踏み鳴らすから臼は、
天の原をふみとどろかす
神鳴の挟み箱もちの器量にもすぐれて、
骨ぐみつよく足の筋骨もたくましければ、
作者のちからも強さうにて、
いづれも千鳥のあしき所なければ、為持

二十五番

左 
しやうことかたまらぬものはみぞれかな 鼻毛
右 勝
みぞれ酒元来水ぢやとおぼしめせ

左の句、しやうことかたまらぬどいはれしは、
みぞれの古句ども見えず。
われも面白てたまらぬに、
右は元来水ぢやと云小歌をみぞれ酒に作られたるは
桶の底意深くいひ立てられ
樽のかがみともなるべき句なれば、
かん鍋のふた目とも見ずかちのかちとさだめぬ。
されど判者もひとつ過て耳熟し
目もちろちろりのみぞれ酒のみこみ違ひも有やせん。
かやうにはほむるともさのみに勿體付きすな  

二十六番

左 持
わろ言はかんからめける氷かな     勝言

そこでさせ氷のしたの月のかげ     城次

左の句、こがねのはしはかんからめくにと云
小歌を割つくどいつ云立られたれば、
氷のはり骨にて、自慢せらるゝもことわりなるべし
 右又、居合踊のそこでさせと云を
氷にとぢあはされたるはげによく思ひ
月影のひかつた句作とも申べけれぱ、
勝まけのわいだめをさだめんこと
おろかなろざえのおぼつかなく、
深き淵に臨むがごとくうすき氷をふんでとりて、
持ときはめ世の人のそしりを、
けふよりしてのちわれまぬかれんぬるかな

二十七番


越後布か松の葉はんの雪のいろ
右 持
降つもる雪やしら藤こふじ山

 雪の色を越後布に見立られたる左の句は
けにも手きゝのしわざにて
あさ糸のよりもよくかゝりたるにや、
わらはれぬ作意なれども松の葉はんと云事、
小歌のふしは尤ながら、一句のはたらき見え侍らず
 右は、しら藤こふじを、
富士に取なされ候ことまことに
名高き不二にはいかでか肩をならべ侍らんと、
左の越後布を安うりにまけさぜたるは、
さぞもとねになりかねや侍らん

二十八番

左 持
炭の荷や付てうるしいこんだ馬     吉勝

炭頭けぶるやすんといやな木ぢや    善勝

 左、炭をうると云かけられたるは、
げにうるしいこんだ馬のあしき處なく、
一句もよくいひ立がみの、けおされぬ作者也
 右の句、ずんといやなきとはあれど、
気のどくたんといひ叶られたれば
今更けし炭となさんともおぼえず、
勝負に世話をやく炭がまの
口々いづれも捨がたくて持と定め侍りき

二十九番

左 勝
掃除して瓢箪たゝきや炭ほこり
右 
  炭焼やおのが先祖はよくしつた

左、炭とりべうたんをたゝきて掃除したるは、
手もまめなる處あらはれて奇麗なる我句也
右は、野郎ざふとく出申な、
おのが先組はよく知つたと云ふを、
小野炭に取なされたる事、
尤炭頭をかたふけて感じ入侍れども、
先祖をよくしられん事わきまへがたく、
只左のへうたんの軽口にまかせて、
勝と定めたるはをかしき判とゆふがほの、
ひょんな事にやあらんかし

三十番

左 勝
  犬の鈴やきくびしやだんの神々祭    此男子

舞衣やをかみの出立御察神子      一友

左の犬の鈴の句、まことに人作の及ぶ所にあらねば、
いきくび社壇もうごき、
御社のおやぢさまも御感心浅からす。
末社のほこらのこやくまでも、
いきくびごたいをかたぶけられん事
うたがひなくおほえられ侍る

 右のをかみの舞衣、ひとへに聞えて、
手うすき作意なれば、まけの上のまけたるべし。
とかく息災延命の神楽歌を舞のきにのき給へとぞ。
 
 附貝於保飛跋
松尾氏宗房稚仲為予断金之友、
其性嗜滑稽潜心於詼諧者幾換伏臘矣、
今茲春正月閑暇之日以童謡俚近之語作狂句者
総若于釆而輯之分是於左右以判断
其可否誠錦心ロ撃節嘆賞焉瑶後序
鯫生素以切偲之情不忍袖手旁、
文雖漸羊豹僣一言以続于後云
      寛文壬子孟春日
 
  伊陽被下横月漫跋

 貝おほひ 俳諧大辞典
 かいおおい

❖俳諧発句合。
❖松尾宗房(芭蕉)著。自序。横月跋。
❖寛交十二年(1672)
❖一名、「三十番俳諧合」という如く、芭蕉が郷里伊賀上野の諸俳士の発句に自句をも交え、これを左右につがえて三十番の句合とし、更に自ら判詞を記して、勝負を定めたもの。
❖書名は遊戯「貝おほひ」の「合せて勝負を見る」ところに由来したものであろう。
❖序に「寛文十二年正月二十五日、伊賀上野松尾氏宗房、釣月軒にしてみづから序す」とある通り、出京して数年間、季吟門に遊んだ若き日の芭蕉が、上野に帰郷してこの書を編し、折から菅公七百七十年の忌日に産土の天神に奉納したものと思われる。
❖板本は久しく行方を失していたが、昭和十年の秋出現して、現在天理図書館納屋文庫に収められている。❖他に、東大付属図書館蔵の旧洒竹文庫本に、柳亭種彦自筆自注書入本と、横本の校本とがある。前者は本書中の小唄や流行詞に、種彦が出典を示したりした略註がついている。
❖後者は版元に「芝三田二丁目、中野半兵衛、同庄次郎開板」と記されていて、現存の納屋文庫本と別板本の存在した事が知られる。
❖本文は、仏兮・湖中の『俳諧一葉集』以下、芭蕉の全集順に多く収められている。本書は芭蕉二十九歳の時の処女著作であると共に、芭蕉が生前、署名して自著として出版した唯一の書である。
❖その内容は、ことにその判詞において、芭蕉は当時遊里などに流行の小唄や六方詞などを自由自在に駆使して、軽妙洒脱に洒落のめしており、その澗達で奔放な気分は、談林俳諧の先駆と称して過言でない。❖談林俳諧がその旗幟を天下に鮮明にしたのが延宝二年とすると、本書はそれに三年も先立っており、いかに芭蕉が時代の息吹に敏感であったかを実証する。
即ち、芭蕉の判詞は 合せた発句よりはるかに遊蕩気分の横溢したもので、後年の清僧の如き翁からは想像もしがたい底のものである。
その点、芭蕉生涯における思想・作風の変遷を跡づける重要な資料と目される。