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第十二章 連俳重要書 解題

2024年07月08日 19時27分16秒 | 日本俳諧史 池田秋旻 氏著

第十二章 連俳重要書 解題

 

 凡そ俳諧に関する著書は極めて多しといえども、此には特に重要な俳書に限り、各時代の終りに、その解題を掲げて研究の便に供すゐこととする。

 

▲犬筑波集(山﨑宗鑑編)

これ俳書のさきがけなり。この書何れの年に成りしかは、明かにはできないが、これを推側するに、永正年中に成れる書であることは論じない。『俳諧年暦略記」にも、「犬筑波集、永正十一年編」とある。これも宗祗の追善句をもって、推測し考えるべきとするもするが、この年あたりの編と推察される。また印本になったのは、寞永の頃と思われる。

 

▲守武千句(荒木田守武 独吟)

巻尾に天文九年 時雨降る頃、とあれば、其頃の成立。

 俳諧の獨吟千句はこの州を以て初めとなす、この千句は、宗鑑の『犬筑波集』成り、約二十餘年の後に成立したもの、宗鑑は二句三句の言捨のみ詠み、守武に至りて始めて千句を連ねることが起これり。

 

▲『御傘』松永貞徳編

宗鑑・守武により創られた俳諧の法式を定めた書。今日より見れば、それほど價値あるものではないが、 

貞徳の『御傘』と云えば、俳諧師必読の書の如くなれり。

 

▲『淀河』・『油糟』松永貞徳著

寛永二十年の板なり。淀河は山崎宗鑑が『犬筑波集』中の附句を批評したもので、貞徳の意見が窺える。『油糟』は宗鑑の前句をかりて、貞徳自ら附句を試み、以て彼の技量が理解できる。貞徳は此等の外に、紅梅千句、前車集。天水鈔、百韻自註、貞徳俳諧未来記等の俳書を出した。

 

▲  『正章千句』安原貞室著

貞室は「これは/\とばかり花のよしの山」という句の作者で有名。この千句に慶安元年の板にて、師貞徳の判詞あり。貞室はこの他に玉海集、同追加集、氷室守。五條百句、片こと、附合大全らの編がある。任口の狗吟百韻は、俳諧絵合(延宝六年)に出版、発句は続連珠、落花集などに多く見える。

季吟の判詞またいといみしく、句合の模範となしている。此書は李吟自筆の稿本をもって校訂。

 

▲『花月千句』(雛屋立圃著)

立圃以下幸和、當知、仲昔、成次らの諸門人との間に成立、俳諧の千句なり。

立圃は貞徳の高弟にて。姓は野々口、雛屋庄右衛門(或は市兵衛といふ。曾て松江重頼と争論し、貞徳の気色か損なひ、それ夫より鳥丸亜相卿の門に入り、著書甚だ多い。

 

▲『立圃句集』(野々口立圃著)一名を『空つぶて』と称する。

 

▲『言水句集』(池西言水著)

通称八郎盛兵衛、名は則好、紫藤軒または風下堂と號した。南都の人。曾て「木枯の果はありけり海の音」より、「木枯の言水」と呼ばれた。晩年自ら「洛下童」と号した。

俳諧は松江維舟について學ぶ。享保四年(或は享保七年)九月二十四日没、行年七十三。

その句集は安永四年刻。俳諧五子稿・蘆陰舎大魯閲、朝陽館主人中に収められた。

 

▲『犬子集』(松江重頼編)寛永十年に成る。

犬子集とは宗鑑が犬筑波集を慕いての名となること序文中に見える。犬子集は全部五巻、発句一千五百首余り、附句千句余り、貞門請俳人。及び上古の俳諧に大方これを網羅した。貞徳を初めとして、繁頼・立圃(親重)・西武、ト養(慶友)・徳元・望一・玄札らの諸士の俳風を知るには此書の右に出る者は見えない。書中俳句者の名が欠けるは、読人不知と知るべし。

 

▲『俳諧破邪顕正』(中島隋流著)

西武の門人中島隋流が惣本寺高政の中庸姿を非難したもので、次いで破邪顕正返答、猿とりもち、二ツ盃・綾巻・俳諧頼政・俳諧熊坂等の批判がでた。髄流は松月庵と称し、寛永五年二月十一日歿、年八十。此のは延宝七年十二月の編とする。

 

▲『俳諧初學抄』(斎藤徳元編)

ある君の命により、俳諧の式目及び季寄せを記したもの。寛永十八年、江戸に於い梓行された。京都に於て俳書か刻ゼ!は、賞に此書を以て始とする。

 

▲『玉くしげ』(池田是誰著)

貞徳門の俳論を集めたもので、寛文二年の刊行。

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第十一章 貞門諸俳の士

2024年07月08日 14時17分43秒 | 日本俳諧史 池田秋旻 氏著

第十一章 貞門諸俳の士

  • 野々目立圃 

名は親重、貞徳の高弟にして、松翁とも號す、或時重頼と俳を論じて、貞徳の気色を損じてより、烏

丸亜相の門に入り、其の教えを受けて一派を為す、著書三十一種の多きに及び、高井立志、青木鶯水、

由良正春、準土常辰、服部定清、兆他多くの門弟を出したり。

 

  • 松江重頼 

別に維舟と號し。法橋に任せらる、立國との論争以来、貞門を退き、里村懐恵庭の門人となりて、連

歌を學ぶ、池西言水、上島鬼貫、朝生軒春可、中野一三、瀧方山、高野幽山等其の門に遊ぶ、門下に

有為の人物多かりしは、立圃に勝る。

 

  • 安原貞室 初の正章と称す、「これは/\とばかり花の吉野山」の吟を以て名あり。榎並真因、乾貞恕、相淵貞山、神田貞宣等皆その門に出づ。

 

  • 山本西武

其の門より中島隨流、出口真木の二人を出し。鶏冠井令徳は服部常春、芳賀一晶を出す。 

 

  • 北村季吟

通称を久助といひ、芦庵、拾穂軒、湖月斎また七松子と號す。初め京師山伏町に住み、後新玉津島神社内に移る、晩年台命に依りて、東武に参仕し法印に叙して再昌院と薗と號す。仰ぎて歌學所とす。国史次歌集を好み、就中源氏物語に精通せり。季吟の門また名士多く、俳壇第一の大家たる松尾芭蕉を始め、山口素堂、山岡元隣、小西似春、志村無愉、北藤浮生等皆此の門より出づ。

 

  • 斎藤徳元 

岐阜の人、織田秀信の臣なりしが、後薙髪して帆亭徳元と號し、江戸に住す。寛永十八年、『俳諧初學抄』一巻を編集する、従来俳書は京都に於いてのみ刊行され、東都に於いて、俳書を刻することは此れを以て始めとする。

 

  • 杉田望一 伊勢の人にして、夙に守武の風流を慕い、俳諧を好くし、後に貞徳の門人等と交わりを深め、当時の俳壇に名を成した、寛永七年、行年八十三にて没した。                        『望一千句』、『望一後千句』、『伊勢山田俳諧集』等を編み、また杉田みつ女。及び岡西惟中(後宗因に従う)の二人を出して、伊勢風の礎を築いた。

 

其の他、高瀬梅盛の門に、伊藤信徳、内田順也があり。

石田来得の門には、岡村不ト・石田未琢、樋口山夕があり。

高島玄水の門に河曲一峯あり。

安静の門に岸本調和、冨尾似船ありあり。

宮川桧堅の門に爪木晩山、四時宗其諺、田捨女等があり。

片相良保の門に田中常矩あり。

貞徳の門は斯ぐの如く多士済々なり。

而も是等の門人はまた有力の俳人を続出させ、枝葉から枝葉を生じ、分岐、愈々分岐して、全国到る處、俳諧を弄ばざるものはなく、平民的文學として俳諧は實によく弘まりを見せたと云うべし、広く行われる事は、必ずしも其の価値を意味するにわけではないが、其の間に、また自から名流高手の勃興する傾向が認められ、明治の現代に空前の盛況を呈するに至ったが、宗鑑、守武以後、絶えんとする俳諧を、貞徳に依って再び復行せしめた事以外には見えない。

試みに貞徳門に於ける諸俳家の発句を下にあげて、其の傾向の一端を示す。

 

口切の茶や邯鄲の粟の飯      立  圃

ふる雪は柳の髪のみだれ哉

天も花に酔るか雪の乱れ足

元日やあけて心も青二才      重  頼

咲くやらで雨や面目なしの花

置露はゑひもせずしていろは哉

早蕨や扇山の雪に懐ろ手      貞  室

名のれ月の弓杖つきて時鳥

涼しさのかたまりなれや夜半の月

児櫻ならぶや文殊普賢像      西  武

から/\に身はなり果てゝ何と蝉

芋も子を生ば三五の月夜かな

馬合羽雪打はらふ袖もなし     令  徳

花に蝶の舞ふは神楽ぞ伊勢櫻

船となり帆となり風の芭蕉哉

腹筋よりてや笑ふ糸櫻       季  吟

一僕とほく/\ありく花見哉

まさ/\と在ますが如し魂まつり

東より世はをさまるき初日哉    梅  盛

鳴聲をあはれとおぼしめし鹿也

晦日や行年月と目算用

打初る碁の一日やけさの春     徳  元

青柳とはふり分髪のかふろ哉

身にしむや秀信の畑秋の風

薬子けふ呑そむるちゝの春     未  得

起こしおい寐られぬ伽に炭火哉

から風をくみこめたるは唐うちは  玄  札

卯の花をおとすは風のおこり哉

ふる前やかねてしるしも花の雨   安  静

而白や神も覗くや日のはしめ       同

 

貞徳門の発句も、舊来の面目、依然として取るに足らざるもの多し、まゝ瓢逸脱俗のものなきにあらねど、これ頗る稀有の事にて、而も彼等は却て此種の句を喜ばす、好む所は相変わらず滑稽と、掛言葉と、穿ちとにて纏められたる者なれば、文學上の価値としては、固より論ずるに足るものなしと雖も、斯る文藝の世に行はれたるも、俳諧変遷の時代として、寧ろ歓迎すべく、承応二年十一月十五日、貞徳八十三歳を以て没したる後三年、即ち明暦三年、西山宗因が、談林の額を打つまでの俳壇は、實に貞徳門独占の勢たりしなり、其の勢力分布の状況は下の如くなり。

 

立 圃…江崎菊水佐 服部完済  井上有貞  高井?志  青木鷺水

維 舟…上島鬼實  池西言水  滝 方山  遊女八千代 

   貞 室…乾 貞恕  榎並貞員  相淵貞山  神田貞宣

西 武…中島隋流  出口貞水  喜多村卜雪

   季 吟…松尾芭蕉  山口素堂  喜多村湖春(季吟息)

       小西似堂  志村無倫  釋 任口

   【筆註】山口素堂は季吟門で無い。

令徳…芳賀一晶   服部常春

   未 得…石田未琢  樋口山幽  岡村不卜  宇田川可暁

   梅 盛…伊藤信徳  内田順也

安 静…富尾似船  岸本調和

   松 堅…爪木晩山  梅原貞潟  田 捨女  四時堂其諺

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 荒本田守武

2024年07月07日 17時44分05秒 | 日本俳諧史 池田秋旻 氏著

第九章 荒本田守武

 

荒木田守武は、伊勢内宮の祠官にして、正四位上主中川太平夫と称し、荒木田守秀の九男にして、母は藤浪氏經の女なり、朝庭奉祈のいとまに、和漢の文を明らめ、風雅の道を翫びて、逍遥院實隆の人となりを慕ひ、宗祗、宗長、宗牧、周桂等らと交を結びたり。

守武は初め連歌に入り、後、連歌の束縛を脱して、俳諧の吟詠に力む、彼れの此の世に出でしは、宗鑑に稍や後れたれば、宗鑑の『犬筑波』が、永正十一年に成りて後ち二十六年、即ち天文九年の秋、彼れの『獨吟千句』は成れり、彼れの俳壇に於ける事業は、素より宗鑑の先美導ありしに因るべけれども、俳諧連歌の純正なるものとして、彼れの斯道に貢献せる偉功は、宗鑑の糟粕以外に、之れを認めざるべからず、『獨吟千句』の跋に曰く、

  其の折柄にやありけん、周桂かたへこの道の式目いまだ見ず、みやこには如何と、

大方のむね尋ねしかば、かゝる式目は予こそ定むべけれ、定めてそれを用ゆべき、

のざれたる返事くだりあはせ、さらばこのたびばかり、

心にまかせん、所にいひならはせる俗言、わたくしきれたる心言葉、

一向はらほつうつゝなき事のみなれど、あまたの中なれば、薄く濃く打ませけり。

 

是に観るも、彼れが従来の連歌の法式に拘はらずして、別に一個の法式を立てゝ其所謂俳諧に力を蓋したるを知るべし。然れども守武は徒らに滑稽詼謔のみを以て、人の願を解かんとはせざりしなり。同千句の跋、更に語を続けて曰く、

 

  さて俳諧とて、みだりにし、笑はせんとばかりはいかん。

花實を具へ、風流にしてしかも一句正しく、さておかしくあらんやうに、

世々の好士の教えなり。

この千句はそれをもとちめす、とくみたしたき初一念ばかりに、

春秋二 句結びたる所もあるべし。

されども正風雅人の茸にも入りじきに、聊かもきこえんはからざる幸ならん哉。

その上二つ三つ妙句なきにしもあらず、また差合も時によるべきにや、

しひて直さんもしうしんいかがなり。云々。

 

守武の俳諧に対する見識は、宗鑑よりも慥かに進みたり。その花實を具へ、風流にして、しかも一句ただしく、さてをかしからんを要すといへるは、彼れが俳諧に對する最奥の理想にして、更に之れを煎じ詰むれば、彼はをかしからん事を要する為に俳諧を作らんとしたるなり。譃

然も彼の所副をかしみとは、果して如何なるものを指すか、宗鑑もまた嘗(かつ)てをかしみを以て其の骨髄たらしめんと力めたれども、宗鑑のをかしみは、道に流れて、卑猥醜悪の域に入れり、若しも文學上の賜光を以て其の作品を批評する時は、守武の詼謔(かいきゃく)なれども卑猥醜悪に陥らざるに比して、宗鑑之れに一歩を譲らざるを得ず。即ち守武は宗鑑より其の上品なる事に於て一段上にありし也。

守武曾て大永の比、世に所謂『伊勢論語』即ち『世の中百首』を詠じて伊勢人に修身道徳の事を誨(おし)へたるを以て見るも、其の品性の高尚にして、徳を重んじたる人なりしを知るべし。守武の滑稽が甚しき點にまで陷(おちい)らざりしは、必竟其の人物の然らしむる所なるべし。

今『守武千句』の中より、其の連句を左に抄録せん。

 

    猫何 第二

青柳の眉かぐ錐子のひたひかな

こほりうちとけよするたしなに

水島のけさせちことにうかひきて

耳にもいらぬうくむすの聲

大なる春のからかいいかがせん

こかたなぞとてあさくおもふな

いかなりし日もうちおかすつかはれて

引出ものもやほのかならまし

むこいりの道のほとりの花すゝき

とくりをもたせ秋風そふく

月影はたかこものめをくるらん

名乗りをしてもかとななたてそ

(以下略)

 

   姉何 第四

 

うくひすの娘かなかぬほとゝぎす

    むめうの花にぞたち来にけり

山里のさのみはいかて匂ふらん

    みやこいてゝやにあはざるべき

旅衣妻にせんかた十二三

    あひ性文のことづてもがな

おんやうにすてられぬるも人にして

    うつりかはれはさるとこそなれ

花の春もみぢの秋のもゝのさね

    よまれもよらすうたてかりけり

玉づさをなどなが/\とつづくらん

    まゐらせ候やまゐらせ候や    (以下略)

 

守武の句は、単に宗鑑のよりも上品のみならすず宗鑑の作句には、三句以上の連句を見る事殆んど絶無なるに反し、守武には百韻の連句十君もあり。されば俳諧は宗鑑に依りて開かれたるも、純正俳諧の連歌は、守武を以て初めとなすと云ふも不可ならす。其の発句に於いても、守武の作は、面目をようやく異にせるものあるを覚ゆる。

元朝や神代の事も思はるゝ       守  武

飛梅や軽々しぐも神の春

落花枝にかへると見れは胡蝶蔵哉

青柳の眉かくきし額哉

花よりも鼻にありける匂ひ哉

撫子や夏野のはらの落し種

繪合は十二の骨のあふきかな

鶯の娘か啼かぬほとゝぎす

夏の夜は明くれど開かぬまぶち哉   

かさきやけふ久方の天の川

こほらねど水ひきとつる懐紙かな

 

彼れは発句に於ても、同じくをかしみを主としたり、彼れの作品中にも、寓々清迥のものなきに非ずと雖も、是れ其の本色にはあらす、また守武の発句が、宗鑑の句と異なる所は、掛語を用ゐたるものゝ少なき事にて、是亦た俳句の発展に、好傾向を示したるよと謂わざるを得ず、守武、或る連歌の席に臨みたるに、来会者は悉く法體の人のみなれば、

  御座敷を見れば何れもかみな月    守  武

とせしに、宗鑑傍にありて、

  ひとりしぐれのふり烏帽子着て    宗  祇

と附けたるは頗る興あることにて、久しく俳壇の佳話として傅はれり、

天文十八年八月八日、行年七十七にして、此の世を浪る、辞世、

神路山我こしかたも行く末も

    峯の松風/\          守  武

朝貌にけふは見ゆらん我世かな       同

 

以上は俳諧創始の時代に属し、その主要人物たる宗鑑と守武との俳風の一班なり。吾人今日の俳眼を以て、彼等の事跡を見んか、具に區々たる事の如くなれど、連歌が久しく固定して動かざる格式の中に立寵りて、更に一歩の進境をも見る能はざるに當り、其の覊絆を脱出して、兎にも角にも俳諧の自由なる天地

に翺翔し、将来俳勢勃興の地歩を作りたるの功は、決して埋没すべからず、彼等二人に次で起る所の松永貞徳が、益々其の範囲拡張して.俳諧中興の偉葉を立つるに至りたるも、要するに彼等二人に依て基礎を定られたるものあるが為に外ならざるなり。

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