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和泉式部 柳田国男氏著

2024年06月24日 10時12分24秒 | 柳田国男の部屋

和泉式部 柳田国男氏著

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

和泉式部が熊野に詣でて伏拝の地で歌を詠んだと云ふことは一箇の物語であったかも知れぬが、若い中から所々の神社・山寺に参詣して居たことは、後代編輯の歌集などを見ても想像せられる。あの時代としては珍しく遊行好きの婦人であったやうだ。

また宮中を出てから後は夫と共に任國に下ったと云ふ話も遺って居る。併し之によって彼を女中の弘法大師の如く視る近代の傳説を史認することは出来ぬので、少なくも各地に分布する口碑の一半は傳説で無ければならぬ。すなわち何か相応の理由ある誤解に基いて和泉式部の名が斯く弘く行はれて居るのに相違無い。その誤解とは何であらうか。我々は其共通の事情を究める必要がある。

 

先づ順序としてやはり各地の言博へを一度比較して見たいと思ふ。

勿論爰に列挙するものが全部で無いことは言明をして置く。

寺や牡の什物に和泉式部自筆の歌などt云ふ物は多い。

 

越後南魚沼郡大崎村大字大崎の大前神社なども之を神賓として居る(温故之栞二十)。何が書いてあるか見たいものである。但し此等は後年手に入れたとも人に托して届けたとも言はれる。

摂津東成郡生野村大字舎利寺の舎利寺では、庭の中に和泉式部の腰掛松があると云ふから(浪華百事談九)、正しくこの入江の村まで来たに相違無いだらう。

聖徳大子の開基だそうだが近世黄檗の木庵和尚が中興した寺で、境内に三十三所の観音の御詠歌を刻した石などもある。多少巡禮遍跡と因縁のある霊場である。腰掛松は少々女らしからぬ振舞であるが、次に言ふ日向東諸県郡高岡村の法華嶽寺にも式部の髪掛柱と共にまたその腰掛松がある。

紀州東牟婁郡に里村大字伏拜に和泉式部の供養塔の在るのは、すでに『続千載集』の時代から世に聞こえて巨大跡である故、不思議も無いが、不思議なことには石塔の面に何の文字も無いのを土地の人がさういふのである(紀伊國続風土記八十五)。播磨飾磨郡飾鹿町には、和泉式部が栽ゑたと舊記に載せられた折居松が今でもある(姫路名跡誌)。折居は恐らく降臨の義で腰掛松同系かと思ふが、之を女流文人に托する以上はやはり京から下って居た地と解せられたことであらう。

同國赤穂郡那波村大字那波の徳乗寺境内には、また「和泉式部雨宿りの栗」と云ふ老樹あり、昔此人、路上に急雨に遭ひ樹下に立寄った處、忽ち枝垂れて傘の形となったと云ふ言い伝へがある。但し今の木は三代目の植継ぎだと称して居る(大日本老樹名木誌)。

式部は此國書高山の性空上人と交通をして居たことがある。但し、かの

「闇きより闇き路にぞ入りぬべき遥かに照せ山の端の月」

と云ふ有名なる一首は、『拾遺和歌集』には単に「性空上人の許に詠みて遣はしける」とあるのみ、直々面會をしたらしい様子も無いのに、足利時代に出来たと云ふ『峯相記』と云ふ舊誌には「和泉式部此國に歩を運び来りて縁を契り師弟の約諾があった」と述べて居るのみならず、加古郡加古川の宿には同人書寫詣での途次一泊した因に土地の者が築いたと云ふ塚が道の左に在り、或は之を和泉式部の墓と称する者さへあったと云ふ(有馬山温泉記 追加)。

 

話の成長は尚此だけでは止らず、『播磨鑑』にはたしか式部が此國で生れた人と記してあったやうに思ふが、今坐右に其書が無い為に引用することが能ぬ。

これに似た話は備前でも傳へて居たやうだ。因幡でも亦此才女を自國の出身と誇って居た。即ち後に日を招き返して没落した湖山の長者の家に生れた者で、神童の響が高かったので十四五歳の時に京に召されてしまったと云ふのである。

 和泉式部が暫く来て住んで居たと云ふ處は、また長門の萩にもある(『萩名所圖會三』)。この事は後に猶言ふ必要がある。

 

東國では上野群馬郡總社町の霞鷲山釈迦尊寺の古傳に、和泉式部北地に下向して一首の歌を詠じたと云ふ話がある(『行脚随筆』中)。併し北里には同時に小野小町に関する口碑も錯綜して存在し、甚だ取留めの無いわけである。

それより一段と奇妙なのは、近江栗太郡大石村大字曾東に在る遺跡である。この村は同時にまた歌仙猿丸太夫の郷土たることを主張して居るのであるが、時代などには一向無頓着に、和泉式部が猿丸太夫を訪問した話も傳へられて居る。其時贈答した歌と云ふのが例の

「うるかと云へるわたは有りけれ」

と云ふ歌で、他の國々に於て西行とか宗紙とか云ふ行脚法師に着せて居る衣を取って、直にこのかよわい和泉式部に被けて居るのである(『栗太志』二十)。

此の如き無邪気なる筆法で行けば、一人の式部が處々で生れ處々で死して墓があっても仕方が無いとせねばならぬが、それにしても百人一首の女詩人も数多いのに、どうして和泉一人を引張り合ふことになったかは明かにしたいと思ふ。

 

 丹後では天橋立の明紳牡の側に磯清水と云ふ井戸がある。和泉式部此所に来って詠んだと云ふ歌、

「橋立の松の下なる磯清水 みやこなりせば汲ましものを」

の一首を、石碑に刻んで其井の前に立てゝあった(『益軒西北紀行』上)。

 

式部が藤原保昌に連れられて此國に来り、娘の小式部がまだふみも見ず云々の歌を詠じた話は人のよく知る所で、ちと拙いと云ふ迄で此歌だけの話なら何でも無いが、土地の人々はそれだけではあまり他の名所故跡との縁が薄いとでも感じたものか、到頭此地で生れたことにしてまった。それも普通の出産では無く、赤岩と云ふ石の上に親も無くて出現したと云ふので、其序に金の雛が鳴くと言はれた難塚を以て、此才媛が墨蹟を埋めた塚と云ふことにきめて居る(『漫遊大同記』)。ところがそれでは承知の出来ぬ地方が京都以外にもまだ有った。

 

奥州では小野小町は出羽の産だが和泉式部は陸中の和賀郡から上京したのだと信じて居た(『遠野古事記』一)。和賀郡横川目村大字横川口の栗本屋敷と云ふが式部誕生の地で後に采女として京に召されたのだと云ふ。此地にはまた式部の塚と将する石塔もあった。其面に刻んだ梵字が日の影に随って廻るので其地をグルメキとも呼んで居た(『和賀稗貫二郡志』上)。

但し共その塔は寛永年度の開毅に際して取除けられたと言へば、随分と幽かな昔話である。

さて其塚と云ふのは如何なる目的に立てられたものであらうか。よもや此地に帰って死んだと云ふのではあるまいが、出羽の小町塚の例もあれば何とも言はれぬ。式部ほど一世に清勤した婦人を、一の田舎で生れ且つ死んだとするのは困難な事業である。それなら二者何れを重しとするかと云ふと、生れたと言へば夙く出てしまったことになるから、来て死んだとする方が比較的尤もらしく聞える。

それのみならず何故か和泉式部には塚に因んだ話が数多いので、それがよくよく尋ねて見ると、果して墓地か否かゞ不確になることは諸國皆一様である。

 

例へば日向法華嶽寺の古傳に於ては和泉式部癩病を患ひ、観世音の示現に隨ひ日本三薬師を巡拝した。三薬師とは越後の米山と三河の鳳来山とこの法華嶽とである。此山一百日の今籠未だその無きことを嘆いて、身を千切の谷に投げたれば、落ちて青草の上に在りて恙無く、如来の大慈恵に由って痼疾忽ち痊(い)え、欣喜して京に婦ったと云ひ(『日向案内記』)式部の杖取坂とて杖を與へし所、一の瀬愛染川とて式部が身を濯ぎ潔めた流、腰掛松身投岡・式部谷等の名所と共に携へて居た琵琶と云ふのを傅へて居るのみであるが(『三國名勝圖會』五十五)と、僅か隔てた同國児湯郡都於郡村大字鹿野田では、氷室山の腰に式部屋がある。其山の北十五町、幸納と云ふ里の畠中には、また式部の形代と傅ふる地蔵堂もあって、其東北三町に在る一林叢を以て式部を荼毘した所と得して居る。

幸納の原田某の家には式部由来記と題する舊記があった。

之に依れば和泉式部は十月の五日に法華嶽に登り、

正月の十六日に病疹えて都に還り、

更に再び日向に下って三月三日に四十三歳で死んだとあって、

丁寧にも拙い一首の歌まで添へてある(同上)。

 

安房國には此より一段と覚束無い遺跡がある。嶺田筒の『房総雑記』上巻に曰く、

「房州那古に和泉式部の墓碑ありと云ふ。好事の所為かと疑ひしに、百首正解に其誕見ゆ。平郡米渾に薔跡ありと云へり。荷田訓之が「めかりの日記」に、加茂季鷹が説として、頼光上総介の時、式部の夫安房を領したり。此頃式部は都にて終りたりしを、碑は此國に建てしかと言へり。石は尤も古色あるもの也云々」。

上の如く多数の學者に手数を掛けては居るが、どうも安心の成らぬ仔細は安房志に後に記す所に依れば、其塚と云ふのは二箇併立して居って、那古の那古寺の山の上、薔寺址と称する平地に在った。

鼎形の塚とあるが何の事か往って見ねば解らぬ。

その二つを和泉式部小式部の墓と云うて居たさうである。

 

また米澤村の舊跡とあるのは、阿陀山の奥に在る二つの石で、何れも図形にして径三尺厚四寸、土人称して式部の合せ鏡と謂うたものゝこととらしい。

然るに那古から岡を隔て東へー里餘、九重村大字竹原に亦墓が現れた。何時の頃の事であったか、竹原村の者が山に樵して古墓を見出し、これを清めて我が弁当を供え恭敬怠らざりし處、或夜の夢に和泉式部と名乗って来り現はれ大いに禮を言ひ、それから訴願に應験があったと云ふ(安房志)。

 

處が山中笑翁が前年の旅行に、同國保田附近の官有山林の中で見られたと云ふ和泉式部の墓は、古い寶賓篋(ホウキョウ)印塔であると云ふからまた別の物らしい。此れも十数年以前に大に流行したことがある。元は阿波國に在ったのを、北國に移したとの話の由。

阿波には清少納言の遺跡は段々あるが、和泉式部の話はまだ聞いて居らぬ。何分にも眞相を把へにくい昔話である。

 伊勢では度合郡前谷と云ふ村の字亀谷の林地に、亦一の和泉式部の塚があって、藤原保昌の子孫の者が建てたと云ふ塔があった。

後に其の塔を山田吹上町の光明寺舊趾に移したと『宮川夜話』にある(伊勢名勝志)。

山川上之郷久留町、久留出威勝寺の後の山に峯の薬師の堂があり、其附近に和泉式部の古墳と瓶五輪と云ふがあったとあるのは(伊勢参宮名所圖會)、多分前者とは別口だらうと思ふが、それも亦後に他所へ遷されたと云ふ話である。

 

此外に今一つ、方四尺高さ一丈餘の大五輪が和泉式部の石塔と傳へられて、古市の久世戸の坂の側に在った。或は光明皇后の為に建てたと云ふ説もあって要領を得ぬが、昔この地に泉寺と云ふ寺があった故に、塔を式部のものとしたのだと云ふ断定は當を得て居るやうに思ふ(同上)。

 

この國北部に存する今一ケ所の故跡の口碑は注意に値する。

桑名郡人山川村大字東方字谷山では、竹林中の小さな溝を式部の清水と称して居る。

和泉式部北地に来りこの泉を汲んで硯の水としたと傳へ、明暦年間(1655~58)には三宅正堅等の「遊式部泉」の詩があると、『伊勢名勝志』に記して居る。同書はまた曰く、式部北國に来たと云ふことは歴史には見えぬ。或は天正中、織田氏の為に滅された山本式部の首でも洗った所で無いか云々。

この推測の當否は兎に角、和泉式部の名の出たのは即ちこの泉からであらうと思ふ。

諸國の清泉で「古名士の硯の水」に托した話は、これも随分例の多いことである。

 

さて下に列挙するが如き諸國の和泉塚の話を聞いたら、京都の人は定めて高尚な微笑を洩すであらうが、實は推理上、正眞らしく見える彼地の墓所も、仔細に観察すればあやふやの程度は田舎と伯仲である。

京都では寺可通六角帽蛸薬師間の西側を式部町と謂ふ。天明二年(1782)以前は和泉式部前町と呼んで居た。それは此街路の東側なる中筋町に誠心院、一名和泉式都寺と云ふが有った為で、この墓石は今も儼然(げんぜん)として存して居る。座石は三重総高一丈一尺六寸、横八尺の寶篋印塔で、傍に二十五菩薩の石像がある。碑の年月は式部歿後約三百年の正和二年(1313)五月で、誠心院智貞専意と云ふ怖しく今風の戒名を傳へて居る(京都坊目誌)。誠心院は古くは一条京極にあった東北院の一部で、御堂関白、道長が施主となり、晩年尼であった和泉式部の為に建立した道場で、世に小御堂と謂ふもの即ち是なりと云ふが、而も今日は北に接する浄土宗誓願寺の一塔頭に過ぎず、その墓へ詣るにも誓願寺の中から通って行くやうになって居る(『洛陽名所記』)。

誓願寺の縁起に依れば、遊行上人は此寺に於て六十萬人決定の念佛を行うた時、死して久しき式部亡魂となって現はれ受戒をしたと云ひ(『次嶺徑二』)、一説にはまた一遍上人熊野権現の教えに由って此寺に結縁の念佛を行うた際、式部の霊が出で来って誓願寺の額を寫したとも云ふ(『洛陽名所集』一)。かの東北の談で有名な軒端の梅なども、遺愛の種を傳へたと称して、今尚年々の春を誇って居る。

然るに一寸可笑しいと思ふことは、二つの寺が今の地に遷ったのは實は天正十九年(1591)のことで、その以前は一條小川の北に在った。而も誓願寺の方は最初からそこに在り、誠心院では或る時代迄はずっと東の一條京極に在ったと云ふので、いはゞ中古隣を接してからの偶然の集合である。

又東北院と云ふ寺も別に洛東真如堂の西北方に小さく残って居た。本尊は辨才天で、元は天台宗と云ふが後は時宗である。爰にも和泉式部の塔もあれば軒端の梅もちやんとあった(『山州名跡志』四)。誠に鳥の雌雄のやうなものである。

此から考へると右の誠心院に、式部の御影と称して四十ばかりの比丘尼の、貌美しく墨染の衣に浅黄の帽子を被った姿も(『京雀』二)、果して誰の肖像か疑はしいことになる。

誓願寺の縁起には此寺に清少納言の墓があるとも記し(『扶桑記勝』二)、又一説には誠心院の今の堂は佐々木京極氏の息女松丸殿の再興に係るともあれば(『洛陽名所集』一)、式部命日の十八日と云ふのも(『京童』一)、日向鹿野田の三月三日と共に、何人の日やら知れたもので無い。而して同一の墓所と侍ふる地は、此界隈でも亦右にあげた二寺院のみでなかった。例へば、西の京雙丘寺の近傍にも、法妙寺の舊跡と称して檞(かしわ)の木立つ處あり、其木の傍に一の和泉式部塚があった(『山城名跡巡行志』四)。下立賣通の協(かなへ)地蔵堂の西方に當り、念佛堂の西、極楽橋の西の詰で(『山州名跡志』八)、里の名を池上と謂ふ。

今一つは此國相楽郡木津渡から東南一町餘の處にも和泉式部の墓があった。

大路の西で傍には堂あり、春日作と傅ふる石地蔵を安置して居た(『山城名跡巡行志』四)。和泉式部此里より出たが故に、里を泉の里と云ふとあるは本末顛倒で、瓶原(みかのはら)わきて流るゝ泉川は、もつと大昔から此邊を流れて居たのである。

 

 さて此等の傅説を比べて見ると、和泉式部は正しく女中の弘法行基であるが、その傳説の成立に於ては見遁すべからざる一の差別がある。即ち名僧の古譚を弘法に托するは難くないが、佛門の巡礼婦人を京都の貴女に持って行くには別に何等かの動機が無くてはならぬ。その中でも日向の分だけは書写の性空上人霧島山に住すと云ふこと既に『峯相記』に見え、しかも九州南部にはこの上人の遺跡の多いこと他府県の弘法大師同様であるから、之に伴ふ優婆夷(うばい)をその帰依者たる和泉式部としたとも言はれるが、それとても何れが元だか確かめ得ぬのである。況やその囚縁も無い地の片田舎に卒然として往って死んで居るのは何と説明するか。

尤も塚又は石塔を以て埋葬の地と見るのはなるほど誤りかも知れぬが、或は石を留め、樹を遺し、時にはまた其の地に生れたと迄傳へられるのは、仔細が無くてはすまぬ。

其解説として自分の挙げ得るものは、一つには『岐蘇古今沿革誌』の説である。

美濃可児郡御嵩町附近の井尻と云ふ地に、木曾街道を横切って細谷川流れ、一本橋が投げ渡してある邊に、和泉式部に附合する口碑があって、偽作に相違ない歌が一首傳はって居る。

北處に石塔があって昔、櫁(しきみ)の大木があって枯れた。後人また其の跡に同じ木を栽ゑ、此邊和泉庄の内なる故に「和泉のシキミ塚」と呼んだのを、後に限って和泉式部としたのだろうとの説があった由。 成ほど樒は中國の山村などでシキブと発音する所もある。又和泉女史に比しては遥かに所謂海老茶式部式に遠かった紫式部の如きも、江州石山寺以外に各地に舊跡を遺して居る。

例へば、

京都では一様京極にも紫野にも、

尾張では名古屋の市中、

闘東では下野の國分寺にも、共に紫式部の墓がある。

但しこの説を通用させるには常に一本の樒の木を必要とし少々窮屈な事になる。

加之婦人で高名の廻國者はこの両式部ばかりで無かった。

近世では八百比丘尼と若狭の登宇呂の姥、

武家時代の始では大磯の虎と、

白拍子の静、

それより古くては小野小町の如きも、殆ど百に近い小町塚を残し、

赤染衛門の如きも稀には邊土に漂泊して死んで居る。

その他にも、

無名の平家の尼君や前門頼政の娘、

或は賤の男に負はれて遁げたと云ふ官女の類、

 

段々とよく似た例も多いから、一本の樒を以て之を処理することは愈々難しい。

 

第二には『萩名所図會』では前に挙げた伊勢桑名郡の式部の泉の如く人の名の誤解だと解して居る。

長州萩の城下で和泉式部の居住跡と云ふのは、疫紳牡の後の山陰に在る和泉寺と称する一向宗の庵室で、本尊阿側陀如来を安置して居る。里の名も古くは和泉寺と云うたのは式部の故跡であるからだと云ふが、証拠の無いことださうな。

島田氏の説では内藤和泉と云う人が住んで居たからの誤りと云ひ、又一説には陶和泉守の墓がある為だろうと云ふが、今はその墓見えず、澤式部と云ふ人の墓ならあるが此では無いかとある。

此説の方だと随分多い通称であるから、ひどい在所の山中でも無い限りはもっともらしく聞えるかも知れぬ。併し此例に於いてもよく變る人の受領名を寺胱にしたとは考へにくいから、何故に和泉寺と云ふ名が起ったかを研究して見る必要はある。

 

最後に自分の假定説を発表すると、此程の傅説は丸々の空中楼閣では無かつたであらう。

時代こそずっと後であらうが、或時上方から泉と云ふ姥又は尼が来て、祈祷神祭を業として里人に強い印象を呉へたことだけはあったのであらう。

和泉は勿論本名ではあるまいが、了貞や妙長は田舎人の記憶に適しない。殊に尊敬して居る人のこと故、呼んで「泉の尼」と云ふやうになったのであらう。然らば何故に西でも東でも泉をその通称としたのかと云ふと、それには各地共通の事情があって、やがて又寺を和泉寺と號して、里を池上と云うたのと関聯して居る。すなわち此類の巫女は特に必要あって常に清泉の畔に住み又は執務したのが元であった。

その事情を言ふ前に猶少し残った和泉式部の故跡を列挙する。

京都にも天橋立の磯清水の如き例が幾つかある。

其一つは柴野大徳寺中の眞珠庵に在る和泉式部の井、式部嘗て此地に住すとも云ひ(『名所都鳥』三)、或は此地、少将保昌の別荘であったと云ふ。庭上に一圍(かこい)の老松二本あり、體様畫の如し(『山州名跡志』七)。この名一名を聖泉と云ふ。紫野だけに一休和尚が名づけたと傳へて居るが、恐らくはもと聖の井と称へたのを、誰か詩人僧が聖泉と漢譯したのであらう。

二つには、宇治郡醍醐村の小栗栖野にも御前社の逡に式部が井戸があり、古、和泉式部が此水を汲んで硯の水とし、和歌の書を寫したと云ふ(『京羽二重織留』四)。御前と云ふ名は本来女﨟の敬称で、後には遊女白拍子の名にも用ゐられ、更に轉じては瞽女の坊のゴゼと迄なった。御前社は即ち巫女優婆夷(うばい)の傅く社を意味したのであらう。

また、下賀茂の社の北二町ばかりに在る小河の名を泉川と云ふ。

昔和泉式部の居所であった故に此名があると云ふ(『山州名跡志』五)。式部此邊に居たらしいと思はるゝは、『新千載集』に此人の詠とて、

家の前を法師の女郎花を持ちて通りけるを、

何處へ往くぞと問はせければ、

比邊の山の念佛堂の立花になんまかる言ひければ結び附けゝる、

名にし負はゞ五つの障有るものを 羨しくも登る花かなとある山(同上)。

 

『新千載集』は式部の世を去ることを遠からぬ時代の編輯であるが、而も此歌には著しく傳説の香がする。即ち一方に於いては熊野の伏拝で詠んだと云ふ月の障の歌と境涯がよく似て居る上に、他の一方には是も廻國の比丘尼なる登宇呂の姥、或は高野山麓に於いては弘法大師の母と云ひ、金峰山に在っては都藍尼の話として傳へて居る霊山の結界と優婆夷との葛藤を、十分に聯想せしめ得るからである。

猶此問題は比丘尼石結石の話として別に説かうと思って居る。

 

神社佛堂に近い泉又は泉川は、今は用ゐずとも恐くは皆所謂御手洗である。嘗て中山君も井神考(『郷土研究三巻』三三一頁以下)で説かれたが、祠堂の附近に在る清水は常に偶然では無いやうだ。

水に乏しい武蔵野などを歩くと殊に目に附く如く、里人の来り汲み流の末を田に引く程の泉は、悉く鎮守の岡の陰に在る。弘法大師の楊枝水の話が各地に分布するやうに、水を発見して之を住民に施すことは現世功徳の最第一であった。其思想は今も多くの社頭の御手洗に於いて之を體現して居る。

但し巫親が神佛を水の畔に奉請した動機は、必ずしも右の如き形而下の徳澤を利用せんが為のみで無かったことは勿論である。今でも例祭の神幸に清水また流の傍を御旅所とする社は至って多い。

濱下り又は神輿洗ひと云ふ行事も其変形に相違ない。此の如き場合に最も重要な任務に服したものは巫女又は戸童である。

祇園の女神と信ぜらるゝ少将井の神輿が、以前の御旅町に少将井と称する井戸があって(之を小野営の舊址と云ふの石意味がある)、其井の上に神輿を安置する例なりしより其名起り、實は王子にして奇稲田姫(くしいなだひめ)では無かったこと、而もこの井戸の地には少将井の尼と云ふのが代々居り、其或者は歌人であったことなどは適当な一例である、

また北野には和泉殿と云ふ社があって、古くは壽永三年(1184)の神階授與が『百錬抄』にも見えて居る。之を菅原道真公六世の後裔大學頭定義を祀ると云ふ説は未だ本據を知らぬが、或は亦神孫即ちミコと云ふより出た話ではあるまいか。

少将ならび神輿渡御は昔、熱病流行の時に始まったと云ふ説もある。

それは、或は祇園八王子が行疫の神であった為かも知らぬが、今一つ水辺の祭の理由かと思はるゝは雨乞で、或は雨を施すことが里の神の唯一又は最大の事業であった時代に始まつた風習と云ひ得る。

 

さて立ち戻って諸國に泉の尼が多かった理由を回想するに、此輩或は特に水脈水質に通じ、笈に本尊を納めて村々を巡歴する際、よき泉を見付けては其傍に止住する習があったのでは無いか。

比丘尼ケ池、姥ケ井の名は天かに多い。それより一層注意すべきは、昔は酒造りが婦人であったことである。神の寄女囚童を霊の世界に導く為に必要なる神酒は、盗泉の水を以て醸さればならなかったとすれば、泉の尼の泉に依って得た信望は想像に除がある。俚謡集にも往々採録せられて居る「酒はいづみ酒云々」の歌なども、或は又昔の一無名式部が歌占いの句であったのかも知れぬ。歌比丘尼の中世の生活にはまだ研究すべき點が多い。(六月十三日夜)


柳田(国男)おじさんの思い出   『定本 柳田国男集』月報23 昭和38年11月

2023年09月02日 06時58分49秒 | 柳田国男の部屋

柳田(国男)おじさんの思い出

  『定本 柳田国男集』月報23 昭和3811

 

飯島小平氏著

   一部加筆 白州 山口素堂資料室

 

 明治の四十四年というと今目から既に五十年以上昔のことである。

その頃柳田國男氏(同氏夫妻のことを私は(柳田のおじさん、おばさんと云いつづけて来た。)は貴族院書記官長の職に居り、わたしの父も外務省の参事官だったので、既に交友関係があった。その上茅ヶ崎の柳田家の別荘と私の家の別荘(明治の四十四年に建った)が偶然隣り同志で、両家の子俵達がお互いに五人姉弟でしかもほぼ同じ年齢だったので、一二年経たぬ中に親しくつきあうようになった。殊に夏休みに茅ヶ崎へ来ると、両家の子俵たちは毎日のように連れ立って海に行く。曇りや雨の日はどちらかの家に赴いて遊ぶ。夜もお月見だといっては浜にゆき、月光にゆらめいている冷々とした海水に足をぬらしては騒ぎまわる。

子供時代の誰にも憶えがあることだが、八月も廿日を過ぎて残り少なくなった休みがひどく大切に思えて来る。隣り同志の親しみも増してゆく。夏のお別れに箱根まで出かけ、夜ともなると、親まで連れ出して、ろうそく片手に松虫取りに幾晩か過した、大正の中頃の日本の夢のようなよい時代の夏の想い出はつきない。

 こうして幾夏を経て大正の末年になると、両家の子供達も大分成長して来た。わたし自身も早稲田に入り文学を学ぶ志をきめていた。当時わが家では生母につづいて、継母まで病死してしまったので、私達兄妹は主婦を失って、一番年上の私が主婦代りという妙な役割を演じていた。

そのために、何か判らない相談ごとでもあると、自然隣りの柳田のおばさんのところへ甘えては教えを受けにゆく。ついでに勝手な文学の話の相手にもなって貰い、二時間も三時間も過ごしてしまうことが度々だった。母のいないわたしを憐れと思って貰ったのだろうか、よくも我慢して青白い文学青年の相手になって下さったものだと今も惑謝している。そうした時、たまたま國男氏も一緒のときは、

「今は何を読んでいるの?」

「こんどぼくの本をかしてあげよう。」

などとよくいわれた。或る目のこと母のいないわが家のことを孝夫人が告げると國男氏は、

「そうか。それは気の毒だね。君のところは主婦が亡くて困るだろうが、こちらは主婦が多過ぎて困る。」と苦笑いして云われたのを覚えている。

 

当時柳田家では老夫婦が未だ健在だった。

 その時分氏に会ったときはいつもフランス綴じの洋書を読んで居られた。未だ民俗学という日本語がなかったのだろう、孝夫人に

「おじさんのやっておいでの学問はなんというのですか。」

と訊ねたら

「フォークローというのだそうです。」

という答だった。

又他の日に國男氏自身から

「僕のやっているのは文学と歴史の境目のところなのだ。」

という解説があった。

 私が氏に関して一番敬服したのは、その一刻もおろそかにしない研究熊度だった。柳田家の最初の成城の家が新築されたのは昭和二年の夏の終りだった。國男氏が夫人に向って、

「ぐずぐずしていては勉強が出来ない。ぼくだけ独り先へ引っ越すよ。」

といわれているのを傍できいて私は一寸びっくりした。その言葉通り、氏は家族達より五、六ヵ月早く引っ越しされたようである。

 頭脳が素晴しくよく、その上人並み外れた記億力の持主だった氏のことについては世間周知のことだが、その勉強ぶりも超人的であったようだ。官界、新聞と全く別な社会にあって相当な地位について、傍ら目本民俗学の確立に先駆的な役割を果たすためには異常な研究心に燃えていたにちがいない。特に、砧村(成城)へ引越しされた頃は氏の研究の頂点の時代だっただろうか。

 國男氏はよき夫人にめぐまれ、子供たちも文字通りよき配偶者を得て立派に成人したのだから大変恵まれた一生と云えようが、唯一つの不幸は次女の干枝子さんが若くして世を去ったことである。千枝子さんは弟妹の中で國男氏の文学的な才能を一番受け継いだ才女だった。

逝くなる二、三年前に、

「わたし小説を書き出したんだけれど。」

と筆者のところへ原稿を持参して来た。早速その原稿を早稲田文学へ載せて貰うと、その中の一篇が芥川賞の候袖作品に推薦きれた。ペンネームだったので世間では殆んど知らなかったろうが、彼女が今生きていたら一流の閨秀作家になっていたろうと借しまれる。彼女の死は両親にとっても後半生の一番大きな悲しみであったようだ。

 わたしが氏から一度だけ大変叱られたことがある。

終戦が昭和二十年の八月であったから、その年の五、六月の晩春の一日だった。久々振りで氏夫妻に会った。戦災のことなど話しているうちに、わたしが、

「早く戦争を終えてしまわねばいけないと思いますね。敗けたことが判っているのにぐずぐずしていては犠牲を多くするだけで無意味です。」

と述べると、氏はやや色をなして

「そんなことを云うから早稲田の若い者はよろしくない。」

と私をしかった。

 終戦後になって間もなく再び柳田家に赴くと、考夫人が、

「おじさんもあの時はあなたの考えはわかっていらしたのよ。でもあの場合はそう云わなければならなかったのだと思います。」

と語られた。終戦を早くしろなどと戦時中平気で云うわたしの不注意を戒める気持があったにちがいない。だが、氏にも明治の中年に育った人々の持つ特有なナショナリズムが燃えていたという印象も否定できない気がする。

 大東亜戦争が始まる数カ月前、秋の或る目、柳田家を訪れたわたしは、三国同盟を今やめればこの戦争は一応しないで済むのじゃないですかと陳べると、氏は

「戦争は余りよくないが、戦争というものが全然悪いとも云えない。戦争を三角形に例えてみよう。三角形のBCを底辺だとする。戦争の開姶の時がBとし、終戦の時をCとするならば、庭辺BCだけの距雛は戦った国は進歩するものだ」

と説かれたことがある。その時は氏の考ええ方を理解出来なかったが、今日になってみると戦争の大きな犠牲を浙立外とするならば、庭辺BCだけの進歩があるという説はうなずけないことはない。  

最後に柳田のおじさんにお会いしたのは悪くなられる一ヵ月位前のことだった。おばさんから前以て注意があったのだが、あれほどの記億のよい人が話の間に同じことを幾度もききかえされるのが悲しかった。  

だが茅ヶ崎のことを大変なつかしがって話されたので、休暇にでもなったら車でお迎えに来ますと申したら、「行ってみよう。」と約されてお別れした。だがその約束を果たさぬうちに訃報が来てしまった。

(早大演劇博物館長)