徳川家康
❖天文十一年(1542)壬寅十二月二十六日、
三州岡崎誠に御誕生なり。
贈鎮守府将軍、新田大炊前義重が後胤、贈大納言広志姉御子なり。
御母堂は水野右衛門大夫忠政が女、伝通院(後、久松佐渡守定悛に嫁す)これなり。
御先祖新田有親、親氏父子、永享の乱に新田をのがれ、徳川に居住して時宗の憎たり。
有親を長阿弥と号す。親氏を徳阿弥と号す。
後に親氏、三州坂井(後、酒井と改む)に蟄居し、遂に松平郷に移り給う。
その頃、松平太郎左衛門尉某、尤も有得の輩たり。
親氏、彼が女を娶り、家を嗣ぎて松平太郎左衛門と号す。
親氏、武威を近境に震いて、国人尤もこれを信敬す。故に親氏の下知に従うもの甚だ多し。
その子泰親上洛して参内する。勅命を以て三州の目代たり。
泰親初めて松平を出て、城を岩津岡崎に築き、その子蔵人信光の時、安城を攻取り、信光、子四十八人、国中の者と縁を与し、養子をなさしめ、西三州三分の一、手裏に属す。
子、蔵人長親に至って、今川上総介氏親、その武威を拉がんことを欲して、
❖天文年中、伊勢新九郎氏長(後、北条早雲と号す)をしてこれを伐たしむ。
長親氏長と与し、大いに戦う。氏長が兵、利あらずして吉田に引退す。
長親の子蔵人信忠、暴悪邪気、家人皆これを諌して退散の者多し。
信忠大浜城に隠居し、清康卿も安城に移る
(岡崎城かつて松平弾正左衛門某攻取る。後、清康卿、弾正が女を妻とし弾正ついに岡崎城に与す)。
清康卿雄武英才の豪将たり。これに因って三州大方これに帰す。
清康卿横死に付き、或は織田信秀に属し、或は今川義元に内通して、三州大いに分離し、松平内膳正信定(信定初名は与市郎、後内膳正に改む。桜井城生長親が二男、或は三男という、信忠が弟)その期をうかがって岡崎を押領する。
二郎三郎広忠卿、十三歳にして勢州に浪々し、十五歳にして駿州に至り、今川義元をたのみ還性の事を告げ給う。
❖天文六年( 1537)
五月朔日、広忠郷十七歳にして岡崎に還性し、
家臣阿 部大蔵、大久保新八兄弟、松平蔵人信孝(一説に康重と作す)、
各々忠義の勤労あり(阿部大蔵、常に広忠に従い駿州を往来しその策を為す。
大久保一族岡崎に留り、内膳に属し密かに帰策をなし、蔵人岡崎城を守り、偽りて病と称し入湯し、門鑰(もんやく)を大久保に与う。故に広忠、城に入るを得るなり。信孝は清康が弟なり)。
此の頃尾州織田弾正忠信方三州を競望し、既に安城を攻取りて織田三郎五郎信広を入り置き、岡崎を攻めとらんとす。此れに因って天文十六年広忠卿、加勢を今川親元に乞いて、信方と戦わんことを欲す。
義元人質を乞う故に、源君(家康)六歳にして駿州へ人質として趣かせ給う。
相従う輩は石川与七郎(後、伯耆守に任ず)、天野又五郎(後、三郎兵衛康景と改む)、上田慶宗、阿部、金田、桜井等凡そ二十八人、今川家より飯尾勘肋御迎へとして来る。陸地は敵多きが故、西郡より田原へ出御あって、戸田弾正少弼(広忠当妻が父、源君継祖父)方より駿府へ送りまいらすべきの由なり。
然る所、少弼が子五郎兵衛ひそかに信方に内通して、塩見坂に於いて奪取り、船にて尾州熱田にこれを送る。信秀大いに悦び、加藤図書が家に人置き、戸田五郎を宣す(永楽百貫を与う)。乃も岡崎に此の旨を告げて広忠を旗下に属せしめんとす。広忠言ぜず、信秀怒って源君を唐松寺天王坊に押寵め、甚だ以て艱苦たらしむ。
今川義元これをきき人質来らずといえども、広忠卿の志を感じ、乃か両朝比奈に臨済寺雪斎
長老をさしそえ三州に至らしめ、八月十日、小豆坂に於て一戦を遂げ、天文十八年(1549)三月六日、広忠卿二十四歳にして逝去に付き、義元より岡崎城に番勢を置いて守らしめ、西三州悉く、今川家に属す。同年十一月、親元が兵、朝比奈備中守泰能及び雪斎長老三州安城を攻破
る。
城主三郎五郎信広(信広は信長の庶兄、今年三月三日信秀卒す、危急に及びければ、尾州の加勢等相談の上、源君と信広、人質かえに成り給うて、今年源君八歳にして駿州へ趣かせ給う。
❖弘治二年(1556)、源君十五歳にて元服ましまし、義元の諱字を受けて元信と号す(翌年元康に改む)。
乃ち瀬名殿関口刑部大輔付真が女を娶り、永禄二己来年(1559 源君十八歳)、三郎信康卿誕生なり。
❖永禄三(庚午)年(1600)五月、今川義元桶狭間に於て戦死に付き、乃ち岡崎に御選往なり(時に十九歳、これより先源君岡崎に往来す)。
❖永禄四年(1561)、今川氏真を背き織田信長と和睦す
(永禄六年、・家康と改む)。信康卿信長の女を娶り、今川氏真、永禄十二年言已)四月、掛川没落の後、遠州を領し給う。
❖元亀元(庚午)(1570)年正月(源君十九歳)、遠州浜松に移らせ給う(浜松城は元、引間に在り)。岡崎をば信康卿に譲らせ給えり。
❖天正十年(1582 源君四十一歳)、
武田勝頼没落の時、駿州を領し給う。
信長弑せらるの時、源君南泉堺に於て聞き召され、弔合戦のため上京ありといえども無人に付きて、直ちに伊賀路を経て、信楽(しがらき)にかかり給い、勢州白子より御船にて大浜に至り、それより岡崎に着御。而して北条氏直と甲州に対陣し、和陸相調いて、甲州、信州両国を領し給う。
秀吉治世に至って天正十八年(1590 源君四十九歳)、
関八州の伯として伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野を領し給う。
而して内大臣に任ぜられ、五大老の一員たり
(江州永原九万石、石部、関地蔵、四日市場、米野、岡、白洲賀、中泉、清見寺、各一千石、合せて八千石。島田二千石、都合十万石別にこれを領す)。
関ケ原(庚子、源君五十九歳)一挙に逆徒悉く静謐して、天下の政務皆源君に決し、賞罰を行われ、開国を御家人に恩補せらる。
❖慶長八(癸卯)年二月十二日(源君六十二歳)、
征夷大将軍に任ぜられ、従一位右大臣たり。
これより天下武家の制法に帰して、源君に大統一す。
大坂の役に秀頼滅亡し、
元和二年(1616)三月、太政大臣に任ぜらる。
同年四月、崩御。春秋七十五歳、
元和三年(1617)、勅により神号東照大権現を賜る。
正保二年(1645)十一月三日、勅により社号を改め宮となす。
❖源君十七歳(永禄元戊午年 1658)にして、
今川義元が命に因って、三州寺部城(鈴木日向守)是を攻め、外郭の放火、それより(三州)広瀬、挙呂母、梅坪等の城々を攻め、永野下野守信元と尾州石瀬に戦い、その年より大坂落城に至るまで凡そ五十余戦場、その内大合戦は姉川(江州)、味方原(遠州)、長篠(三州)、若見子(甲州)の対陣、長久手(尾州)、関ケ原(濃州)、大坂(摂州)両役以上七カ 度なり。
❖源君十八歳、永禄二(己末 1659)年、尾州大高城(鵜殿長助
これを守る)へ兵粮を入れ給う(今川義元これを命ず)。
織田信長兵を鳴海に出して、兵粕を入れさせましきと相支う。
此の時、鳥井四郎左衛門、杉浦八郎五郎、同藤次 郎、内藤甚五左衛門、同四郎左衛門、石川十郎左衛門等斥候に出て、信長の備戦を持つの開、今日の兵粮入り叶い難き由を言い、その内、杉浦八郎五郎云いけるに、敵の備戦を持たざるなり。その故は山上の兵皆備をおろさずして、山下の兵皆備を山へ押しあげ、これ凱戦を持つならんや。
急ぎ兵恨を入れられて然るべしと云う。源君これに因って終に兵粮を大高に入れ給う。敵更に之を支えず、義元大いにこれに感じ、翌年義元尾州発向の先手として(五月十八日)丸根城を力攻めに攻落し、佐久間大学を討取る。義元大いに悦び、大高城を守らしか。此の日義元戦死す。則も水野付元子野守)よりその告げありといえども、信元、元より信長に属す。この故にこれを信ぜずして、義元方よりたしかなる左右を待ちて、その日、月出て大高を引取り給う。是れ十九歳の時なり。その後、門徒蜂起す。公自ら賊に当って堅陣を拉き、今川氏真、一宮に出張の時、僅か三千の兵を以て、氏真一万余の士卒にあたり、堅固に後責の故に、氏真あしあしにて引退く(俗に一宮退口という。)其後信長に属し給う
て、金崎の義退、世以てこれを称す。公、信長、秀吉両代に属し、干戈の軍事をつとめ給う。その勇武英略に於ては、信長、秀吉右また、同日の論にあらず。この故に姉川合戦に信長のために兵を出し給うて、信長の先軍池田信輝、坂井右近悉く敗北し、信長の旗本既に危うきの処に、源君の兵、朝倉加勢を追崩しければ、浅井が同勢続かずして長政ついに敗軍す。姉川の一戦、源君力戦の功なくんば、信長の敗亡更に疑うべからざるなり。又長久手の役に、秀吉天下の大軍を率し給う。源君僅か十分の一の兵士を以て数日の対陣の上に、長久手の一戦に、森長一、池田信輝父子三将を討取り、猶小牧に陣し給うて秀吉ついに兵を納め、その戦略ならびに案ずべきなり(俗に伝う、小牧、楽田対陣に秀吉が兵殆ど十万、源君が兵一万)。而して源君ついに信長、秀吉に属し給うて年月を経、唯大命を待ちて事を行い給う。神智の及ぶ所凡慮の入るべからず。
信長卒去の後、秀吉、信雄鉾楯に付きて、信雄ついに源君に依頼す。秀吉武威四海を圧すといえども、信雄依頼の義を守りて、信雄に随心し、義戦を長久手にとげ給しにて引退く(俗に一宮退口といこ。其後付長に属し給う。然るに信雄ついに秀吉に和睦し、是に因って公また秀吉に属し袷うなり。その義、万世に聡ずべからざるなり。
味方原一戦に大利を失い給うて、浜松城にいらせ給えば、城中の守兵尤も少なく、勇士多く戦死す。ことさら浜松城、兵器少なく、矢玉甚だ少なし。群卒皆恐怖す。
此の時武田信玄急に浜松を攻めば殆ど危うかりけるに、源君更に驚かせ給わず。天守の上に伏せらせ給うて熟眠鼻息雷の如し。これに因って群将自ら安んず。関ケ原役に諸将各々清洲に参会して、源君の御出馬を相待つの時、村越茂助吉直を使節として、(その重きこと山の如し)
卸出馬あるべからずと云うことを云遣らせ給う。
井伊直政、本多忠勝を初めとして諸将名々御出馬を待つの処、この台命諸将承りて志を変ぜんことをいぶかしと云いて、茂助が口上を変改せしめんとするに至るといえども、茂前屈せずして仰せを告ぐ。
諸将大いに駭きて前非を改め、岐阜城を責める。岐阜落城の注進を聞召され、乃も江戸へ御出馬あって(その疾きこと、雷の如し)、
九月十四日、赤坂に着御。諸将行路次に出迎えて御気色を伺う。
公直ちに岡山に羞御。井伊直政、本多忠勝ひそかに言上しけるに、諸大名各々路次まで参向すといえども慰労の命(その徐なること林の如し)なし。久々の対陣、諸将皆勤労す。慰労の仰せ無からざらんやと云いけれども、諸大名に一往の礼謝に及ばず、直ちに柄楼に上らせ給うて大垣方御巡検なり。両人ついに偽って諸将に慰労の仰せを伝説す。
是等の大度量、几器の至る処ならんや、秀吉治世に及びて源君しばらく上洛これ無し。この時家臣或は秀吉と録楯をすすめ率る輩あり。秀吉事もと凡賤より出て四海を握らんとす。莀彼に従い給うことやあらん。
殊に軍旅の事は既に長久手に於て勝負の配流明らかなり。この時手切れあらずしては、特又得べからずど風諌す。公肯ぜずしてついに秀吉に属し給う。其の後小田原役に、秀志公を人質として上洛せしめらるべしと仰せありけるに、家臣又試練して、この節秀吉と手切れの事然るべし。北条が事累年の親縁なり。これを捨てられし事不本意と云う輩多しといえども、公更に肯ぜず、其の後、伏見大地震の節、秀吉僅かの小屋に入り給う。これを背かれん事、此の時にありとすすむる輩あり。公尤も肯ず。
或時秀吉茶道の某、財宝を厚く賄われんには秀吉に毒をすすめん事を乞う。公是を笑いて肯ぜ座ず。此の特の俗説尤も多し。公それ大いに信厚く、能く天命を知りてこれにまかせ給うなるべし。元、皆不測の神智に出で、その永佑を万歳に伝えられ紬う。まことに故ありと云うべきなり。