間宮林蔵 まみや りんぞう 1775~1844 樺太発見
江戸時代後期の探検家、測量家。常陸(茨城県)生まれ。 16才ごろ江戸に出て、測量術を学びました。 1808年、幕府の命令で樺太(今のロシアのサハリン)のことを調べに出かけましたが、十分に調べられませんでした。そこでふたたび樺太に行き、樺太が島であることを発見しました。
大陸との海きょうは、のちにシ-ボルトが、間宮海峡と名づけました。
18世紀末ごろから、幕府は北方の守りのため、最上徳内や近藤重版、伊能忠敬らに命じて、蝦夷地の探検や測量に力を入れました。
1800年、林蔵は幕府の命を受けて蝦夷地の測量をし、さらに千島列島を調査しました。1808年以降、数度にわたって北樺太の探検に従事し、さらに海峡を渡って太陸に入り、ロシアと清(今の中国)の国境黒竜江流域を調べました。探検家として輝かしい業績を残した林蔵でしたが、その後幕府の隠密(スパイ)になりました。シーボルトが、その著書『ニッポン』で、「われらが日本に滞在の終わりの不幸な年月中、日本政府の吟味を受けるようにしたのは、彼、間宮林蔵である」と述べているように、「シーボルト事件」の際、幕府天文方の高橋景保を密告したのは、林蔵とされています。林蔵は、隠密としても抜群の手腕を発揮したと伝えられています。
鶴屋南北 つるやなんぼく 1755~1829 江戸時代後期の歌舞伎作者
江戸歌舞伎を代表する名作『東海道四谷怪談』をはじめ、多くの作品を残しました。
江戸(東京都)生まれ。
3世鶴屋南北の婿養子として歌舞伎作者を志したものの長い間芽が出ず、1804年の『天竺徳兵衛韓噺(こくばなし)』が出世作となり4世を襲名しました。その作品には、自由かつ奇抜な発想が散りばめられ、それが観客の人気を博したようです。集大成といわれるのが『東海道四谷怪談』Jで、その作風は、河竹黙阿弥に引き継がれました。
十返舎一九 じっぺんしゃいっく 1765~1831 『道中膝栗毛』
江戸時代後期、『道中膝栗毛』を書いた人。本名を重田貞一(さだかず)といいます。駿河(静岡県)生まれ。武士の家に生まれましたが、やがて勤めを辞め、江戸の本屋の世話になって、いろいろな読物を書きました。
特に江戸の駕籠屋、弥次郎兵衛と喜多ハが旅をつづけるようすを書いた『道
中膝栗毛』は、その後、『東海道中膝栗毛』と題を変えて、20年間も売れつづけました。
若いころに仕えていた小田切土佐守が大坂町奉行になったのに従って大坂へ行きました。まもなく辞職し、浄瑠璃などを書きました。しかしそれでは身が立たず、30歳ごろに江戸に帰って版元の葛屋重三郎のところに身を寄せ、やがて葛屋のすすめもあって「洒落本」と呼ばれる短編の小冊子を書き始めました。作品には一九の滑稽の才が生かされ、多作だったこともあって、その名は次第に広まりました。代表作の『東海道中膝栗毛Jが出るに至って、文筆のみで生活を支え得るという、当時では珍しい作者となりました。『東海道中膝栗毛』は、弥次郎兵衛、喜多八という江戸の住人がむだ口、洒落、狂歌などを言い交わしながら道中する物語で、1802年に初編の「品川より筥根まで」が刊行されて好評を得ると、さらに続編が書かれ、以後の滑稽本の指標といわれました。
滝沢馬琴 たきざわばきん 1767~1848
江戸時代後期の小説家。 28年かけて『南総里見八犬伝』を完成したほか、『椿説弓張月』など多くの作品を残しています。
江戸(東京都)生まれ。曲亭馬琴ともいいます。最初は山東京伝に弟子入りし、主に絵を主体とする「黄表紙」の物語を手がけました。その後「読本」に転じ、次々と作品を著し、京伝をしのぐ人気作家となりました。
『南総里見八犬伝』は、勧善懲悪を主調とした構想の雄大な伝奇小説で、晩年失明した馬琴は、これを口述筆記によって完成させました。
伊能忠敬 いのうただたか 1745~1818 『大日本沿海輿地全図』
江戸時代中期の地理学者。上総(千葉県)生まれ。
49才になって、家業のつくり酒屋を子どもにゆずり、江戸に出て、天文学などを学びました。
1800年、幕府の命令で、蝦夷地(北海道)えん岸のそく量を行い、その後、17年かけて日と本各地の海岸のそく量をしました。その成果である『大日本沿海輿地企図Jは、忠敬の死後3年たって完成しました。
伊能忠敬が家業を子どもに譲ったのは49歳のことでした。忠敬は数学、暦学に興味をもち、それを学んで実践しようとしました。江戸に出て天文学者高橋至時に学び、その後56歳から始めた忠敬の測量の旅は、17年間、距離は約4万3700kmにのぼりました。忠敬の旅は、昼は測量、夜は計算と製図、さらに天体の観測と、多忙をきわめるものでした。『大日本沿海輿地全図』は、忠敬の死後、弟子たちによって完成されましたが、その地図の正確さについては次のようなエピソードがあります。
1861年、イギリス測量船が、幕府に日本沿岸測量の許可を求め、幕府は測量船に「伊能図」を持った役人を案内役として同行させました。測量船の船長は、「伊能図」の精密さに驚き、その写しを手に入れることで満足し、測量をしないで日本を去ったといわれています。
徳川家康
❖天文十一年(1542)壬寅十二月二十六日、
三州岡崎誠に御誕生なり。
贈鎮守府将軍、新田大炊前義重が後胤、贈大納言広志姉御子なり。
御母堂は水野右衛門大夫忠政が女、伝通院(後、久松佐渡守定悛に嫁す)これなり。
御先祖新田有親、親氏父子、永享の乱に新田をのがれ、徳川に居住して時宗の憎たり。
有親を長阿弥と号す。親氏を徳阿弥と号す。
後に親氏、三州坂井(後、酒井と改む)に蟄居し、遂に松平郷に移り給う。
その頃、松平太郎左衛門尉某、尤も有得の輩たり。
親氏、彼が女を娶り、家を嗣ぎて松平太郎左衛門と号す。
親氏、武威を近境に震いて、国人尤もこれを信敬す。故に親氏の下知に従うもの甚だ多し。
その子泰親上洛して参内する。勅命を以て三州の目代たり。
泰親初めて松平を出て、城を岩津岡崎に築き、その子蔵人信光の時、安城を攻取り、信光、子四十八人、国中の者と縁を与し、養子をなさしめ、西三州三分の一、手裏に属す。
子、蔵人長親に至って、今川上総介氏親、その武威を拉がんことを欲して、
❖天文年中、伊勢新九郎氏長(後、北条早雲と号す)をしてこれを伐たしむ。
長親氏長と与し、大いに戦う。氏長が兵、利あらずして吉田に引退す。
長親の子蔵人信忠、暴悪邪気、家人皆これを諌して退散の者多し。
信忠大浜城に隠居し、清康卿も安城に移る
(岡崎城かつて松平弾正左衛門某攻取る。後、清康卿、弾正が女を妻とし弾正ついに岡崎城に与す)。
清康卿雄武英才の豪将たり。これに因って三州大方これに帰す。
清康卿横死に付き、或は織田信秀に属し、或は今川義元に内通して、三州大いに分離し、松平内膳正信定(信定初名は与市郎、後内膳正に改む。桜井城生長親が二男、或は三男という、信忠が弟)その期をうかがって岡崎を押領する。
二郎三郎広忠卿、十三歳にして勢州に浪々し、十五歳にして駿州に至り、今川義元をたのみ還性の事を告げ給う。
❖天文六年( 1537)
五月朔日、広忠郷十七歳にして岡崎に還性し、
家臣阿 部大蔵、大久保新八兄弟、松平蔵人信孝(一説に康重と作す)、
各々忠義の勤労あり(阿部大蔵、常に広忠に従い駿州を往来しその策を為す。
大久保一族岡崎に留り、内膳に属し密かに帰策をなし、蔵人岡崎城を守り、偽りて病と称し入湯し、門鑰(もんやく)を大久保に与う。故に広忠、城に入るを得るなり。信孝は清康が弟なり)。
此の頃尾州織田弾正忠信方三州を競望し、既に安城を攻取りて織田三郎五郎信広を入り置き、岡崎を攻めとらんとす。此れに因って天文十六年広忠卿、加勢を今川親元に乞いて、信方と戦わんことを欲す。
義元人質を乞う故に、源君(家康)六歳にして駿州へ人質として趣かせ給う。
相従う輩は石川与七郎(後、伯耆守に任ず)、天野又五郎(後、三郎兵衛康景と改む)、上田慶宗、阿部、金田、桜井等凡そ二十八人、今川家より飯尾勘肋御迎へとして来る。陸地は敵多きが故、西郡より田原へ出御あって、戸田弾正少弼(広忠当妻が父、源君継祖父)方より駿府へ送りまいらすべきの由なり。
然る所、少弼が子五郎兵衛ひそかに信方に内通して、塩見坂に於いて奪取り、船にて尾州熱田にこれを送る。信秀大いに悦び、加藤図書が家に人置き、戸田五郎を宣す(永楽百貫を与う)。乃も岡崎に此の旨を告げて広忠を旗下に属せしめんとす。広忠言ぜず、信秀怒って源君を唐松寺天王坊に押寵め、甚だ以て艱苦たらしむ。
今川義元これをきき人質来らずといえども、広忠卿の志を感じ、乃か両朝比奈に臨済寺雪斎
長老をさしそえ三州に至らしめ、八月十日、小豆坂に於て一戦を遂げ、天文十八年(1549)三月六日、広忠卿二十四歳にして逝去に付き、義元より岡崎城に番勢を置いて守らしめ、西三州悉く、今川家に属す。同年十一月、親元が兵、朝比奈備中守泰能及び雪斎長老三州安城を攻破
る。
城主三郎五郎信広(信広は信長の庶兄、今年三月三日信秀卒す、危急に及びければ、尾州の加勢等相談の上、源君と信広、人質かえに成り給うて、今年源君八歳にして駿州へ趣かせ給う。
❖弘治二年(1556)、源君十五歳にて元服ましまし、義元の諱字を受けて元信と号す(翌年元康に改む)。
乃ち瀬名殿関口刑部大輔付真が女を娶り、永禄二己来年(1559 源君十八歳)、三郎信康卿誕生なり。
❖永禄三(庚午)年(1600)五月、今川義元桶狭間に於て戦死に付き、乃ち岡崎に御選往なり(時に十九歳、これより先源君岡崎に往来す)。
❖永禄四年(1561)、今川氏真を背き織田信長と和睦す
(永禄六年、・家康と改む)。信康卿信長の女を娶り、今川氏真、永禄十二年言已)四月、掛川没落の後、遠州を領し給う。
❖元亀元(庚午)(1570)年正月(源君十九歳)、遠州浜松に移らせ給う(浜松城は元、引間に在り)。岡崎をば信康卿に譲らせ給えり。
❖天正十年(1582 源君四十一歳)、
武田勝頼没落の時、駿州を領し給う。
信長弑せらるの時、源君南泉堺に於て聞き召され、弔合戦のため上京ありといえども無人に付きて、直ちに伊賀路を経て、信楽(しがらき)にかかり給い、勢州白子より御船にて大浜に至り、それより岡崎に着御。而して北条氏直と甲州に対陣し、和陸相調いて、甲州、信州両国を領し給う。
秀吉治世に至って天正十八年(1590 源君四十九歳)、
関八州の伯として伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野を領し給う。
而して内大臣に任ぜられ、五大老の一員たり
(江州永原九万石、石部、関地蔵、四日市場、米野、岡、白洲賀、中泉、清見寺、各一千石、合せて八千石。島田二千石、都合十万石別にこれを領す)。
関ケ原(庚子、源君五十九歳)一挙に逆徒悉く静謐して、天下の政務皆源君に決し、賞罰を行われ、開国を御家人に恩補せらる。
❖慶長八(癸卯)年二月十二日(源君六十二歳)、
征夷大将軍に任ぜられ、従一位右大臣たり。
これより天下武家の制法に帰して、源君に大統一す。
大坂の役に秀頼滅亡し、
元和二年(1616)三月、太政大臣に任ぜらる。
同年四月、崩御。春秋七十五歳、
元和三年(1617)、勅により神号東照大権現を賜る。
正保二年(1645)十一月三日、勅により社号を改め宮となす。
❖源君十七歳(永禄元戊午年 1658)にして、
今川義元が命に因って、三州寺部城(鈴木日向守)是を攻め、外郭の放火、それより(三州)広瀬、挙呂母、梅坪等の城々を攻め、永野下野守信元と尾州石瀬に戦い、その年より大坂落城に至るまで凡そ五十余戦場、その内大合戦は姉川(江州)、味方原(遠州)、長篠(三州)、若見子(甲州)の対陣、長久手(尾州)、関ケ原(濃州)、大坂(摂州)両役以上七カ 度なり。
❖源君十八歳、永禄二(己末 1659)年、尾州大高城(鵜殿長助
これを守る)へ兵粮を入れ給う(今川義元これを命ず)。
織田信長兵を鳴海に出して、兵粕を入れさせましきと相支う。
此の時、鳥井四郎左衛門、杉浦八郎五郎、同藤次 郎、内藤甚五左衛門、同四郎左衛門、石川十郎左衛門等斥候に出て、信長の備戦を持つの開、今日の兵粮入り叶い難き由を言い、その内、杉浦八郎五郎云いけるに、敵の備戦を持たざるなり。その故は山上の兵皆備をおろさずして、山下の兵皆備を山へ押しあげ、これ凱戦を持つならんや。
急ぎ兵恨を入れられて然るべしと云う。源君これに因って終に兵粮を大高に入れ給う。敵更に之を支えず、義元大いにこれに感じ、翌年義元尾州発向の先手として(五月十八日)丸根城を力攻めに攻落し、佐久間大学を討取る。義元大いに悦び、大高城を守らしか。此の日義元戦死す。則も水野付元子野守)よりその告げありといえども、信元、元より信長に属す。この故にこれを信ぜずして、義元方よりたしかなる左右を待ちて、その日、月出て大高を引取り給う。是れ十九歳の時なり。その後、門徒蜂起す。公自ら賊に当って堅陣を拉き、今川氏真、一宮に出張の時、僅か三千の兵を以て、氏真一万余の士卒にあたり、堅固に後責の故に、氏真あしあしにて引退く(俗に一宮退口という。)其後信長に属し給う
て、金崎の義退、世以てこれを称す。公、信長、秀吉両代に属し、干戈の軍事をつとめ給う。その勇武英略に於ては、信長、秀吉右また、同日の論にあらず。この故に姉川合戦に信長のために兵を出し給うて、信長の先軍池田信輝、坂井右近悉く敗北し、信長の旗本既に危うきの処に、源君の兵、朝倉加勢を追崩しければ、浅井が同勢続かずして長政ついに敗軍す。姉川の一戦、源君力戦の功なくんば、信長の敗亡更に疑うべからざるなり。又長久手の役に、秀吉天下の大軍を率し給う。源君僅か十分の一の兵士を以て数日の対陣の上に、長久手の一戦に、森長一、池田信輝父子三将を討取り、猶小牧に陣し給うて秀吉ついに兵を納め、その戦略ならびに案ずべきなり(俗に伝う、小牧、楽田対陣に秀吉が兵殆ど十万、源君が兵一万)。而して源君ついに信長、秀吉に属し給うて年月を経、唯大命を待ちて事を行い給う。神智の及ぶ所凡慮の入るべからず。
信長卒去の後、秀吉、信雄鉾楯に付きて、信雄ついに源君に依頼す。秀吉武威四海を圧すといえども、信雄依頼の義を守りて、信雄に随心し、義戦を長久手にとげ給しにて引退く(俗に一宮退口といこ。其後付長に属し給う。然るに信雄ついに秀吉に和睦し、是に因って公また秀吉に属し袷うなり。その義、万世に聡ずべからざるなり。
味方原一戦に大利を失い給うて、浜松城にいらせ給えば、城中の守兵尤も少なく、勇士多く戦死す。ことさら浜松城、兵器少なく、矢玉甚だ少なし。群卒皆恐怖す。
此の時武田信玄急に浜松を攻めば殆ど危うかりけるに、源君更に驚かせ給わず。天守の上に伏せらせ給うて熟眠鼻息雷の如し。これに因って群将自ら安んず。関ケ原役に諸将各々清洲に参会して、源君の御出馬を相待つの時、村越茂助吉直を使節として、(その重きこと山の如し)
卸出馬あるべからずと云うことを云遣らせ給う。
井伊直政、本多忠勝を初めとして諸将名々御出馬を待つの処、この台命諸将承りて志を変ぜんことをいぶかしと云いて、茂助が口上を変改せしめんとするに至るといえども、茂前屈せずして仰せを告ぐ。
諸将大いに駭きて前非を改め、岐阜城を責める。岐阜落城の注進を聞召され、乃も江戸へ御出馬あって(その疾きこと、雷の如し)、
九月十四日、赤坂に着御。諸将行路次に出迎えて御気色を伺う。
公直ちに岡山に羞御。井伊直政、本多忠勝ひそかに言上しけるに、諸大名各々路次まで参向すといえども慰労の命(その徐なること林の如し)なし。久々の対陣、諸将皆勤労す。慰労の仰せ無からざらんやと云いけれども、諸大名に一往の礼謝に及ばず、直ちに柄楼に上らせ給うて大垣方御巡検なり。両人ついに偽って諸将に慰労の仰せを伝説す。
是等の大度量、几器の至る処ならんや、秀吉治世に及びて源君しばらく上洛これ無し。この時家臣或は秀吉と録楯をすすめ率る輩あり。秀吉事もと凡賤より出て四海を握らんとす。莀彼に従い給うことやあらん。
殊に軍旅の事は既に長久手に於て勝負の配流明らかなり。この時手切れあらずしては、特又得べからずど風諌す。公肯ぜずしてついに秀吉に属し給う。其の後小田原役に、秀志公を人質として上洛せしめらるべしと仰せありけるに、家臣又試練して、この節秀吉と手切れの事然るべし。北条が事累年の親縁なり。これを捨てられし事不本意と云う輩多しといえども、公更に肯ぜず、其の後、伏見大地震の節、秀吉僅かの小屋に入り給う。これを背かれん事、此の時にありとすすむる輩あり。公尤も肯ず。
或時秀吉茶道の某、財宝を厚く賄われんには秀吉に毒をすすめん事を乞う。公是を笑いて肯ぜ座ず。此の特の俗説尤も多し。公それ大いに信厚く、能く天命を知りてこれにまかせ給うなるべし。元、皆不測の神智に出で、その永佑を万歳に伝えられ紬う。まことに故ありと云うべきなり。