仏教やキリスト教同様、成功哲学もある意味宗教と同じ構造を持っている。
科学の場合なら、共通の概念、例えば、電流や電圧、温度、密度といった状態を記述するものを考える為のイメージに数値を当てはめて、それらの相対的な量自体あるいはその量の変化を認識する共通の方法を共有し、その改善・進歩とともに新たな現象の理解へと進んでいる。
他方、宗教や成功哲学は、いずれも追体験するにしても、そのひとそれぞれの体験や状況に応じてさまざまな形をとり、共有された方法論というものがない、概念として共有されるときに用いられる言葉は、その中身が数値化できないものが殆どである。成功哲学の場合は、利益はお金で数値化できるが、御利益(ゴリヤク)は数値化できない点、宗教と違っているかもしれないが、お金の価値は、為替レートで変わるし、インフレ・デフレで変わるから、電流や電圧のように変化しない基準を持つものとは別。
普遍的なものを求めているが、一方は数値として不変量ではなく、他方は数値として不変量である。
こんなことをいっていると、かなり皮相的で、部分偏極的であるが、
だからと言って、このミクロな違いを無視して、一気に大局的状態のようなものを引っ張り出して、「科学の現象」と「成功の現象」を議論してしまうのは間違いの元だと思われる。とりあえず、全く別の現象であるとみなした方がいいだろう。
もしかすると、一つに繋がるところがあるかもしれないが、私には思い至らないところである。
信者が、教祖を定義すると宗教。
信者が、教祖は存在せず、考え方だけを共有する場合を成功哲学と言う。
これだけが、その違いなのが、今の現実の様態ではないだろうか。
科学の場合なら、共通の概念、例えば、電流や電圧、温度、密度といった状態を記述するものを考える為のイメージに数値を当てはめて、それらの相対的な量自体あるいはその量の変化を認識する共通の方法を共有し、その改善・進歩とともに新たな現象の理解へと進んでいる。
他方、宗教や成功哲学は、いずれも追体験するにしても、そのひとそれぞれの体験や状況に応じてさまざまな形をとり、共有された方法論というものがない、概念として共有されるときに用いられる言葉は、その中身が数値化できないものが殆どである。成功哲学の場合は、利益はお金で数値化できるが、御利益(ゴリヤク)は数値化できない点、宗教と違っているかもしれないが、お金の価値は、為替レートで変わるし、インフレ・デフレで変わるから、電流や電圧のように変化しない基準を持つものとは別。
普遍的なものを求めているが、一方は数値として不変量ではなく、他方は数値として不変量である。
こんなことをいっていると、かなり皮相的で、部分偏極的であるが、
だからと言って、このミクロな違いを無視して、一気に大局的状態のようなものを引っ張り出して、「科学の現象」と「成功の現象」を議論してしまうのは間違いの元だと思われる。とりあえず、全く別の現象であるとみなした方がいいだろう。
もしかすると、一つに繋がるところがあるかもしれないが、私には思い至らないところである。
信者が、教祖を定義すると宗教。
信者が、教祖は存在せず、考え方だけを共有する場合を成功哲学と言う。
これだけが、その違いなのが、今の現実の様態ではないだろうか。