現代版徒然草素描

勝手気ままに感じたままを綴ってみましょう。

おじさんの記憶

2009-01-09 17:37:26 | 創意工夫ということ

おじさんの記憶(実は先の記事と順序を間違えて投稿してある。)

 私のおじさんは田舎(長野県上水内郡

小川村
花尾)でお酒やタバコ、雑貨、調味料などの商売をしていた。お酒や、タバコを扱う前には家庭用の薪で焚くコンロの大きなものを作って各家庭に提供していた。その商品名は「ハッピーカマド」といっていたような記憶がある。

当時としてはハイカラな名前をつけたと感心していた。鉄なべやご飯のお釜やお湯を沸かすヤカン等が載せられるものである。今考えるとその素材が珪藻土でできていたことになる。遠赤外線を出すことでご飯がおいしくなるということである。

おそらく、その作り方はどこかで既にあったものであるが、工夫をほどこしてあるということになる。まだ、ガスがこれほど普及する前の話である。「最初はのこぎりで切った状態で重ねられただけのものだった。」と言っていたような気がしている。このことは私の親が言ったのかもしれない。何年も前の話であり記憶の状態が良くないのである。

それでも、おじさんの作ったものは我が家に一個だけ残っている。いくら田舎とはいえ多くの家で処分してしまっているものと考えたほうがよさそうであるが、早い段階で都会に出てしまって現在は廃屋又は少々管理している家には残されているかもしれない。

親父の話を総合すると、「のこぎりで切ったままでは見た目が悪いのでおじさんはカンナをかけて表面の見た目を良くしたのだ。こういうことを工夫というのだ。」と言っていた。農作業の合間に休憩している時間に話したものと思われる。何しろ、45年も前の話であり、記憶の糸が相当擦り切れているのだ。正確に思い出せというほうが無理である。

その上に、「ただ積み重ねただけではその重量で崩れるということはないが、薄い金属で(トタンを帯状に長く切ったようなもの)その継ぎ目を固定して釘で止めるという工夫をしたことで移動が簡単になっただけでなく、木の台所の上でも枠を組んでトタンなどで燃えにくくすれば使用できることになった。」おじさんが、それを特許他にしたということは聞いたことがなかったと記憶しているが、多くの家で使っていたことは事実である。

特許にしなくても売れている商品はいっぱいある。今になって思えば、発想のヒントなどを聞きだしておくべきだった。私のコンセプトはこんな体験から生まれてきているものと思われる。私もだいぶお世話になったが、何年か前に他界してしまった。

最近、発明や特許に関わっているために思い出したことを書いている。<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 3.75pt; HEIGHT: 6.75pt"><imagedata o:href="http://i.yimg.jp/images/mlb/common/mark_2.gif" src="file:///C:DOCUME~1OwnerLOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.gif"></imagedata></shape>


おじさんの記憶

2009-01-09 11:42:18 | 創意工夫ということ

新規な日用品の宣伝販売をしていたことがある

 若いころ、新規な日用品の宣伝販売をしていた時期がある。店頭に並んでいない商品を売って見せるということである。そんな経験から、「ここをちょっと変えればもっと使い勝手が良いのに、」と思える商品がいくつかあった。中には、実用新案や、特許出願中のものもあった。

そのころから、いずれは自分で権利化した商品を提供したいという目標は出来上がっていたことになる。宣伝販売のコツや、セールストークの研究もその間にしてきたことである。わかりやすい言葉で表現することや、AIDOMの原理や販売と広告の心理学、商品開発のコンセプトに関わることである。上手に表現できるかできないかによって売り上げに直結していることになる。

宿に帰って反省である。「あそこの言い回しをこう変えてみよう。」「もっと簡単に表現する方法はないものか。」「ここは少々時間をかけてゆっくりと、・・・。」等々である。大方は自分で自分に問いかけるという方法である(一人ブレーンストーミングという方法。)。仲間がいたときは「どこか気になったところはないか。」と聞くことにした。

最初のころはテープレコーダーを使用して何を言っているのか分析してみた。ハードとソフトをいかに盛り込むことできるか。「どうしたらお客さんにリラックスしていただけるのか。」説明の難しい商品ほどこのことに気をつけなければならない。「クロージングのタイミングと次のお客さんをひきつけておく方法は、」クロージングでお客さんが途切れてしまっては何の意味もないことに成る。「次はここから説明します。」あるいは「次は、こういう順番で説明したいと思っている。」「先の説明で不十分だと感じている人は残って再度見ていってください。」と一言、お客さんの一番関心のあるところから入ることでクロージングしてお帰りになるお客さんと次のお客さんがスムースに入れ替えできることになる。

中には、「この作り方を先に説明していただけますか。」とリクエストしてくるお客さんもいた。「では、そちらから先にしましょう。」これなら商品をお求めになった人でももう一度その箇所だけしっかり確認したいという人は数人残っていることになる。何回も同じ商品説明していると「この箇所が良くわからなかった。」「使ってみたら今までのよりはずいぶん良かった。」といって数本まとめて買っていただいた人がいた。そういう時は売り上げが多いことになる。

私はその方のプロと思われているところにすでに利用した人がいて一本といわずに近所のものや、親戚の分、嫁に行っている娘さんの分をまとめて買っていただけるし、それを見ている人も安心して買っていただけることになる。そんな経験の中からストーリー性のある商品を開発しなければならないということである。

このことは何回もメーカーにいってきた。営業担当者は開発の部門には関与できなくなっているのだろう。極端に専門化するとなかなか改善ということはできなくなる。現場のことがフードバックされていないのだろう。なかなかそういう商品を見つけ出せずにいるらしい。

現在の仕事をするようになってからもメーカーの持ってくる商品は一応このチェックをかけてある。なかなか自分で納得できないものはパッケージを長く机の上に置いておくことで、その商品がどこへ嫁入りしたいか語りかけてくるものである。この自己主張できないような商品は売るのに苦労したという苦い経験がある。メーカーへの支払いが済んでいるのに仕入れた量の半分くらいしか売れていないということが起こってしまいかねないのだ。

メーカーの開発者が一体何を考えているのだろうと思える商品もあった。そういうものはどんなに長く付き合ってきたところであっても極力仕入れないという方向で対応してきたが、判断をミスしているものもある。

お客さんが「どうしてもほしいので用意してください。」といってきたものはその限りではない。また、メーカーの営業もプレゼンテイションができていない。中間業者に卸すという行為は相手先がそれなりの情報を持っているので売りやすいことになる。直接消費者に売っていないのでその辺の機微が飲み込めていないような気がしている。なるべく優しく表現するということが肝要である。


水は燃えるか

2009-01-08 20:50:02 | エントロピー

(エントロピーの法則を超えて)

 水は地球中にある最大の資源である。これが燃料になれば、資源の節約になること

は誰でも理解できる。その上に無公害と言うことになる。電気分解して得られた水素

を燃やしたり、燃料電池にしたりすることは想定していない。

「水のままで燃えるか。」と言う議論であるが、発明研究会の春の親睦会の席上、

二人のメンバーが「ある人がストーブだかボイラーにしたものが新聞の記事になっ

た。」「50%くらい石油の消費が節約できる。」と言いだした。(それはちょっ

とオオバーにしても、)

「エマルジョン化すれば可能になるかもしれない。」「ゼオライト白金で触媒が可能にならないだろうか。」「ゼオライトの多孔質と金属触媒を使うのだ。」と言い議論になった。

一定の条件が整えば水がもえるのかもしれない。燃えると言う表現が良くない。火山の水蒸気爆発と同じ原理で爆発するだけなのかもしれない。内燃機関のシリンダーの内部で起きる分には動力になる。

この技術でよければもう既にあると考えられるのだ。「空母艦載機がカタパルトから発進するときはエンジンの中にミスト状の水にアルコールを数%含ませたものを噴射しているはずである。」と私が言うのだが、多くの人たちはピーン来ていないのだろう。

軍需技術になっているために公開されていないのかもしれないが、第二次世界大戦の頃、空母艦載機にはこの技術が使われていたはずである。短い距離で発進しなければならないためにエンジンの出力を最大にしなければならないのである。艦載機が海の中に突っ込んでしまったのでは何にもならないことになる。

特に着艦するときに着艦フックに引っかからなかったときは再度飛び立たなければならない。「タッチアンドゴオ」という訓練はこのときのためものである。

現在アフターバーナーといっていることと同じなのかは専門外なのでわからない。

車にしても、「雨の日のほうがエンジンはスムースで、空気中に幾分かの水蒸気があったほうが良いということである。大手の自動車メーカーなら何%あれば最適なのかは実験できる。また、火災のとき、最初の水を掛けたとき火の勢いが増すという現象が起こることがある。熱で水が気化した物が爆発するのか、何らかの影響で水の酸素が火の勢いを増すということになるのかもしれない。消防士はそのことをよく知っているはずだが、・・。」と付け加えて置いた。

水が温度や圧力又はミストという条件さえ整えば燃えるかどうかは疑問としても水蒸気爆発を起こすものと思われる。ガソリンにしても、エタノールにしても内燃機関の中で爆発して動力になっていることには代わりがない。爆発を制御できれば良いということである。

この原理は古くて新しいものであるが既に応用されているはずである。今の艦載機がどうなっているかよくわからないが、35年位前に自分の車で実験済みになっている格好になっている。20%くらいは燃費改善効果があったと思われる。確かなデーターが残されていない。ガソリンが値上りになっているので再び話題に上がってきたということだろう。最近でこそガソリンは値下がりしているが脱炭素社会を実現していかなければならなくなってきていることは事実である。

 注 この議論のきっかけになったのは「金属加工の中で出るスクラップは濡れてい

   れば回収していかない。」「再度溶かすときに問題があるとかないとか。」

   「結晶水が爆発を起こす云々。」言う議論が先にあった後の議論である。

 注 エマルジョン燃料に添加する水はどうも活性水素水(H3o2-)を使っているらしい。そうなればOH-の部分は界面活性剤にはなるだろうし、ガス化した水素の部分は燃えることになる。【後日、小布施、鶴田さんとの情報交換。】水を混ぜてもカロリーが落ちない根拠になるだろう。

 注 メチル基でも対応できるかもしれないが、その実験は一切していない。そう感

   じているだけのことで確証はない。私一人で実験できる性格のものではない。

   「常和の命水」でもよさそうである。OHの濃度(エマルジョンの働き)がどのくらいになるか調べなければならない。


プロローグ

2009-01-06 08:35:37 | インポート

 秋の夜長、燈火の下に、一冊の古典を持ち出して目を通してみた。吉田兼好の「徒然草」である。その冒頭の部分を自己流に現代語訳して見ると次のようになりはしないと思われる。

「つれづれなるままに」日常生活において、或いは生活しながら,気の向くままに、「ひぐらし」時間も気にせず、そんなに気張らず、リラックスして「硯に向かいて」電子の硯、パソコンに向かい、「心にうつり行く」自分の目に映ったさまざまな事を、自分の感性で捕らえ事を、「よしなしごとを」たいした理由があろうが、なかろうが、「そこはかとなく」価値や体系化せずに、時には、なんら科学的な事にも囚われず、「書きつくれば」自分なりの表現方法で書いて見ようと思いたった。「あやしうこそ」興味や関心はそそられるけれど、「ものくるほしけれ」矛盾を内包しながら、ファジーだけれど人生そのもの様な気がしないでもない。という事になりはしないか。

たぶん、随筆とか、エッセイとはこのようなニュアンスをいうのだろう。実に自分勝手で自分に合ったように訳している。吉田兼好が現代に生きていたら今日の現象をどのように表現するのだろうかと言う思いもある【知恵袋の「横の比較、縦の比較」に繋がっている。】。自分ではそんなにかけ離れてはいないと思っている。

「日常的思考の可能性」と言うライフ・ワークは実はかしこまった学問ではない。どちらかと言えば「生活者の学問」と言う発想である。そこには時にテクニカルターム(専門用語)もなければ、アカデミック臭さもないかもしれない。だが、確実に生活に根付いた実践的で実用的な学びがある。生活しながら考えると言う試みであり、その現場から学びのヒントと解決策を見出していこうとする試みである。

いわば、「普段着の学問があっても良いではないかという発想である。「生活者が」「生活する中で」「生活者の言葉を持って」「よりよい生活をうるための学問」ということである。そして、今までそのようにしてきたと考えている(その取っ掛かりは二十歳の頃だと思われる。)。継続する為のさまざまな障害や、技術的な諸問題はそのたびの工夫で乗り切ってきたと解釈している。先人たちの知恵や、「玉を拾う屑籠の発想と手法」などである。

一つの区切りとして表現してみたいと思うようになった。

尚、この文章は至る所にリンクしていることになるだろうし、少々専門的なことはどうしてもテクニカルタームを使用することになるが、そのときは、私なりの注釈をつけることにする。