あるがままに高齢を生きる! シャンソン、菜園とともに・・

予測不可能な未来のドラマに期待を寄せつつ、明日を見つめてまだまだ濃い時間を紡げたらとブログを書き続けます。

私は未来に、ちゃんと存在しているのかしら?

2017-08-09 18:01:00 | 日記
暑い日でしたね。

私は帽子も被らず日焼け止めもつけず、テニスに明け暮れた時期があって、暑さ寒さには慣れてきた分耐性があると思うのだけれど、この気象が、未来にどう変化していくのか予想がつかず、空恐ろしい気がしています。

何故なら、熊本と北海道が同じ気温だったり、現在のように沖縄が常時、熊本より気温が低いのが続いたりというような、過去の常識が通用しない現象が増えて来たように思えるからです。

そのような未来に適応するように、自分を改良する余地があるのだといいのだけれど。

84年の人生で巡り合ったことのない今が、面白くもあり、恐ろしくもあり!!

滝川西高校の選手宣誓に拍手!!

2017-08-08 10:19:33 | 日記
今朝は高校野球の開会式がありました。

この時ばかりは身じろぎもせず、テレビにくぎ付けです。

私はテニスプレイヤーとして、おおむね選手として延べ30年のキャリアがあります。シニアになってからは、全日本選手権その他の試合で、全国を飛び回っていました。

高齢になっても、開会式と表彰式は興奮するのです。椅子で姿勢を正して見てしまいます。引退して18年も経つというのに?!


今年の選手宣誓はよかったですね。

毎年、叫ぶように宣誓をする彼らの言葉の意味がはっきりせず、何とも残念でしようがなかったので、今年の滝川西高の語るような言葉での宣誓に、拍手を送ります。

ブラボー!!

ふと思い出すこと!

2017-08-08 06:55:42 | 日記
女学校に入学すると、多くの時間を勤労奉仕と称して、農家の手伝いに行かされていました。

現代の若い世代には理解できないでしょうが、勤労奉仕は小学校4年生から実施されていました。私たちは土地柄もあって農作業が主たる奉仕でした。田植え、稲刈りなど。

それは女学校1年生の、終戦の時まで続きました。

爆弾が数個落とされたことはありましたが、大きな被害をうけた記憶はありません。



すでに警戒警報や空襲警報のサイレンの回数が増えてきていた初夏の頃だったと思います。

当時私は、熊本県立八代高等女学校に通っていました。

終戦前の昭和20年12歳の夏のはじめ。その日農作業の奉仕が終わって、小川の脇の細い道を自転車で岐路についていた時のことです。

警戒警報が鳴って、気ぜわしくペダルを踏んでドキドキしながら急いでいると、飛行機が1機、低空飛行で私に向かってきました。

とっさに私は自転車を倒し、道端に生えている小さな木につかまりながら、滑るように川の水に首まで浸かり、震えていました。


そして飛行機は何事もなかったかのごとく、私の上をスルーして飛び去って行きました。


細かいことは覚えていません。

覚えているのは、低空飛行の1機と、それが上昇していった姿。そしてその後、びしょ濡れの格好でで帰った私に質問の嵐を浴びせる、母の怖いような顔!

これだけは忘れることができません!!

台風が去って、また菜園と会えたのが幸せ!

2017-08-07 06:41:46 | 日記
50年に一度の大雨で、そのスピードが遅く、同じ場所に長く停滞するという台風も、熊本は、いやこの合志市は、逸れてくれたのでしょうか?

朝6時半過ぎに雨戸をあけると、南の方がどんよりとはしているけれども、無風状態です。


昨日、剪定をしてもらっていて、ほんとによかった。

そのとき雑草園もほんの一部を、鎌で刈ったり抜いたりしておいたので、後は残りを少しづつ続ければいいという、楽な気持ちでいられるのが嬉しい。イライラしていたのがウソみたい!

草をとりながら、ジャガイモを掘り、取り残したナスをもぎ、思いがけなく無しにしようと引っこ抜いていた茗荷の残りから、両手に3杯ぐらいの収穫があったのには驚きました。

草の間に埋もれていた青紫蘇も引っこ抜いて、また今年最後のジュースが作れそうです。


どんな状況になっても、菜園は私を幸せにしてくれます。

あぁ~幸せ!!

ふと思い出すこと!

2017-08-06 08:59:18 | 日記
8月6日、原爆投下の日です。


私が女学校1年(現中学1年)のとき日本は戦争に負けました。1945年8月15日です。


それからどのくらい経っていたでしょうか?

私が活動していた軟式テニス部(現ソフトテニス)に、いつからか広島から転校してきた先輩が入部していました。

お互いに少し慣れてきたところで、彼女は広島で体験した原爆について語り始めました。

当時の情報伝達の方法はラジオ以外になく、人からの情報は大変貴重なものでした。


「人の死骸が積み重なってるのよ。それをみんなでね、スコップで別のところに運ぶの。最初だけはちょっと嫌だったけど、命令によって義務感でやるんだから、余計な感情なんてなかったね!」


未だに忘れられない強烈な思い出です。