よりみち散歩。

日々の暮らしのなかで心に浮かぶよしなしごとを、こじんまりとつぶやいています。お役立ち情報はありません。

ダリ展(過去最大級・国立新美術館)

2016年09月19日 | 美術

国立新美術館

スペインのシュールレアリスムの画家、サルバドール・ダリの展覧会に足を運んだ。




写真や映像、金細工や彫琢を含めれば、250点にも及ぶ大回顧展。
過去最大級の規模である。

当日は連休の中日、しかも「高校生無料デー」という条件も手伝ってか、入場規制されるほどの盛況ぶりである。


初期の作品に、まったくダリらしさがないのに驚いた。
素人の、日曜画家程度の構図、画力のものもある。

ゴッホも初期はまったく作風が違っていた。
ピカソは14歳の頃に、子どもと思えないほどの、才気の萌芽が感じられる絵を描いていた。
画風が変化するのは珍しくない――というより普通は変遷を辿りゆくものだから、驚く話ではないのだが『常識的な』絵がやや意外だった。




<ラファエロ風の首をした自画像>

こちらは、ポスト印象派の影響を受けた筆致で、後年のダリの作風を予想させるものではない。


それ以外にも、点描を用いたスーラ風のものや、ピカソへの崇敬を思わせる絵など、試行錯誤し昇華していった痕跡がみとめられる。


会場が混雑しているのは、入場者が多いから、というだけではない。

ダリの絵は、メッセージ性が高く、謎が多く、主題が非常に複合的である。

芸術作品には「一目見て理解できるもの」「全く理解できないもの(或いは観覧者が理解を放棄したくなるもの)」がある。
後者は――例えば、キャンバスをカッターで引き裂いただけのものなど(私見である)。

ダリの絵は、そのどちらでもない。
後年の写実性の高い作風は、描きこまれているひとつひとつは理解しうるものであるのに、総合的に把握することは難しい。




<姿の見えない眠る人、馬、獅子>

この絵は、裸婦にも見えるが馬にも獅子にも見える物体が描きこまれている。
観覧者たちは、絵の前で一瞬戸惑いをおぼえる。

そこで説明文を読み、またその視線を絵に食い込ませ、ようやくひとつの解を得る。
それでも、彼のメッセージを完璧に理解してはいない。
もっと深淵なものが潜在する。

ひとつひとつの絵で、皆、逡巡をおぼえるため、どうしても列の進みは遅々となるのだ。




<ラファエロの聖母の最高速度>

これなども遠目では何を描いたか、判別しづらい。


今回の回顧展ではじめて知ったのは、ダリが「広島、長崎の原爆に大きな衝撃を受けていた」ということだ。

大きな災害により「自分の仕事に何の意味があるのか?」と創作意欲を失うクリエイターも多い。
「この現実を越えられるのか」と自問の末、身動きが取れなくなるのは、よくあることだ。

ダリが超人であるのは、その衝撃を己が作品に注ぎ込み、常に探求していたことである。




<ビキニの3つのスフィンクス>





<ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌>



いずれも「原子力爆発」がテーマに据えられている。

精神分析や科学、相対性理論にまで踏み込み、絵画や映像等にもその天稟を発揮していく。

その世界観には、ただ圧倒されるばかりである。


セルバンテスは「プティングの味を知るには、それを食べるしかない」という名言をのこした。
ダリの世界を些少なりとも知りたいなら、その作品に触れるしかない。


にほんブログ村

浅草寺(観音様の縁日)

2016年09月18日 | 神社仏閣
18日は観音様の縁日である。
曇りか小雨なら、浅草寺に参拝したいと思っていたら、願いが叶った。
(私は紫外線が苦手なのだ)

いい感じに小雨がぱらつく天候。

都営地下鉄乗り降り自由のフリー切符(500円)を入手して
家を早めに出る。

7時30分過ぎに浅草駅に到着。



この提灯の下で、深呼吸。




まだ仲見世も開いていないため、混雑には程遠い状態。
歩くのが楽でうれしい。

活気がある場所は好きだが、極端な混雑は苦手である。

もし「大晦日の夜に、明治神宮に参拝したら100万円あげる」と言われても
即、断るだろう。それくらい、人混みに耐えられないタイプだ。




ここで、中国人の男性に「シャッターを押してほしい」と頼まれた。

愛宕神社参拝日記にも書いたが、頼まれごとは吉兆である。

喜んで撮影する。
言葉がわからなくても、意思の疎通はできるものだと改めて思った。


浅草寺の来訪者は、日本人より諸外国の方のほうが多いように感じる。
プルカをかぶった集団(イスラム圏)の団体もいらしていた。
…宗教的に、抵抗はないのだろうか。




大提灯の下で一度深呼吸して、本殿へ向かう。




この静寂がうれしい。

後ろで待っている人がいると、気兼ねして祈りに集中できないが、今日はゆっくり参拝できた。

観音様は、衆生を救うため、やや前かがみの猫背である。
慈悲の力が伝わる、優しい場所だ。


だが御籤は、ここでは引かない。
何でも、浅草寺のおみくじは3割が「凶」らしく、私は過去に2回続けて引いたことがある。
別に何度もやるものじゃないと思うが、その時同行していた友人が
「吉がでるまで引くんだ!」と唆したもので、3回引く羽目になった。




水辺は気持ちがいい。




橋の上から覗き込んだら、鯉が一気に寄ってきた。
愛宕神社と違い、今回は餌を持っていない(餌やり禁止になっている)。

隣にいた女性のところには寄って行かないのに、なぜ私に鯉たちが引き寄せられるのか。
もしかしたら、吉兆でなく、既に運気が上がっているのかもしれない。

心の中で快哉を叫ぶ。ラッキー!




影向堂(ようごうどう)

堂内に上がれるので、中で自身の干支の仏様に合掌した。


境内のすべての社を拝んでいたら、1時間以上経過した。
浅草寺には、二万六千日参りも数回行っているし、結構良く足を運ぶ
仏閣のひとつだが、ここまで丁寧に巡ったことはない。

だから、体験の一つ一つが新鮮だった。




ご神木の近くで少し休む。




だんだん、人が増えてきた。



<本日の周遊記録>

(浅草駅)浅草寺⇒待乳山聖天⇒今戸神社⇒浅草神社⇒
(人形町駅)小網神社⇒(六本木駅)天祖神社⇒ダリ展観覧⇒
(上野御徒町駅)東照宮⇒五條天神社⇒花園稲荷神社


やや過密スケジュールだったろうか。
フリー切符を持つと、ついいろいろ周りたくなるのだ。勿体なくて。




吉兆こぼれ話。



浅草神社で婚儀が行われていた。




白無垢姿を見ようと群がる参拝者の皆さん(少し散り出したか…)



小網神社でおみくじを引いたら、またも大吉だった!


高幡不動尊…末吉、愛宕神社&小網神社…大吉

3つ並べてみたら「今は大変だが道は開ける」というところが共通だった。
あと、「病気は治る」も同じだった。(治りがたし、という御籤もあるのでうれしい)

たくさん歩いたので、体脂肪率も下がっていた。

今夜は、心地よく眠れそうだ。


にほんブログ村

日枝神社のご神木で「樹の気ぼっこ」

2016年09月12日 | 神社仏閣
愛宕神社、金比羅宮を参拝した後、日枝神社に向かう。


山王橋(端にエスカレーターあり)

このようにエスカレーターで赴くこともできるが、できれば表参道(男坂)を歩くほうが良い。




表参道(山王男坂)




私のおすすめは、男坂に向かって右手側に鎮座する、このご神木である。

なんとなく良い気があふれているのがわかる。

数分、樹陰に佇み、深呼吸をする。

日向ぼっこならぬ、樹の気ぼっこ(勝手に命名)だ。

静謐で穏やかな、それでいて力強い気を感じる。

樹の気ぼっこを終えたら、心の中でご神木にお礼を言って、男坂を黙々と上がる。




本殿に参拝。




夫猿




妻猿と赤子


妻猿を撫でると運気が上がるというが、敬意を込めて両方に触れてきた。




末社


    

日枝神社の御祭神は、大山咋神(おほやまくひのかみ)である。


相殿に鎮まる神々

•国常立神(くにのとこたちのかみ)
•伊弉冉神(いざなみのかみ)
•足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)


いざなみ神は、個人的に大好きだ。

黄泉平坂で夫のいざなぎ神と永訣する場面では「愛しい男よ」「愛しい女よ」と呼び合う。

恥辱と憎悪と憤怒の中にあっても、相手に対する想いが仄見えるこの言葉のやりとり、
矜持と情愛の深さを感じ、しみじみとするのだ。

古事記と言えば「天の岩戸」「ヤマタノオロチ」が有名だが、
私は「いざなぎ・いざなみ」のくだりが一等好きなのである。

そのような理由で、この日枝神社には崇敬だけでなく、親しみ、懐かしみをおぼえている。



にほんブログ村

愛宕神社で吉兆を得る(パワースポットめぐり)

2016年09月11日 | 神社仏閣
愛宕神社に参拝した。

今朝は最高気温が25度、小雨がぱらついており、紫外線アレルギーの私は
絶好の外出日和と、天候に感謝した。

勿論、予習は怠らない。

出世の石段は足を止めることなく、一気に登る。
 そして、帰りはこの石段を使わずに下山する。

「出世の石段 金箔御守」を授与していただく。

池の鯉に餌を与える(金運がつく)。

という話を仄聞したので、それはクリアしようと思った。

ちなみにご利益は下記のとおり。

•火に関するもの、防火、防災
•印刷・コンピュータ関係
•商売繁昌
•恋愛、結婚、縁結び




日比谷線の神谷町駅を降り、愛宕神社の出世の石段前に到着した。



37度の急勾配、86段を一気に登らなければならない。
「筋肉痛になった」などと体験者から聞いていたため、予想より疲労しなかった。
ただ、残り10段くらいは、きつかった気がする。



足止めせずに撮影した写真。出世石段を下りる方がいる――いいのだろうか。
ちなみに、私が望むのは出世ではなく、運気アップである。






神社前に到着。

60代くらいの男女3名が交代で写真を撮っている。
そのうちの一人の男性が
「シャッターを押してもらえますか」と頼んできた。

頼まれごとや人助けの場面が巡ってくるのは、吉兆である。

快諾し「もし気に入らなければ、撮り直します」と伝えたところ
「いや、撮影者が美人だから大丈夫でしょう!」と
優しい反応が返ってきた。

リップサービスとわかっていても、悪い気はしない。
こういう一期一会があるのは神恩だろうと、神様に感謝する。

吉兆はまだまだ続く。



本殿に参拝中、雪のように白い猫がするりと私の前を横切り、
社内で毛づくろいを始めた。



何となく、神様は歓迎ムードのような気がする。
ひたすらに嬉しい。

お参りの後、件の札をいただく。



出世の石段 金箔御守 強運御守護

豪奢かつ精緻な細工である。
金運と仕事運がアップする、と信じる。


その後おみくじを引いたら、珍しいことに「大吉」だった!
すごいな、吉兆続きだなと喜びつつ、鯉の餌を買う。




ここで鯉に餌をやると、金運がつくそうだ。
私が池の淵に立った途端、恐ろしい程の勢いで、鯉たちが群がってきた。
餌の匂いがわかるのだろうか。




餌取り合戦はすさまじい。
鯉たちの上に全身が乗ってしまい、水面から飛び出そうなコもいたので、少し心配になったほどだ。

時間をかけて餌まきをしていると、年配の女性が「すごいわねえ」と言いながら
横で写真を撮っていた。いい絵を撮っていただけたなら、私も嬉しい。


餌がなくなったら、鯉は三々五々に散っていった。





静寂を取り戻した池。




弁財天にお参りしている途中、急に雨雲が切れ、日光が祝福のように降り注いできた。
吉兆、ここに極まれりという感じである。




最後に招き石を撫でていたら、また高齢のグループの女性から
「何かあるの?」と聞かれた。

「何かいいことがあるみたいですよ」と答えると、皆さんが
「孫のお産が軽くなりますように」など唱えながら、代わる代わる撫で始めた。

「でもこれ…何の形かしら。ニャンコじゃないわよね」など聞こえたので
「カエルですよ」と言ったら、皆さん納得していた。

(後で調べたら、サイトのどこにもカエルとは書いていない。
 先週伺った大宮八幡宮の蛙石と混同していたかも…皆さま、無責任な発言を許してください)

…こういうところから、都市伝説は派生するんだろう、多分。
「撫でると福がつく」という幸運情報を伝播できたのだから良しとしよう。うん。


そして、帰りは脇の階段をトコトコ下る。


神谷町駅に向かうつもりが、方向音痴の私は真逆の方向に歩いていたため
その後、金毘羅宮にお参りすることができた。

僥倖極まる一日であったことを、心から感謝



にほんブログ村

良い運気を呼び込む家づくり

2016年09月10日 | 運気アップ
昨日「占いを信じるか」というお題に答えながら、
少し書き足したいことを思いついたので、こうしてしたためている。

断捨離や片づけ系の本を一通り読み、知人や豊かに暮らす人の家の状態を
観察すれば、おおむね自分なりの解は見いだせるものだ。

「空き家は荒れる」「人の住まない家は老朽化が早い」
これは、確かにある。

まったく掃除をしない人が数年住む家と、
ピカピカに磨き上げた家を無人のまま放置した場合と、
比べれば後者のほうが、傷みが早いのである。

洋服や服などは使用頻度が高い程、劣化するのも早い気がするが、
家は逆なのである。

やはり、住む人の「気」が家と呼応しているのではないか、と
考えるに至った。


掃除と片づけはもちろん重要である。
これは自分が気分良く過ごせるだけでなく、家に対する敬意の表れにもなる。

しかし「気」を考えた場合、通路や扉、窓を塞ぐように家具などを配置するのは良くない。
廊下に本棚を置くのも好ましくない。

家が人の身体だとすれば、気道や食道に異物があったり、耳や鼻の穴が塞がれているようなものだ。


以前、大腸がんを患った人の家を見せてもらったのだが、
そのお宅は、なんとキッチンと食堂の間の扉を塞ぐ位置にごみ箱を置いていた。
しかも仮置きでなく、定位置としてである。

…これでは、大腸がんになってもおかしくない。
ごみ箱で出入口を塞がないよう、家具の配置換えを勧めたところ、
その後、がんは完治し再発もしていないそうである。

この手の話は好き嫌いがあると思うので、他人に押し付ける気はまったくないが、
要は「家を自分の身体のように大事に扱う」ということが肝要だと思っている。

虐待をしている家のベランダは、概ね散らかり放題で汚い。
汚濁に頓弱しない人柄ゆえ家が荒むのか、荒んだ家にいるから、住人に影響を及ぼすのかは
私にもわからないが。

ベランダだけ汚いとは思えない。室内も相当なものだろう。


余談だが、芦田愛菜「野菜生活」のCMを見た時、
あまりの家の汚さに気分が悪くなった…。


にほんブログ村