(乾 より つづく) Max Richter - The Twins
ボッス Hieronymus Bosch パトモス島の福音書記者聖ヨハネ St. John on Patmos c.1500
油彩・板 Oil on oak panel 63×43.3cm ベルリン国立絵画館 Gemäldegalerie Berlin
ロベルト・アンドー 監督「告解」に心打たれ DVDを観た「ローマに消えた男(Viva la libertà)」 双子の主人公が 折にふれ口誦む交響楽は ヴェルディ の 「運命の力」 序曲 で
こちらにも不思議な因縁があるようだ (以下 Wikipedia 「運命の力」 より引用)
〔作曲の経緯〕 『仮面舞踏会』 の初演 (1859年) から二年が経ち
ヴェルディ は まるで作曲を忘れたかのようだった 新設されたイタリア国会の
議員だったし 農園に近代的設備を導入する仕事にも忙殺されていた
しかしまさにその農園改造に必要な資金調達のため 彼を政治の世界に引き立てた
首相 カヴール が急逝した1861年頃になると オペラの虫がまた騒ぎ出すのだった
〔ロシアからの委嘱〕 ちょうどその年の六月頃 サンクトペテルブルクの
マリインスキー劇場から 新作オペラを作曲してもらえないだろうか との
打診がもたらされた イタリアの誇るテノール エンリーコ・タンベルリック の
息子アキッレが依頼状を携え 帰国したのだった 題材および台本作家の選定は
一任するとされたことも ヴェルディ の心を動かしたのだろう
映画で エンリーコは 兄の名だ
歴代神聖ローマ帝国皇帝の名でもある ドイツ名 ハインリヒ のイタリア語版で
中高ドイツ語の ハイミリヒ (Haimirich) に由来する
「haim」 (家) と 「rich」 (力強い) が合わさり 「家長・家主」 の意だが
ヘンリー (英) アンリ (仏) エンリーコ (伊) エンリケ (西) と 南下するにつれ
h が失われてゆく
haim や home の h は 「曰 (いはく)」 や 「曾」 のように
吐き出される気息や ゆらめき上る湿気を 表してもいただろうか
暁や黄昏時 家々の竈(かまど)より立ち昇る炊煙
屋根の下で籠った蒸気の間に 赤子を抱いた母親の胸元より漂い上る
温もりと乳の香 赤子の口元に浮ぶ小さな泡 微笑み 子守唄をささやく息遣い
あふれきらめく湯気と息吹き 滴(しづく)に浮び たゆたう命
北の鬱蒼とした山間の 日暮れから明け方 霧や雨の季節の冷たさに
ほの白く煙り灯っていた 肌の温もりと息も
潮風の吹きめぐる 南の海辺へ渡るに従い 鎮まり
小さく丸まり 見えなくなって h は消えゆく のだろうか
イタリアの誇るテノールで エンリーコといえば カルーソー
(以下 Wikipedia 「運命の力」 より引用) Verdi - La forza del destino - ouverture
〔『運命の力』〕 リバス公 のこの戯曲は 1835年マドリードで上演され
スペインで大評判 あるいは 大スキャンダルとなった話題作
カラトラーバ侯爵の娘レオノーラは インカ の血を引くドン・アルバーロとの
恋が認められず 侯爵はアルバーロの短銃の暴発で死亡
侯爵の 2人の息子ドン・カルロスとドン・アルフォンソ兄弟が アルバーロを付け狙う
カルロスはイタリア戦線の陣中で アルフォンソは修道院でアルバーロに返り討ちに遭い
女主人公レオノーラは 絶命寸前のアルフォンソの刃に斃れ
アルバーロは 酷い運命を呪い 崖から身を投げ自殺する
つまり主要登場人物がすべて死ぬという 陰惨極まりない劇であったこと
アルバーロの最期の言葉が 「自分は地獄からの使者だ 人類は皆滅びるがよい」
という冒瀆的なものだったことが 物議を醸した
不運なアルバーロの最期は 不敵なドン・ジョヴァンニのそれと 似ていないだろうか
心根が正反対の二人が運命によって これほど相似た業火にのたうつ
魂となり果てるなら すべての人は同じ澄んだ傷つきやすい
柔らかな魂を生れ持っていると言えるのではないか
この結末は改作され そのとき最初ほんの数節に過ぎなかった 序曲 は
人々を翻弄する大波とその間から差す ひとときの えも言われぬ
黄昏のかがやきのような 自在に変転する曲になった
映画で 失踪中の兄が 無言で電話をかけた相手で
彼と わかったのは 妻に掛けたとき 傍らに居て
「息をしてるだけ」 と携帯を手渡され
耳に当てるなり 「君か」 と声をかけた 弟だけだった
その後 成り代わって以来 持っていた兄の携帯が鳴り 弟が耳に当てると
すぐに 「私だ」 と兄は言い 「元気か ジョヴァンニ」 と勞う
なんの応えもない
「礼を言いたい」 と兄が言った直後 弟は無言のまま接続を切る
切ったのは同時だったのだろう
「だれから」 と兄の妻に問われ 「散歩に行こう」 と
ともに脱ぎ捨てた靴が砂に埋もれ 兄の妻は弟の腕をとる
自分を取り戻し帰ってくることが わかった 舞台は変わり 出番は終わる
だが なぜ弟は兄の影として 生きることを選ばねばならぬのか
二人同時には 同じ人 同じもの 同じことを 同じ情熱を以て
目指し求めることは叶わぬからだろうか それは畢竟 自己否定の争いになると
一人が自らを取り戻した瞬間 もう一人は
自らを遺棄せねばならぬ あるいは自らに遺棄される
一人が不安に苛まれ 狂気の劫火に灼かれている間だけ もう一人は
才能をすべて縦横無尽 変幻自在に発揮しつつ正気を保っていられる
兄弟の魂は なぜ二人でなく独りなのか 独りだけのものなのか
それとも兄弟は ほんとうは一人なのか いつから
シュレーディンガーの 生きていて かつ死んでいる猫
一匹で二匹 二匹で一匹の猫 とじ込められた箱を開けるまでは
どちらかを選ぶのではなく助け補い バランスを取り合い
ともに進めるのではないか 二つあって初めて ゆらいでも倒れることなく
前に進める 深淵や絶壁を越え 止まることなく 舞うように
弟は裸足で 暗くなる浜辺を歩いてゆく
テラスに立った兄の妻は 彼の靴がまだそこにあるのを見て
遠くの波打ち際に居る人影に 駆け寄りながら 「ジョヴァンニ」 と呼びかける
振り返った顔は どちらでもない
「また 居なくなってしまった」 と秘書に電話する後ろ姿が 震える 「また」 と
探し回り 車内で眠りに落ちた秘書は 翌朝
執務室で独り 交響楽に耳を傾ける党首を 目にする
「疲れているようだね」 と声をかける 穏やかな眼差しを
見つめ返しても どちらなのか わからない
扉を閉めようとし あの 序曲 を口誦むのが聴こえる
手を止め 隙間から党首の横顔にそって視線を下ろす と
机の下の薄暗がりに 靴を履いた足が見える
ジュゼッペ・アルチンボルド Giuseppe Arcimboldo (1526-1593) 司書 The librarian
あちこち引き出しを開けてみても どこにもない
引き出し自体 どれも空だ
使われぬまま詰め込まれていたものは どこへ行ったのか
静かに暗闇を穿ち 必要とされ大切に使われているものへ辿り着いて
自らを注ぎ足し消え去った 安息の残り香 が漂っているか
牛糞を燃やしても発生しうるという バニリン が 人間の鼻に感ぜられ始めるのは
0.000000032 ppm だそうだが それは
記憶の中から やって來はしないか あるいは記憶が探し当てずとも つくり出す
引き開けつづけていれば ふりでも信じると信じていさえすれば
なにを探していたか いつ なぜ失くしたか問われることもなく ただ赦され
それがそこに変わらず待っていてくれるかのように
空っぽの引き出しは水の流れたあとかも知れず
水がこれから流れてゆくようにも見え
それは受け継いだものを引き渡す可能性かも知れぬ
いつからか枯れ絶え果て ただ眺めていてもやって來はせぬが
だれかがあなたのために心から信じ願ってくれたから
その水路ができ あなたが流れて來た
そのあともそこに水路があるのは あなたのために
いつまでもずっと そのように願ってくれる人が居たからだ
自らのことは想いもよらず ただあなたのことを
空っぽの隅を埃っぽい靄が ふわふわと逃げ惑う
どこかで引き出しの中を ビー玉が転がって
硬い音を立てて下へ落ち また転がってゆく
奥で落ちたのに 下の引き出しの手前のほうから
また奥へと転がってゆく
また下へ落ちる ずしりと硬い音
穴が開いているわけでもないのに 奥まで転がって
階段のように落ちてゆくのが 一瞬見えただろうか
ゆっくりと昏く きらめくものが転がる音
街灯が瞬いて消える 雨のそぼ降る横丁
空っぽの引き出しで出來た 古めかしい図書館で
読まれたことのない本を積み重ねた 厳めしい司書の
眼鏡の奥で闇が光を吸い込み その一瞬前に 闇でも光でもない
翳のような鏡像のような 淡い なにかが ゆらめく
古ぼけた鏡に映る眸の奥に おぼろに辺りを映す
ビー玉が ゆっくりと転がって落ちてゆく
丸めた肩が透け 鋭く眼光を放ったまま眠れる大脳は解け
あばらから引き出しが弛んで少しずつ飛び出し
たくさんの羽毛のような灰がこぼれる
一度に一つずつと想った途端 四方八方へ
様々な ゆっくりした 角速度 で かすかな光を宿した
ビー玉が 緩んだ引き出しの奥へ転がり始める いまは
まっすぐに見えるが まわっている 時の逆数の次元を
転がる音は重なり合い 深く響む どれ一つとして
引き出しの手前 外へ向かって転がるものはなく
カイロス Καιρός という神は
前髪だけがあり 翼のある
時を司る神の一人で
千載一遇の瞬間で穿たれた 永遠を受け持つ
イーカロス Ἴκαρος と同じ文字が入れ替わった名のように見える
もう一人の時の神 クロノス Χρόνος は
無窮の時間を受け持つ
巨人族の クロノス Κρόνος ではない
紀元前 6世紀の哲学者 シュロスのペレキュデース
Φερεκύδης ὁ Σύριος が神格化した
クロノス Χρόνος の時は ただ流れ來り 流れ去る どこからともなく どこへともなく
古ギリシア語では κは無気音 χは帯気音を表していた
イーカロス と クロノス は 気息を帯びているが カイロス は 息をしない
カイロス は シュレーディンガーの猫 だろうか
前髪がなびくのは 時の流れの巻き起こす風だろうか 翳になった眸は
その一瞬の重なる 遙かな渦の奥へ吹き抜ける 風を見ている 息をせずに
イソップ 「寓話」 第5巻 第8話 に カイロスについての詩 があるそうだ
〔ラテン語 in Latin〕 ベラスケス Velázquez アイソーポス (イソップ)Αἴσωπος
Tempus
Cursu uolucri, pendens in nouacula,
caluus, comosa fronte, nudo corpore,
quem si occuparis, teneas, elapsum semel
non ipse possit Iuppiter reprehendere,
occasionem rerum significat breuem.
Effectus impediret ne segnis mora,
finxere antiqui talem effigiem Temporis.
The moment
In flying sprint, balancing on the edge of the cut,
Bald with a hair lock on his forehead, exposing the body
Grab him beforehand, hold him, but escape once
Can not Jupiter even retrieve him?
Thus he expresses the short moment that deeds are possible.
To avoid results by mistake
In the past one thought of this image of the Moment.
時
最高速で飛び出し 一瞬一瞬 切っ先でバランス取りながら
前髪一房 額へなびかせ あとはきれいさっぱり 裸一貫
カイロス を先んじて掴め がっちりと組み止めろ ひとたび逃がしたら
ゼウス とて取り戻すことはできぬだろう
ゆえに カイロス は 物事をなし得る一瞬を表す
過誤の末路を避けるため
昔人は 時をそんな姿形で考えたのだ
アルゴス Ἄργος は目がいくつもあり いつもどれか目覚めている
ゆえに時間的にも 空間的にも死角がないという
古代都市アルゴス Άργος の ヘーラー 神殿の巫女 イーオー は
ゼウス に目をつけられ愛されたが 妻 ヘーラー の目を欺くため ゼウス に牛にされた
アルゴス は この牛を見張るよう ヘーラー に言いつかったが
ゼウス に遣わされた ヘルメース の葦笛の音に すべての目を眠らされ 首斬られた
イーオー は いくつも海を渡り 広大な地を彷徨い
岩山に縛られた プロメーテウス に会う
エジプトで女神 イシス となり 子孫 ヘーラクレース は プロメーテウス を解き放つ
Io は イタリア語で一人称と同じだが なぜだろう
相手にのみ必要とされた愛を受け入れ 追われ 遙かに旅した
難儀を分かち合い 助け合おうとする 心と力を出逢う人々の裡より解き放った
ヘルメース の異名 「アルゲイポンテース (Argeiphontes)」 は 「アルゴス を殺した者」
と解されてきたが より古いインド・ヨーロッパ祖語の arg-(arǵ- 転じて argyros は 銀の意)
を語源とする形容詞の argós (ちらちら光る 動きの速い) は 「明るく かがやく」 意だった
アルゴン という気体を憶えているだろうか
宇宙には 超新星爆発で元素合成された アルゴン(36) が数多ある
地球大気中にも 窒素・酸素に次いで三番目に多く含まれ
二酸化炭素より遙かに遍く存在する気体 アルゴン(40) は
地殻中の カリウム(40) の崩壊で生成する
もっとも外側を回る電子は八個で 八隅則 を満たし
化学反応をほとんど起こさず 安定し他の元素と結合しにくい
偏在したまま ほとんど気づかれぬ
αργο(ό) ς は 「slow lingering otiose ゆっくりした ひまな
不活発な 不活性の」 意へ転ぜられてゆくが それらは同じものを
別な方向から見ているに過ぎぬかも知れぬ
アルゴン は 励起 されると ライラック色に輝く
常温常圧で凝固しない唯一の金属 水銀 は
ヘルメース と同化した メルクリウス の名で呼ばれる
argentum vivum 「生きている銀」
速過ぎて 動かぬように見えるかも知れぬ
相対するものが背中合せに凭れ合い 融合しつつあり
別々で 一つであることを忘れるかも知れぬ
生きてかがやき 変容し別れ 出逢い合一する
ちらちら瞬いているのは だれか だれが アルゴス で ヘルメース なのか
ちらちら かがやくのは数多の眸か 彼らは皆同じ一人だったかも知れぬ
ヘルメース は メルクリウス とともに大気中に居て 音楽で
アルゴス の目を鎖し 夢見たものを探しに行かせた 深奥の道を透り
解放者だったのか だれの イーオー の アルゴス の 己の 魂の
ブリューゲル の イーカロスの墜落のある風景 の暗い森の端で斃れている男の頭は
アルゴス なのかも知れぬ転がり落ちるビー玉を追うように
空の引き出しを 次々と開けてゆく裡
頭がいくつも ビー玉のような目の玉になって
眠りの薄明の中 転がり昇ってゆく
アルゴス の目は ヘルメース の笛の音に乗り 眠りの中を流れゆく
ふいに帰り道を断ち切られ 夢の中 世界中へ散らばった
帰り道を探しながら彷徨う アルゴス の目たちは
なにを見ているのか どこへ帰ろうとしているのか 急速に忘れる
世界の不思議の数だけ アルゴス の目は あるかも知れぬ
イーカロス は まだ飛んでいる
アルゴス の目に映ったものは 目から目へ飛び映りゆき
無限に木霊し もはや失われることはない
目から目へ 滴から滴 光から光へ
アルゴス の目を数多集め アントニオ・タブッキ は
「夢の中の夢」 のはじめに ダイダロス の夢を見たかも知れぬ
そこには イーカロス も アリアドネー も居らず ミーノータウロス だけが居て
迷宮を出て月の光を浴びたいと願う 青年 は
死へと導く扉と 生(自由)へとつながる扉の
眞実のみを答える門番と 嘘しか言えぬ 双子の門番の前で
絶望し まだ扉を選べないままで居る
老人 は 一人の門番に
「向こうにいる君の同僚なら 自由へつながる扉は どちらと言うか」 と問い
眞実を探し当てる
たぶん眞実は 二つの相対する表裏一体のものとの関わりにおいて見出されるものであり
そのとき問いは光となり波動となって すべての扉をひらき通りぬけ
過去と未來を いまこのときに結び連ね 進む
カイロス の後ろ姿を 垣間見るかも知れぬ
自分用に茂みに隠してあった羽を ミーノータウロス の背につけてやり
彼がどこまでも飛んで 月へと向かうのを見送る
夜更け 月の光は 眞実と偽りの間(あわい)をとかし 眞実を波打たせ 偽りをも包み込む
そのとき偽りは偽りでなく 過ちも悲しみも 嫉妬も後悔も 憎しみも怒りも
その裡に消え 眞実を一層かがやかせ 取り巻く翳となり その縁にわだかまり 黙し沈む
眞実は かぎりなく惜しみない喜びであり そのかがやきは 光のとどく処 とどく間つづく
眞実の穏やかな反映であり 木霊である 玲瓏な月の光は 何処までもつづく夢の中で
淡く儚く羽をつないだ蠟を溶かすことはない
緩やかに自在に一つ一つしっかりと結びつけ 羽の一枚一枚は
宇宙の背景放射 の楽の音を奏でる光と風の鍵盤のごとく
色のささなみを放ちつつ 羽搏きつづける
夢 は ヘーシオドス によれば ニュクス (夜) の息子 ヒュプノス (眠り) と
タナトス (死) の兄弟神で 夢に現れる姿が 人 獣 事物ごとに 少なくとも三柱いるという
シャヴァンヌ の 「夢」 の三美神の真ん中に似る
あとの二人は タナトス と 人の姿をした夢の神 モルペウス か
『オデュッセイア』 によれば 夢 は オーケアノス の遙か西の彼方
陽が沈むところ 死の国に程近い 洞窟に住まい
二つの門のどちらかを潜り 人の世を訪れる
象牙の門から出てくる 夢 は 実のない偽りを人に伝え
磨かれた角の門から出てくる 夢 は 眞実を伝えるという
彷徨える イーオー のかがやく角 ミーノータウロス の暗闇を映す角 の 間
イカルス ヒメシジミ は 翅の天の側が空色で 地の側に無数の目のような斑がある
ゆえに イタリア語 で Icaro (イーカロス) または Argo Azzurro (空色の アルゴス) という
アルゴス が ヘルメース に首斬られたのち ヘーラー は その散らばった目を
自らの鳥 クジャク の羽に置いたというが すべてではなかったのだろう
ダイダロス が 夢の 迷宮 の底から バベルの塔 の天辺へ浮び出たとき
アルゴス の目はすべて そこへと吸い寄せられ
ダイダロス のつくり出した翼が 重合した 妙なる 蜜蠟 の滴の連なる波の底から
アルゴン の プラズマ を帯びた ビルケランド電流 の 三角波 となって高く舞い上がり
飛んでゆくのを見たかも知れぬ
すべてを浄化する炎の翼の下を アルゴス の目は転がり 巻き上がり 支える風となり
波となり それを映す霞一滴ごとの水玉となり 時雨連なる鉛直の水柱を自在にゆらし
遙かに渦巻く波動となり 時空をひらき つないでゆく
イーカロス は翼をつけて飛び 墜ちて命を失い
ミーノータウロス は若き健常者の刃に斃れる そうだったのだろうか
アルゴス の目の中で ダイダロス は 繰り返し考えたのではないか
生れることなく天空から大地へ還った子の 聡明で勇敢な魂は
迷宮の底で苦しむ異形の短命な若者の 繊細で哀しみに満ちた魂と同期し
薄霞と時雨の間(あわい)に 自らと母の角の間の 眞実の夢の門を潜り
支え合い大海と山脈を越え 嵐と虚空を羽搏いていったと
イーカロスの目指した天空の彼方の宇宙を映す 青き一ひらの翼の裏で
来し方行く末をめぐる大地の全球を見つめ
翼を上昇させつづける アルゴスの尽きせぬ眸のきらめきを
あなたの夢の中を アルゴス の目が透るかも知れぬ
あなたが一度幼い頃目にし ずっと探しているものは そこに映っていたもので
飛びつづける イーカロス のように 消え去る後ろ姿が
見えた気がし きらめく前髪に隠された カイロス の顔のように
あなたの中にはなく 母の胎内の羊水の裡に失われたのかも知れぬ
同期し鼓動する 硝子体 を透かし見たときにだけ その眼差しの重なりに
その翳が木霊して見えるのかも知れぬ 深く遙かな夢のどこかで
ボッス Hieronymus Bosch パトモス島の福音書記者聖ヨハネ St. John on Patmos c.1500
油彩・板 Oil on oak panel 63×43.3cm ベルリン国立絵画館 Gemäldegalerie Berlin
ロベルト・アンドー 監督「告解」に心打たれ DVDを観た「ローマに消えた男(Viva la libertà)」 双子の主人公が 折にふれ口誦む交響楽は ヴェルディ の 「運命の力」 序曲 で
こちらにも不思議な因縁があるようだ (以下 Wikipedia 「運命の力」 より引用)
〔作曲の経緯〕 『仮面舞踏会』 の初演 (1859年) から二年が経ち
ヴェルディ は まるで作曲を忘れたかのようだった 新設されたイタリア国会の
議員だったし 農園に近代的設備を導入する仕事にも忙殺されていた
しかしまさにその農園改造に必要な資金調達のため 彼を政治の世界に引き立てた
首相 カヴール が急逝した1861年頃になると オペラの虫がまた騒ぎ出すのだった
〔ロシアからの委嘱〕 ちょうどその年の六月頃 サンクトペテルブルクの
マリインスキー劇場から 新作オペラを作曲してもらえないだろうか との
打診がもたらされた イタリアの誇るテノール エンリーコ・タンベルリック の
息子アキッレが依頼状を携え 帰国したのだった 題材および台本作家の選定は
一任するとされたことも ヴェルディ の心を動かしたのだろう
映画で エンリーコは 兄の名だ
歴代神聖ローマ帝国皇帝の名でもある ドイツ名 ハインリヒ のイタリア語版で
中高ドイツ語の ハイミリヒ (Haimirich) に由来する
「haim」 (家) と 「rich」 (力強い) が合わさり 「家長・家主」 の意だが
ヘンリー (英) アンリ (仏) エンリーコ (伊) エンリケ (西) と 南下するにつれ
h が失われてゆく
haim や home の h は 「曰 (いはく)」 や 「曾」 のように
吐き出される気息や ゆらめき上る湿気を 表してもいただろうか
暁や黄昏時 家々の竈(かまど)より立ち昇る炊煙
屋根の下で籠った蒸気の間に 赤子を抱いた母親の胸元より漂い上る
温もりと乳の香 赤子の口元に浮ぶ小さな泡 微笑み 子守唄をささやく息遣い
あふれきらめく湯気と息吹き 滴(しづく)に浮び たゆたう命
北の鬱蒼とした山間の 日暮れから明け方 霧や雨の季節の冷たさに
ほの白く煙り灯っていた 肌の温もりと息も
潮風の吹きめぐる 南の海辺へ渡るに従い 鎮まり
小さく丸まり 見えなくなって h は消えゆく のだろうか
イタリアの誇るテノールで エンリーコといえば カルーソー
(以下 Wikipedia 「運命の力」 より引用) Verdi - La forza del destino - ouverture
〔『運命の力』〕 リバス公 のこの戯曲は 1835年マドリードで上演され
スペインで大評判 あるいは 大スキャンダルとなった話題作
カラトラーバ侯爵の娘レオノーラは インカ の血を引くドン・アルバーロとの
恋が認められず 侯爵はアルバーロの短銃の暴発で死亡
侯爵の 2人の息子ドン・カルロスとドン・アルフォンソ兄弟が アルバーロを付け狙う
カルロスはイタリア戦線の陣中で アルフォンソは修道院でアルバーロに返り討ちに遭い
女主人公レオノーラは 絶命寸前のアルフォンソの刃に斃れ
アルバーロは 酷い運命を呪い 崖から身を投げ自殺する
つまり主要登場人物がすべて死ぬという 陰惨極まりない劇であったこと
アルバーロの最期の言葉が 「自分は地獄からの使者だ 人類は皆滅びるがよい」
という冒瀆的なものだったことが 物議を醸した
不運なアルバーロの最期は 不敵なドン・ジョヴァンニのそれと 似ていないだろうか
心根が正反対の二人が運命によって これほど相似た業火にのたうつ
魂となり果てるなら すべての人は同じ澄んだ傷つきやすい
柔らかな魂を生れ持っていると言えるのではないか
この結末は改作され そのとき最初ほんの数節に過ぎなかった 序曲 は
人々を翻弄する大波とその間から差す ひとときの えも言われぬ
黄昏のかがやきのような 自在に変転する曲になった
映画で 失踪中の兄が 無言で電話をかけた相手で
彼と わかったのは 妻に掛けたとき 傍らに居て
「息をしてるだけ」 と携帯を手渡され
耳に当てるなり 「君か」 と声をかけた 弟だけだった
その後 成り代わって以来 持っていた兄の携帯が鳴り 弟が耳に当てると
すぐに 「私だ」 と兄は言い 「元気か ジョヴァンニ」 と勞う
なんの応えもない
「礼を言いたい」 と兄が言った直後 弟は無言のまま接続を切る
切ったのは同時だったのだろう
「だれから」 と兄の妻に問われ 「散歩に行こう」 と
ともに脱ぎ捨てた靴が砂に埋もれ 兄の妻は弟の腕をとる
自分を取り戻し帰ってくることが わかった 舞台は変わり 出番は終わる
だが なぜ弟は兄の影として 生きることを選ばねばならぬのか
二人同時には 同じ人 同じもの 同じことを 同じ情熱を以て
目指し求めることは叶わぬからだろうか それは畢竟 自己否定の争いになると
一人が自らを取り戻した瞬間 もう一人は
自らを遺棄せねばならぬ あるいは自らに遺棄される
一人が不安に苛まれ 狂気の劫火に灼かれている間だけ もう一人は
才能をすべて縦横無尽 変幻自在に発揮しつつ正気を保っていられる
兄弟の魂は なぜ二人でなく独りなのか 独りだけのものなのか
それとも兄弟は ほんとうは一人なのか いつから
シュレーディンガーの 生きていて かつ死んでいる猫
一匹で二匹 二匹で一匹の猫 とじ込められた箱を開けるまでは
どちらかを選ぶのではなく助け補い バランスを取り合い
ともに進めるのではないか 二つあって初めて ゆらいでも倒れることなく
前に進める 深淵や絶壁を越え 止まることなく 舞うように
弟は裸足で 暗くなる浜辺を歩いてゆく
テラスに立った兄の妻は 彼の靴がまだそこにあるのを見て
遠くの波打ち際に居る人影に 駆け寄りながら 「ジョヴァンニ」 と呼びかける
振り返った顔は どちらでもない
「また 居なくなってしまった」 と秘書に電話する後ろ姿が 震える 「また」 と
探し回り 車内で眠りに落ちた秘書は 翌朝
執務室で独り 交響楽に耳を傾ける党首を 目にする
「疲れているようだね」 と声をかける 穏やかな眼差しを
見つめ返しても どちらなのか わからない
扉を閉めようとし あの 序曲 を口誦むのが聴こえる
手を止め 隙間から党首の横顔にそって視線を下ろす と
机の下の薄暗がりに 靴を履いた足が見える
ジュゼッペ・アルチンボルド Giuseppe Arcimboldo (1526-1593) 司書 The librarian
あちこち引き出しを開けてみても どこにもない
引き出し自体 どれも空だ
使われぬまま詰め込まれていたものは どこへ行ったのか
静かに暗闇を穿ち 必要とされ大切に使われているものへ辿り着いて
自らを注ぎ足し消え去った 安息の残り香 が漂っているか
牛糞を燃やしても発生しうるという バニリン が 人間の鼻に感ぜられ始めるのは
0.000000032 ppm だそうだが それは
記憶の中から やって來はしないか あるいは記憶が探し当てずとも つくり出す
引き開けつづけていれば ふりでも信じると信じていさえすれば
なにを探していたか いつ なぜ失くしたか問われることもなく ただ赦され
それがそこに変わらず待っていてくれるかのように
空っぽの引き出しは水の流れたあとかも知れず
水がこれから流れてゆくようにも見え
それは受け継いだものを引き渡す可能性かも知れぬ
いつからか枯れ絶え果て ただ眺めていてもやって來はせぬが
だれかがあなたのために心から信じ願ってくれたから
その水路ができ あなたが流れて來た
そのあともそこに水路があるのは あなたのために
いつまでもずっと そのように願ってくれる人が居たからだ
自らのことは想いもよらず ただあなたのことを
空っぽの隅を埃っぽい靄が ふわふわと逃げ惑う
どこかで引き出しの中を ビー玉が転がって
硬い音を立てて下へ落ち また転がってゆく
奥で落ちたのに 下の引き出しの手前のほうから
また奥へと転がってゆく
また下へ落ちる ずしりと硬い音
穴が開いているわけでもないのに 奥まで転がって
階段のように落ちてゆくのが 一瞬見えただろうか
ゆっくりと昏く きらめくものが転がる音
街灯が瞬いて消える 雨のそぼ降る横丁
空っぽの引き出しで出來た 古めかしい図書館で
読まれたことのない本を積み重ねた 厳めしい司書の
眼鏡の奥で闇が光を吸い込み その一瞬前に 闇でも光でもない
翳のような鏡像のような 淡い なにかが ゆらめく
古ぼけた鏡に映る眸の奥に おぼろに辺りを映す
ビー玉が ゆっくりと転がって落ちてゆく
丸めた肩が透け 鋭く眼光を放ったまま眠れる大脳は解け
あばらから引き出しが弛んで少しずつ飛び出し
たくさんの羽毛のような灰がこぼれる
一度に一つずつと想った途端 四方八方へ
様々な ゆっくりした 角速度 で かすかな光を宿した
ビー玉が 緩んだ引き出しの奥へ転がり始める いまは
まっすぐに見えるが まわっている 時の逆数の次元を
転がる音は重なり合い 深く響む どれ一つとして
引き出しの手前 外へ向かって転がるものはなく
カイロス Καιρός という神は
前髪だけがあり 翼のある
時を司る神の一人で
千載一遇の瞬間で穿たれた 永遠を受け持つ
イーカロス Ἴκαρος と同じ文字が入れ替わった名のように見える
もう一人の時の神 クロノス Χρόνος は
無窮の時間を受け持つ
巨人族の クロノス Κρόνος ではない
紀元前 6世紀の哲学者 シュロスのペレキュデース
Φερεκύδης ὁ Σύριος が神格化した
クロノス Χρόνος の時は ただ流れ來り 流れ去る どこからともなく どこへともなく
古ギリシア語では κは無気音 χは帯気音を表していた
イーカロス と クロノス は 気息を帯びているが カイロス は 息をしない
カイロス は シュレーディンガーの猫 だろうか
前髪がなびくのは 時の流れの巻き起こす風だろうか 翳になった眸は
その一瞬の重なる 遙かな渦の奥へ吹き抜ける 風を見ている 息をせずに
イソップ 「寓話」 第5巻 第8話 に カイロスについての詩 があるそうだ
Tempus
Cursu uolucri, pendens in nouacula,
caluus, comosa fronte, nudo corpore,
quem si occuparis, teneas, elapsum semel
non ipse possit Iuppiter reprehendere,
occasionem rerum significat breuem.
Effectus impediret ne segnis mora,
finxere antiqui talem effigiem Temporis.
The moment
In flying sprint, balancing on the edge of the cut,
Bald with a hair lock on his forehead, exposing the body
Grab him beforehand, hold him, but escape once
Can not Jupiter even retrieve him?
Thus he expresses the short moment that deeds are possible.
To avoid results by mistake
In the past one thought of this image of the Moment.
時
最高速で飛び出し 一瞬一瞬 切っ先でバランス取りながら
前髪一房 額へなびかせ あとはきれいさっぱり 裸一貫
カイロス を先んじて掴め がっちりと組み止めろ ひとたび逃がしたら
ゼウス とて取り戻すことはできぬだろう
ゆえに カイロス は 物事をなし得る一瞬を表す
過誤の末路を避けるため
昔人は 時をそんな姿形で考えたのだ
アルゴス Ἄργος は目がいくつもあり いつもどれか目覚めている
ゆえに時間的にも 空間的にも死角がないという
古代都市アルゴス Άργος の ヘーラー 神殿の巫女 イーオー は
ゼウス に目をつけられ愛されたが 妻 ヘーラー の目を欺くため ゼウス に牛にされた
アルゴス は この牛を見張るよう ヘーラー に言いつかったが
ゼウス に遣わされた ヘルメース の葦笛の音に すべての目を眠らされ 首斬られた
アルゴスに見張られるイーオー Io being watched over by Argos ナポリ国立考古学博物館
AD 1C Naples National Archaeological Museum
AD 1C Naples National Archaeological Museum
イーオー は いくつも海を渡り 広大な地を彷徨い
岩山に縛られた プロメーテウス に会う
エジプトで女神 イシス となり 子孫 ヘーラクレース は プロメーテウス を解き放つ
Io は イタリア語で一人称と同じだが なぜだろう
相手にのみ必要とされた愛を受け入れ 追われ 遙かに旅した
難儀を分かち合い 助け合おうとする 心と力を出逢う人々の裡より解き放った
ヘルメース の異名 「アルゲイポンテース (Argeiphontes)」 は 「アルゴス を殺した者」
と解されてきたが より古いインド・ヨーロッパ祖語の arg-(arǵ- 転じて argyros は 銀の意)
を語源とする形容詞の argós (ちらちら光る 動きの速い) は 「明るく かがやく」 意だった
アルゴン という気体を憶えているだろうか
宇宙には 超新星爆発で元素合成された アルゴン(36) が数多ある
地球大気中にも 窒素・酸素に次いで三番目に多く含まれ
二酸化炭素より遙かに遍く存在する気体 アルゴン(40) は
地殻中の カリウム(40) の崩壊で生成する
もっとも外側を回る電子は八個で 八隅則 を満たし
化学反応をほとんど起こさず 安定し他の元素と結合しにくい
偏在したまま ほとんど気づかれぬ
αργο(ό) ς は 「slow lingering otiose ゆっくりした ひまな
不活発な 不活性の」 意へ転ぜられてゆくが それらは同じものを
別な方向から見ているに過ぎぬかも知れぬ
アルゴン は 励起 されると ライラック色に輝く
常温常圧で凝固しない唯一の金属 水銀 は
ヘルメース と同化した メルクリウス の名で呼ばれる
argentum vivum 「生きている銀」
速過ぎて 動かぬように見えるかも知れぬ
相対するものが背中合せに凭れ合い 融合しつつあり
別々で 一つであることを忘れるかも知れぬ
生きてかがやき 変容し別れ 出逢い合一する
ちらちら瞬いているのは だれか だれが アルゴス で ヘルメース なのか
ちらちら かがやくのは数多の眸か 彼らは皆同じ一人だったかも知れぬ
ヘルメース は メルクリウス とともに大気中に居て 音楽で
アルゴス の目を鎖し 夢見たものを探しに行かせた 深奥の道を透り
解放者だったのか だれの イーオー の アルゴス の 己の 魂の
ブリューゲル の イーカロスの墜落のある風景 の暗い森の端で斃れている男の頭は
アルゴス なのかも知れぬ転がり落ちるビー玉を追うように
空の引き出しを 次々と開けてゆく裡
頭がいくつも ビー玉のような目の玉になって
眠りの薄明の中 転がり昇ってゆく
アルゴス の目は ヘルメース の笛の音に乗り 眠りの中を流れゆく
ふいに帰り道を断ち切られ 夢の中 世界中へ散らばった
帰り道を探しながら彷徨う アルゴス の目たちは
なにを見ているのか どこへ帰ろうとしているのか 急速に忘れる
世界の不思議の数だけ アルゴス の目は あるかも知れぬ
イーカロス は まだ飛んでいる
アルゴス の目に映ったものは 目から目へ飛び映りゆき
無限に木霊し もはや失われることはない
目から目へ 滴から滴 光から光へ
アルゴス の目を数多集め アントニオ・タブッキ は
「夢の中の夢」 のはじめに ダイダロス の夢を見たかも知れぬ
そこには イーカロス も アリアドネー も居らず ミーノータウロス だけが居て
迷宮を出て月の光を浴びたいと願う 青年 は
死へと導く扉と 生(自由)へとつながる扉の
眞実のみを答える門番と 嘘しか言えぬ 双子の門番の前で
絶望し まだ扉を選べないままで居る
老人 は 一人の門番に
「向こうにいる君の同僚なら 自由へつながる扉は どちらと言うか」 と問い
眞実を探し当てる
たぶん眞実は 二つの相対する表裏一体のものとの関わりにおいて見出されるものであり
そのとき問いは光となり波動となって すべての扉をひらき通りぬけ
過去と未來を いまこのときに結び連ね 進む
カイロス の後ろ姿を 垣間見るかも知れぬ
自分用に茂みに隠してあった羽を ミーノータウロス の背につけてやり
彼がどこまでも飛んで 月へと向かうのを見送る
夜更け 月の光は 眞実と偽りの間(あわい)をとかし 眞実を波打たせ 偽りをも包み込む
そのとき偽りは偽りでなく 過ちも悲しみも 嫉妬も後悔も 憎しみも怒りも
その裡に消え 眞実を一層かがやかせ 取り巻く翳となり その縁にわだかまり 黙し沈む
眞実は かぎりなく惜しみない喜びであり そのかがやきは 光のとどく処 とどく間つづく
眞実の穏やかな反映であり 木霊である 玲瓏な月の光は 何処までもつづく夢の中で
淡く儚く羽をつないだ蠟を溶かすことはない
緩やかに自在に一つ一つしっかりと結びつけ 羽の一枚一枚は
宇宙の背景放射 の楽の音を奏でる光と風の鍵盤のごとく
色のささなみを放ちつつ 羽搏きつづける
夢 は ヘーシオドス によれば ニュクス (夜) の息子 ヒュプノス (眠り) と
タナトス (死) の兄弟神で 夢に現れる姿が 人 獣 事物ごとに 少なくとも三柱いるという
ヒュプノス Hypnos AD 120-130 大理石 Marble 150×55cm
プラド美術館 Museo del Prado
プラド美術館 Museo del Prado
シャヴァンヌ の 「夢」 の三美神の真ん中に似る
あとの二人は タナトス と 人の姿をした夢の神 モルペウス か
『オデュッセイア』 によれば 夢 は オーケアノス の遙か西の彼方
陽が沈むところ 死の国に程近い 洞窟に住まい
二つの門のどちらかを潜り 人の世を訪れる
象牙の門から出てくる 夢 は 実のない偽りを人に伝え
磨かれた角の門から出てくる 夢 は 眞実を伝えるという
彷徨える イーオー のかがやく角 ミーノータウロス の暗闇を映す角 の 間
イカルス ヒメシジミ は 翅の天の側が空色で 地の側に無数の目のような斑がある
ゆえに イタリア語 で Icaro (イーカロス) または Argo Azzurro (空色の アルゴス) という
アルゴス が ヘルメース に首斬られたのち ヘーラー は その散らばった目を
自らの鳥 クジャク の羽に置いたというが すべてではなかったのだろう
ダイダロス が 夢の 迷宮 の底から バベルの塔 の天辺へ浮び出たとき
アルゴス の目はすべて そこへと吸い寄せられ
ダイダロス のつくり出した翼が 重合した 妙なる 蜜蠟 の滴の連なる波の底から
アルゴン の プラズマ を帯びた ビルケランド電流 の 三角波 となって高く舞い上がり
飛んでゆくのを見たかも知れぬ
すべてを浄化する炎の翼の下を アルゴス の目は転がり 巻き上がり 支える風となり
波となり それを映す霞一滴ごとの水玉となり 時雨連なる鉛直の水柱を自在にゆらし
遙かに渦巻く波動となり 時空をひらき つないでゆく
イーカロス は翼をつけて飛び 墜ちて命を失い
ミーノータウロス は若き健常者の刃に斃れる そうだったのだろうか
アルゴス の目の中で ダイダロス は 繰り返し考えたのではないか
生れることなく天空から大地へ還った子の 聡明で勇敢な魂は
迷宮の底で苦しむ異形の短命な若者の 繊細で哀しみに満ちた魂と同期し
薄霞と時雨の間(あわい)に 自らと母の角の間の 眞実の夢の門を潜り
支え合い大海と山脈を越え 嵐と虚空を羽搏いていったと
イーカロスの目指した天空の彼方の宇宙を映す 青き一ひらの翼の裏で
来し方行く末をめぐる大地の全球を見つめ
翼を上昇させつづける アルゴスの尽きせぬ眸のきらめきを
あなたの夢の中を アルゴス の目が透るかも知れぬ
あなたが一度幼い頃目にし ずっと探しているものは そこに映っていたもので
飛びつづける イーカロス のように 消え去る後ろ姿が
見えた気がし きらめく前髪に隠された カイロス の顔のように
あなたの中にはなく 母の胎内の羊水の裡に失われたのかも知れぬ
同期し鼓動する 硝子体 を透かし見たときにだけ その眼差しの重なりに
その翳が木霊して見えるのかも知れぬ 深く遙かな夢のどこかで
逸名画家 Anonymous ヘルメースとアルゴスのいる風景 Landscape with Mercury & Argus
C.1570 年頃 ポール・ゲティ美術館 J. Paul Getty Museum
(霽月 (夜雨 補遺) へ つづく)
C.1570 年頃 ポール・ゲティ美術館 J. Paul Getty Museum
(霽月 (夜雨 補遺) へ つづく)