【小督(こごう)と仲國(なかくに)(実は おそらく實國(さねくに)】
平安末 二人の貴人 年長の 藤原 隆房 と
年若き 高倉 天皇 に深く愛された
箏(こと)の名手 小督(こごう)
二人の正室は 共に 平 清盛 の娘
清盛の逆鱗(げきりん)に觸(ふ)るることを畏(おそ)れ
宮中から逃れ 嵯峨に身を隱(かく)す
小督(こごう)を探し出し 密(ひそ)かに
宮中に連れ戻すよう 勅を賜(たまは)った源 仲國
―― と伝えられるが おそらく そうではなく
藤原 實國で 高倉 天皇の笛の師 ―― は
賜(たまは)った駒を駈(か)り 嵯峨野を経廻(へめぐ)る
日も暮れ いましも仲秋の月が
皓皓(こうこう)と昇り來る頃
水際で ふと見事な「想夫恋」の調べが
かすかに聴こえて來る
渡りかけた瀨を戻り 音のする方へ駒を向けると
果たして 片折戸(かたおりど)の苫屋(とまや)に
小督(こごう)が隱(かく)れ住んでいた
清盛を畏(おそ)れ 宮中に帰ることを憚(はばか)る
小督(こごう)に 帝(みかど)よりの文(ふみ)を渡し
久方振りに聴いた 箏(こと)の調べに
帝(みかど)を慕ふ心が 溢(あふ)れていた と
いうと 小督(こごう)は 折れ 御意に添ひ
戻る旨 認(したた)め 仲國(實國)に託す
役を離れ 二人は 打ち解けて かつて御前で
共に奏樂した如(ごと)く 笛と箏(こと)を手にとり
懐(なつ)かしく 奏で合せた後(のち)
駒に うち乗り 帰る仲國(實國) 見送る小督(こごう)
宮中に戻り 程なく懐妊 皇女を生み 出家
庵(いほり)に独居する 小督(こごう)が病床にあった折
歌人 藤原 定家や その姉君が 見舞ったという
九州には 別の伝承 も ある
知合いの僧を賴(たよ)り 大宰府(だざいふ)
観音寺へと向う 尼君(あまぎみ) 小督(こごう)が
昨夜來の雨に逆巻(さかま)く
川を渉(わた)ろうとして
溺(おぼ)れ 助けられるも 弱り臥(ふ)せったまま
間もなく二十五歳で 白鳥成道寺に没した という
香春岳 を望む 白鳥成道寺 には 七重塔が
高倉天皇陵へと続く 京 清閑寺には 宝篋印塔が
それぞれ 小督の墓と伝えられて在る
渡月橋 北詰の橋は 仲國(實國)が
小督(こごう)の奏でる 箏(こと)の音(ね)を聴いた
駒留橋 または 箏聴橋 と 呼ばれている という
国宝 虚空蔵菩薩像 絹本着色 132.0×84.4cm 12C 平安時代 東京国立博物館
法輪寺 虚空蔵菩薩 降臨の御本誓に
「智恵を得んと慾し」「福徳を得んと慾し」
「玄妙の域に達するような 流暢な音声を出し
「官位 称号 免許を得るよう慾し」
など祈願するものは わが名(虚空蔵尊名)を 称念せよ とある という
四番目が氣になる
渡月橋 は 法輪寺橋とも いわれ
渡ると程なく 法輪寺 境内に入る
数え十三 春十三日の頃には 十三夜まいり という
法輪寺 虚空蔵菩薩より 智慧を授かる 行事が ある
虚空蔵菩薩の生れ変りである 羊の像の頭に ふれ
お詣りを濟ませての帰り道 渡月橋を渡りきるまで
振り返ってはならぬ とされ 振り返れば
授かった智慧は すべて戻ってしまう という
伝 金春 禅竹 作 四番目能『小督(こごう)』は
嵯峨野の場面を 表す
笛の名手である 仲國(實國)は
小督(こごう)の奏でる 箏(こと)に応えて笛を吹き
捉えた箏(こと)の音を 巧みに途切らすことなく
手繰(たぐ)り寄せ 嵯峨野の原から
小督(こごう)の隠れ住む苫屋(とまや)へ たどり着いた とも
隆房卿 艶詞 絵巻 紙本白描 紙本水墨 25.5×685.0cm 13-14C 鎌倉時代 国立歴史民俗博物館
【隆房卿 艶詞 絵巻】
隆房卿 艶詞(つやことば) 絵巻 は 小督(こごう)への想いを 綿々と綴った
隆房卿 傷心の物語で 第一段には 右端の桜の幹にそって 蘆手(あしで)文字で
「のとかに(長閑[のどか]に)」と記され 小督(こごう)と高倉天皇が
清凉殿にて 月を眺めて過ごす場面が描かれる
第二段(冒頭 老松にからまる藤の蔓(つる)が
「木たかき(木高き)」と記され 憂いに沈む女房たちと
隆房卿の居る 部屋の後に)さらに 別棟に
手紙らしき束を傍(かたへ)に置く 小督(こごう)
と思(おぼ)しき人物が居て その直ぐ外の庭には
柳と梅と梅の幹に「としたち(歳経ち)」と記される
第二段 前半は 初夏 第二段 後半は 早春で
間に 時の経過が示される
(「歴博」第198号 小倉 慈司『隆房卿艶詞絵巻』に見える葦手 ―王朝絵巻のかな文字絵―)
最後は 隆房卿が 車で かつて小督(こごう)が住んでいた
邊(あた)りを 通りかかり いまは すっかり人けなく
荒れ果ててしまっているのを 時の霞がおし包み 終る
詞書(ことばがき)には つぎのような歌で 物語が綴(つづ)られる
女に つかはしける 女に 送った歌
人知れぬ 憂(う)き身に 人知れず 辛(つら)い我が身には
繁(しげ)き 思ひ草 思い草が生い茂るように 物思いばかりが増えてゆく
想へば君ぞ どうして こんなことになったのか ご存知であろう
種は蒔(ま)きける 種を蒔(ま)いたのは あなた なのだから
わかき人々あつまりて 若い人々が集まった折 わたしも彼(か)の女も
よそなるやうにて 同席していたが 何でもない振りをして
物がたりなど するほどに 雑談する裡(うち)
しのびかねたる心中 堪(こら)えきれず 心中の思いが
色にや出(い)でて見えけん 顔に出てしまったのだろうか
すずりをひきよせて 彼(か)の女が硯(すずり)を引き寄せ
「ちかのしほがま」と かきて 「千賀(ちか)の塩竈(しほがま)」と書いて
なげおこせたりし ことの その紙を投げて寄越(よこ)した ことが思い返され
おもひ いでられ 心を抑えかね うわの空に なってしまった
思ひかね 心は空に これでは まるで 遙(はる)か遠くへ追い遣られる
陸奥(みちのく)の ようなものだ 陸奥(みちのく)の
ちかの塩竈(しほがま) 千賀(ちか⇔近)の塩竈(しほがま)へ
近き甲斐(かひ)なし 本當(ほんたう)に 近くにいる というのに
なにの舞ひとかやに入りて 何の折の舞楽であったか 舞人の間に入れられ
はなやかなる ふるまひに そのように華やかな行事に
つけても「あはれ 思ふ事なくて つけても「恋の悩みが なくて
かかる まじらひをも せば このような奉公をするのだったら
いかに まめならまし」 もっと身を入れて 誠心誠意 出來(でき)るものを」
と おぼえて 又 さしも と思いながら 見れば 彼(か)の女の態度も
うらめしく あだなれば 恨めしいほど 不実な様子だったので 目の
見る事つつましく 遣(や)り場もなく 自分の舞を見られることも 気が引け
ふる袖は 振って舞うはずの袖は
涙に ぬれて 朽ちにしを 涙に濡れ 朽ちてしまったのに
いかに立ち舞ふ 吾が身なるらむ どうやって 人前で舞うつもりなのか この わたしは
逢ひ みぬことの 逢えないことが
後まで 心に かからんことの いつまでも 堪(たま)らなく残念で
返す返す あぢきなくて 幾度となく想い返しては 口惜しく
恋ひ死なば わたしが 恋い死にしたら
浮かれむ魂(たま)よ せいせいした とばかりに 出てゆくであろう 魂よ
しばし だに ほんのしばらくの間だけでも
我が思ふ人の 恋しい人の 裳裾(もすそ)の 左右の端を合せた
褄(つま)に 留(とど)まれ 褄(つま)のところに 留(とど)まってくれ
つくづくと おもひつづくれば ずっと想い続けて來たが
この世ひとつに この世で ただ一途に
恋し かなし と おもふだに 恋しい 哀しいと想っても
いかがは くるしかるべき こんなにも苦しいわけなのだが
そののちの世に ふかからん あの世で 罪の深さを悟って
罪の心憂さに 悔いることになるのかと想うと
あさからぬ 淺くない縁(えにし)の
この世ひとつの なげきかは この世だけの歎(なげ)きなのだろうか
夢より のちの 夢のように儚(はかな)い この世を去った後に
罪のふかさよ 償(つぐな)うべき 罪の深さを想わずに居れぬ
Yamma Ensemble - Komitas - Armenian love song 高倉 天皇
隆房卿 艶詞(つやことば)絵巻では 髪に隱(かく)れぬ顔(かんばせ)の
唇に朱を差すほかは 墨の毛描きのみにて
入(い)り組む 宮中の部屋部屋を 棚引(たなび)く霞が
隱(かく)したかと思うと また ふいに披(ひら)く
靜(しづ)かに音の絶えた時と場所が 幾重(いくへ)にも交錯し
離れ隔(へだ)たり 螺旋(らせん)に旋回してゆく
縁にて 月を眺める 帝(みかど)と小督(こごう)
その髪に 桜の花びらが散り紛(まが)ふ
十二世紀の 仏蘭西(フランス)の吟遊詩人 ジャウフレ・リュデル の「彼方からの愛」や
ケルト起源で同じ頃 同地に成立した「トリスタンとイゾルデ」に見られるような
恋人たちの間を取持たねばならぬ 使者としての立場にある 實國(仲國)は
小督(こごう)をめぐる男たちの裡(うち)では ひときわ年嵩(としかさ)だが
笛の匠(たくみ)として 心は小督(こごう)に 最も近く在ったのかも知れぬ
小督(こごう)が 心から希(こいねが)う事柄については 誰も知りようもなく
誰も知ろうとしていないようにも見える
小督(こごう)が 心から希(こいねが)ったこと それは音樂では なかったか
誰かに執着されたり 嫉妬されたり 憎まれたりせず
穩やかに 奏樂を匠たちと樂しめる 暮し
小督(こごう)の心に 追いつけず 守ってやることも出來ず
夢の中で 宮中を 嵯峨野を 彷徨(さまよ)ひ
小督(こごう)を探す 隆房卿
探しに行けぬ身を輾転反側 いつしか こと切れ 魂を解き放ち
小督(こごう)を探し 離れまいとする 高倉天皇
小督(こごう)を勞(いたわ)り見守りながら
心の侭(まま)に音樂をさせてやろうとするものは 居らぬようだった
天の川に浮ぶ 星々の影が
蘆(ヨシ)の戰(そよ)ぐ 水面(みなも)の遙(はる)か下
睡(ねむ)る未草(ヒツジグサ)に重なる
風と月光が吹き渡り 水は樂の音に煌(きらめ)く
(続く)