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指をからめ うなだれ
雨にぬれた髪が
こめかみから ほおに落ち
とじかけたまぶたの前で ゆれる
その場所は 雨音とともに
あらわれた かげから
失われた 日のことを 想い出す
そこに 想い出させていることは
そこへ入っていった ときから
かげにも わかっていた
遠雷のように そこかしこが
過ぎ去りし 日の気配を 帯び
角を曲っていった かげの
背後の 空気の流れが
視野の隅をかすめ
ふれて放した
扉の端が まだ あたたかい
そのために來た ともいえるのに
一歩も 進めなくなった
それから後に 起こったことが
またすべて 起こるのか
それとも 取り戻せるのか塀際の 細い裏庭へ
生えのびた 雑草に
淡い花が 咲いている
その上や まばらな土に
細かな雨のふり落つ
かすかな音
異なる音色
土の上に 葉の上に
花びらの上に
空から 木立から
しづくとなって
塀を伝いおり 葉から
花びらから はねかえる
前にも この音を きいた
窓枠に腕をつき うなだれて
下を のぞき見ていた
そこではない どこか
もう少し後で 地上数階
いまと昔の 空間の
かげり 結び合う
かすかに古びて縮んだ
すきまに 雨音が にじみ込む
時の流れに あらがうように
かすかに おし返しつづけ
すべての場所を 疲弊させる
忘れ去られた 庭の片隅
雨ざらしの彫像のように
いつか よみがえる
そのとき そこで とどむ
ただ そのために だけ
雨がやんで 日没の長い光が
塀の方から 差し込んできた
足をひきずったような
あとの ある
ほこりっぽい床へ
淡いかげが のびていった
おもてを上げると
目に 横から光が差し込み
うるむように かがやいた
紫にけぶる 目をふせた ほほえみ
約束と 取ったのだろうか
ずっと待っている と
果たされることは ないかも知れぬ
それでも 待っていたいから
待っている と
もう とめるものは なにもない
割れた敷石から のび出した
細いリラの枝に 小さな花が
古い鉄柵の門の 花綱模様に
からまって咲いている
同じ花の花綱 枯れることのない
果たされる はずのなかった 願い
割れた石の 間の土に
リラの細い幹が 貫き通る
頭文字の形をした 小さな金の輪
日没の長い指が 時折 それをはめる と
ゆれるように光るが 目にするものはない
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ニーチェの馬 という 映画があって
好きな ハンガリーの タル ベーラ 監督
のだから 観たいと想ったが まだ観ていない
1889 年 1 月 3 日
44 歳 の 哲学者 フリードリヒ は
トリノの広場 で 鞭打たれる馬に出会うと
駆け寄り その首をかき抱いて 涙した
そのまま 精神は崩壊し
最期の十年を看取られて
穏やかに 過ごした という
馬のその後は だれも知らぬ と
超空洞 の縁にかかる 銀河の
遠くから のばされ ちぎれた腕に
絡まる 太陽の子らが
太古の すれ違いと 融合の 涯に生まれた
日のことを 想い出せず ゆらぎ 傾くように
愛を知らず
自らを追いつめ 張りつめ つづけた
孤独な心が
前人未踏の淵で 喘ぎ ゆらぐ
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力を尽くし 耐え忍ぶ姿に
自らを嘲り 決して赦さぬ 否定者を
奈落の底へ 突き飛ばし
淵を越え 馬の首へ取りすがったのか
助けることが できぬなら
ともに 耐え忍ぼうと
死にゆく馬は
あなたの破れた心を 受け止め
すがりつかれた首で あなたの
仮象の 重みを支えたのか
自らの奈落へ 落下する途中で 忌み嫌う
愛し愛されることのできぬ 自分を
かなぐり捨てることが できるだろうか
さなぎの ように
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37 歳 の 画家 フィンセント が
震え 硬直し 曲った指で
重く 冷たい 鋼の筒を支え
のたうち おびえ苦しむ 自らが
澄みわたった 自らから 離れる
瞬間を
止めどなく涙し 歯を食いしばりながら
待っていた
長い 永い 時の間
それは 離れることは なかった
澄みわたった 心を持った
幼子は うつむき
踊りまわる ようにして
蹴りつける
ひょろりとした かげを
見ようとは しなかった
恐がるな と わめき
こっちを 見ろ と 蹴りつける
それは 自分自身だった
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油彩 キャンバス Oil on Canvas 73 × 92 cm September 1889 年 9 月
アムステルダム、ゴッホ美術館 Van Gogh Museum, Amsterdam
廃墟にたたずむ 少年はアムステルダム、ゴッホ美術館 Van Gogh Museum, Amsterdam
失われたものの
大き過ぎる かげに おおわれ
息もできぬ
幼い心の流す 血と涙は
全身から 青く にじみ 漂い
去りゆく かげを 失うまいと
持ちこたえようと
必死で 遠い かなたを
いまだ おとずれぬ ときを
前を 見つめる
失われゆくものが
手に ふれてくる とき
力をつくし 守りたい と願い
心をつくし 安らかに
ほほえませたい と
指は そっと 傾いた
犬の 頭へ置かれる
上野 繁男 Shigeo Ueno 廃墟と少年 Ruins with a Boy
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油彩・カンヴァス Oil on Canvas 1969 年
歌が きこえる日差しが ふりそそぐ
廃墟から 失われた眼差しが
そっと 少年の肩へ注がれる
かなしみに とざされた
石像の目もとと 唇の隅が
黄昏の 暁の 月の 光の中で
ほほえみに かわってゆく
母であり 妹である
二人は ふいに 目を伏せたまま
その門の前で 入れ代わり
舞うように 手をひろげ
あらわれた 少年と犬を 迎えるために
草と木の 生きた鋼の
ほのぐらい扉を あけ放つ
彼女らが舞い 入れ代わりつつ
差しのべた手を 取り合い アーチをなし
下げた手を 子の肩へ そえるとき
扉は ひらく
だれもが 心の奥に
幼子を
ニーチェの馬を
抱えているのかも知れぬ
蹴りつけ鞭打つ 手足は
闇に沈んで 見えぬが
右手が そうしようとするなら
左手で抑え
左足が そうしようとするなら
右足で踏みつけ
守ろうと もがくうち
馬は 幼子を乗せて
だれもが 越えられなかった 淵を越え
あまたの涙にかかる 虹を渡り
雲の向こうの 母と妹のもとへ
帰ってゆくのかも知れぬ
上野 繁男 Shigeo Ueno 廃墟と少年 Ruins with a Boy
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油彩・カンヴァス Oil on Canvas 1969 年 部分 detail
Tony Gatlif - Gaspard et Robinson
もしも 幼子を 傷つけるものがTony Gatlif - Gaspard et Robinson
大きくなった 自分自身でなく
幼子が 幼子でいる ときに
大いなる わざわいに 苦しむとき
石像たちは 目をあけ 飛んでくる
幼子の かなしみと おそれを
深い闇と まばゆい光の
ひとみで包み 幼き心から洗い流し
腕に抱き つれてゆく
だが 幼子を 蹴りつけるものがなく
幼子が 大きくなっても
その人の心の底で 夢見つつ
まどろんでいるのなら
幼子のときから 愛おしみ
やさしく みとった 動物をつれ
いつの日か 自らの足で その扉へ
たどり着く ことができる
そのとき すべての幼子の
かなしみと おそれを
まぶたのうちに たたえ
ひっそりと 石となり たえている
母なる神と 妹なる神は ほほえまれ
ゆったりと その場所を 入れ代わり
扉をひらく 舞いを 舞われる
そのとき 廃墟は 門となる
持ちこたえてきた
おそれと かなしみを つらぬき
あたたかな愛が 差し ひろがって
道となる
幼子である あなたを
とおす道となる
あなたは 振り返って
つかず離れず ついてきた 犬を
それとも 乗っていた 馬を
見ようとする
それとも 足を前へ
前へ繰り出すように
地を 波立たせた かげぼうしを
それは はじめから
いなかった ように
もう いないが
その眼差しは あなたの 父なる
神であったかも知れぬ