
その時 俺(おれ)は 未(ま)だ 人間で おまえ は 小さな 魚だった
だが それから 視野の縁(ふち)で 途(みち)が
幽(かす)か に ぶれ 岐(わか)れる の を 見た
月が 裏側に 凍りついた 髑髏(どくろ) の よう な 顔を 廻(めぐ)らせ
爪(つめ)の 咲き 角(つの)の 裂く 蔓(かずら)を 撓(しな)わせ
撥(は)ね廻(まわ)り ぶら下がる 途(みち)を
ぞっ と して 目を 戻すと 元の 途(みち)は 掻(か)き消えて居(ゐ)た
薄昏(うすぐら)い 目を した 獣(けもの) から
曳(ひ)き接(つ)がれた 全(すべ)て を 遺棄し 踏み拉(しだ)き
母の 奥深く へ 還(かえ)ろう と した あの日 から
全(すべ)て の 途(みち)は 裏返し に なった
その場で 渦巻き 何処(どこ) へ も 辿(たど)り着かず
逆巻(さかま)き のたうち 回る
松果体 から その濱邊(はまべ)へ 行き着く 途(みち)を 辿(たど)る
裡(うち)にも 身体(からだ)は 次次 と 限(きり) なく 裏返り続け
血 は 溢(あふ)れ 滴(したた)り 晒(さら)され 世界 と
自(みずか)ら から 送り出され 入れ違い 入り混じり 反射し
殖(ふ)え 雪崩(なだれ)打ち 還(かえ)って來(く)る 恐れ と 憎しみ が
交交(こもごも) 背負い 纏(まと)う 苦痛に 引き裂かれ 曳(ひ)き戻される
辿(たど)り着き さえ すれば 其処(そこ)に 居(ゐ)られる 間は
風の音 と 波の響き 姿の 見えぬ 聲(こえ) と 翳(かげ)の 過(よぎ)る 羽音
自分が 背を 丸め 宿り 安らって居(ゐ)る 草草の 伸び さやぐ 音 しか せず
いつも 黄昏(たそがれ) か 明け方の 金色(こんじき)の 光に 浸(ひた)された
沙濱(すなはま)が あり 小さな おまえが 犬を 連れて 歩いて居(ゐ)る
多分 犬は 其処(そこ)には 居(ゐ)ない の だろう
波と 沙(すな)の 憶(おぼ)えて居(ゐ)る 足跡の よう に
顕(あらわ)れては 消え 翳(かげ)り 透き通る
アンモーン貝(呼称 の 項) か 偕老 同穴(かいろう どうけつ) を
拾おう と 身を 屈(かが)めた 隙(すき)に 犬は 岩陰に
打ち上げられ 妙な匂い を させて居(ゐ)る もの に 近づく
だが 俺(おれ)は 未(ま)だ 準備が 出來(でき)て居(ゐ)ない
熟(う)れ 腐(くさ)り かけ 猶(なほ) 免(まぬか)れて 半影 の 裡(うち)
不可思議な 小さき 生き物に 預けられ 裏返る 端から 喰(く)われつつ
転調し 螺旋(らせん)に うねりゆく 葡萄(ぶどう)の 馨(かを)り だけ が
雨と 滴(したた)り 血に 満ち 寄せ來(く)る の を 聴(き)く
間もなく 喋(しゃべ)れなく なる
牙(きば)が 舌を 切り裂き 胃袋が 聲帯を 灼(や)き尽(つ)くす
何処(どこ)に 居(ゐ)る か 判(わか)らぬ が
おまえ だけ を 其処(そこ) に 見て居(ゐ)る から
両刃(もろは)の 斧(おの)で 心臓を 断ち切って くれ
行き着く 果て なき 沸(わ)き孵(かえ)り を 其処(そこ) で 終らせてくれ
黒く 濡(ぬ)れた 獣(けもの)の よう な これ は 毛皮 では なく
膚(はだ)の 内側に ある もの さ 空気に 晒(さら)され 黒ずむ
裏返った 皮の すぐ 前 後ろ に ぶら下がり
外から 煌煌(こうこう)と 見えるだろう
歪(いびつ)な その林檎(りんご)を 摘(つ)み 採(と)ってくれ
そうしたら おまえ が 濱邊(はまべ)を 歩む 時
いつか 必ず おまえ を 迎え に 來(く)る
初め の 海を 溯(さかのぼ)り 最早(もはや) 裏返る こと の ない
生命(いのち)の 途(みち)の 涯(はて)に
アリアドネー は 迷宮の 長い 壁に 沿って 糸玉を 転がす
淡(あわ)い 影の 差す 壁は 鏡の よう で
其処(そこ) には 幾(いく)つ も の 月の 顔 が ある
永(なが)い 角(つの) と 牙(きば) を 生やして
少しずつ 解けて は 膨(ふく)らんでゆく

眠って居(ゐ)る よう に 内へ 鎖(とざ)された 顔の 映る
硝子(ガラス)の 向う に 明り の ずっと 灯(とも)って居(ゐ)る
湾岸 道路が うねってゆき その向う に 海 が ある
焼け焦(こ)げた 地面に 月が 姿を 現す と
一齋(いっせい)に 罅(ひび)割れる よう な 動き が 走り
彼方此方(あちこち) で 氷柱(つらら)の 林が 煌(きらめ)いた
二日して 雪が 降った
軋(きし)む 跫(あしおと)を 止(と)め 人け ない 途(みち)を 眺め 渡す
氷柱(つらら)の 枝に 雪の 葉が 凍りついて居(ゐ)る
満月の 氷海の 水底(みなそこ)の ように 明るく 昏(くら)く 静かで
一面 息を 凝(こ)らす よう に 音が して居(ゐ)た
風が 凍った の だろうか 透明な 壁の 向うで
動いて居(ゐ)た 誰か が 止まった よう な 気が した
廃墟の 外には ずっと 海が 広がって居(ゐ)る
海溝に 沈んだ 建物は 倒れて 壁が 下に なり
崩(くず)れた 孔(あな)から ステラー カイギュウ が 中を 覗(のぞ)き込む
ずっと 奥の 曲り角の 処(ところ)に 鏡が あって
月の よう な 顔が 映って居(ゐ)る
凍った 風が 海面を 吹き 次第に 鏡が 昏(くら)くなる
しん と 空気が 冷たく マッチ を 擦(す)ると
時空が 罅(ひび)割れる 匂い が した 目の前が 翳(かす)み
また 水槽へ 行って は いけない と 想い
睫(まつげ)を 瞬(しばた)いて居(ゐ)る 裡(うち) 雪が 降って來(き)た
見て居(ゐ)る と 雪は 一つずつ 隣の と 繋(つな)がって
螺旋(らせん)を 描きながら 舞い降りて 來(く)る
昏(くら)い ビル群の 水槽を 覆(おお)い 次次と 融(と)けゆく
氷柱(つらら)の よう に 重なって その中を 何かが 昇って往(い)った
裏返り続ける 兄は 迷宮の 中央の 外縁の
地中 深く 蹲(うずくま)って居(ゐ)た
膝(ひざ)を 突き 腕を 折り 四つ肢(あし)の
獣(けもの)の ように 頭を 垂れ 目を 内側へ 見開いて
自(みずか)らの 裡(うち)に 広がる 果て し ない
宇宙の 外縁の 事象の地平面 を 見て居(ゐ)た
其処(そこ)に 痛み と 血 が 漂(ただよ)い 拡(ひろ)がり
内側へ と 喰(く)い込んでゆく 牙(きば)の 先から
超酸 の 涎(よだれ)と なって 溢(あふ)れ 逆巻(さかま)き
注(そそ)ぎ込んで居(ゐ)た
張り裂け 披(ひら)かれた 肋骨(ろっこつ) の
梢(こずえ)と 枝の 差し交(かわ)された
奥 血泡 噴(ふ)く 肺胞 の 蜘蛛(くも)の 巣の 葉蔭(はかげ)に
脈打つ 血の 林檎(りんご)は 下がって居(ゐ)た
四つの 凹(へこ)んだ 部屋が 裏返り
灼(や)けた 鉄 (かね)の 翅(はね)を 震(ふる)わせ
廻(めぐ)り 舞い続ける カラビ・ヤウ 多様体


何故(なぜ) こんな
この途(みち)を 鎖(とざ)す 為(ため)
鎖(とざ)した の
往(い)った もの が 踏み止(とど)まって 顧(かえり)み
來(き)ては ならぬ と 生命(いのち)の 言葉で 刻(きざ)み 伝えれば
鎖(とざ)される
この途(みち)は 不死 へ と 裏返され
時空に 圧(お)し潰(つぶ)され 続ける 死出の 山路の 近道
不確定性 の 狭間(はざま) へ フラクタル の 閾域(いきいき) へ 踏み 迷い
己(おのれ) も 人 も あらゆる 生命(いのち) を 拒(こば)み
何故(なぜ) なら それ は 死へ のみ 向かい 苦しみ 報いられず 孤独 だ から
助け を 求め また 助けん と 差し延ばされる 手を 踏み躙(にじ)らん と
繰り出された 足が 灼(や)けてゆく 血 から 鉄(かね) が
迸(ほとばし)り 出(いで) 裏返り 我身(わがみ)を 焔(ほむら)に 包み
自(みずか)ら を 踏み拉(しだ)き 撥(は)ね回る 何処(どこ) まで も
いつ まで も それ を 永劫 繰り返し 続ける の が 不死 の 途(みち)
死 と 再生 へ の 漸近線 去 から 虚 へ 虚 から 去 へ
何処(どこ) へ も 行き着く こと なく
慈(いつく)しみ 受け入れ 赦(ゆる)し 赦(ゆる)され 全(まっと)う し
助け合い 支え合って 潜(くぐ)り 抜け 持ち堪(こた)え
共に 移行してゆく 途(みち)を 往(ゆ)け 人と して 均衡を 保ちつつ
來(こ)し方(かた) を 変えよう と せず 行く末 を 選ぼう と せず
そうすれば 小さき 神なる 生き物に 慈(いつく)しまれ 育(はぐく)まれた
夢 と 希望 に 適(かな)う よう 変容せられつつ 運ばれる
おまえ の 一突き で 今 鎖(とざ)された 門柱と 成り果てん
兄が 云(い)った 黒ずんで 濡(ぬ)れた 林の 中の
林檎(りんご) だけ を 見て 他には 何も 見ない
脈打つ 音 と 喘(あえ)ぐ 息 燃える 血の 匂い も しなく なる
その林檎(りんご)を 一突き に せん と 剣を 差し込む と
遙(はる)か 手前で 流体の よう な 手応(てごた)え が あって
槍の よう な 長剣は 見る見る 裡(うち)に 両刃(もろは)の 斧(おの)の 短剣と なり
林檎(りんご)は 根元から 落ちて 床で 潰(つぶ)れるか に 見え
最期の 一拍の 裡(うち)に 一筋の 血を 流し
妹が 辿(たど)って來(き)た 途(みち)を 初め の 入口 まで 指し示し
乾いて 繊維状の 小さな 赤い 糸玉に 変わり果てた
裏返る の を 已(や)めた 空洞に 縮んだ 短剣を 刺さった まま 遺(のこ)し
乾いた 糸玉を 手に 取る と
次第(しだい)に 震(ふる)え ながら 糸を 巻き進んだ
闇(やみ)の 奥で 濡(ぬ)れた よう に 青と 赤に 煌(きらめ)く
白金(しろがね) の 斧(おの)が 蝶の よう に 幽(かす)か に 羽搏(はばた)き
ありがとう 達者 で と 囁(ささや)く
兄の 遠い 吐息の 谺(こだま)に 項(うなじ)の 毛が 逆立(さかだ)ち
振り返るな と 云(い)われて居(ゐ)る と 悟(さと)る
頬(ほお)の 内に 血が 外に 涙が
赤と 白の 筋(すじ)を 刻み 滲(にじ)み 縒(よ)り 合わさり
何処(いずこ) へ か 導かれ 逃(のが)れ 彷徨(さまよ)いゆく
寄り添う 二つ の 心臓へ と 注ぐ
アリアドネー は 不意に 糸玉を 転がす 手を 止(と)める
静かな 息遣(いきづか)い だけ が 壁と 壁の 間を 反響してゆく
糸玉が 少し も 小さく なって居(ゐ)ない
ぼんやりと 佇(たたず)んだ まま 弄(まさぐ)って居(ゐ)る と
ぶよぶよ と 解(ほぐ)れ 形を 失った 塊(かたま)り の 中から
一筋(ひとすじ)の 糸が ずっと 後ろ に 延(の)びてゆく
ひどく 解けて來(き)て居(ゐ)る に して も 糸玉は
どんどん 大きく なって居(ゐ)る よう に 想われた
それ自体が 迷宮の よう に
だが 延ばして來(き)た 糸に 初めは 在(あ)った 筈(はず) だ
角質化した 足鰭(あしひれ)を 曳(ひ)き寄せ 壁に 寄り掛かり
アリアドネー は 糸を 巻き取り 始めた

ミーノータウロス 像 (ミーノータウロス の 退治 の 項)
あの日 朦朧(もうろう)と 眩(まばゆ)い 出口を潜(くぐ)る と あんなに 具合の 悪そう だった 勇者 が
剣が 無い と 騒いで居(ゐ)た
貴方(あなた)が 私の この 糸玉を 携えて 迷宮 深く 分け入られ
ミーノータウロス の 元へ 赴(おもむ)き
彼を 斃(たお)された 後 糸を 手繰(たぐ)り 戻って來(こ)られ
今の 今まで 精根 尽(つ)き 果て 倒れて居(お)られた の です
御 忘れ でしょうか 私を 連れ 島 を 出て 下さる 御 約束
顎(あご)を 掻(か)き 記憶を 取り戻そう と して居(ゐ)た 勇者は
諦(あきら)め 夢の 続き と 帰途に 就(つ)く 途中 立ち寄った
島で 忽(たちま)ち 私を 忘れ 置き 去って 出帆した
兄の 干(ひ)からびた 心臓を 掻(か)き抱(いだ)き 濱邊(はまべ)に 坐(すわ)り
ただ 海を 眺めた 短剣を 取って 來(き)て居(お)れば 兄の 元へ
往(ゆ)けたかも知れぬ 途(みち)を 背後で 断ち切り ながら
で なくば 兄は 鎖(とざ)した 扉から いつ 解放される の か
いつまで 兄は 独(ひと)り 途(みち)を 鎖(とざ)し 護(まも)らねば ならぬ の か
私は 何処(いずこ)に か ある その門へ 辿(たど)り着こう と した
兄の 話してくれた 濱邊(はまべ)に 居(ゐ)た の に 私は それ を 忘れた
何も ない 深い 淵(ふち)に 面した 濱邊(はまべ)
何も ない の では なく そう 見える だけ の
力の 立ち昇り 轟(とどろ)き下る 耀(かがや)く 闇(やみ)の 瀧壺(たきつぼ)
沸(わ)き立ち 岐(わか)れ 進む 音が
捩(よじ)れ ぶつかり合い 一つ に なり 其処此処(そこここ) で 渦巻き続ける
その 何処(どこ)か に 今 も

筈(はず)なのに 巻き始めると ほん の 一息で 終った
糸玉は 固く しっかり と だが 遙か に 小さく なり
両手の 裡(うち)で 鈴の ように 羽の ように 軽く 脈打った
永(なが)の 歳月(としつき)に 指を 失った 手が
そっと それ を 前へ 置く と
全(すべ)て の 映像が 円く 重なって 壁が 消えた
滲(にじ)んだ 鏡の よう に 内面へ 拡(ひろ)がってゆく
來(こ)し方(かた) の 迷宮 だけ に 向けられて居(ゐ)た 眼が 披(ひら)かれ
驚き と 共に 海を 見た
彼方(かなた)の 海面から 一条の 光が 届いて
鰭(ひれ)の 間で 満月の 反映が きらきら と 揺れ 動いた
また 全球凍結 が 始まる もう すっかり 昏(くら)く なった
風に 飛ばされゆく 黄ばんだ 切抜き に ステラー カイギュウ は 絶滅した
と 書いてあった どちらが 絶滅した の だろう か
揺らめく 壁の 向う で 氷の 海へ 続く 汐(うしお) に
白い 顔が 幾(いく)つ も 浮かび出る もう 一つ 月を 迎える 為(ため)に
帰る 途(みち) すがら すれ違った 母親に 抱(いだ)かれた 子が
御 月 様 今晩 は と 大きな 聲(こえ) で 云(い)った
暫(しばら)く して また 云(い)って居(ゐ)た
月が また 見えた の だろう
耳を 澄ませば 月の 聲(こえ) も 日の 轟(とどろ)き も
星々の 囁(ささや)き も 地の 息吹(いぶ)き も
來(こ)し方(かた) 行く末 の 風の 流れ に 浮き 沈み
鳴り響き 呼び掛け 和し 応(こた)える の が 今 も 聴(き)こえる
犬を 連れ 散歩して居(ゐ)る 妹が 見える
岩陰に 酔(よ)い痴(し)れた よう に 生れた ばかり の
兄 だった 神 の 影 が 居(ゐ)て 本体は 流れ下る 力を
垂直に うねり昇る 途(みち)を 今 も 封じて居(ゐ)る
その心臓は 嘗(かつ)て 八つ裂かれた(第 2 版) 兄弟(はらから) より
移し重ねられ 消えゆく 母の 胎内から 耀(かがや)き亘(わた)る
力の 流れ下る 足の 裡(うち)へ と 移された
鍵に 貫かれたまま の 鍵穴 の 外なる 内へ 宿り
内なる 外へ 埋(うず)め 鋳(い)込まれた
鎖(とざ)され 失われた 闇(やみ)に 燃え 踊り 消えゆく 門 の 影 で あり
酔(よ)い の 醒(さ)める こと は ない
過(あやま)てる 力 を 振るう もの は 忽(たちま)ち
止(とど)む 術(すべ)なき 力 の 真理を 解く もの は 緩(ゆる)やか に
等しく 狂気へ 包まれ 寂滅(じゃくめつ) へ と 誘(いざな)われゆく
此処(ここ)で 逢(あ)える と 云(い)った の ね と 妹は 云(い)い
記憶は 全(すべ)て 酩酊(めいてい)の 裡(うち)へ 融(と)け 遠退(とおの)き
兄は また 心臓の 糸玉を 解く
涙 以(も)て 月が 妹を 射(い) 天へ と 昇らせゆく 間
