瞼の内に木々が立ち並び、視野が閉ざされていく。 霧が渦巻いている
灰色の板根の波を、苔が深々と洗い、谷を渡る羊歯が、月明かりに緑閃光の飛沫を噴き上げる
樹海の其処此処で、苔のに宿った露に、仄暗い光の脈打つ繊毛に覆われた
小さな森が照らし出される
木の間を透かし、ぼんやりと明かりが瞬いている。 枯れ枝をかき分けながら
近づいていくと、網目のような影が広がる中、電球のようなものが下がっていた
龍が目玉を引っ掛けていったのだった。 揺らめくだけで、此方を向くことはなかった
枝ごと払い落とす。 透き通った影を封じ込めたまま、目玉はゆっくりと泥の中へ沈んだ
うとうとしながら、窓の氷柱を眺めていると、沈もうとする日の光が、先のほうへ
逆様の蝋燭のように燃え渡ってゆき、ゆっくりと煌めいた。 消える前に願い事をすれば
叶うことは無いかもしれない。 叶って欲しく無いことを、心から願えるものなら
松葉杖を衝いて食堂へ向かっていると、透明な液体の袋を吊るした支柱を曳きながら
男の人がやって来た。 袋から下がる管は、胸へ貼り付けてある
壁に凭れ休んでいるようだったので、盆を取って差し出すと、吃驚したように頭を振った
「いやあ、そんな事してもらうなんて。 僕はもうずっと此処に居るけど、初めてですよ
そんな事してもらうの」 「皆同じ食事なんですね、とても食べ切れない」
「僕は、食べるのが楽しみでね」 湯気の向こうに、目を落した笑顔を見たのだった
出口を探して、時を逆様に進む龍の歩みが、森を生まれる前の泥に還そうとしている
昔はそう思っていた。 年老いた龍は溜息をつく。 吾はこの森が生まれた処へ還る扉を
守っている。 鍵を携え使者が到着し、扉が開かれる迄。 今枯れ疲れ狂わされた森の
彼方此方で、扉を探し脱出口を喰い破って元の世界へと渡り、其処をも喰い尽そうとする
狂った種子が生まれた。 その子らを救う力も滅ぼす力も吾には無い。 吾に出来るのは
この森の魂の大半を宿した鍵を携えた使者を待ち続け、その魂だけをその扉から送り還すことだ
他の誰も連れて行けぬ。 使者が鍵で吾が扉だからだ。 使者はこの森が生まれて後の
新たな魂であり、吾はこの森が生まれる迄の古の魂であり、吾らは相まみえて、
この森が生まれる時、一つのものが二つに分かれた、死に物狂いの唯一無二の舞踊を、
年老いた身で、終わりから初めへと踊らねばならぬ。 間違いや中断はあり得ぬ
吾らが相まみえる時、その舞踊が森の全てから想い起こされ、奏でられ、終わりから初め迄
初めて始められ、之を最後に終わるからだ。 その扉は嘗て在ったのと同じように、
開くのでも閉じるのでもなく、無くなる。 無くなる前に今一度顕現する、その瞬間に
吾らは通り還る。 使者が脚を曳き摺り、遥か外の世界からこの森に到ったのが判る
使者は何も知らず、怯え疲れ果て、吾を探している。 良し。 吾は此処、森の真央に居る
来たれ
影のような広がりの中を、霧が棚引いていく。 目を開いても見えるものは同じだ
立ち尽くしていると、霧は水面からゆらゆらと昇って、枝を広げ、森を形づくろうとした
重なり合いながら上へと伸びていく、葉が震えた。 切れ切れに消えてしまっても、瞼が
木洩れ日で温かかった。 泥の海を渡って、岩場に立つと、目の前に湖が広がっていた
鳥が躊躇うように、僅かな水に波紋を広げていた。 動きが止まり、細かな羽毛の全てから
滴が落ちた。 あれは記憶という鳥だった。 振り仰ぐと急速に暗くなっていく空で、
一声鳴いて消えてしまった。 ひたひたと泥が湖を覆い、霜が張った
対岸で、二つに分かれていた草叢が閉じた
時折、霧の彼方に、別な世界が見える。 ビルが立ち並び、反射する明かりに映像が渦巻く
それとも焼夷弾で焼き尽くされ、煙の立ち昇る瓦礫の街。 誰も居ない
いや彼方此方に、槍を手に彷徨う姿が見える
瓦礫の角、洞窟の隅で、槍を差し伸べる使者を待ち、朽ち果て凍りつき痛む肢を踏ん張り、
鎖されて久しい瞼を持ち上げ、澄んだ耀きで未知なる吾を見通そうとする古の吾
龍よ、汝だけが素足で焼け跡を走り続け、突き飛ばされて脚を砕かれ、
倒れながらまた起きて走り続け、竟に斃れた母をその背に乗せて
故郷へと連れ帰った
時が止まり、もうあの喰意地の張った種子共の居ない、凍ったような蔭に包まれた森には、
疲れ果てた龍の背で眠る幼子しか居ない。 龍が最後の草をかき分け枝を除けると、其処は
断崖絶壁で、眼下に広がる森に靄が立ち籠め、夜の虹が掛かっている。 此処からはまた
独りで行くのだ。 素足で槍を曳き、傍らに何か大きな犬のような馬のような翳を従えながら
解れた糸のように鞍や手綱が散り落ち、元の丈に戻った馬は、露に濡れた草を嗅いでいる
傍らに眠る幼子は仄光っている。 日が昇る
灰色の板根の波を、苔が深々と洗い、谷を渡る羊歯が、月明かりに緑閃光の飛沫を噴き上げる
樹海の其処此処で、苔のに宿った露に、仄暗い光の脈打つ繊毛に覆われた
小さな森が照らし出される
木の間を透かし、ぼんやりと明かりが瞬いている。 枯れ枝をかき分けながら
近づいていくと、網目のような影が広がる中、電球のようなものが下がっていた
龍が目玉を引っ掛けていったのだった。 揺らめくだけで、此方を向くことはなかった
枝ごと払い落とす。 透き通った影を封じ込めたまま、目玉はゆっくりと泥の中へ沈んだ
うとうとしながら、窓の氷柱を眺めていると、沈もうとする日の光が、先のほうへ
逆様の蝋燭のように燃え渡ってゆき、ゆっくりと煌めいた。 消える前に願い事をすれば
叶うことは無いかもしれない。 叶って欲しく無いことを、心から願えるものなら
松葉杖を衝いて食堂へ向かっていると、透明な液体の袋を吊るした支柱を曳きながら
男の人がやって来た。 袋から下がる管は、胸へ貼り付けてある
壁に凭れ休んでいるようだったので、盆を取って差し出すと、吃驚したように頭を振った
「いやあ、そんな事してもらうなんて。 僕はもうずっと此処に居るけど、初めてですよ
そんな事してもらうの」 「皆同じ食事なんですね、とても食べ切れない」
「僕は、食べるのが楽しみでね」 湯気の向こうに、目を落した笑顔を見たのだった
出口を探して、時を逆様に進む龍の歩みが、森を生まれる前の泥に還そうとしている
昔はそう思っていた。 年老いた龍は溜息をつく。 吾はこの森が生まれた処へ還る扉を
守っている。 鍵を携え使者が到着し、扉が開かれる迄。 今枯れ疲れ狂わされた森の
彼方此方で、扉を探し脱出口を喰い破って元の世界へと渡り、其処をも喰い尽そうとする
狂った種子が生まれた。 その子らを救う力も滅ぼす力も吾には無い。 吾に出来るのは
この森の魂の大半を宿した鍵を携えた使者を待ち続け、その魂だけをその扉から送り還すことだ
他の誰も連れて行けぬ。 使者が鍵で吾が扉だからだ。 使者はこの森が生まれて後の
新たな魂であり、吾はこの森が生まれる迄の古の魂であり、吾らは相まみえて、
この森が生まれる時、一つのものが二つに分かれた、死に物狂いの唯一無二の舞踊を、
年老いた身で、終わりから初めへと踊らねばならぬ。 間違いや中断はあり得ぬ
吾らが相まみえる時、その舞踊が森の全てから想い起こされ、奏でられ、終わりから初め迄
初めて始められ、之を最後に終わるからだ。 その扉は嘗て在ったのと同じように、
開くのでも閉じるのでもなく、無くなる。 無くなる前に今一度顕現する、その瞬間に
吾らは通り還る。 使者が脚を曳き摺り、遥か外の世界からこの森に到ったのが判る
使者は何も知らず、怯え疲れ果て、吾を探している。 良し。 吾は此処、森の真央に居る
来たれ
影のような広がりの中を、霧が棚引いていく。 目を開いても見えるものは同じだ
立ち尽くしていると、霧は水面からゆらゆらと昇って、枝を広げ、森を形づくろうとした
重なり合いながら上へと伸びていく、葉が震えた。 切れ切れに消えてしまっても、瞼が
木洩れ日で温かかった。 泥の海を渡って、岩場に立つと、目の前に湖が広がっていた
鳥が躊躇うように、僅かな水に波紋を広げていた。 動きが止まり、細かな羽毛の全てから
滴が落ちた。 あれは記憶という鳥だった。 振り仰ぐと急速に暗くなっていく空で、
一声鳴いて消えてしまった。 ひたひたと泥が湖を覆い、霜が張った
対岸で、二つに分かれていた草叢が閉じた
時折、霧の彼方に、別な世界が見える。 ビルが立ち並び、反射する明かりに映像が渦巻く
それとも焼夷弾で焼き尽くされ、煙の立ち昇る瓦礫の街。 誰も居ない
いや彼方此方に、槍を手に彷徨う姿が見える
瓦礫の角、洞窟の隅で、槍を差し伸べる使者を待ち、朽ち果て凍りつき痛む肢を踏ん張り、
鎖されて久しい瞼を持ち上げ、澄んだ耀きで未知なる吾を見通そうとする古の吾
龍よ、汝だけが素足で焼け跡を走り続け、突き飛ばされて脚を砕かれ、
倒れながらまた起きて走り続け、竟に斃れた母をその背に乗せて
故郷へと連れ帰った
時が止まり、もうあの喰意地の張った種子共の居ない、凍ったような蔭に包まれた森には、
疲れ果てた龍の背で眠る幼子しか居ない。 龍が最後の草をかき分け枝を除けると、其処は
断崖絶壁で、眼下に広がる森に靄が立ち籠め、夜の虹が掛かっている。 此処からはまた
独りで行くのだ。 素足で槍を曳き、傍らに何か大きな犬のような馬のような翳を従えながら
解れた糸のように鞍や手綱が散り落ち、元の丈に戻った馬は、露に濡れた草を嗅いでいる
傍らに眠る幼子は仄光っている。 日が昇る