砂埃の しずまりゆく道
麦畑は ひと色の海 収めし櫛笥
黄昏の泡が ゆっくりと昇り來りて
未だ途上にて現れぬ
吹き散らされたままの髪が
沓音や尾鰭を透かし 帰って來る
がらんとしたアトリヱ
石膏像の置かれた脚立の 影が回る
砂埃が薄日にそって 蹲る翳に
銀河の腕を宿らせ 解いては潜る
青麦
人けなき辻 蝙蝠が飛んで來て青き夕闇を掻き雑ぜてゆく
薄墨の糸 翩翻と曳き絡め
瞬きはじめた夜と 眠りへ霞む宵の
面影を懸けてゆく
春には遠くまで 煙るように見えた
櫻連なる川邊の徑
友の買ってきたマヨネーズは
口金が緩んで どうも腐りかけている
取替に また行くのも面倒なので 一計を案じ
近所の酒屋に 同じものを持ってくるよう頼み
然る後 かのマヨネーズは腐っていたと言い
新しいのに替えて貰った
麦秋
棚の薄暗がりに燦然と佇立す 二柱のエンタシス広口は結び 黄昏に灯りはじめた石膏像に腹話す
早う食わねば また腐るだけよ
そこもとの腕になって進ぜよう 砂埃衆 如何
林檎を薄切り マヨネーズを塗し
食パンに挟み 潰し かぶりつく
頗る旨い 母方より伝来のサンドヰツチ
祖父は たれより教わりしか
どこにあったか 紅玉を
像の周りに ぐるり並べ置いたは たそ かれか
見ない隙に 夜さ來い と踊る
林檎を手にとり 眺むる翳の中の姿
失われし腕は遠き海の底 魚の寄り添い離れゆく
薄日の中 遙かな闇の奥から届く 幽かな星の瞬きが
女人の魚をうつし出す
深淵へ降り積もる雪のごと 過ぎゆくものに覆はれ
想い出せぬ 変わることなき姿
手をのべると林檎を介し つめたき指と指がふれ
光と翳が雑ざり 階を隔て舞う
夜になると時々 友は大黒を彫る
月末になって 金が要るようになると
どこやらへ行って 売ってくる
今月どうしても 二〇万要るという時は 二〇万で
一五万要る時は 一五万
二五万の時は 二五万で売る
そして夜遅く 帰って來る
ある時 もし一五万要る時でも 二五万で売って
一〇万貯めておいたらどうだ と言ったら
それが出來ない と言った
あれら毎月末の大黒たちは
どこへ行ったのか 電車に揺られ
霜張る窓の隅から 朧に曇る万華鏡の隙間を
遙か彼方まで 一面の粉雪積もる平原を
米俵にうち乗り 大袋を曳き
眞以て身を捧ぐれば不滅を賜ひ 恐れ侮れば死を賜ふ
マハーカーラ 大いなる暗黒 時か
迫害より蘇り 国造りて譲り 冥界に下る
大国主命か
弱き者と貧しき者 不正と冤罪に苦しむ者と
幼子を助け 海を鎮め 旅路を守る
聖ニコラオス サンタクロースか
薄氷張る 底仄かに温き水面へ
深深と冷気 降り來る風なき夜
星星が大海を渉る 跫が藍昏く響もす
霜の花 しずまり咲く どこかで
翳が唱っている
昇りゆく途上で凍りついた ため息のように
初めて目にした 微笑みきらめき翳なす眸が
記憶の裡へ鎖されるごと
萬葉集巻第九 一七四〇・一七四一 高橋虫麻呂の歌
春の日の霞める時に 墨吉の岸に出でゐて
釣船のとをらふ見れば 古の事ぞ思ほゆる
水江の浦の島子が 堅魚釣り 鯛釣り矜り
七日まで家にも來ずて 海界(うなさか)を過ぎて
漕ぎ行くに 海若(わたつみ)の神の女(をとめ)に
たまさかに い漕ぎ向ひ 相とぶらひ
こと成りしかば かき結び 常世に至り
海若の神の宮の 内の重の妙なる殿に 携はり
二人入り居て 老いもせず死にもせずして
永き世にありけるものを 世の中の愚人の
吾妹子に告りて語らく 須臾(しましく)は
家に帰りて 父母に事も告らひ 明日のごと
われは來なむと 言ひければ 妹が言へらく
常世辺に また帰り來て 今のごと逢はむとならば
この櫛笥(くしげ)開くな勤と そこらくに
堅めし言を 墨吉に還り來りて 家見れど
家も見かねて 里見れど 里も見かねて
あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて三歳の間に
垣も無く 家滅(う)せめやと この箱を
開きて見てば もと家はあらむと 玉くしげ
少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に
たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り 反側び
足ずりしつつ たちまちに 情消失せぬ
若かりし膚も皺みぬ 黒かりし髪も白けぬ
ゆなゆなは 気さへ絶えて 後つひに 命死にける
水江の浦の島子が 家地見ゆ
常世辺(とこよへ)に住むべきものを
剣刀己が心から 鈍やこの君
たれでも家に帰りたい
最後に家へ帰りつくため 遠くへ旅立つ
何故 知ろうとしなかったか もはや
同じ時の流れではないと 知らぬ裡 境を越えたと
何故 知らずにすむと想ったか
時を封じ込めし櫛笥持ち帰り 恩返し 意趣返し
己がため汝がため失われし 歳月 取戻せると
たそかれ と かはたれ と
霜白蓮の咲き問ふ水面
芒芒と 星星 滲み
移らふ水邊 朝未だ來
物言はぬ海馬 繋がれし
氷雪の太鼓橋より
松果 古の眸を闢き
久遠の彼方へ 繰り出せば
大いなる黒き翳 空の裏に隠れ透け
昏き翼 風の澹を飛び退り
流れず消ゆる 涙の黄泉へ還らむと
裏返しの階段を登りゆく
どうにもつらく 這い蹲り
目をとじ 額を擦りつけ
手探りで降りる
それ以上 どこにも行けず
竟に辿り着きしか と 眼を開く
と 髪が白く凍りつき
手をつきしは 氷に鎖されし水面
吸ひしは 古に深く鎖されし大気 の記憶
水底から 太古の層に封じ込められし泡が 漂い昇り
急速に冷えゆく中 水面へ出て 薄い氷の下を拡がり
平らになり 下から次の泡が到着して 空気が足され
輪はさらに広がり 竟に凍りつく
凍りつくのは 大気の輪に 薄く圧し広げられた 水の層
次の泡は そこが水面となり その下へ薄く広がりて
出口を探す裡 また凍りつく
そうして連なりし 出口なき逆様の階 古の記憶
雪解けに放たれ 消ゆるまで
砕け散り 消えて高く 高く昇るまで
そこでまた出逢う はじめの昏き宙の海
泡の一つに宿りし泡の連なりて
幽かに明るむ闇の 遙かにつづく 涯もなき
苺の花
苺
引っ越して來たのは 初夏の候だったから生垣の手前に一面 白い花が咲いていた
放っておいたら たわわに実った
通りかかった牛乳屋が うちのを取ってくれ
と 一本置いてゆこうとし
駄目だ そんな物置いてっちゃ
子どもがいる訳じゃなし と言うと
まあ試しに と言って置いていった
行ってしまうと しめたという訳で
苺を取って來て 牛乳をかけて食ったのだった
手入れをしなかったから その年だけで
後は全然ならなかった
だが あの年は豊作だった
牛乳屋がまた通るのを とんで出て おぅい
もう一本よこせ よこせば苺を食わせてやると言って
薄日差す台所で 牛乳屋と一緒に苺を食ったりした
見知らぬのに なにとなく懐かしき
両替商の夫婦の 卓上の鏡に映り込む 小さな大黒
と想ったら もう飛んで行った
小さな虫 追う蝙蝠 迫る隼の
影の陰に翳 拡がりて重なり 鎖されゆく
眸の内 窓から外へ 絵の裏側 緩んだ拳から
落ちゆく筆 麦畑に きらめきそよぐ 永遠の彼方
大黒の笑い 必要なだけの富
戦争から戻り それとなく友を探していると
同郷の人が ああ 彼は死んだ とだけ教えてくれた
朧な夢を掻き分け 丘に出る
色のない波が 音もなく打ち寄せ
日暮れて ひっそり明るむ雲の下
細き月は遠ざかる
気泡氷結
幼き日 友は自転車を漕いで 湾まで行った座礁した外国客船の 儚げな異国の顔の覗く 丸窓の下
波が打ち寄せ しだいに暮れゆく夏の燃えさしを
漂う穂のように鏤めた海が いつまでも揺れ
忘れゆく面影を 失われし大陸の貨のように
届かぬ隅へ きらめかす碧緑の波
大いなる空の指の間から ふいに垂れ籠めてくる
日盛りの葉陰 苺の匂い
ひんやりした薄暗いアトリヱへ曳いていった
淡き翳