小平から北上すること30分、羽幌町に入りました。人口は1万人もいませんが妙に都会に見えるから不思議、しかし1970年頃は人口が3万人いて市制施行しようとしたとか。その理由は1970年に羽幌炭鉱が閉山したからですが、その遺構は残っており。廃墟マニアには有名ですのでそちらへ行ってみました。
石炭を搬出するためのホッパーです。線路は2線敷かれていたようです。この鉄道、羽幌線の築別を結んでましたが、名雨線の工事線を国鉄の非営業線として借り受けて営業したり、営業係数が日本の鉄道で最低だったりといろいろなエピソードがあります。
道路が行き止まりです。舗装は続いてますからかつてはもっと先まで行けたでしょう。
病院の跡だそうです。
高層の炭鉱住宅が4棟も残っています。壁には69という文字が見え、閉山は70年ですから1年ほどしか使われていないみたい。計画的な閉山ではなく突発的な閉山だからなのですが、1969年だと今でも現役な団地も多いでしょうからなんとも勿体無い。水洗完備していたとか。
また非常に立派な小学校も残ってます。羽幌町立太陽小学校です。沿道にも廃校になった小学校はありましたがいずれも平屋の木造だったことを勘案すると、鉄筋3階建ては非常に立派であり児童数が多かったことを物語ります。こちらも建てて3年ほどしか使わなかったとか。ちなみに取り付け道路はありますが崩れており、私の車では脱輪しそうなので手前に置いてゆきました。
しかしエアコンの室外機と言う似つかないものが…。調べたら2000年まで「緑の村」という町営のレクレーション施設として使われていたためだとか。
なおいずれも内部には入ってません。入る人多いだろうけど「不法侵入」になってしまいますからね。そうこうしていると車の音が振り返ると土木現業所の道路パトロールカーでした。きっと「また廃墟マニアか」と思ったことでしょう。
ここで急に土砂降りとなったので撮影中止、車に引き返しました。
石炭を搬出するためのホッパーです。線路は2線敷かれていたようです。この鉄道、羽幌線の築別を結んでましたが、名雨線の工事線を国鉄の非営業線として借り受けて営業したり、営業係数が日本の鉄道で最低だったりといろいろなエピソードがあります。
道路が行き止まりです。舗装は続いてますからかつてはもっと先まで行けたでしょう。
病院の跡だそうです。
高層の炭鉱住宅が4棟も残っています。壁には69という文字が見え、閉山は70年ですから1年ほどしか使われていないみたい。計画的な閉山ではなく突発的な閉山だからなのですが、1969年だと今でも現役な団地も多いでしょうからなんとも勿体無い。水洗完備していたとか。
また非常に立派な小学校も残ってます。羽幌町立太陽小学校です。沿道にも廃校になった小学校はありましたがいずれも平屋の木造だったことを勘案すると、鉄筋3階建ては非常に立派であり児童数が多かったことを物語ります。こちらも建てて3年ほどしか使わなかったとか。ちなみに取り付け道路はありますが崩れており、私の車では脱輪しそうなので手前に置いてゆきました。
しかしエアコンの室外機と言う似つかないものが…。調べたら2000年まで「緑の村」という町営のレクレーション施設として使われていたためだとか。
なおいずれも内部には入ってません。入る人多いだろうけど「不法侵入」になってしまいますからね。そうこうしていると車の音が振り返ると土木現業所の道路パトロールカーでした。きっと「また廃墟マニアか」と思ったことでしょう。
ここで急に土砂降りとなったので撮影中止、車に引き返しました。