平和の為に何をやれるか、愚行積善備忘録、園田幸二のブログ

人間『死ぬまでの暇潰し』と思ってみても、日本人として、日本文化を愛し、歴史伝統を護りたい。日本の安寧祈願。旅

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2010-05-27 06:02:53 | 日本人の思想
「文化防衛論」 三島由紀夫
「天皇の起原」林房雄著 より抜粋

「ただ文化を守れということでは非常にわかりにくい。
文化、文化というと、それがお前自身の金儲けにつながっているからだろう―といわれるかもしれない。
文化とは特殊な才能を持った人間が特殊な文化を作り出しているのだから、われわれには関係がない。
必要があれば金で買えばいい、守る必要なんかない―と考える者もいるだろう。
しかし、文化とはそういうものではない。昔流に表現すれば、一人一人の心の中にある日本精神を守るということだ。
しかし、その純粋な日本精神は、目に見えないものであり、形として示すことができないので、これを守れと言っても非常にむずかしい。
だから私は、文化というものを、そのようには考えない。
文化は目に見える、形になった結果から判断していいのではないかと思う。
したがって日本精神というものを知るためには、目に見えない、形のない古くさいものと考えずに、形のあるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思えるものを並べてみろ、そしてそれを端から端まで目を通してみろ、そうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやって守ればいいかを考えろ、というのである」

「歌舞伎、文楽なら守ってもいいが、サイケデリックや“おらは死んじまっただ”などという頽廃的な文化は弾圧しなければならない―というのは政治家の考えることだ。
私はそうは考えない。古いもの必ずしも良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。
江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりもっと頽廃的なものがたくさんある。
それらをひっくるめたものが日本文化であり、日本人の特性がよく表れているのである。
日本精神というものの規準はここにある。しかしこれから外れたものは違うんだという規準はない。
良いも悪いも、あるいは古かろうが新しかろうが、そこに現れているものが日本精神なのである。
したがってどんなに文化と関係ないと思っている人でも、文化と関係のない人間はいない。
歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが頽廃的であっても、そこには日本人の魂が入っているのである」

「日本人の色々な行動(例えば特攻隊の行動)について、日本人が考えることと、西洋人の評価とはかなり違っている。
彼らから見ればいかにばかげたことであろうとも、日本人が立派だと思い、美しいと思うことはたくさんある。
西洋人から見てばからしいものは一切やめよう、西洋人から見て蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、不道徳なものは全部やめようじゃないか―というのが文明開化主義である。西洋人から見て浪花節は下品であり、特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、とそういうものを全部否定していったら、日本には何が残るか―何も残るものはない。
日本文化というものは西洋人の目から見て進んでいるとかおくれているとか判断できるものではない。……西洋の後に追いつくことが文化だと思ってきた誤りが、もうわかっていい頃だと思う」

「この文化論から出発して、“何を守るか”ということを考えなければならない。私はどうしても第一に、天皇陛下のことを考える。天皇陛下のことを言うと、すぐ右翼だとか何だとか言う人が多いが、憲法第1条に掲げてありながら、なぜ天皇のことを云々してはいけないのかと反論したい。
天皇を政治権力とくっつけたところに弊害があったのであるが、それも形として政治権力とくっつけたことは過去の歴史の中で何度かあった。しかし、天皇が独裁者であったことは一度もないのである。それをどうして、われわれは陛下を守ってはいけないのか、陛下に忠誠を誓ってはいけないのか、私にはその点がどうしても理解できない。
ところが陛下に忠誠をつくすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもっている国家を裏切るのだという左翼的な考えの人が多い。しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきている文化の象徴である。
そういうものに忠誠をつくすことと同意のものであると私は考えている。
なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。
日本文化を守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、政治的偏見にまどわされずに、『菊と刀』の文化をすべて統一体として守るには、言論の自由を保障する政体が必要で、共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである」

「政府は、最後の場合には民衆に阿諛する事しか考えないであろう。世論はいつも民主社会における神だからである。われわれは民主社会における神である世論を否定し、最終的には大衆社会の持っているその非人間性を否定しようとするのである。」
「では、その少数者意識の行動の根拠は何であるか。それこそは、天皇である。われわれは天皇ということをいうときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるというような時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである」

「なぜなら、われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本文化伝統をかけて戦わなければならないと信じているからである。」

「われわれは自民党を守るために闘うのでもなければ、民主主義社会を守るために闘うのでもない。……終局目標は天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するような政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない」
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