平和の為に何をやれるか、愚行積善備忘録、園田幸二のブログ

人間『死ぬまでの暇潰し』と思ってみても、日本人として、日本文化を愛し、歴史伝統を護りたい。日本の安寧祈願。旅

浅草 みよし、

2010-05-31 23:56:26 | 昔の味 そのお店、
strong>割烹『みよし』は相変わらず、
いい酒が置いてなるなあ~
片っ端から、ドンドン飲みたい、
黒龍の『八十八号』、『二左衛門』
夏子の酒の『亀の翁』出羽桜の『雪漫々』 
三千盛に十四代、

削り、精米率が40%を超えると、
もう、水みたい、
すべて1合づつ、順番に飲んで行く、
合計何合飲んだね~
つまみもフグの白子も まいう~~

お会計~、、お~、まあ、仕方ないね~~
でも、もっとゆっくり飲みたい酒だわな~

ここのすっぽん料理、和食は兎に角、ちゃんとしている

浅草 染太郎 

2010-05-31 23:22:06 | 日本の食を味あう。
浅草、チョイと小腹が空いた。
浅草から、西浅草方面、
大きな瓦の屋根の御寺が有る。
東本願寺、大谷派の西光寺、
昭和天皇崩御の後を追うように亡くなった、
池波正太郎氏が眠る墓が有る

その裏通りに、戦中から有るお好み屋、『風流染太郎』が有る。
戦争に出征した主人を待つ婦人が、家先で始めたのが始まりのお店、
今でも昔の匂いを残す。

ここはほんの少し食べ、チョイと飲むのがいい、
ここのラドーは体に悪そう、それもまた楽しい、


木造2階建て、柱の細い、地震が来たら一発で倒壊しそうな、

最近は変わった、
店員が皆若い、男達、
メニューが生意気になった、偉そうになった??
2850円でコースだと、
何勘違いしてるのだろう、

本来、安くて、楽しい、そんな染太郎な筈、
二人で、行って、お好み1枚食べて、他に鉄板焼き1品、それにビール、
代金は1500円~2300円程度がBEST、

三島由紀夫 その思想2

2010-05-31 23:19:39 | 日本人の思想
三島由紀夫の思想2 『反革命宣言』
三島氏の反革命宣言の中で、
我々は、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者で有り、最終の代表者で有り、且つその精華である事を以って自らを任ずる。
『よりよき未来社会』を暗示するあらゆる思想よ我々は尖鋭に対決する。
何故なら未来の為の行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがえの無い現在をして、すべて革命への過程に化しめるからである。
自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の美的形式を体現し、自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理で有り、
特攻隊員は『あとにつづく者あるを信ず』と言う遺書を遺した。

日本精神の清明、闊達、正直、道徳的な高さ我々のものである。
再び、有効性は問題ではない。
何故なら我々は、我々の存在並びに行動を、未来への過程とは考えない、

三島氏は『未来への行動』を拒否してしまう。
明日を待ち望むものではない、
自らをすでにして、この現在において現実に『歴史の化身』となる事を選び、
理念の現実化として燃え尽くす事を唱えている。
未来を否定し、行為のそのものの『有効性』も手放し、
現在こそが『歴史の精華』であると断言する。
明日など必要ない、
その政治行動は何らかの現実的目的を果たすのではなく、『歴史の化身』となる事なのだから、
その行動がどのような意味を持つか、結果とか、そのような些細な事には囚われる必要はない、明日への有効性を軽蔑する事により、純粋なるものになる。
それは正しく、
本文から
神風特攻隊は、敵艦に損害を与えるのが目的ではなく、皇国の危機において、それ歴史の精髄の何たるかを体現する為に、純粋極まる行為をなしたのだ、ということになる。
(略)
戦いはただ1回であるべきであり、生死を賭けた戦いでなくてはならなぬ。
戦いを賭けた戦いの後に、判断を下すものは歴史であり、精神の価値であり、道義性で有る
(略)
民衆の罵倒誹謗、嘲弄、挑発をものともせず、かれらの蝕まれた精神を覚醒させるべく、一死を以ってこれに当たらなければならなぬ。




三島由紀夫 その思想1

2010-05-31 23:16:11 | 日本人の思想
三島由紀夫その思想1(果たし得ていない約束)
なんだ余り三島由紀夫の国家論は知られていない事を痛感。

三島由紀夫は割腹自殺をした事は有名で有るがその経緯を知る人は少ない。
市ヶ谷駐屯地での事件はクーデターではない。
三島氏自らが命を賭けて日本国民に対しての警告、啓蒙、目を覚ませとのメッセージで有ったと思います。
計画決行直前に書いた論文『果たし得てない約束』を読めば良く判る。
その論文は三島由紀夫の現世に対する強烈な決別の情念が湧き出ている。
三島由紀夫は以下のように書いている。

私の中の25年を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど『生きた』とは言えない。
鼻をつまみながら通り過ぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。
おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。
政治も、経済も、社会も、文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。
私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。
そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。
この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかった。
私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。
なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。
しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。

この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。
思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。
又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。
それはそれでいいと内心思ってはいるけれども。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。
否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。
政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。
その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。

三島由紀夫は戦後25年を振り返り、自らの生き方を全面的に否定する。
作家活動は排泄物を積み重ねたのと同じことであると断言する。
日本の未来は全く希望の持てない。
『無機的な、からっぱな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜け目がない』と嘆く。
たたみかけるように断罪する。
自らを否定し、戦後日本を否定し、文学を否定し、思索を否定してしまう。

否定から何を生み出そうとするのか?

園田博之幹事長

2010-05-31 03:49:40 | 愛国政治家
いつも目立たぬ『園田博之幹事長』
しかし、その人間性は信頼するに足りる人間で有る。
その調整能力、ブレない性格、正義感も有る。
今、街頭演説で平沼・与謝野両氏を支え続けるその姿に感動すら覚えます。
自分の選挙区は大丈夫?
本来、国会議員と申しますモノは、『落選しらたただの人』
なので、国の行く末より、
自分の身の上が大切なのです。
民主党の議員を見れば良く判ります。
国民生活第一と云いながら、嘘ばかり、
皆、小沢の目の色ばかりを気にしている。
さて、園田博之さん、
手短に話ますと、
九州から来て、ずっと平沼・与謝野氏を支え続けるその姿はまるで、
南北朝の頃の園田家の先祖を思わせる。
朝廷の為に命を投げ出し、楠正成、新田義貞と共に一族の命運を賭け、手弁当で支え続けたその姿とオーバーラップする。
園田家の先祖は元をただせば、南北朝の頃の菊池一族。
肥後(熊本)から南朝の応援の為、京都へ馳せ参じた。
しかし、
戦を知らぬ後醍醐天皇の我儘な方針、無為無策の政策にも異を唱えず、新田貞義の応援の為、関東へ、それから果ては奥州の奥まで、
結局、北朝の足利尊氏の戦略の前に、南朝方の義に生きた武士達は滅ぶか、消えて行った。
因み、熊本の園田家の始まりはその南朝に加担した菊池家の子孫、
大軍で足利尊氏が九州に攻め込んで来た時、利は有れど、義は無しと判断、寡兵を持って、多々良浜で迎え撃つが、
一進一退の末、一族滅亡の危機、、その時、子孫を残す為に、
正統の嫡子『菊池小太郎』を『園田小太郎』
名を変え、熊本の南の八代に落とした、
武門の菊池家とは手短に話をすれば、
楠正成の言葉をして『菊池武時は帝(後醍醐天皇)に一命を賭した忠臣第一の人』
菊に池とは、その土地の水利を管理していた豪族と云えば話が早い、
司馬遼太郎の言葉を借りると、『菊池家は常に勝てない戦いでも、利が無くとも、そこに義が有れば、寡兵でも挑む集団、元寇の時も、南北朝の頃も、一族賭けて戦うのが菊池家』

さて、
菊池家の話が続く、
奥州の菊池家は肥後(熊本)の菊池家の流れで有る、
岩手、秋田にも、青森にもいる、
当時、帝の親兵みたいな感じで地元の人は温かく迎え入れてくれた筈、

あの花巻東の『菊池雄星君』の先祖もそうであると言える.
因みに、この菊池~園田家、
西郷隆盛の西郷家もその庶流で有る。
園田家の一部が熊本の八代から鹿児島に下った一族の内、
薩摩藩の馬の奉行になったのが園田家、
それが幕末から明治になった時、
函館に渡り馬牧場を始めた、
その時、苗字を変えた、『武』と
それが今の競馬界の武一族の先祖で有る。
何の脈絡もなくつらるらスイマセン。