平和の為に何をやれるか、愚行積善備忘録、園田幸二のブログ

人間『死ぬまでの暇潰し』と思ってみても、日本人として、日本文化を愛し、歴史伝統を護りたい。日本の安寧祈願。旅

三島由紀夫 その思想1

2010-05-31 23:16:11 | 日本人の思想
三島由紀夫その思想1(果たし得ていない約束)
なんだ余り三島由紀夫の国家論は知られていない事を痛感。

三島由紀夫は割腹自殺をした事は有名で有るがその経緯を知る人は少ない。
市ヶ谷駐屯地での事件はクーデターではない。
三島氏自らが命を賭けて日本国民に対しての警告、啓蒙、目を覚ませとのメッセージで有ったと思います。
計画決行直前に書いた論文『果たし得てない約束』を読めば良く判る。
その論文は三島由紀夫の現世に対する強烈な決別の情念が湧き出ている。
三島由紀夫は以下のように書いている。

私の中の25年を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど『生きた』とは言えない。
鼻をつまみながら通り過ぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。
おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。
政治も、経済も、社会も、文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。
私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。
そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。
この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかった。
私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。
なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。
しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。

この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。
思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。
又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。
それはそれでいいと内心思ってはいるけれども。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。
否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。
政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。
その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。

三島由紀夫は戦後25年を振り返り、自らの生き方を全面的に否定する。
作家活動は排泄物を積み重ねたのと同じことであると断言する。
日本の未来は全く希望の持てない。
『無機的な、からっぱな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜け目がない』と嘆く。
たたみかけるように断罪する。
自らを否定し、戦後日本を否定し、文学を否定し、思索を否定してしまう。

否定から何を生み出そうとするのか?
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