今回ご紹介するのは、安土城より南東に3キロほど。以前記事にしている太郎坊宮より北西へ2キロの位置に鎮座する奥石神社です。
奥石神社は『奥石』と書いて“おいそ”と読ませます。
最もこの周辺に広がる老蘇森(おいそのもり)からが所以と思われます。
奥石神社社号標(裏参道側)
一の鳥居(Googleストリートビュー)
石鳥居(二の鳥居)
ここは、少々変わった神社配置で拝殿部分と本殿が独立しています。写真のこちらは拝殿となります。
普通この位置には、舞殿が置かれている神社が多いのですが最も造りは他の神社と同様に見えるので舞殿と兼務しているものと思われます。
それでは、本殿はといいますと…。
拝殿よりちょうど真後ろに位置する場所に本殿があります。
位置関係はこんな感じです。(写真右手前が拝殿)
とは言うものの殆どの参拝客は本殿の前で手を併せています。
本殿が別棟になっています。この本殿は、安土桃山時代に建立(天正九年再建)されたそうで、国の重要文化財として指定されています。
本殿解説(写真クリックで拡大)
祭祀:天児屋根命
由緒:
延喜式神明帳に記載の奥石神社であり、社伝によると崇神天皇の御代四道将軍を差遣ありし時、吉備武彦が武運祈願の為に勧請せし所なり。また、孝霊天皇の30年石部大連と云う翁が社壇を築きしに始まると記されている。奥石神社を鎌宮と称した起源は明らかではないが、大正13年に鎌宮を奥石神社と改称している。本殿は天正9年織田信長の寄進と伝えられ柴田新左衛門尉家久の造営であるといわれている。明治9年10月村社、同14年2月郷社、同41年4月神饌幣帛料供進指定 大正13年2月県社に加列される。(滋賀県神社庁より)
奥石神社案内(写真クリックで拡大)
由緒にもある様に以前は『鎌宮』と呼称していました。
こちらの所以も調べたところ蒲生野(がもうの 琵琶湖の東岸,近江国蒲生郡に広がっていた野)“がもうのみや”が、“かまふのみや”として訛ったものなんだそう(^^;
興味深いのは、一説にここより北へ2キロの場所にある『繖山(きぬがさやま)』を神体山とする原始信仰に始まる神社とされているそうです。
現社地は繖山山頂の磐座を遥拝する里宮とする説があるそうです。(日本歴史地名大系25 『滋賀県の地名』平凡社、1991年 より)
では、繖山山頂にお宮が建ち磐座があるのか?と、言う話になりますが、調べた限り特に何も無さそうで有力な情報はありませんでした。
しかし繖山の麓にある観音正寺からすぐの場所に繖山への登山道があります。その脇に『和(お)くのいん』と書かれた石碑があります。
繖山へ至る石段の途中に鳥居がありその突き当りに巨石が見えます。
鳥居を介した突き当りに見える巨石 情報によれば、更にこの奥にも巨石が累々と続いているそうで、やはりかつてここが奥石神社の奥宮だったのではないかと推測しています。
さて、境内に戻ります。
本殿のお隣には境内社の諏訪神社が鎮座しています。本殿と同位置に鎮座していることになります。信長が嫌っていた諏訪の神をお膝元の安土の地の神社に、置いた理由は何ででしょうか?
ご存じのように諏訪大社(上社)を焼き討ちした信長は、約3ヶ月後本能寺の変で自害する事になります。一説には、諏訪の神の祟りとも言われていますが、それを恐れての祭祀だったのかも知れません。
由緒案内(写真クリックで拡大)
御神木の杉と背後は「老蘇の森」 かつては、広大な面積を誇っていたそうですが中央を東海道新幹線が寸断しており、境内にも新幹線の走行音が響きあまり居心地は良くありません。
たまたまいらした宮司に『石』に纏わるものはないのか?と、尋ねたのですが立石が少しだけと案内して頂いたのがコレ。特に謂れなど無いとの事でした。
繖山を神体山として里宮の位置づけと考えられているにも関わらず由緒などには全く触れられていません。
この辺りの事情については、これ以上の情報はみつける事が出来ませんでしたが、繖山の麓にある観音正寺との関連などを調べて行けば、何か答えが見つかるかもしれません。
【追記】
それらしき事に触れている由緒がありました。
しかし、こちらでも「言われている」とあるだけで神社の成り立ちに関わる重要な事には深くは言及されていない様です。
(撮影:2007-8)
お断り:2007年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
お断り:2007年当時の情報となります。当時とは異なる事が想定されますので訪れる際には、事前に調べて頂き記事は参考程度とお考え下さい。
【マップ】
繖山山頂の磐座との関係は興味深いものがありますね。また、諏訪神社が鎮座しているのも不思議です。
次回も楽しみにしてます。
安土桃山時代の建築様式は、重厚感があって素晴らしいものがありますね。
境内社諏訪神社の本殿と由緒案内の写真を張り間違えていましたので張り治しました。
織田との関りには特に言及はありませんでした。