響けブログ

音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。

誰もが夢を持っている、と仮定する。ー卒業式6ー

2013-03-31 | 東京の小学生&中高生


──中学へ入って、これからいろんなことがあると思う。学校の雰囲気が変わり、英語などの新しい勉強が始まったり、部活が始まれば勉強との両立とか、いろんなことが起こって、悩んだり、壁にぶつかったりすると思う。その時に、そういうのはもう、すごくよくあることで、みんなそうなんだって言いたい。自分もそうだったし、大人はみんな通ってきた道なんだから。彼らなら、そんなのぜんぜん、大丈夫だからって。

話を聞きながらだんだんにわかってきたのは、彼は小学校の先生にも、ほんとうになりたかったということだった。そもそも、自分がやってきたからスポーツはすばらしいとか、運動は子どもにとって大切だとか、そういう短絡的なところがまったくなかったし、プロの選手にならなかった、なれなかったといった自嘲的なそぶりもなく、そういう自分が他人からどう見えるかということにはさらに関心を払っていなかった。むしろ目立ったのは、自分というものの内部をいちいち、まずは疑って、ほんとうに大丈夫かどうか、きちんと点検する、その作業の手つきだ。もし、イチローが自分の筋肉のひとつひとつをチェックするのを目撃することがあったら、こんな作業なのかもしれない、と私は思ったりした。もしかすると、それは優れたスポーツ選手に欠かすことのできない、重要な資質なのかもしれなかった。

そしてさらにゆっくりとわかってきたのは、かたちを変えてはいても、先生の中で、球技は終わっていないということだ。ところがスポーツにあまり縁のない私は、その感じを、うまく捉えることができない。要するに先生である彼の中に、球技は今も一緒に生きているということなんだけれど、それを情熱と呼んでもいいだろう。いつもは穏やかに脈打っているそのこころは、いざとなれば、いつでも勝負に立つに違いない。

そういえば卒業間近になって、不審者が出没する事件があった。昨今、不審者情報はよく流れるのだが、今回は学校の敷地内に入ってきたというので、学校じゅうで大捕物になったらしい。その時に先生が追いかけていって、みるみるフェンス際まで迫る。窮した不審者はフェンスをよじ登って逃走!──そう、ヒビキが教えてくれた。クラスじゅうの子どもたちの興奮した様子が目に見えるようだ。


ところで彼の子ども達との付き合い方は、人はこうあるべきという、これまで築いてきた人間関係を、基本的にはそのまま子供たちに適用したものじゃないかと私は思う。もちろん大人と子どもでは違うし、先生としての立場ももちろんある。それでも先生は、子どもたちと対等につきあえると感じられるようなポジションに立って、一人一人に話す。仲間の中に入ったうえで、それは違うんじゃないの? とか、誰々が困っているけどそれでいいの? とかいうように、正しいほうへ促す。先生は子ども達の桁外れにでっかい仲間なのだ。

しかしその仲間が、これからばらばらになってしまう。もう「大丈夫だよ」って言ってやることもできない。卒業式が終わったら、翌日から、クラスはもうないのだ。それがどういうことか、子ども達はまだ知らない。だけどクラスの仲間の中で唯ひとり、先生だけはわかるのだ、その日が来ることを。

その日を自分は、先生としてどう迎えたらいいんだろう?

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